撮り旅・ヨーロッパ

ハンガリーを拠点にカメラ片手に古い教会を主に写真撮影の旅を楽しみ、そこで拾った生活、文化情報を紹介します。

国8沿線(5)ヴァシュ郡 (Vas megye) 中世の教会

2020-01-30 00:31:47 | 海外生活

 ハンガリーの街の名前には、長くて、何処で切って発音したら良いのか困って

しまうものに出くわすことが、ままある。 

今回のチェンペスコパーチ (Csempeszkopacs) もその一つで、前回のセーケシュ

フェヘールヴァール (Székesfehérvár)に比べれば、まだ大分マシと云えるが。

どうせ、まともに発音できないのだから、いっそ、うーんと長い方に愛着を感じて

しまう。

 

 ● シャールヴァール (Sárvár) へ向かって流れるラーバ川      Jan. 28 2020

 この地域はハンガリー第三の河川、ラーバ (Rába) 川に近いという事と、昔から

の西側からの幹線街道(国道8号線)沿いであったせいか、昔は栄えていたのだ

ろう、地図に依ると教会や領主の館(宮殿)が集中している。

ラーバ川を境に西へは、オスマン帝国の進出はなかった為、古い建造物や遺跡が

残っているらしい。

ラーバ川はドナウ川の支流の一つであり、27Kmほど川を沿った所には、ハンガ

リーで有数な温泉地と城下町のシャールヴァール (Sárvár) がある。

 

 ● シャールヴァールの城址公園(アーチ門の橋がランドマーク)

                     May 01 2000  アナログカメラより

 城はそれほど古いものでなく、この地の領主 Nádasdy 家の砦をバイエルンの王

 が譲り受け、城の機能を持たせ、この地を守った。 20世紀以降、ここは

 ポーランド人、南セルビア人の多くが住む(人口の半分)、彼等の第二の故国と

 なっている。

 

<ロケーション>

 

1.チェンペスコパーチ (Csempeszkopács) 教会

   正式の名称は、聖ミハーイ (Szt. Mihály) 教会で、現在はローマカトリック教会

 であるが、17~18世紀に改革派(カルヴィン派)が使っていた時期がある。

 1250年代にロマネスク様式で建てられた中世を代表する教会の一つである。

                                    Jan. 28 2020

      あいにくの改修中(シーズンオフに多い)の為、過去の写真も使う。

 ● 最も美しい時期では、                   Jun. 09 2007 撮

 

 ● ロマネスク様式の東門は、当時の様式を知る上で興味深いもので、石柱(コラム)

  とギザギザ波の紋様の組み合わせが特徴。

  Jun. 09 2007

   門の上の彫刻はハンガリーで最も美しいと云われているヤーク (ják) 教会と

 同じ羊のモチーフを用いていることは、この教会は小さいながらも、当時は

 宗教上重要な意味を持っていた教会と思われる。

 

 ●  その他には、窓の周囲の飾り紋様や屋根の下の紋様と庇部に色付けされている

  等、他には見掛けない贅沢が施されている。

  Jun. 09 2007

 

 ●   教会の内部は壁に描かれたフレスコ画でいっぱいであるが、初期のローマ

  カトリック時代の画ではなく、改革派によって上塗りされたものが残されて

 いる。 それも1回でなく、数回という調査結果である。    Jun. 09 2007

 

 

  祭壇天井の絵                      Dec. 31 2009

 

 ● 内陣の壁にアダムとイヴの絵(色が一色で初期の塗り替えの絵であろう)

  Jun. 09 2007

 

2.メッジェシコヴァチ (Meggyeskovács) の教会

  ローマカトリック教会で、13世紀にロマネスク様式で創建されたらしいが、

 18世紀にバロック様式で再建され、今のは近年の改築物。

                                 Jan. 28 2020

 

 

3.ラーバトゥットゥシ (Rábatöttös) の教会

  正式名称は聖ツェツィーリア (Szt. Cecilia) 教会で、ローマカトリック。

 13世紀の初めにロマネスク様式で創建されたらしいが、17~18世紀に

 塔と共にバロック様式で再建された。

 

<今日のスケッチ>

   チェンペスコパーチの聖ミハーイ教会

  

 

  これにて「国8沿線(5)ヴァシュ郡の中世の教会」はお終いです。

  本ブログへのご訪問、有難うございました。 

 

 

 

 

    

 

 

 

 

  

 

 

 

 

 

 


ブダペストをスケッチ(1)

2020-01-20 17:51:57 | 海外生活

<今日のスケッチ>

  これは10日ほど前に、ブダペストの日本大使館に年金の生存証明としての在留証明書を発行

 して貰うために、年1回の恒例行事となっているもので、他には国政選挙の不在者投票に行くだ

 けで、普段はまず大使館を訪ねることはない。 在職中に至っては、行く用はなかった(その方

 が事件がなかったわけで良いのかも知れないが。)

 場所は他国の大使館の多くがペスト側に集中しているのに比べ、ブダ側の閑静な高級住宅地域に

 あって、ぶらり訪ねるのに悪くはない場所柄である。 そこで一度、写真に収めておきたいと

 思ったのであるが、大使館を撮ることは禁止されているので、通りをスケッチしてみた。

 スケッチに人物を入れるのが、多くの画家たちは好みのようで、割と人間の動作というものを

 描くのは難しく、練習もしたかった理由もあった。(よってスケッチの中の人物は想像である)

  Jan. 10 2020 筆

   大使館の入口は坂道を真っ直ぐ登って行き、突き当たったところの右であり、

   手前右側の大きな門の建物は不明(大使館ではないようだ)。

 

 ● 大使館を撮るのは差し障りがあるので、どの辺にあるかを次の画像で示す。

  王宮内にあるマーリア・マクドルナ塔からの眺め            May 06 2018

   白い丸い建物は、老舗のホテルブダペストである。 天気の良い日には、最寄りのトラム、

  バスの停留所から散歩がてら歩くのも快適。

 

  大使館と云えば、国際交流ということが頭に浮かぶが、小生も長いこと外国生活をしている

 が国際人と言い切れるのだろうか?  最初にアメリカに渡ったのが昭和62年(1987年)の

 2月の寒い時期であった。 取り立てて志などあった訳でもなく、単に会社の辞令に従っただ

 けであった。  この時代はまだまだ渡航というものが一般的でなかった時代であったようだ。

 そこで当時の世代を、いつもの「社内独語」で私の旅だった日に近い記事を拾ってみた。

 

「国際人とは (page 362)」                 1987. 02. 14 記事

  外国の生活と文化を知ろうと、碧南市では国際交流講座を開いているが、八日の公開講座では

 評論家の桐島洋子さんが「日本人が海を渡るとき」のテーマで講演した。 予想以上の好評で、

 反響を呼んだ。 会社に隠しての船上出産、ベトナム最前線の取材、親子四人の絆を確かめあっ

 た米国イーストハンプトンの自然回帰の生活、米国と日本の小学校、パーティの対比など経験を

 通して語りつつ価値観の違いに触れ、まだまだ粗末な日本人の国際性を指摘した。

 てらいも威張りもなく、淡々と自己を語る端々に鋭い視点が光る。 講演の内容から察して、

 桐島さんは、純粋で大胆、なんとも大らかな勇気に満ちた魅力的な人、そう思えた。 ↙

 

  Jan. 14 2020 筆

   ペスト側くさり橋の袂から対岸の王宮を望む。

 

↗ 海外へ出かける日本人は増えたが、どこまで国際化しているかには悲観的だとして、「旅の

 恥はかき捨てといった感じで、三、四割が、本来のその人より下品になる。 特に東南アジア

 で遊ぶ日本人の人格は落ちる。 威張ることで優越感に浸り、原地の人びとの悪口を言って

 傷つける残忍な風景を見かける」と語り、みやげ物を買うのに目の色を変え、ブランド商品を

 競って買い、得意気な顔をする。

 「いい物を選ぶ目があればよいが、買い物を目的とするなら、日本でも買えるはず」とチクリ。 

 見えないものを見て、さまざまな人と出会うのが好ましい旅。 海外旅行をする人は多いのに

 外国を理解していない。

 どうすれば日本人は国際化できるか考えてみたいと問いかけ「よき日本人であること。 

 価値観は国によって違う。 国の対する理解力を持つ。 素晴らしい友達関係が保てないのに

 よい国際人は生まれない」を基本にしたいと結論づけた。

            出展:おんなひとり地方紙づくり30年「社内独語」 砂子屋書房

 

  王宮から、くさり橋(Széchenyi Láchid) を眺めた風景

  Jan. 20 2020 筆

     

 「あゝ、国際化、国際人と盛んに叫ばれていた走りの時期であったなあ」と、ホークの上げ

 下げの食事マナーまで社内教育を受けた後、海を渡ったものであったが果たして国際人に

 なれたのだろうか? 今となっては若い人達に笑われてしまいそうだが、当時はちょっと

 真剣だったような気がする。

                                  Jan. 10 2020 撮

 

                                  May 22 2005 撮

 

 

      これにて「ブダペストをスケッチ(1)」は、お終いです。

      本ブログへのご参加、有難うございました。      

   

 

 

  


ヘレンド (Herend) をスケッチ

2020-01-16 14:17:36 | 海外生活

 今日のスケッチは国道8号線沿いにある陶磁器の街ヘレンドの公園内の冬風景である。

                                  Jan. 15 2020 筆

 

 ヘレンドの敷地内の池                       Sep. 15 2019 撮

 

 池の周りの大きな樹々はすべて伐採されていた(お気に入りの場所だったのに)

 

  週末の金曜日に以前勤めていた職場の同僚がリタイアするので、祝賀パーティーに来ないか

 という招待を受けた。 ハンガリーで、ずうっと一緒に働いてきた15年来のパートナーで

 今までの会社人生で外国人としては、最も長いパートナーであった。

 辞めて、よその会社に行くわけでもなく、とにかくお目出たいお別れである。 涙はあっても、

 嬉し泣きだ、いろいろ苦しい事もあったが、今となっては楽しい思い出ばかり、さあ感謝を

 込めたプレゼントは何にしようか? 時間があって、日本に戻れば....... 迷いに迷った挙句、

 ヘレンドの磁器にしょうと、ちょっとヘレンドの工場まで(クルマで30分弱)と相成った。

 ところが、昨夜来からの寒波到来、小雪混じりの上にいつもの濃霧、クルマの温度計は -3℃

 を指している。 でも今日どうしても行かなければならなかった。

 

  国道710号線は、まだマシ                     Jan. 15 2020

 この場所は夏には、広大なヒマワリ畑があった。 夏が待ち遠しい。      Jul. 15 2019 

 

 国道8号線の視界距離は約100m、皆、制限スピード (Max. 110km/h) は守っている。

                                    Jan. 15 2020

 ヘレンド陶磁器の里も見えない。

 

 ヘレンドの工場に到着                         Jan. 15 2020

 ライオンの像も冬場は寒くて建物の中らしい。              Sep. 19 2019

 

 ヘレンド製品の直売所                          Jan. 15 2020

 

 屋外の草花はすべてアイシング                      Jan. 15 2020

 積雪は多くなくとも、白いヴェールはこの霜のせいである。

 

<ロケーション>  本ブログ2019/09/25投稿 「ヘレンド磁器の里」でも紹介しています。

 

 いつもの「社内独語」からのピックアップは、昭和51年の物で、実はこの年は小生に取っ

ても人生の最大の転機で、東京から名古屋に転職を図り、奇しくも下記と同じ気持ちを持って

いたことに驚きを感じている。

 

「なせばなる」                            1976/01/01 のコラム

  読者のみなさま、明けましておめでとうございます。

 1976年、元旦。 いよいよ新しい年の幕開けを迎えました。 今年はどんな年になるのか、

 一抹の不安の中にも “いいことがあるかも知れぬ” とほのかな期待を抱くのが新年である。

 願いをこめて祈りたい出発でもある。 不況に次ぐ不況で、あまり喜ばしい材料はないが、

 これも長い人生の道程に避けて通ることは出来ない一つの試練と受け止めて行かねばならな

 いのだ。 人びとは不況と物価高のなかで、自ずと節約の心を持ち、努力に努力を重ねてきた。

 今年は「なせばなる」の根性で精いっぱいやり抜く気構えでいきたい。

 文学座の杉村春子が「女の一生」の舞台で “だれが選んだ道でもない。自分が選んだ道なら、

 苦しみは多くとも歩いてゆかねばならない......” という名セリフがある。 

 人びとは、それぞれに己の立場で力を出し切っていくことである。 つらい年こそ負けては

 いけないのだ。 悲しく、つらいのはだれも同じであり、人生に、その味はつきものである。

 昭和51年は、多分甘い年ではないだろう。 みなさん、とにもかくにも新しいページは開か

 れたのだから、構えも新たに元気に一歩を踏み出していこう。

 今後とも我が中部新報を、よろしくおたのみいたします。(中部新報は2004年に廃刊)

 

 

    これにて「ヘレンド (Herend) をスケッチ」は、お終いです。

    本ブログへのご訪問、有難うございました。

 


バラトン湖をスケッチ(8)

2020-01-10 22:20:26 | 海外生活

 令和最初のお正月は幸先よく、年末からずうっと好天続きのハンガリーの気象状況であり、

昨日(1/09)は冬には珍しく、穏やかな綺麗な夕陽を見ることが出来た。  そこで早速、

<スケッチ>                          Jan. 10 2020 筆

  

<元になった写真風景>

 バラトンヴィラゴシュ (Balatonvilágos) の夕陽の丘より       Jan. 09 2020 撮

  スケッチと下記に紹介する前回のブログで触れた「社内独語」という本のコラムとの関連性

 は、全くないのであるが、敢えてこじ付けるならば、いい景色を見ると、本も素直な気持ちで

 読めるということだろうか。

 

<昭和48年から一章を紹介>

「通学路追想 .... page 81」                      Apr. 15 1973 

  子供の交通事故による犠牲が目立ってふえてきた。  年を追うに従って交通事故の重みが

 ひとつの恐怖となって迫ってくる。 新入園児たちは明るい顔で通園しているが、毎日が生と

 死の境界におどり出ているようなものだ。 ヘルメットを着用させたり、黄色い小旗を持たせ

 たり、前後左右を見回して必死の思いで目的地へ。 思えば悲しいことである。

 いまさら過ぎた、よき時代を回顧しても仕様がないが、ずーと以前は子供たちにとって登下校

 の通学路は楽しい道のりであった。 

 春から夏にかけては、ちょっと小川で魚をつかんだり、カニと遊び、時にはタンポポやスミレ

 の花を摘んで首飾りを作った。 通りをパカパカと行く荷馬車でも見つければ大喜びでカバン

 を荷馬車のうしろに放り投げ、腰かけたり、ブラ下がったりしたものだ。 馬方のおじさんに

 「こらッ!」と大声で叱られては「ワーイ!」と一目散に逃げた。 のどかだった。

 もう二度とこんな通学光景はないであろうことは確かである。

                        ....引用:「社内独語」 砂子屋書房

 

 実は小生も同じような経験を持ち、小学校、中学校で通った半世紀ほど前の通学路を思い浮かべ

ながらスケッチし、NHKで放映している火野正平の「こころ旅」という番組にスケッチと共に、

応募したことがあった。 ボツと相成ったが、このスケッチが定年後の初めての物であった。

                                     Jan. 26 2014 筆

 

 今は便利な時代になり、Google map の3Dでその場所を観ることができ、楽しく遊んだ砂山や 

池、小川など宅地造成されて、既になくなっており、自分の「懐かしい風景」ではなくなっていた。

 

   

     これにて「バラトン湖をスケッチ(8)」は、お終いです。

     本ブログへのご訪問、有難うございました。

 

 


バラトンをスケッチ(7)

2020-01-08 13:39:39 | 海外生活

 我が家の庭で、一番陽当たりの良い場所なのであろうか、洋菊が10月中旬頃から咲き続けて

おり、12月になると黄色いウンナンローバイが春を待たずに、フライング気味に咲き始めた。

<スケッチ>

   断捨離というよりは、むしろお迎えの時に出来るだけ

   残る物は少なく、後片付けしてくれる人に迷惑の掛からないようにと、日常生活を営む上で

   最小限だけにしておこうなんて思っている昨今である。

   今まで引っ越した先々で物を新しくするので、引っ越し貧乏どころかドンドン物が増えて 

   いってしまった。

   外国で残しても、どうにもならないのが日本語の本であろう。 とにかく重くて、嵩張って、

   おまけに読める人が少ないと来ており、処分に困る代物であることは間違いない。

   定年後はハンガリーで、姿を消して久しい貸本屋でもやろうかと思っていたくらいなので、

   半端ない数に増えてしまった。

   そんな中で1冊だけ、ろくに読むこともなく15年も本棚の片隅に埃を被っていた地方の

   新聞社で、「30年間おんなひとりで新聞づくり」に勤しみ、会社の創業者から引き継いで

   17年間書き続けたコラムをまとめた本だ、ほゞ自費出版であろう分厚い1冊である。

   新聞記者という過酷さから身体を壊し、その地方新聞社を2004年に畳むことになったが、

   その当時にスナックの飲み友達というよしみから戴いた本である。

 

 Nov. 18 2018 .... 洋菊は最盛期であった。

 

 Dec. 02 2019 ..... 初雪に見舞われた。

 

  その本には、2004年8月5日付の朝日新聞の切り抜き記事が挟まれていたので、恐らく彼女

 が大切にしていた残り少ない本であったのかも知れないと今になって思ってしまう。

 そんな大切にしていた本を読まないまま、もし捨ててしまったら、あの世で「どうだった?」

 と聞かれた時に返事に困るので、早く読み上げて、日本に帰った時に返そう思っている。

 読んでくれる可能性のある日本に戻した方が、絶対にいいに決まっているし。

 但し、まだ存命であってくれたらの話だが(今、90歳くらいの筈)

 もし、不幸にも返すことが出来ないとマズイので、読んだ証を残しておこうと.....

 

 Dec. 17 2019 ....  洋菊が衰え始め、ピンク色が増してきた。

        替わりにウンナンローバイが咲き始めた。

 

 Jan. 08 2010 ..... 今日現在

 

<昭和46年から一章を紹介>

「少年の優しさ(page47)」                    May 16 1971 記

  日曜日の朝、八時ごろ家の前で少年が「おばさん」と呼ぶ声に出ていくと、道路沿いに咲く

 我が家の赤いカーネーションを指さして「今日は母の日だけどプレゼント買ったら小遣いが

 なくなっちゃた。 このカーネーション一本だけ欲しいナ」と言う。

 小学校5、6年生くらいの坊やだったが、その明るい素直な態度は気持ちが良かった。 

 「一本といわず、好きなだけ持っていきなさい」というのに「お母ちゃんにあげるのは一本で

 いいヨ」と気に入ったのを一本、大事そうに手にして走っていった。

 たった一本の花を、ちゃんと断って持っていった少年。 母の日に贈ろうとカーネーションを

 探していたのかも知れない。  あいにく前日からの雨に打たれた花は、あまりいい形では

 なかったけれど、少年には、紛れもなく愛と感謝の花に見えたであろう。

 爽やかな朝のひと時だった。

                                                                ....  引用:「社内独語」砂子屋書房

 

  このコラムは愛知県の碧南市内の隅々を自分の足で取材し、昭和世代の西三河地方のまさに

 ローカルなすべての分野における歴史を綴ったもので、「中部新報」紙上に連載されたもの。

 この本には、昭和46年から昭和63年までのコラムを抜粋してあり、実に心がポッコリさせ

 られるものが多い、各年ごとから一件づつ紹介出来たらいいなあと。

 

    これにて、「バラトンをスケッチ(7)」は、お終いです。

    本ブログへのご訪問、有難うございました。