撮り旅・ヨーロッパ

ハンガリーを拠点にカメラ片手に古い教会を主に写真撮影の旅を楽しみ、そこで拾った生活、文化情報を紹介します。

メキシコ3大遺跡を訪ねて (チチェン・イツアー遺跡)

2017-08-26 17:35:27 | 海外生活

 3.チチェン・イツアー

 ユカタン半島の密林の中に点在するマヤ文明の代表的な遺跡で、1988年にユネスコの

  世界文化遺産に登録された。

 

     <チチェン・イツアーの遺跡配置図>

      

 ・上(北側)に囲ったエリアが新チチェン・イツアーと呼ばれており、10世紀頃の中央高原の文化

  (トルテカ族)の影響を受けた好戦的なマヤ・トルテカ混合文化国家が復活した。(今回の訪問)

 ・下(南側)に囲ったエリアが旧チチェン・イツアーと呼ばれており、6~7世紀に栄えていた純粋

      なマヤ独自の文明国家であった。 その後は10世紀の復活まで、こつ然とこの場から姿を消した。

 

・エル・カスティージョ(ククルカン・ピラミッド)

 チチェン・イツアーの代表的な建造物であるこのピラミッドは、マヤの最高神ククルカンを祀る

 ピラミッドで、底面が55.3 ㎡、高さ 24 m + 頂上の神殿部分が 6 m の大きさである。

 エル・カスティージョとは、スペイン語で「城」または「城壁」という意味であり、

 ククルカンとは、中央高原で重要な神であるケツアル(鳥)とコアトル(蛇)がマヤの地に

 来てククルカン(羽毛のある蛇)と呼び名が替わったと云われている。

  

                                                                            出典:matome.never.jp

 階段下にククルカンの頭があるのはピラミッドの北側の階段のみである。

 昼と夜の長さが同じになる春分と秋分の日の年2回だけ、神秘の現象「ククルカンの降臨」が

 起こる。 この現象は、太陽が西に傾くと、階段の側面にピラミッドの影が蛇の胴体のように

 写し出され、階段下部のククルカンの頭部と合体する現象である。

 カスティージョには4面に各91段の階段があって、階段を合計すると 4 x 91 = 364、

 さらに最上段の1段を足すと、365 になりマヤ暦の1年を表わしていると云われる。

 このピラミッドは9層の基壇で構成され、中央階段で2分割されるため 9 X 2 =18 で、

 マヤ暦の1年は18か月にわけられていた(ハアブ暦)。

 ということより、マヤ文明は天文学に非常に秀でていたことがうかがえる。  

 

・戦士の神殿

  3層の基壇の上に神殿が建てられており、前面の階段を上がった所に、チャックモール像が

 横たわっているという。(現在は神殿に立ち入ることは禁止されている)

 神殿の周囲には戦士を浮き彫りにした石柱が無数に建っているので、別名「千本柱の神殿」とも

 呼ばれている。

 

   チャックモールは腹の上に鉢を持っており、

                                                     ここに生け贄の心臓が載せられ、太陽の神に奉げられた。

 

・生け贄の台座(ツォン・パントリ)

  

 生け贄の頭部は切断され、頭蓋骨は台座の上に    傍らでアナザーのチャックモールが鎮座。

 串刺しに晒された。 晒し首という日本の罪人

 に対する思想でなく、生け贄は神に召されると

 いうことで名誉なこととして捉えられていた。

 

・金星の台座

 東側の階段

 北側の階段

 

東側の浮き彫り(右)

東側の浮き彫り(左)

 

・鷲とジャガーの台座

 

・ジャガーの神殿

 神殿内部にはトルテカ人が侵略して来た際の戦闘の様子が壁画にされている。 真ん中には

 ジャガーの玉座が置かれている。

 

    球戯場側から見たジャガーの神殿

 

・球戯場

 高さ8mの石壁に囲まれており、奥行き146m、幅36mの中でサッカーに似て手を使わず、

 上腕や腰でゴムボールを両サイドにある石の輪の中を通すことで勝負を競った。

 勝者側か敗者側かは明確になっていないが、キャプテンかリーダーが栄光の生け贄になった。

  突き当りの建物は貴賓観覧席      

 ゴール

 

・セノーテ

 セノーテとは、天然の井戸という意味で、チチェン・イツアーの周りには多数作られていた。

 チチェン・イツアー内の「聖なるセノーテ」は宗教儀式に使われており、干ばつが続いた時

 には生け贄を雨の神に捧げたと云われている。

 チチェンとは「井戸のほとり」、イツアーとは「水の魔術師」というマヤ語の意味から、

 マヤ文明において、セノーテの持つ役割は非常に大きかったと推測される。

 今回はツアーの都合もあり、チチェン・イツアーから3kmほど東にある最近人気の遊泳も

 出来るというイク・キルというセノーテを訪れた。

 

  

  

   これで「メキシコ3大遺跡を訪ねて、チチェン・イツアー巡り」はお終いです。

 

 「バラトン遍路の旅」


メキシコ3大遺跡を訪ねて (テオティワカン遺跡巡り)

2017-08-24 10:02:00 | 海外生活

  2.テオティワカン遺跡

  この都市国家の建設は紀元前2世紀ごろで、西暦350~650年には最盛期だったと云われ、

 20万人を超える人が住んでいたようだ。

 8世紀になると、現在でも謎となっているが衰退し、人は姿を消し、そのまま廃墟となって

   しまった。

 後に、この都市国家を見つけたアステカ族が「神々の座所(都)」という意味の「テオティワカン」

 と名付けたと伝えられており、住んでいた人達もテオティワカン人という原住民となる。

 <テオティワカン遺跡の配置図>

    遺跡はその中央を、南北約4km、

                             幅40mにわたる大通りの左右にピラミッドや神殿群が無数に点在している。

          この通りは「死者の大通り」と呼ばれている。

 「死者の大通り」の由来は、アステカ族がこの地を訪れた際に、この道に多くの遺体が発見された

    ことより名付けられた。 通りの両側に建ち並ぶ数多くのピラミッドは王やその家族を葬る墳墓

   ではなく、宗教的な儀式を行う神殿の台座として築かれたものだと理解された。 

 

  「死者の大通り」;通りは北へ向かう         通り沿いの壁面に描かれたジャガーの絵

 

 

 通り沿いに建てられた神官のオフィスか住居(?)

 

 

 ・城塞/ケツァルコアトルの神殿

 南端のPuerta(ゲート)1より遺跡の敷地内に入ると、大通りを渡って最初の遺跡が「城塞」となる。

   東端は「ケツァルコアトルの神殿」で、向こうがピラミッドと続く。

 

 

     トラロック(雨の神)とケツァルコアトル(羽毛の蛇」が交互に配置されている。

 

太陽のピラミッド

 「死者の大通り」を1kmほど、北に進むと右手に「太陽のピラミッド」が望める。

 頂上に登るための長蛇の列また列。

 

底辺の一辺の長さが225m、高さが65m、頂上までの階段は248段、頂上は現在は平であるが

かつては神殿が建っていた。

 

月のピラミッド

 「死者の大通り」の北端に位置し、その前の広場の回りには数多くの神殿の台座と、左側手前

    には、ケツァル・パパロトル宮殿とジャガーの神殿が配置されている。

 

    ピラミッドの底辺 150m X130m、高さ42m 西暦350年頃の建造。 

 

  ・ケツァルパパロトル宮殿とジャガーの神殿

 

    ケツァル・パパロトル宮殿の階段横に置かれたケツァル・パパロトル(羽毛のある蝶)の像。

 

 

 ケツァル・パパロトル宮殿の浮き彫りされた石柱        ジャガーの神殿

 

 

Puerta (ゲート)3のバス停前、ここでバスに乗るとメキシコシティまで帰るのが容易。

 

     これで「テオティワカン遺跡」巡りはお終い。

 

「バラトン遍路の旅」

 

 


メキシコ3大遺跡を訪ねて(チョルーラの遺跡巡り)

2017-08-23 03:07:59 | 海外生活

下に示す数あるメキシコの遺跡の中で、代表的な3大遺跡と云われている丸囲みの箇所を巡る。

 

   第1回 チョルーラ:プエブラ市内よりバスで40分

   第2回 テオティワカン:メキシコシティの北バスターミナルから1時間

   第3回 チチェン・イツアー:カンクンよりバスで3時間(メリダからの方が2時間と近いが)

 

 1. チョルーラの遺跡

プエブラの近郊、西方に10kmにあるチョルーラの古代遺跡(名称はトラチウアルテペトル大神殿)

のピラミッドは紀元前3世紀以前に作られたと云われている。

同時期にメキシコ中央高原には、テオティワカンが繁栄しており、共に交流があった。

7世紀頃より両都市は衰退し、姿を消しテオティワカンは放棄されたが、チョルーラは「チチメカ」や

トルテカ」といった部族の支配下で存続し、1519年のコルテスのスペイン軍に占拠されるまで

アステカ帝国の衛星都市として栄えていた。

  <ピラミッド外観模型>

     

トラチウアルテペトル大神殿の底辺の広さ400㎡、高さ64mは、知名度で勝るテオティワカンの

「太陽のピラミッド」を凌ぐ世界最大級のピラミッドである。

プエブラの旧市街歴史地区と一緒に、1987年にユネスコの世界文化遺産に登録された。


  

         チョルーラの街全貌(ピラミッドの頂上より)

チョルーラは西暦1500年頃までは、テオティワカンに次ぐメキシコ第2の大都市であった。(人口4万人)


 

   神殿跡、壁面には貴重な壁画が数多く残っており、現在も発掘中。

 

        ピラミッドの頂上に佇むロス・レメディオス教会

1519年にコルテス率いるスペイン軍によって征服されたのちに、ピラミッドの頂上にスペイン人に

よって1570年にカトリック教会が建てられた。

   

 白を基調としたバロック建築と装飾品が保存。

 

薄っすらではあるが、メキシコで最も有名な火山ポポカテベトル(左)とイスタシワトル(右)が

北方に 望めた。  ポポカテベトル山 5426m, イスタシワトル 5286m 

 

 

     これでチョルラーの遺跡巡りはお終い。

 

「バラトン遍路の旅」