撮り旅・ヨーロッパ

ハンガリーを拠点にカメラ片手に古い教会を主に写真撮影の旅を楽しみ、そこで拾った生活、文化情報を紹介します。

中・東欧を訪ねる(2)アウシュビッツ

2019-05-21 23:55:29 | 海外生活

 前章のクラクフの街は、13世紀のモンゴル襲撃によって街は破壊され、人口が激減した為に

積極的にユダヤ人を招き入れる施策を執ってきたことで、ヴァヴェル城の南東に彼等の居住区の

カジミエジュ (Kazimierz) 地区が出来た。 人口の推移は....

     ◆ 1843年     ; クラクフの全体人口約15万人  ユダヤ人2万人 (14%)

     ◆ 1938年(大戦前);    〃     約25万人  ユダヤ人7万人 (28%)

     ◆ 2015年(現在) ;    〃     約75万人  ユダヤ人200人程度になった。

 カジミエシュ地区は、巨匠S.スピルバーグ監督作品の「シンドラーのリスト」(1993年公開)

の舞台の地ではあるが、悲劇漬けの旅は避けようと行くのを止めて、映画の冒頭に出て来た

アウシュビッツ強制収容所に寄ってみることにした。 

 

 クラクフから西へ50kmほどの現地語でオシフィエンチム (Oswiecim) という所にある。

発音も難しく、現地にはアウシュビッツ (Auschwitz) という標識が一切ないので、道を聞くのに

ひと苦労した記憶が蘇る。 鉄道とバスの公共交通機関はあるが、クラクフGlowny駅隣りにある

MDAバスターミナルから出ている直通バスが最も簡単に行ける方法だろう。

 アウシュビッツ第一収容所は、現在は博物館として公開されており、インフォメーション・

センターが見学の出発点である。

 

1.収容所入場

  Info. Center でのチケット購入と手荷物検査を受けた後に、15人ずつくらいのグループに

 分かれて入場する。(各メジャー言語のガイドが付く)            Aug. 02 2013

  「働けば自由になる」という文字が掲げられている入場ゲート

 

<ロケーションと収容所配置図>

 

2.収容所内部(いわゆる檻のなか)

 ● 右側が被収容者棟の1号棟で全部で28棟あり、多い時で約30,000人が収容されていた。

 

 ● 高圧電流を通した有刺鉄線で囲われており、故意に触れて自殺した人もいたという。

 

 ● 4号棟 ... 主に経過、いきさつに関する資料と当時撮影された写真を掲示。

 強制移送されて来たユダヤ人のリスト、最も多かったのはハンガリーから...枢軸国の辛さ?

 

 2階には地下ガス室の模型ジオラマと殺人ガスのチクロンBの展示。

 

 焼却され残った犠牲者の灰をガラスの器に入れた追悼碑

 

 

 ● 5号棟 ...被収容者から没収した品々の展示

 カバンやバッグ、一張羅であった靴もお好みだったサンダルも取り上げられてしまった。

 幼い子供の衣服や赤い靴を見ると目を覆いたくなる。

 

 義足や杖が必要な身障者は選別検査で、すぐに処刑されたらしい。

 

 ● 6/7号棟 ... 収容所内の生活に関する状況を掲示

 入所した時に撮られた3枚1組の収容者のポートレートを掲示。

 

 貧しい日常の食事内容

 

 被収容者の寝床; 3段ベッドはまだ良い方        コンクリート床に薄掛け

    

   

 被収容者が写された残酷な写真も数多く展示されていたが、ここに貼付することは躊躇われた。

 

 ● 死の壁 ... 政治犯や特殊人物を11号棟で裁判し、10号棟との間の中庭で銃殺した。

 

    10号棟の窓は見えない様に目張りが施されている。

 

 ● 点呼及び見張り台と集団絞首台 ....

 

 脇には新しく入所した収容者への偽りの歓迎式もやっていたとか

 

 ● ガス室隣なりにあるゲシュタポ詰所と絞首台 ....

 アウシュビッツ収容所の初代所長であったルドルフ・ヘスの絞首刑が行われた所 (1947/04/16)

 

 ● 焼却炉・ガス室 ....

 博物館見学の最終コース

 

 ガス室の天井から殺人ガス(チクロンB)が噴射されたという。

 

 その後の死体焼却炉、かつては3台あったが今は2台が残されている。

 

 誰も彼もからは笑顔が失せ、憮然とした表情で Info-Center に戻る。

 

3.第二強制収容所ビルケナウ (独語 Birkenau、ポーランド語 Brzezinka)

  ビルケナウは第一収容所から3km ほど離れているので、 Info-Center前より無料で提供

 されているシャトルバスが利用できる。

 「死の門」から延びる鉄道引込線、ヨーロッパ各地から送られてくる収容者の到着場所であった。

  

 

 こんな無邪気な子供達までもと思うと胸が痛~い.....

 

  もう絶対に繰り返してはいけない大き過ぎた「負の遺産」ではなかったか、

 でも、まだ何処かで繰り返している.....人間といういきものはなんと.....

 

    これにて「中・東欧を訪ねる(2)アウシュビッツ」は、お終いです。

 

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中・東欧を訪ねる(1)クラクフ

2019-05-18 16:13:06 | 海外生活

 中欧の5大古都と云えば、ウィーン、ブダペスト、ブラチスラヴァ、プラハ、クラクフであろう。

共にドナウ川の以北にあって、ローマ帝国の北方進出から端を発し、各々の建国の歴史には民族、

文化、宗教、風土といった切り離して語れない繋がりがある。

今回は今まで触れていなかったクラクフとプラハ方面を訪ねてみたい。 

(但し、1回の旅のものではなく、過去数次にわたる旅の記録をまとめたものである)

オーストリアを除く東側共産圏であったハンガリー、スロヴァキア、チェコ、ポーランドがEUに

加盟したのが、共に2004年5月1日であった。 それ以前にハンガリーに住んでいた小生が東側

共産圏に入るのは、かなりの手間が掛かり、各国のビザ取得が必修であった。

特にクルマで越境する時は、国境検問所での通行ビザの取得で数時間の待機を覚悟せねばなら

なかったので、大幅な遠回りでも既にEU加盟国であったウィーンを通る方が簡単に越境できたし、

EU加盟後も暫くはインフラの整備状況も良かったオーストリア~チェコ経路を使うことが圧倒的

に多かった。

しかし、現在ならばブダペストからM2(E77)を通って、真っすぐ北上するルートがお勧めだ。

世界規模で知れ渡った名所などないが、何といっても大自然が満喫できるであろう。

                                     May 03 2019

 まず、ハンガリーの国境を越えると広大な菜の花畑に目を奪われたのであった。

 

● バンスカー・ビストリツァ (Banska Bystrica)市の Srare Hory村にある聖母被昇天教会

 1449年の創建以来、国内外から多くの巡礼者が集まるという。

  祭壇部 SNS wikiipedia より拝借

 

● 時間的な余裕があれば、タトリ (Tatry) の山々の絶景を眺めて行くのも一考かと。

  2~3000 m級の山の連なりが眼前に迫る

 

● 山の麓を縫うタトリ電気鉄道は鉄道マニアの垂涎の一つ。

 

<ロケーション>

 

<クラクフ (Kraków) 小史>

 クラクフには西スラブ民族が先住していたが、その後モラビア王国→ボヘミア王国と続き、

1038~1596年までの約550年間はポーランド王国の首都になった。

1596年以降は、それまでのヤギェウォ王朝が絶滅し、17世紀になると都はワルシャワに移り、

1918年までは、オーストリア(ハプスブルク)支配のクラクフ公国となり、第一次世界大戦で

解放されポーランドは独立したが、第二次世界大戦後はソ連の支配下となった。

                                    Aug. 01 2013

 旧市街地へはヴィスワ川を渡って、写真の橋を右(北)方向に向かう。 向こうの山は

コシチェシコ山で、写真はヴァヴェル城からの眺めで、街は第二次世界大戦の戦火から

逃れることが出来、1978年にユネスコの世界遺産に登録された。

 

1.ヴァヴェル城 (Zamek Królewski na Wawelu)

  現在の旧市街地の南端に城は位置し、建国当初はヴィスワ川が中州になっており、その中

 の木造の要塞であった。 モンゴルの襲撃以後、14世紀になっての街の繁栄に従い強固な

 石造りの城が建てられた。

 ● 城の南門

 

 ● 城の中庭;  正面が大聖堂で右側が旧王宮    

 

 ● ヴァヴェル大聖堂 (Karedra Waweiska) 

  カトリック教会であり1364年に建立され、ポーランド史における英雄的人物や歴代の国王

 が地下に埋葬されている。

  大聖堂の入口と金色のドームを戴く礼拝堂

 

   大聖堂のジグムント塔の最上階にある鐘は1520年に鋳造されたポーランド最大の鐘

 国家の重要な慶事の際のみ鳴らされている。 

 

 ● 旧王宮 (Zamek Królewski) ;16世紀初頭に建立、現在は内部が博物館になっている。

 

2.中央広場

 2-1. 聖マリア教会 (Kosciól Najswietszej Marli panny)

  最初に建てられたのは、1222年であったが、モンゴルの襲撃によって破壊され、1290~

 1300年にゴシック様式で再建された。 その後、改修・再建を重ね現在の姿は1891年に

 再建されたネオゴシック様式である。

 レンガを用いたゴシック様式で “ブリック・ゴシック” とも呼ばれ塔の高さは80m。

彫刻家ファイト・シュートス (Veit Stoss) 作の祭壇は必見の逸品。

 撮り逃した為、SNS Wikipediaより

 

 2-2. 聖バルバラ教会 (Kosciól sw. Barbary)

  聖マリア教会の隣りに建つ、同様のブリック・ゴシック様式で1402年に建てられた。

  内部は1692年からバロック様式で改装。 所有者が数回替わったが、今はイエズス会。

 

 2-3. 旧市庁舎の塔

 14世紀建立の市庁舎は1820年に取り壊され、高さ70mの塔だけが残された。

 ポーランドの斜塔とも呼ばれ、塔は 55 cm ほど傾いている。

  

   傍らに横たわるオブジェは「Eros Bound」、ポーランドの芸術家イゴール・ミトラジの

  1999年の作品で2004年の1月にここに設置された。 

 

 2-4. 織物会館 (Sukiennice)

  14世紀に建てられたものだが、当時は衣服や布地の交易所であったことより、現在も

 この名で呼ばれているが、中は土産物、民芸店が軒を並べている。 2階は国立美術館、

 地階は博物館(2010年オープン)になっている。

 

 2-5. 聖ヴォイチェフ教会 (Kosciól sw. Wojciecha)

 中央広場の南端に佇む緑色のドーム屋根のローマ時代からの教会。

 11世紀後半に設立されたクラクフで最も古い教会である。

 

3.バルバカンとフロリアンスカ門 (Barbakan and Brama Florianska)

  1498年に造られた円形の砦は、北門にあたるフロリアンスカ門を守っていた。

 砦に繋がっていた市街を守る城壁は、19世紀に取り払われて現在は緑地化されている。

 フロリアンスカ門は1300年頃に造られ、バルバカンの後ろ(内側)にある。

 

 

4.聖ペテロ聖パウロ教会 (Kosciól sw. Piotra i Pawla)

  旧市街とヴァヴェル城を結ぶ道路脇に位置し、正面ファサード前にイエスの12使徒像を

 並べた優麗な、1619年に建てられたイエズス会の教会である。

 

    これにて「中・東欧を訪ねる(1)クラクフ」は、お終いです。

 

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知りたいハンガリー史(1)汎ヨーロッパ・ピクニック

2019-05-05 01:49:24 | 海外生活

  今日のテーマは汎ヨーロッパ・ピクニックと呼ばれた勇気あった民主化運動について.....

時は1989年5月2日、ハンガリー社会主義労働党改革派のネーメト・ミクローシュ首相は諸外国

メディアを前に、隣国オーストリアとの国境にある電流を通した鉄条網を撤去すると表明した。

この声明から数時間後、鉄条網を大きな金鋏で切る兵士の写真が通信社を通じて全世界を駆け巡った。

 

そこに至るまでの葛藤(*1)と画策、保守派(*2)からの批判は当然あったが、冷戦により長年停滞した

経済に辟易した東側諸国民の不満は限界までに達していたことや西側諸国の後押し、またソ連に誕生

したゴルバチョフ新政権がハンガリーの決断を黙認するという方針も大きな決定要因となった。

 

その後、6月にも再び、ハンガリー政府はフェンスの一部を切断したことによって、多くの東ドイツ

国民はハンガリーまで秘密警察に睨まれることなく、合法的に辿り着ければ、何とかオーストリア

経由で西ドイツに越境出来るのではないかという希望が湧いて来た。

当時は東側諸国の人々の、東側共産圏へのバケーション等の渡航は合法(*3)であったが、西側へは

ハンガリーの発行するパスポート(ビザ)が必要であり、その入手は不可能であった。


この問題を解決するのに、あの「東洋のシンドラー」と呼ばれた第二次世界大戦下のリトアニア日本

領事館の杉原千畝のような役割(裏技)が必要であり、それがズグリゲット教会の存在であった。


1.ズグリゲット教会 (Zugligeti Szent Család templom)

  ローマカトリック教会、1913~1917年にアイルランドのラスファーナム教会をモデルとした

 ネオゴシック様式で建てられた。 教会の場所はブダペストの日本大使館の裏手にあることも

 何かの因縁を感じさせられる。

   May 02 2019

   May 02 2019


   教会内部                                                                    SNS Wikipedia より拝借 

    


 ●  教会前の公園にはハンガリーパスポート(ビザ)の発給を待つ人達のテントがいっぱい

  張られていたという。                       May 02 2019   


 ● 教会前に順番を待ちわびる東ドイツの人達(教会前の記念碑を撮る)

 


2.汎ヨーロッパ・ピクニック(Pán európai piknik) 会場

  西ドイツのヘルムート・コール首相らと相談しながら、1989年8月19日(土)にショプロン

 郊外でピクニックと銘打った政治集会を開催すると喧伝した。

 西ドイツへの亡命を求める1000人ほどの東ドイツ市民が参加し、オーストリア国境を越えて

 亡命を果たしたのであった。

 その3か月後の11月9日に、ベルリンの壁崩壊への引き金になった重要な事件であった。


 <ロケーション>

  


 ● オーストリア国境ゲートと自由への扉を意味するモニュメント

                                   May 01 2019


 ● イギリス首相のチャーチルが称した「鉄のカーテン」の一部                     May 02 2019

 

 ● 国境ゲート前広場                          May 01 2019

 

 ● 当時の写真(広場の展示板を撮る)

 

<補足説明>

 葛藤(*1)1956年のハンガリー革命において、1958年に自由を求める市民が武装蜂起して

      共産主義政権の打倒を図ったが、ソ連軍の軍事介入による鎮圧の為に、25,000人

      の死亡者と20万人の亡命者を出し、その轍を踏まずに改革を実現したかった。

保守派(*2);ハンガリー社会主義労働党の書記長カーロイ・グロースは改革派のネーメト首相

      や政治改革相のポジュガイ・イムレ等には批判的であった。

      当然ながら東ドイツ国家評議会議長のエーリヒ・ホーネッカも怒りを露わにした。

 合法 (*3);東西冷戦時代、東ドイツの人達は、毎年夏にバラトン湖で離ればなれになった

       西ドイツの家族、知人と再会するための休暇を取ることが合法的な渡航理由と

       なっていた。

 

 「戦争を知らない子供たち」と唄ってノホホンと昭和~平成と生きてきたけれど、60年前に

北朝鮮に帰還した幼なじみの木村哲生が乗る帰還バスに、教室の窓から旗を振って見送った

ことが、ついこの前の事のように思い出してしまう。 幸せに生きているのか、生きたのか?

これから“令和”の時代を永く生きていく人達には、国境の壁(カーテン)のない平和な時代に

生きて欲しいものである。

 

  これにて「知りたいハンガリー史(1)汎ヨーロッパ・ピクニック」は、お終いです。

 

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ドナウ河岸歩き(11)ウィーン

2019-05-02 23:02:14 | 海外生活

 ウィーンのドナウ川事情に触れぬまま、さらに下流(東)に進むことに躊躇し、時節を待って

いたが、その再開を新元号“令和”の初日にしたいと思っていた。 

平成の最終日は生憎の雨模様だったが、夜が明けると、幸運にも爽やかな五月晴れ、まさに

“令和時代” の前途を暗示するかのような中欧における“令和”の明るい幕開け日となった。

 

 ドナウ川を接する国は10か国もあり、言語、文化、宗教とその多様性は他に類を見ない。

その川の全長2850kmの道中で首都を通る国は4か国であり、上流からオーストリア(ウィーン)、

スロヴァキア(ブラチスラヴァ)、ハンガリー(ブダペスト)、セルビア(ベオグラード)である。

ウィーンでは、旧市街は高台の頂上に位置し、現在のリンク道路のある所には城壁が張り巡らされて

いた。 その当時は市街地から北東に向けてドナウ川は湿地帯を含んだ5km 以上の川幅で、複雑に

入り乱れながら、あたかも静脈血管の如く、美しく流れていたと云う。

しかし、雪解けの春先や大雨の時には、住民を度々、洪水と疫病で悩ませ続けて来た為に、ドナウ川

の治水工事と共に大都市化の改革は長い間の住民の切実な闘いでもあった。

そして城壁は1865年に撤去され、本格的な治水工事が始まったのである。

 

 ● 現在のドナウ川の様子(ドナウタワーから見た)             May 01 2019

 

 ● ドナウタワー; 1964年4月16日に完成、全高さ252m、展望台の高さ155m。

  May 01 2019

 

 ● Vienna International Center とドナウタワー                                May 01 2019

 

 ● ドナウタワーよりウィーン旧市街地の眺望                                         May 01 2019

 

 ● 18世紀当時のドナウ川の状況;....川は幾筋にも分かれた湿地帯を形成。

  

 

現在のウィーンには4つのドナウ河が存在。 ウィーンの西側から東に向かって順を追って....

① ドナウ運河 ....  

    最初の河川工事は1598~1600年で、2回目はリンク道路の完成後の1868~1875年で、

 旧市街地の麓を流れる川であった。 街の北端のNussdorfで、ドナウ本流を水門によって

 分流させ水量、水位をコントロールしている。

                                      Apr. 30 2019

   運河の長さは全長で約15 km、当初は2つの水門があったが下流側の一方は1969年に

 取り去られ、水門監視所が残っているのみである。

 

 ● 稼働中の水門; 後方の水門監視所は、ウィーンで著名な建築家のオットーワグナーの作。

                                    Apr. 30 2019

         

 ●  ドナウ運河の途中で、リンク道路のちょっと外側の Julius Raab-Platz付近に注ぎ込んで

  いるのがウィーン川である。 ウィーンの森を源流としてシェーンブルン宮殿脇を通って

  ドナウ運河までの全長34km の美しい川であるが、市街地に入ると地下に潜るため見過ご  

    し易い支流である。                          Apr. 30 2019

 

 ● ドナウ運河を航行する遊覧船

 

 ●  運河沿いには、壁画(人によっては落書き)や石像などのモダンアートがあり、夏の

  プロムナードとして人気。                      Apr. 30 2019

 

② ドナウ本流 ....

  他の河に比べ、カフェオレのような色に見えるのは、流れがあり、川底の土を舞い上げて

 いるせいであろう。                         May 01 2019

 

 ● 地下鉄U1のDonauinsel 駅からドナウ本流の上流側           May 01 2019

 

③ 新ドナウ河 .....

  ドナウ本流の洪水対策として、本流に沿って約20 km の放水路を1972~1982年に造り、

 普段は水門を閉めておく流れのない河である。 本流と新ドナウとの境はドナウ島と呼ばれ

 市民の夏の行楽地となっている。

 ● 地下鉄U1のDonauinsel 駅から新ドナウ河の上流側           May 01 2019

 

 ● 同様に下流側                                                                                     May 01 2019

 

 ● 河岸のVienna International center を含めた新ビジネス街

 

④ 旧ドナウ河 ....

   ドナウ川の護岸工事の為に、蛇行していた川が塞がれて出来た三日月形の湖になってしまい、

 工事後は海のないウィーン子達の水遊びの場になって来た。 

 ● 上流側                                 May 01 2019

 

 ● 下流側                               May 01 2019

 

 誰かの詩の文句ではないが、“あゝ、人生は何とも川の流れのよう” ‼

 

      これにて「ドナウ河岸歩き(11)ウィーン」は、お終いです。

 

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