撮り旅・ヨーロッパ

ハンガリーを拠点にカメラ片手に古い教会を主に写真撮影の旅を楽しみ、そこで拾った生活、文化情報を紹介します。

Nagyszeben(ナジセベン) トランシルバニアの教会

2013-06-25 19:25:41 | 海外生活

 ルーマニア語では、Sibiu (シビウ)、ドイツ語では Hermannstadt (ヘルマンシュタット)と呼ばれる

ルーマニアで3番目に大きな町であり、歴史的に重要な町であった。 この町では1910年以前には、ドイツ

人がマジョリティを持っていたため、ドイツ語の方が一般的だったことだろう。

1910年の調べでは、町の全人口33,500人に対して、ドイツ人が 16,800人で約半分を占めていた。

(ハンガリー人は 7,250人、ルーマニア人は 8,800人であった)

2002年になると、全人口は 155,000人と約5倍に膨れ上がり、逆にハンガリー人は 3,000人、ドイツ人

は 2,500人と減ってしまった。

1192年、ハンガリー王ゲーザⅡ世の植民地時代に、町は Cipin という名で、東ドイツ地方のザクセン人

によって設立された。 15~16世紀に造った堅固な防御壁と40あまりの砦によって、オスマン・トルコ軍の

襲撃から町を死守した。 結局、町は陥落することはなかったが、1556年の戦火によって壊滅状態となった。

すぐに復興を遂げ、16世紀には、ここはトランシルバニアのカルヴィン派の総本山となった。 

その後、タタール人からの襲撃による町の破壊(1658年)やオスマン・トルコ、オーストリア帝国(ハプスブルグ)

との確執があったが、17世紀にはルーマニア正教会が許可されるや、ルーマニア人がどんどん増える一方、

ドイツ人、ハンガリー人は祖国へ移住して激減していった。 1849~1865年にはトランシルバニア公国の

首都になった時代もあった。 その後は第1次世界大戦後のトリアノン条約で、ルーマニア王国に取り込まれた。

2007年には欧州文化首都に選ばれたほどの歴史の町である。

 

大広場のブルケンタール邸(左)と市役所(右)       大広場の夜を彩る噴水

 

 

「嘘つき橋」(1859年建造)

橋の上で嘘をつくと、橋が壊れるという言い伝えは有名。  「嘘つき橋」の上から下町を眺める。

 

 

 時計塔(13~14世紀建立)   人の目のような屋根の窓がユニーク(多く見かける)

 

 

<百八十七番札所; Nagyszeben evangélikus (ナジセベン ルター派)大聖堂>

  教会は、最初12世紀末にザクセン人によって修道院が創立された。 引き続き13世紀にかけて

 ロマネスク様式の3層内陣、バジリカタイプの教会が建立された。

 14世紀半ばに、古い教会を壊して、ゴシック様式で再建すると共に、西側に塔を増築した。

 1424年には、修道院を閉鎖。 1448~1460年に第2期工事として、西側ホールを増築、

 1471~1520年に第3期工事として、塔を高くし(70m)、四隅に子供の塔を配した大聖堂(司教座を

 置く)となった。

 1445年に、内陣の北側に、Rozsnyi János がカルヴィン派を象徴する壁画を描く。(必見)

 1885年にカルヴィン派からルター派の大聖堂に改築され、現在に至る。

 

 南からの大聖堂   ゴシック特有のトレーサリー(細長い)窓が美しい。

  

 

 西門                  南門(ゴシック様式)

  

 

 西側からの教会外観 

 

 

 東側(祭壇側)                         内陣北側の壁画(カタログより)

 

 

 今回で、トランシルバニア (Erdély) のカロタ地方にあるハンガリー人が使っていた教会を巡る旅

を終了します。 この旅の最後は、ハンガリー教会の総本山 Brassó (ブラショー)を含めたセイケ地方

をと思っているが、いつになることやら。 そこには、まだまだ数えきれないほどの美しい「いにしえ」を

残した古刹(教会)が存在する筈である。 しかし、ハンガリー国の一部であった時代から、もう1世紀の

歳月が流れようとしている。 どこまでハンガリーが残っているのか興味深いところであるが、日本が抱える

「北方領土」「尖閣諸島」「竹島」問題よりも複雑さはないように思えるのは自分だけだろうか。

 

「バラトン遍路の旅」

 

 

 

 

 

 

 

 

 


Szaszsebes (サースシュベシュ)トランシルバニアの教会

2013-06-19 00:57:29 | 海外生活

 今回は国道7号線が国道1号線と合流する町、ハンガリー語でSzászsebes (サース・シュベシュ、

ルーマニア語でSebes ) にある教会を訪ねる。  Szászsebes は Fehér 県の自治都市であって

人口は、24,165 人(2011年)であり、ルーマニア人が 22,551 人 (93.3%)、ハンガリー人が

131人(0.5%) である。

この地には、昔からルーマニア人が住んでいたが、実際に町作りをしたのは、ドイツから移住してきた

ゼクセン(ドイツ東部地方)人であった。 しかし、ドイツ人も 261人(1.1%) と非常に少なくなっている。

その後、12世紀の半ばに、ハンガリー王国の領地となり、中世のトランシルバニアにおける重要な町

となった。 町の周りに壁を巡らし、タタール人からの侵略(1241~1242年)に備え、堅牢なものに

したが、1438年にオスマン・トルコ軍に占領されてしまった。

トランシルバニアの隊長サボヤイ・ヤーノシはハンガリー軍を率い、ハプスブルグのオーストリア軍と

オスマン・トルコ軍との狭間で奮闘したが、1540年に、ここで最期を遂げた。 

 

<百八十六番札所; Szászsebes evangélikus (サース・シェベシュ)ルター派教会>

  教会は、13世紀初めに3層内陣、バジリカタイプのロマネスク様式で建てられた。 しかし、2つの

塔は、タタール人の襲撃によって破壊されてしまったので、1250年には、ロマネスク様式の西側単塔で、

内陣はゴシック様式で再建された。 1360年にはその内陣を3層構造に拡張した。

1400年頃に、教会の北隣にヤコブ礼拝堂を建てた。

1518年に、ハンガリー王ライヨシⅡ世より家紋入りの大きく、豪華な翼型祭壇を寄贈された。 必見の

遺物であったが、残念ながら拝観出来ず、教会は外観のみであった。 

 

 南東からの教会外観

 

 

 南門(後期ゴシック様式)      門脇には、三つ葉模様の壁ガンがある。 内には

                       彫像の頭部が見える。

   

 

 塔(西側)          西門(ロマネスク様式、南門との対比は興味深い)

  

 

 北西からの教会外観

 

 

 東側からの外観(祭壇側)   控え壁に飾られた彫像とゴシックの窓が上手く調和。

  

 

 控え壁の彫像の数々

  

 

 

 三つ葉模様の壁ガン(内部に彫像が埋め込まれている)

 

 

 教会北隣のヤコブ礼拝堂(1400年頃の建立)

 

 

 礼拝堂内部      教会の祭壇(ハンガリー王の家紋入り、カタログより)

 

 

  これで、「Szászsebes (サースシュベシュ) トランシルバニアの教会」は、お終いです。

 

「バラトン遍路の旅」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


Alba (アルバ) トランシルバニアの教会

2013-06-15 22:13:08 | 海外生活

 Gyulafehérvár (ギュラフェヒールヴァール)で国道1号線を北に10km行った所に今回最初の

目的地 Marosszentimre (マロシュ・セントイムレ、ルーマニア語で Santimbru ) がある。

更に4kmほど北上し、県道を左折し、6km進むと第2 の目的地 Boroskrakko (ボロシュ・クラッコー、

ルーマニア語で Cricau) である。

目的地の規模は次の通り、

 ・ Marisszentimre (マロシュ・セントイムレ); アルバ郡の人口 2740人の町である(2002年調べ)。

                                ハンガリー人は24人在住していた。 教会脇の数軒は

                                ハンガリー人であり、教会を守っていてくれた。

 ・ Boroskrakko (ボロシュ・クラッコー) ; フェヒール県の人口 1270 人の村である。(2002年調べ)

                              ハンガリー人は4人在住していた。 

 

<百八十四番札所; Marosszntimre (マロシュ・セントイムレ)カルヴィン派教会>

  教会は、小高い丘の上に12~13世紀に建てられた。 その頃の唯一の名残りは、教会南門(現在は

 塞がれている)に残るロマネスク紋様レリーフである。(必見)

 1442年にゴシック様式で再建されたのが、現在の形である。 この地の救世主 Laszló Hunyadi は

 この地でオスマントルコ軍のリーダ M. スルタンを打ち破り、1449年には、カルヴィン派の教会を築いた。

 この時代から18世紀までが、教会にとって、最も輝いていた時期であった。 塔の一部は18世紀に改築。

 この教会の美しさと宿命を詠った Jékely Zoltán の哀しい詩(タイトル; A marosszentimrei templomban

 1936年)は有名。 彼に傾倒した Kányádi Sándor も又、この教会を詠っている。 (タイトル;オルガンの

 傍らで、 1975年)  

 オルガンなど何処に行ってしまったのだろうか? 教会も消えてしまわないよう願うのみである。

 

 南からの外観                            塔の上部が18世紀に改築

 

 

 北西からの外観        内陣北側の外壁

 

 

 南東からの外観(祭壇側)                   周りの景観を眺める古い墓標

 

 

 塔下の入口門(西側)     南門脇石に彫られたロマネスク紋様

  

 

 内陣(祭壇を見る)       内陣西側入口を見る

 

 

祭壇内、天井はゴシック様式の典型。 壁画があるが判別困難。   説教台

   

 

 説教台の背後にある壁画(タイトル; 考え込むキリストと呼ばれている)

 

<百八十五番札所; Boroskrakkó (ボロシ・クラッコー) カルヴィン派教会>

   教会は、この村に移住してきたゼクセン人(ドイツ東部地方)がロマネスク様式で、1206~

 1230年に建立した。 その後、16世紀に当時マイノリティだったハンガリー人と共に、

 カルヴィン派の教会として、ゴシック様式で拡張、改築をした。

 塔は1507年に増築(屋根をカルヴィン派の象徴とした形に)、内陣の天井はゴシック様式

  (Csúcsives と呼んでいる)に改造、、同時期(15~16世紀)に教会を囲む石垣を作った。

 現在、見られる教会は1902年の改築の物である。

 

 南西から見た教会(西側の石垣が最も高い5m)      塔(西側) 

 

 

 南側からの内陣と塔                        西側入口

 

 

 東側からの教会(祭壇側)                     北側からの内陣と塔

 

 

 北側は住居が石垣を兼ねている (住居には今は、誰も住んでいない)

 

 

教会は、現在復元中であり、内部の参観は出来なかった。 近年中にミュージアムとして公開されるであろう。

  石垣の大きさは、長径64m、短径55m である。

 

   これで、「Alba (アルバ) トランシルバニアの教会は、お終いです。

 

「バラトン遍路の旅」

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Gyulafehervar トランシルバニアの教会

2013-06-11 15:37:12 | 海外生活

 Gyulafehérvár (ジュラ・フェヒールヴァール)はハンガリー語の呼び名であるが、ルーマニア語で

Alba Iulia (アルバ・ユリア)は歴史的に重要な意味を持った町であった。 それはルーマニアにとっても、 

ハンガリーにとっても、近隣の国々にとってもであった。

古くは、Apulum (アプルム)と呼ばれ、ローマ帝国の属州のひとつ、Dacia (ダチア) 王国の首都で

あった。 ルーマニアの中で、もっとも大きな砦があったこともあり、隣国にとっては垂涎に値する拠点

であったのだろう。 いち早く、実効支配したのがハンガリーであったと云える。 それは9世紀に遡る。

聖イシュトヴァン1世のカトリック信仰化によって、砦の敷地内に最初の大聖堂が11世紀に建てられた。

1442年にトランシルバニアの郡首長 Laszló Hunyadi は、この砦で、オスマントルコ軍と激戦を

交え、ここを死守した。  のちに、Gyulafehérvár は、1541~1690年には、東ハンガリー王国

(トランシルバニア)の首都になった。 

1918年までは、オーストリア=ハンガリー帝国の領地であったわけであるが、第一次世界大戦後は、

トリアノン条約によってルーマニアに組み入れられた。 

現在、人口は58,700人(2011年)で、大戦前は12,000人中ハンガリー人は5,200人(43%)も住んで

おり、もっとも多い人種であったが、2011年には、1,100人で全体の1.9% に激減した。

 

町の名前は、ハンガリー語では、“Gyula の白い城” となり、Gyula=Julius (Iulia) でスラブ語で白い城は

“Belgrade” と云い、昔は町の名を “Belgrade” とのみ、トルコを含めたスラブ語圏の人達は呼んでいた。

今回訪問の教会は、城の敷地内にあるため、まずは城の紹介から始めよう。

 

 城の見取り図

 

 第3ゲート                               第3ゲート(城内)

 

 

 第4ゲート(裏口)                          町の全景を見降ろす(城の第3ゲート付近より)

 

 

 バーチャーニ図書館                       正教会大聖堂(Orthodox Cathedral)

                                     ルーマニア人の為の教会(1721~1923年建立)

 

 

<百八十三番札所;Gyulafehérvár ローマン・カトリック教会>

  教会は、砦の敷地内に最初のものが、11世紀にロマネスク様式で建てられた。 12~13世紀

 の間に、ロマネスク様式で拡張された。 1242年にはタータル人の襲撃によって、1277年には

 ザクセン人の襲撃によって再度、破壊された。 その後、ゴシック様式で再建され、14~15世紀に

 現在の塔が2度にわたって増築された。 1715年にローマン・カトリックの教会区教会として改築

 されたものが現在の教会である。

 

 教会の見取り図

  

 

 塔と西門(正面)         北西からの外観

 

 

 ゴシック様式の正門(西)と縁を飾る彫像(猿?)

 

 

 南側外観と南門跡(上部に彫られているレリーフは1100年頃の物)

 

 副内陣(南側)の外観             窓を飾るライオンの彫像

 

 

 北側からの外観

 

 北側の壁面に飾られた彫刻                    北門の角の彫刻

 

 

 内陣(主祭壇側)            内陣(入口側)

  

 

副内陣(北側)の祭壇(1510年に増築)と背後にある壁画

  

 

 北側の回廊           初期の内陣にあったレリーフ(11世紀)が南回廊に保存

 

 

 南回廊                         郡首長英雄 Laszló Hunyadi とその家族の棺

 

 

 これで、「Gyulafehervar (ジュラ・フェヒールヴァール)トランシルバニアの教会」はお終いです。

 

「バラトン遍路の旅」

 

 

 

 

 

 

 

 


Hunyad (フニャド) トランシルヴァニアの教会

2013-06-05 20:28:34 | 海外生活

 再び、ハンガリーの古刹(教会)を訪ねて、Erdély (エルディー、英語でTransylvania, Romania)

に向かう。 今度は国道43号線 Szeged(セゲド)から Makó (マコー)を通って、ルーマニアに入る。

ルーマニアでは国道7号線と名称は変わり、延々と対向車線の続く一般国道になる。 

国境から45kmで最初の大きい街 Arad (アラド)を過ぎ、更に90kmほど行くと、今回の最初の目的地

Guraszáda (ギュラサーダ)である。  ギュラサーダは Hunyad (フニャド)県にある人口400人ほど

の村である。 この地域はアルパード王朝時代からハンガリーの領地であったが、1292年よりルーマニア人

がアンドラーシⅢ世(1290-1301年)の許可により定住を始め、村ではルーマニア人が大半を占めるように

なった。 1910年のトリアノン条約前には、村の人口735人で、ルーマニア人650人、ハンガリー人68人

であったが、2002年にはハンガリー人は4人しかいなくなった。

  

  

<百八十一番札所; Guraszáda (ギュラサーダ) Ortodox Church (正教会教会)>

  教会は、12世紀の半ば、石積みの円形プラス四角形状の、いわばアルパード様式で建てられたが、

 ルーマニア人が多く住んでいた為、正教会教会になってしまった。

 国道7号線沿いの村の東端に墓地を傍らに佇む美しい教会である。

 

 南からの外観 (西側の鐘塔は18世紀に増築された)

 

 北からの外観 (手前は墓地)

 

西側から                    東側から(祭壇側)

 

 

 更に、国道7号線を西に進むこと60kmほどで、次の目的地 Algyógy (アルギョージ、ルーマニア

語でGeoaiu )である。  アルギョージは Hunyad (フニャド)県に属する町で人口約3000人で、

うちハンガリー人は27人が住んでいた(2002年)。 1785年には村の人口は1500人で、

ハンガリー人は200人ほど住んでいたらしいが、年々、減少している。 今は??(多分、数人であろう)

 

<百八十二番札所; Algyógy református (アルギョージ・カルヴィン派教会>

  教会は、オリジナルの物がローマ時代にゴシック様式で建てられた。 現在の教会は15世紀に

 ゴシック様式で教会区教会とし建て替えられたものであるが、ローマ時代の石像や彫刻が入口の

 門脇や壁に保存されている。 但し、この教会を使うハンガリー人は非常に少なくなっているので

 保存と云えるかどうか、捨て置かれている様相であることは、実に惜しい気がする。 

 敷地内にはハンガリアン・コミュニティが隣接しており、ハンガリー学校もあったようだ。

 

 北東から                                南東から

 

 

             東側壁面に彫られたレリーフと祭壇のユニークな明かり取り窓

  

 

 西側入口                              ローマ時代の石像(ライオン一対)

 

 

 入口屋根の上部の壁と角部の彫刻(いずれもローマ時代のもの)

 

 

 西壁の彫刻              北西からの外観

 

 

            南側壁に残る彫刻                          南門とライオンの石像

  

 

 敷地内にある円形教会は1077年の建立(右脇に見える建物はハンガリアン・コミュニティ。

  

 

   これで、「Hunyad (フニャド)、トランシルヴァニアの教会」は、お終いです。    

 

「バラトン遍路の旅」 

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