撮り旅・ヨーロッパ

ハンガリーを拠点にカメラ片手に古い教会を主に写真撮影の旅を楽しみ、そこで拾った生活、文化情報を紹介します。

アドリア海の街と教会(3)

2018-02-26 10:07:30 | 海外生活

プーラ (Pula)

 温暖な地中海気候と天然の良港にもまして、半島の先端という地理的な優位性により、古代

から人が住んでいた痕跡があり、記録の上でも紀元前10世紀頃には、イストリア人が定住して

いたことが明確になっている。 紀元前177年になると、ローマ人によって征服され、急速に

都市化が進んだ。 その後、いろんな国々からの支配を受けたことは、他のイストリアの都市

と大同小異の歴史であった。 但し、イストリア半島の中で、古代ローマ時代の遺跡や歴史的な

建造物が数多く残っていることは、プーラが政略的にも最も重要な都市であった事を物語る。

 

 古代ローマ時代(紀元前後に建設)の円形闘技場(劇場)

 

<市街地ロケーション>

 

<見どころ>...上図の番号と以下の番号は一致させている

① プーラ城

 旧市街の中央、丘の上にローマ時代にあったカピトリウム(行政の中心的神殿)の跡地に

 1630年に統治していたヴェネツィア共和国によって城は造られた。

 4つの堡塁で星形の美しい城であり、1961年からはイストリア歴史博物館になっている。

 

 プーラ城より市街地の北側を望む

   右端に円形闘技場、ひと際目立つ煙突は古いレンガ工場

 

プーラ城より市街地の西側を望む

   右端が聖フランシスコ会修道院、手前の石垣は城壁。

 

② アウグストウス神殿

 古代ローマ時代のポーラ(現在はプーラと呼称変更)の街の中心であったフォルム広場に

 面して、初代ローマ皇帝(アウグストウス)によって西暦1世紀頃に建てられた。

 柱廊の玄関とコリント支柱は典型的なローマ建築様式。

 

 コリント支柱頭部には、ローマ様式定番の彫刻、アカンサスの葉

 

 玄関前に飾られている彫刻にも、古さを感じる(凱旋門を目指すマラソンランナーのよう?)

  

 

③ 市庁舎

 アウグストウス神殿の右隣なりが市庁舎で13世紀に建てられたもので、異なる建築

 様式が隣なりあった時代的錯綜がユニーク。 市庁舎はロマネスク様式。

 

 東側側面(上の写真では右側面)、建物の角に飾れている人面や動物の彫刻に興味が湧く。

   

 

 市庁舎の窓もしかり。

 

④ 大聖堂と鐘楼

 オリジナルは4~5世紀に建てられたが、ジェノバやヴェネツィア共和国の侵攻により破壊

 され、15世紀に再建されたものが現在に至る。

 

⑤ 聖フランシスコ会修道院

 オリジナルは13世紀後半に創立されたが、現在の物は1314年にロマネスクとゴシック様式

 を融合して建てられた。

  

 

 ファサードにゴシック様式のバラ窓。

 

  内部祭壇(単内陣)

  

 

 アーチ型回廊で囲まれた落ち着いた雰囲気の中庭

 

⑥ ローマ時代の床モザイク

 3世紀に造られたローマ時代の床モザイクが旧市街への途中の住宅区画内にある。モザイクの

 幅は6m、長さ12mの大きさで、いろんな紋様とかギリシャ神話の絵も描かれている。

 

⑦ セルギ門 ...旧市街への入口門

 正式な名称は「セルギウス凱旋門」で紀元前1世紀にアクティウムの海戦での勝利を記念

 して、町の有力者セルギウス家が寄贈したもの。

  

 

⑧ 円形闘技場

 町のランドマークであるこの遺跡の建設は、初代ローマ皇帝から始まり約80年ほど

 掛かった。 大きさはローマのコロッセオに比べ、3/4程度であるが、ほゞ完全な状態

 で残っており、現在でも映画祭や音楽フェスティバル等の催しに使われている。

   長径133m、短径105m、高さ33m、収容人数は23,000人 

  

 

 地下には古代の出土品が数多く展示されている。

 

ヴォドニアン (Vodnjan)

 プーラ手前(北へ)10kmの所にガイドブックにもないこじんまりした美しい街があった。

 人口6,000人程度であるが、昔はプーラよりも大きな町であった時期もあり、確かに町の規模

 の割に数多くの教会、宮殿、歴史的建造物が存在する。

 特に、人民広場前にある聖ブレイズ教会の鐘楼はイストリア随一と云われている。

 この地方は、クロアチア有数のオリーブオイルの生産地で、毎年11月にフェスティバルが

 開催されるので、その時期に再度の訪問をせねばと思った次第である。(穴場かも?)

 

◆ 聖ブレイズ教会

 オリジナルは4~5世紀に建てられたが、1761年に再建され現在に至る。

 

 鐘楼の高さは56m、1777年に造られた。

  

 

    これにて「アドリア海の街と教会(3)」は、お終いです。

 

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アドリア海の街と教会(2)

2018-02-23 16:19:45 | 海外生活

ロヴィニュ (Rovinj)

 前回のポレッチ (Porec) と南端のプーラ (pula)の間にあってイストリア半島の三大リゾート

地として共に多くの観光客を集めている街である。町の歴史はポレッチと同様のため割愛する。

人口は、近郊も含めて15,000人はポレッチとも同規模。

  半島の東側ロヴィニュ港より見た旧市街

 

<ロケーション> ... 赤丸で囲った場所が今回の訪問地。

 

◆ 聖エウフェミヤ教会 (St. Eufemije) 

  ここでも街のシンボルは、市街地の中央に鎮座する聖エウフェミヤ教会である。

 オリジナルは6世紀に建てられた竜退治の聖ゲオルグを祀った教会であり、後に、町の

 守護聖人であった聖女エウフェミヤを祀る教会として1725~1735年に増改築された。 

 聖女エウフェミヤは、303年にローマ皇帝ディオクレティアヌスのキリスト教への迫害の為

 に処刑された。 その遺骨がコンスタンティノープルに収めらていたが 800年に遺骨箱が

 ロヴィニュ海岸に流れついた、以降、棺はここで守られ続けているという伝説。

 

 主祭壇

 

 左側廊

 

 右側廊

 

◆ 鐘楼; ... 1736年に建造、高さ61m

  

 

 塔内部の木造階段で展望台まで登ることが出来る。

 

 頂上には3個の質素な鐘

 

◆ 鐘楼から望む市街地

 北側市街地

 

 南側市街地

 

◆ 市街地

    迷路のような石畳の路地には、観光地と裏腹な庶民の生活臭が漂う。

  

  

 

   路地で見つけた心和む彫刻

  

 

 市街地への入口、バルビ門;

   1680年にバルビ家によって造られた。門の上にヴェネツィアの守護神である

   翼を持つ「聖マルコのライオン」像とバルビ家の家紋があしらわれている。

  

  チトー元帥広場にある後期ルネサンス様式の時計台 

◆ リム・フィヨルド (Limski Kanal)

 ポレッチからの道中(ロヴィニュの街手前5km付近)で見たフィヨルドは圧巻。

  

 

           これにて、「アドリア海の街と教会(2)」はお終いです。

 

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アドリア海の街と教会(1)

2018-02-21 11:51:20 | 海外生活

  地中海に面している国々は、全部で16か国ある。西端はジブラルタル海峡のあるアルボラン海

(スペインとモロッコの間)から一般的に東端はギリシャのエーゲ海まで。

その中のイタリア半島とバルカン半島に挟まれた海域がアドレア海で、東海岸はほとんどクロアチア

で占めており、そこは温暖な気候と絶景に加え、古代ギリシャ、ローマ帝国の古い町並みを残して

ヨーロッパ有数のリゾート地として、近年日本でもトップクラスの海外旅行人気を博している。

そんなクロアチアのアドリア海沿いの街と教会をのんびり巡ってみたいと思う。

 

1.ポレッチ(ポレチュ Porec) 

 イストリア半島の西端にあるポレッチは、2000年という長い歴史を持ち、それは紀元前2世紀頃

より始まる。 最初はローマ帝国の1部から始まり、ビザンツ帝国、フランク王国、ヴェネツィア

共和国、オーストリア(後にハンガリーが加わる)帝国に、第一次世界大戦後はイタリア王国に、

第二次世界大戦後はユーゴスラビア連邦に、1991年6月から現在のクロアチアに属している。

いろいろな国々の支配を受け、それぞれの時代に受けた文化的影響と遺跡、建造物が数多く残され

ている。 人口は近郊も入れて、17,000人が住んでいる。

 

 半島の先端にある市街地

 

<ロケーション>

 

◆ エウフラシウス聖堂 (Eufrazijeva Bazilika)

  この街のシンボルは、1997年に世界文化遺産に登録された「エウフラシウス聖堂」である。

 オリジナルとしては4世紀頃に建てられた小さな礼拝堂で、その跡地に聖堂が5世紀に建て

 替えられたものを6世紀のビザンツ帝国の時代に司教のエウフラシウスによって改築され

 現在の姿に至る。

 ● 教会入口を飾る黄金のモザイク

  

 

● 教会内部

  

● 祭壇

  

 

● 同敷地内にある8角形礼拝堂

  

 

● 柱廊に囲まれた中庭

  

 

● 壁に残るフレスコ画・モザイク等遺物の数々

  

 

● 鐘楼から眺めるポレッチの街

  18世紀に追加された鐘楼

 

 鐘楼の展望台と南東部の港を望む

 

 市街地(東方向) 真ん中付近に見える教会はゴスペ・オド・アンジェラ教会である。

 

◆ ネプチューン神殿跡とローマ遺跡

 ネプチューン神殿跡

 

 ローマ遺跡

 

◆ 市街地内に点在する邸宅

 ロマネスクハウス;13世紀にロマネスク様式で造られた石造りと階上の木造建築が特徴

 

窓の両側に飾られた2人の聖人像を持つ邸宅(15世紀頃の作品)

 

 美しい石畳の市街地通り(デクマヌス通り)

 

   これにて「アドリア海の街と教会(1)」は、お終いです。

 

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ウィーンの街と教会(3)

2018-02-11 09:46:47 | 旅行

  映画「第三の男」での名シーンといえば、プラーター遊園地と墓地のラストシーン

でしょう。 敗戦で遊園地でもあるまいにといった人っ子一人いない舞台設定はある意味

で戦争批判なんだろうか? そして当時のままのゴンドラの姿、形を今も頑なに使って

いることもあの悲惨な戦争体験を風化させない為とも解釈出来る。

12.プラーター遊園地(郊外)

 1766年にハプスブルク家のヨーゼフ2世が市民の為に開放したことから遊園地は

 始まった。 1873年(明治6年)に、ここで万国博が開催され日本の陶芸技術が

 ハンガリーにも広がったということより、我々に関係の深い所でもある。

 

大観覧車Riesendradは、1897年にフランツ・ヨーゼフ皇帝即位50年を記念して作られた。

直径61m、高さ65mの大きさである。

 

当時のままのスタイル、形状を守っているゴンドラ。

 

13.中央墓地(郊外)

 1874年のウィーンの都市計画の一環として造られたヨーロッパで2番目に大きい市営墓地。

 墓地の入口が数か所あるが、第2入口 (2. tor)が楽聖達が眠る「名誉墓地」に近い。

 

入り口をはいると、真っすぐ伸びた舗道がカール・ボロメウス教会まで続いており、

左側手前の「第32区A」が楽聖達が眠る墓地である。

 

● 名誉墓地に眠る楽聖達の墓

 

    ベートーベンの墓           モーツァルトの墓

  

                    

    シューベルトの墓         ヨハン・シュトラウスの墓

     

 

● カール・ボロメウス教会と両翼を広げる霊廟アーケード

 教会はカール・ルエーガー市長により1908~1910年に建てられ、2000年から聖ボロメウス

 を祀るということでカール・ルエーガー教会という名称がボロメウスに替えられた.

 

●「第三の男」で使われた並木道

 直線距離の長い道だったのでカール・ボロメウス教会裏の墓地間の通路が使われた

 ようだ。 探してみたが、同じような道ばかりで、此処だと断定出来なかった。

 映画の脚本を原作のハッピーエンドから、真逆の哀愁と悲劇性に変更したのが当たった。

 世界中が疲弊していたこの時代の世情に、ぴったりフィットしたのだろう。

 それにアントン・カラスのあのメロディも大きな援護弾であったことは言うまでもない。

 それと原作ではアンナ・シュミットはチェコ人でなく、ハンガリー人であったことは

 興味深い。

 

<その他のウィーン市街地の教会>

● ミノリーテン教会(市庁舎そば)

 ミノリーテンとはあまり聞かれない名前であるが、フランシスコ会から枝分かれした

 修道会だそうで、教会は1276~1350年に建てられた。 1782年より皇帝ヨーゼフ2世

 の命により、「マリアの雪」イタリア国際教会の所有となる。

  

 

 内部は荘厳な石造り

  

 内部にレオナルド・ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」のモザイクレプリカがある。

 

(参考)市庁舎

 

● ミヒャエル教会(王宮広場脇)

 1220~1240年に後期ロマネスクと初期ゴシック様式の混在する形で建てられた。

 1792年に改築したものが現在の姿である。

  

 

 主祭壇に雪花石膏と化粧漆喰を使ったロココ調の彫刻「天使降臨」は逸品。

  

 

(参考)王宮の入り口門

 

● イエズス会教会(シュテファン大聖堂の東側)

 オリジナルは1631年に建てられ、1705年頃に今の姿に改築された。

  

 

 ピンクやグリーンの色彩の大理石を使った美しい内装である。

 天井はドームのフレスコ画のように見えるが、騙し絵になっておりドームではない。

  

 

 入口側の身廊の2階には2004年に設置された美しいパイプオルガンがある。

  

 

● ドミニカ会教会(シュテファン大聖堂の東側、中央郵便局のそば)

 オリジナルは、1237年にドミニカ会修道士たちによって建てられたが、オスマン・

 トルコ軍の攻撃で破壊した。 その後、1634年にバロック様式で再建された。

  

 

 祭壇と天井ドームのフレスコ画は素晴らしい。

  

 

● フランツィスカーナ教会(シュテファン大聖堂の南側)

 この地区はウィーンの市街地で最も古く、教会は17世紀の初頭に建てられた。

 教会前の広場には「モーゼの泉」や古いカフェなどがありロマンチックな場所らしい。

 広場は工事中(2018, Feb.)

  

 

 

         これにて、「ウィーンの街と教会」は、全てお終いです。

 

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ウィーンの街と教会(2)

2018-02-07 11:07:10 | 旅行

 第二次世界大戦後、ウィーンは連合国(米、英、仏、ソ)によって4分割統治され

ていたことは前回で話した通りであるが、映画「第三の男」の冒頭で各国の統治区域

の映像が、これも数秒ながら映し出されたが、まずその場所を明確にしよう。

1.アメリカ統治区域;ヴォティーフ教会

  映像はこのアングルであった。 1879年にネオゴシック様式で建立。

  

   塔の高さは99m、 正面ファサードは工事中(2018 Feb. 時点)。

 

  南門も美しく、豪華。

  

 

  主祭壇

  

 

  正面入り口側、身廊

  

 

2.英国統治区域;シェーンブルン宮殿

 1696年より建築が始まったが、1743年からのマリア・テレジア時代での大幅な改築

 により、現在の姿になり、ハプスブルク家の夏の離宮となる。反対側に庭園が広がる。

 

3.ソ連統治区域;ベルヴェデーレ宮殿

 映像ではこの門(南門)が映っていたようだ。

 

 門を入ると上宮である。 中(2階)にはクリムトの作品が展示されている。

 宮殿は数々の戦いの英雄プリンツ・オイゲンの夏の離宮として建てられた。

 下宮は1716年に、上宮は1723年に完成した。 1752年にハプスブルク家に売却された。

 

4.フランス統治区域;ウィーン西駅

 西駅は二度の大再建(1754年と2011年)により、面影が全くなくなっている為、割愛する。

 

ナレーションが終わり、ホリー・マーティン(ジョセフ・コットン)がウィーン西駅に着き、

直ぐに、友人ハリー・ライム(オーソン・ウェルズ)の住まいを訪ねるところからストーリー

は始まる。

5.ハリーの住まいとヨーゼフ広場;

  パラヴィッチーニ宮殿をロケに使っており、現在も健在。

  

 

ハリーがトラックに轢かれて死んだという場所(ヨーゼフ2世像前)...身代わり殺人である

 

● アウグスティーナ教会(広場内にある);

 1339年に建てられ、1634~1918年まで宮廷の教会として、ハプスブルク家の結婚式に使用。

  

 

  身廊の長さは43m、高さ20m

  

 

 身廊の入り口側

  

 

6.Hotel Sacher;ホリー・マーティンが泊まっていたホテル

 1876年創業の老舗、世界中に知られたザッハートルテ(生菓子)は玄関横の店舗で買える

 

(参考) Hotel Sacher の向かいが国立オペラ座である。

 

7.カフェ・モーツァルト;クルツ男爵との待ち合わせ場所

撮影はホテルザッハーの1階ということになっているが、当時ホテルの損壊がひどく、ロケを

やれる状態ではなく、3ブロック北のノイア・マルクトにセットを組んで撮影したらしい。

 

8.ルプレヒト教会横の階段;

 ハリーの住まいの管理人が殺され(口封じの為)、マーティンが下手人として疑われ、

 ハリーの恋人アンナ・シュミット(アルダ・ヴァリ)と共に逃亡するルート。

「ルプレヒト教会」はウィーンで最古の教会で740年頃に建てられ、塔は11~12世紀に追加。

 

9.ハリーが生きていると思った瞬間と場所;

   マーティンが物陰に潜む追跡者に対して、「出て来い!」と叫ぶ、ビルの一室に灯りが点り、

 「うるさい! 何時だと思っているの!」というようなご婦人の罵声と同時に、そのコモレ灯

 が向かいのビルの扉に隠れているハリー・ライムの顔だけを浮かび上がらせる。 

 なんと素晴らしい演出といつまでも記憶に残るシーンだったので、是非ともその場所を写真

 に収めたいと願っていたが、残念ながら、その場所を探し出すことが出来なかった。

 帰りの電車の時刻も迫るし、おまけに寒いしで、Judenplatz の方が断然、ピッタリの場所

 と勝手に自分自身で決めて引き上げることにした。

 後で、ネットでベートーベンの住んでいたパスクァラティハウスの裏の路地だと知ったが、

 アンナの飼っていた猫の行動範囲や灯りが点いたビルの距離より、やはりJudenplatz の方

 が現実性があるような気がするが、正解はネットの通りだと思うけど、またいつか確かめに

 来る機会があることだろう。

 

 ユーデンプラッツ (Judenplatz)          朱線のようにコモレ灯が射したら....

                                                                              

10. アム・ホーフ (Am Hof);

      マーティンがハリー・ライムを追いかけて見失った広場がアム・ホーフである。

  モニュメントの向こうがアム・ホーフ教会。

  教会は、1386~1403年にカルメル会によって、ゴシック様式で建てられたが、広場自体

 はローマ時代から存在し、バーベンブルグ時代にはロマネスク様式の宮廷礼拝堂が居城と

 共にこの場所にあった。 映画では地下下水道に通じる広告塔があったが今は見当たらない。

 

11. ホーエルマルクト (Hoher Markt);

   キャロウェイ少佐(トレヴァー・ハワード)達がハリー・ライムを張り込んでいた広場。

 向こうのビルの角にマーティンが囮として、待っていたCafe Aurel があったようだ。

 

   モニュメントの向こう側が、風船売りが立ち止まっていた場所ではないだろうか。

                                                               

<参考>

上の写真で向こうのビル2つを渡り廊下で結んだ所に有名なアンカー時計がある。

    


<周辺の教会>

● ペーター教会

 オリジナルの教会は、4世紀には既に存在しており、歴史的にはウィーンで

 最も古い教会といえるだろう。現在の教会は1733年に改築されたものである。

 

 祭壇部  バロック芸術の傑作

 

 「マリア昇天」の天井画(1714年完成)には、目を見張らせられる。

 

● ショッテン教会;

 バーベンブルグ家のハインリッヒ2世によって1155年より教会の建設が始まった。 

 修道院も併設されており、当初はアイルランド修道士によって活動をしていたが

 その後、オーストリア人修道士(ベネディクト派)に引き継がれた。

    正面入口とファサード

  

 

  教会の手前は、フライウング広場で12月には伝統的なクリスマスマーケットが開催。

 

      これにて、「ウィーンの街と教会(2)」はお終いです。

 

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