撮り旅・ヨーロッパ

ハンガリーを拠点にカメラ片手に古い教会を主に写真撮影の旅を楽しみ、そこで拾った生活、文化情報を紹介します。

ドナウ河岸歩き(15)ベオグラード in セルビア

2019-10-22 00:02:26 | 海外生活

 ドナウ川はノヴィ・サド (Novi sad) を過ぎると再び南に蛇行し、ベオグラードまで流れ下る。

急がない旅なら一般道(100号線)、急ぐならば高速道路E75号線が、ほゞ並行に一直線、約80km

の道中である。 但し、ノヴィ・サドの郊外で見た切り、ドナウ川をベオグラードに入るまで目に

することはなく、最初に見るのがスロヴェニア山中を源とするバルカン半島の大河、サヴァ川である。

         ....以下の画像はすべて Oct. 10 2019 に撮影したものである。

 手前の2つ(重なっている様に見えるが)は一般道の橋で、向こうの赤い橋梁は高速道路E-75

のガゼッラ (Gazella) 橋である。 これらの橋を渡ると市街地中心部である。

 

<ロケーション>

 高速道路のシステムについて .....

 ● セルビアの高速道路料金支払いシステムは、その都度料金所で支払う方式(日本と同じ)で、

  ベオグラード市内は無料となる(市内に入ると料金ゲートはなくなる)

  同じシステムを採用している近隣国は、イタリア、クロアチア、ポーランド。

 ● ヴィニエット方式と云われる通行証(シート)を購入し、フロントガラスに貼る方式を取っ

  ている近隣国は、オーストリア、スロヴェニア、チェコ、スロヴァキア、ハンガリー(コン

  ピュータで車両番号登録の為、シールは貼らない)

  ほとんどの国が最小有効期限が10日間で、どの高速道路も乗り放題で、国境のゲート又は

  ガソリンスタンドで通行証は購入できる。

 

<市街地マップ>

 

ベオグラード (Beograd)

  セルビア共和国の首都で人口は約175万人、セルビア共和国は2006年に独立した古くて、

 新しい国。 激動と混沌とした長い建国史の中で、ユーゴスラヴィア王国→ユーゴスラヴィア

 社会主義連邦共和国→ユーゴスラヴィア連邦共和国→セルビア・モンテネグロ連合国家という

 変遷で、常に首都であり続けた。

 この地には紀元前6000年頃から人が住んでおり、ギリシャ人が集落を見つけ、ケルト人に築か

 れたヨーロッパでは最古の都市の一つであり、旧ユーゴスラヴィアで最大の街であった。

 * 他の近隣諸国と同じように、紀元前1世紀からローマ帝国の属州となり都市権が与えられ、

    6世紀より白セルビア人がこの地に定住を始めた(ここが他との相違点)。

 * 中世では、東ローマ帝国→フランク人→第一次ブルガリア帝国→ハンガリー王国→セルビア

   人の支配地となる。

 * 近代では、1526年~オスマン帝国に、1687~1918年にオーストリア=ハンガリー二重帝国

     の一部とされた。

 その後は前回に説明したように「ユーゴの紛争」に繋がる。

 

① カルメグダン要塞(又の名をベオグラード城址公園)

  この場所には紀元前4世紀のケルト人支配の時代から既に要塞は出来ており、歴代の支配者達

 は改築を加え歴史を刻んで来た。 その要塞に公園を付加するプランを立て、1869年より造成

 が始まり、サヴァ川沿いの公園は1928年に、動物園のある方の公園は1936年に完成した。

  

 

 ● ドナウ川とサヴァ川の合流地点 ...要塞の西端のクロールジ門より望む

  向かいの森は大戦争島で、更に向こうの街がゼムン (Zemum) 地区で、オーストリア=

  ハンガリー二重帝国が作った街。

 ● 日本の泉 ... 2010年に日本との友好記念として建造。

 

 ● クロールジ門

 生憎、勝者の像(ポベドニク)は改装工事の為、要塞の中は閉鎖中。

                                                                              SNS Wikipedia より拝借

 

 

 ● スタンボル門と時計塔

 時計塔の門(サハト門)より要塞内に入るようだが、この日は閉鎖中でここまで。

 

 

 ● 軍事博物館の野外展示場 ... 時計塔に向かう木造の橋の下。

    第一次世界大戦で実際に使用した兵器。

 

 ● フランスへの感謝記念碑と軍事博物館(背後の建物)

 

 ● サヴァ川沿いのダウンタウン ... 城址公園より望む

 

② 聖ミカエル大聖堂

 

  19世紀にセルビア公ミロシュ・オブレノビッチ1世 (1780-1860) の指示で建立。

 彼は第一次セルビア蜂起に参加し、セルビア独立に奉献。

 ベオグラードの総人口の80%(140万人)が正教徒であるが故、多くの信者が集まる。

 

③ クネズ・ミハイロヴァ通り(歩行者天国)

 重厚な建造物と近代的なビルが立ち並んだショッピング・プロムナード(共和国広場付近)

 

④ 国会議事堂

  右隣なりの建物はセルビア郵便本社屋

 

⑤ 旧宮殿 .... 19世紀後半に建てられた

 

⑥ 鉄道博物館 ... この建物の向かい(写真左)にNATO軍により空爆された旧国防省ビルが

           あったが失念してしまった。

 

⑦ スラヴィア広場

 

⑧ 聖サヴァ大聖堂

 世界最大級の正教会で1935年に建築が着手され、未だに工事中である。

 

 ● 聖サヴァの像と大聖堂西門

 

 

 ● 大聖堂内部

 

⑨ 聖サヴァ教会(大聖堂の敷地内にある)

 ちょっと、気になったカワイイ教会(何で同じ敷地内で2つも?)

 

⑩ セルビア国立図書館

 

  これにて「ドナウ河岸歩き(15)ベオグラード in セルビア」は、お終いです。

  本ブログをご拝読下さり、ありがとうございました。

 

「ハンガリーでのんびり」 


ドナウ河岸歩き(14)ノヴィ・サド in セルビア

2019-10-19 00:01:10 | 海外生活

 ドナウ川はこれまで南へ南へと流れ下っていたのが、ヴコヴァル (Vukovar) を過ぎると真東に

(地図上では水平に) 進路を取り、セルビア国境の街バチュカ・パランカ (Backa Planka) で

パスポートチェックを受け、セルビア第2の街ノヴィ・サド (Novi Sad) に向かう。

                     ... 貼付画像はすべてOct. 11 2019に撮影        

1.ドナウ川とノヴィ・サドの橋たち

 ● 自由橋 (Most Sloboda)

 ベオグラードからの幹線道路22号線がノヴィ・サドの市街地に入る橋。

 1991年のコソボ紛争時にNATO軍の空爆で橋は破壊され、2005年に再建された。

 破壊前の橋は1981年に造られたものであった。    

   画像はSNS Wikipedia より拝借

 

<ロケーション>

 

 ● ヴァラディン橋 (Most Varadin)

  NATO軍の空爆により、橋ゲタのみ残っている旧ヴァラディン橋、この脇に2005年まで臨時

 の浮動式の橋が設けられていたらしい。(古い写真より判断)

 

 2000年に再建された今のヴァラディン橋(要塞に行く時の橋)、幹線道路100号線が通る。

 

 ● チェジェリ橋(Zezeljev most)

 2018年に再建された最新の橋で、クルマ用道路と鉄道線路を並行に走らせている。

 

2.ノヴィ・サドの街

  ドナウ川を挟んで左岸のバチュカ地方(市街地)、右岸のスレム地方(要塞)を結ぶ橋は

 3つあったが、1999年4月にコソボ側支持のNATO軍による空爆を受け、ドナウ川に架かる

 全ての橋は破壊されたが、現在はすべて再建された。

  実は当時、勤めていた職場の上空を、静謐な真っ青の空を突き裂くようにNATO軍の爆撃機

 が通り過ぎて行った事を思い出し、あの時の爆撃機が狙った先はここだったのかと、片やノホ

 ホンと空を見上げ、片や生死の狭間だったのかと複雑な思いに陥ったこの日であった。

 

 ● 左岸の市街地

  対岸のペトロヴァラディン要塞側は入植制限もあり、セルビア人達は左岸側に新しい街を作

 ったのが1694年からである。 市街地の人口は29万人でセルビア第二の都市となった。

 ノヴィ・サドの名の由来は、Novi(新しい)Sad(住まい、入植地)である。

 

  最も高く突き出している尖塔が、ノヴィ・サドのランドマークでもある聖母マリア聖堂。

 

3.ペトロヴァラディン要塞 (Petrovaradin fortress)

  この地には石器時代(紀元前4,000年頃)より人は住んでおり、紀元前4世紀にはケルト人

 が、紀元前1世紀よりローマ帝国が支配するが、その時期には既に、この場所にクスム (Cusm)

 という要塞が築かれていた。現在の要塞はハプスブルグ家のマリア・テレージア女帝が1699~

 1780年に同じ場所に造り替えたものである。

 

 ● 時計塔

 

  この時計は短針と長針が逆になっているそうだが、確かにそうであった。

 

 ● 展望テラス

  右の建物はホテル「レオポルト」

 

 ● 市立博物館

 

 ● イエズス会聖ジョージ教会

 1701~1714年に創建された。 教会の脇の階段を登って行くのが要塞へは近道。

 

 

<参考メモ> .... ここで複雑過ぎる旧ユーゴスラヴィアの成り立ちをメモっておきたい。

  この地は紀元前より、いろんな民族、帝国が領土を求めて戦乱に明け暮れてきた訳であるが、

 第二次世界大戦の終わりが見えてきた1943年11月にユーゴスラヴィア共和国として独立を宣言

 した。 当時のこの地域はナチスドイツの占領下にあり、ユーゴ共産党率いるパルチザンが抵抗

 運動を繰り広げていた。 そのリーダーであったのが後にユーゴスラヴィア社会主義連邦共和国

 の初代(終身)大統領となったヨシップ・ブロズ・チトーである。

 この抵抗運動はナチスを敗戦に導くほど苦しめ、最終的には自力で勝利、独立を勝ち取った。

 ナチスから解放されるや、ソ連は東側ブロックの一員に迎えるべくユーゴに触手を伸ばしてきた。

 しかし、ソ連の目指す中央集権型政治運営とユーゴ共産党の目指す分権型政策とは相容れない

 ものがあった。

 このことがスターリンの逆鱗に触れ、1948年6月に共産党国際組織であるコミンフォルムから

 ユーゴは追放されてしまったのである。

 当初、ユーゴは東側ブロックに属すると考えられて、西側からの援助も受けられず孤立し、経済

 的にも窮地に陥ってしまった。 そして分権型の社会主義体制を推し進め、労働者の自主管理

 「工場を労働者の手に!」をスローガンに東西対立の狭間にあって生き延びるしかなかった。

     ... 実は後に、この分権型社会主義がハンガリー動乱(1956年)、プラハの春(1968年)と

       いった東欧革命に繋がって行ったのは世の中の皮肉なのか。

 1950年以降のユーゴスラヴィアは青息吐息で、時には分裂の危機を孕みながらも1991年まで

 統一を持ち堪えてきたのは、チトー大統領が民族間の対立を抑えていたせいだったのであろう。

 チトーが1980年に世を去るとユーゴスラヴィア共和国の統一に暗雲が差し込んで来た。

 そして1991年からの一連の「ユーゴの紛争」に繋がるのである(前回のメモの通り)

   ここでよく用いられるユーゴの多様性を物語る言葉遊びを......  ユーゴスラヴィアは;

    ・1つの国なのに、

  ・2つの文字(ラテン文字、キリル文字)を使う。

  ・3つの宗教(カトリック、セルビア正教、イスラム教)が混在して

  ・4つの言語(スロヴェニア語、クロアチア語、セルビア語、マケドニア語)で国語がない。

  ・5つの民族(スロヴェニア人、クロアチア人、セルビア人、マケドニア人、イスラム人)

  ・6つの共和国(スロヴェニア、クロアチア、セルビア、ボスニアヘルツェゴビナ、

          モンテネグロ、マケドニア)が連邦している。

  ・7つの国境(イタリア、オーストリア、ハンガリー、ブルガリア、ルーマニア、ギリシャ、

         アルバニア)と接している。

 この事実がユーゴスラヴィア統一の困難さを物語っているのだろう。

 

        これにて「ドナウ河岸歩き(14)ノヴィ・サド in セルビア」はお終いです。

   次回はベオグラードへ、本ブルグのご拝読をありがとうございました。

 

 

「ハンガリーでのんびり」

        

   

 

 


ドナウ河岸歩き(13)ヴコヴァル in クロアチア

2019-10-16 18:37:49 | 海外生活

 前回に引き続いて、オシィエクから更にドナウ川を30 kmほど下ると、今度はヴカ (Vuka)川が 

ドナウ川と合流する街、ここはバルカン半島で最悪な悲劇の街であった。

                  ... 以下の貼付画像はすべて Oct. 09 2019に撮影        

 聖フィリップ&ジェームス教会から見たドナウ川とヴコヴァル市街

 

 ヴカ (Vuka)川河口は現在、河川工事中

 

<ロケーション>

 

2.ヴコヴァル (Vukovar)

   第2次世界大戦と1991年のクロアチア独立戦争では完璧なまでに破壊された最前線の地

  であり、未だにその傷跡が街の至る所で見受けられる。

 ● 給水塔 ... 第2次世界大戦後の1963~68年に建てられた物で、600 発もの砲弾を浴びても

      生き残ったことにヴコヴァル市民の感動を呼び、1991年の悲劇を忘れない為にも

      永久保存を決めた。

       高さ50.3m 

 

 ドナウ川はすべてを見ていた。

 

 ● 紛争の傷跡が残るメインストリート

   何故、建物が半分づつなのかと首を傾けてしまう。

 

   1991年11月18日の街                 私立博物館のパネル写真を拝借

  街に住むクロアチア人とセルビア人は5:3の割合で、仲良く暮らしていたが、1991年の

 8月25日~11月18日までの80日間、隣人が敵同士となって戦う結果となった悲劇の独立戦争

 であった。 当時の人口から2万人ほど減って、現在は約3万の人口であるが、クロアチア人と

 セルビア人の割合は当時と変わっていないが、隣人(異民族)への不信感という心のシコリは

 未だに氷解していないらしい。

 ユーゴスラヴィア人民軍のセルビア人勢力36,000人と2,000人のクロアチア軍では、結果は

 明らかであった。  加えて、11月20日のクロアチア人虐殺事件(264人の殺害)は消し去る

 ことの出来ない事件であった。

 

 ● 聖フィリップ&ジェームス・カトリック教区教会(フランシスコ会修道院)

 1723~1732年に建てられたが1991年の戦闘で破壊、現在の教会は2000年に再建された。

   

 

 1991年のクロアチア独立戦争で破壊 (教会内で展示されていた写真を拝借)

 

 ● 聖ニコラス正教会 (Church of St. Nicholas)

  1733~1737年に建立、記録は見つけられなかったが独立戦争では当然破壊されたであろう。

  

 

 ● 街の中心にある古い給水塔と放置されたままのホテル ... 保存するのか、廃却か?

  右の近代的な建物は、市役所、区役所、銀行等が入ったモール

 

 ● ヴコヴァル市立博物館/エルツ (Eltz) 城

 

 内部はヴコヴァルの歴史博物館になっている。

 

 クロアチアのお札 20Kuna 裏面にエルツ城が描かれているほどの有名建造物である。

 

 ● 戦時病院博物館 (Place of Remembrance Vukovar Hospital)

  街の中心、ヴカ川から Zupanijska 通りを西へ1km ほどの所にあるヴコヴァル病院の中に

 あり、ちょっと判り難いが目安は近代的な病院の玄関をすり抜けて行く。

                         .... 写真はSNSのWikipedia から拝借

      Bolnica はクロアチア語で “病院” である。 下の写真は博物館入口。 

 <お薦め>

    Youtube にて「Vukovarska bolnica 5.10.1991」を入力すると、当時の病院の状況を

  観ることが出来る。 戦争は知らないけど、テレビなんかでは赤十字には攻撃をしない事に

  なっていたような? 同じ国民でも民族が違うだけで、そんなにも非人道的になれるほど

  憎み合うのだろうか? 何が戦争を駆り立てるのだろう?

  世界がどんどん小さくなっている昨今、まだ何処かで戦火の炎が無くならないのは、人類、

  民族、宗教、国境の壁はまだまだ越えられないほど高いのだろうか?

 

<参考> ちょっと紙面を借り、この先のドナウ川を下る旅を続ける為にも、「バルカン半島の

    火薬庫」と呼ばれるこの地域の経緯を、小生の俄か学習のメモを残しておきたく......

            どうぞ個人的な所業ゆえ、ご拝読は割愛してください。

  旧ユーゴスラヴィアの成り立ちは次回以降のセルビアの地で行なうとして、ここでは紛争について

のみ時系列的に触れてみたい。   

  ● 1989年3月;セルビア共和国は憲法を修正し、セルビア政府が自治州(コソボ等)に対して   

                       自治権を大幅に制限させるようにした事よりユーゴスラヴィア連邦を作っていた

        6つの共和国の間に大きな亀裂を生んだ(紛争の火種)

  ● 1990年1月;第14回ユーゴ共産党臨時大会において、スロヴェニアとクロアチア共産党代表

        は施政方針の相違より席を蹴って会場から姿を消した。

                    ...ベルリンの壁崩壊からわずか2か月後であった。

  ● 1990年12月;スロヴェニアで

  ● 1991年5月 ;クロアチアで国民投票が行われ、ユーゴからの分離独立(6月末~)が可決。

  ● 1991年6月 ;ユーゴ人民軍(セルビア人主体)は独立を阻止するため両国に向けて派兵。

  ● 1991年10/5;初代クロアチア大統領になったトゥジュマンの徹底抗戦の呼び掛けで戦闘開始

  ● 1991~95年;紛争は続いた。 これをクロアチアでは独立戦争と呼び、日本を含めた外国の

         メディアでは Civil war(内戦)と呼んでいるが、クロアチア人にとっては

        「ユーゴの内戦」という表現はタブーとなっている。

  ● 1992年1/15;ヨーロッパ共同体(EU)によって独立は承認された。

  ● 1998年1/15;最後まで占領されていた東スラヴォニア州(オシィエク、ヴコヴァル等)が返還

 

 この後の1998年に起こったコソボ紛争は、前述した自治権問題で別の紛争であるが「火種」は

同じ、更には2001年に起こったマケドニア紛争もクスぶり続けており、まさに「バルカン半島の

弾薬庫」と呼ばれる所以である。

  

   これにて「ドナウ河岸歩き(13)ヴコヴァル in クロアチア」は、お終いです。

   本ブログのご拝読をありがとうございました。

 

 

「ハンガリーでのんびり」

 

   


ドナウ河岸歩き (12) オシィエク in クロアチア

2019-10-14 14:14:47 | 海外生活

 ドナウ川がハンガリー国境を越すと、その先15 km ほどクロアチア単独の領土になり、

オシィエク (Osijek) の街沿いを流れてきたドラヴァ (Drava)川と合流する辺りは広大な

湿地帯となって、ドナウは蛇行しながら、湿地帯の水を飲み込んで更に南下する。

                                                                  以下の画像はすべて、Oct. 08 2019に撮影

 ダリ (Dalj)の村でドナウ川の姿を見ることが出来る。            

     写真の向こうには湿地帯(コパチュキ・リト自然公園)、238ヘクタール(東京ドーム50個分)

 が拡がる。 この後は対岸のセルビアとドナウ川を共有しながら南下するが、結局クロアチアが

 ドナウ川を単独で領有する河岸距離はここまでの 41km しかなく、残りの317 km はセルビアと

 対岸を接する。 ちなみにセルビアはその後 210 km ほどドナウ川を独占占有する。

 クロアチアがドナウ川と接する主要な街としては、オシィエクとヴコヴァル (Vukovar)である。

<ロケーション>

  上図の湿地帯は、前回で触れたウィーンの湿地帯に類似しており、ハプスブルク帝国は

 第二のウィーンを夢見た街づくりをして来たように見受けられる。

 

1.オシィエク (Osijek)

 クロアチア東端のスラヴォニア地方で最大、国内では4番目に大きい街(人口11万人)である

 街の歴史.....

      オシィエクは新石器時代(紀元前8000年)からイリュリア人* が居住していた古い町で、

  西暦131年からはローマ帝国のムル・マイオルという名の植民地であった。

  ローマ時代からこの地は幾度も主戦場になってきて、ローマ人が去った後にはクロアチア人が

  定住し、オシィエクという名になった。

  1526年8月にオスマントルコ軍により街は略奪、破壊され、1687年9月からはトルコ軍を

  追い払ったハプスブルク帝国に支配された。 1941~1944年にはナチスと同盟を結んでいた

  為に第二次世界大戦では連合軍からの空爆を受けた。

  1991年にはクロアチアがユーゴスラヴィア連邦からの独立を宣言して、それを阻止する

  セルビア人を主とする連邦軍との悲劇的な内戦はまだ記憶に新しい歴史である。

  イリュリア人* とは、.....

    古代バルカン半島西部やイタリア南東沿岸部に住んでいた民族で長い歴史の中で、周辺の列強

   国によって滅亡、同化してしまった原住民である。 

  

<市街地マップ>

 

① トゥヴルジャ地区の要塞都市(旧市街地)

  1712~1721年にかけ、ハプスブルク帝国は新しい要塞をこの地に建設し、ウィーンや

 ブダペシュトからもたらされた文化、建築、経済の影響を色濃く残して「バロック様式の街」

 呼ばれている。

 ● 要塞跡

 

 ● 聖トロイストヴ広場にある聖三位一体柱と考古学博物館

 

 ● 往時を偲ばせる街並みと、左の建物は市庁舎、右がスラヴォニア博物館

 

 ● 聖ミカエル教区教会 ...イエズス会によってトルコ人モスクのあった場所を1725年~整地を

            始め1768年に完成。 1991年のユーゴ内戦で破壊、1999年の再建。

  

 

 ● フランシスコ会聖十字架教会 ...聖アントニー教会として1709~1732年に建立された。

    

 

 ● 旧市街地の隣りに横たわるトミスラヴ公園 ... “ウィーンの森” の積りだった?

   

 

② 新市街

 ● 中心部

 

 ● 聖ペトロ・パウロ教会

   1894~1898年にかけてネオゴシック様式で建てられ、尖塔の高さ 90m はザグレブの

  聖母被昇天大聖堂に次ぐクロアチア第2の高さを誇る。 

    

    

 

 ● ドラヴァ (Drava) 川沿いの遊歩道

 アンテ・スタルチェヴィッチ広場から旧市街地までの2km あまりの憩いの歩道

 

 ● 市街地を走るカラフルなトラム

 

  これにて「ドナウ河岸歩き(12)オシィエク in クロアチア」はお終いです。

  次回「ブコヴァル in クロアチア」に続く、本ブログへのご参加ありがとうございました。

 

「ハンガリーでのんびり」


国8沿線(3)ヴァシュ郡、中世の教会

2019-10-03 14:59:02 | 海外生活

 国道8号線(E66) はスロヴェニアを通ることなくオーストリア国に入ることの出来る南端の

国道である。 オーストリア山中に端を発したラーバ (Rába) 川はドナウ川に流れ込む大きな

支流でハンガリー国土を蛇行しながら流れている為、国境もリアス式海岸の如く複雑に入り込ん

でいる。 それもあってか、国8国境沿いの南側一帯はオールシェグ (Őrsegi) 国立公園が横た

わり野生の楽園となっており、中世の教会もそのままの姿で残っているものが多い。

以前にも取り上げたことがあったが、より多くの写真を残したい意図もあり、再度の投稿である。

 

1.オーリセント・ピーテル教会 (Őriszentpéter templom)

  カトリック教会で1230年頃にロマネスク様式で創建され、14~15世紀にゴシック様式で

 オスマントルコ軍の攻撃に備え補強拡張された。 17~18世紀に宗教革命で改革派(カルヴィ

 ン派)の教会として使われていたこともあったが、1730年よりローマカトリックに戻り、

 現在の姿は1929年に改築されたものである。

     Mar. 28 2019                            Jun. 09 2007

    

  12年の時の流れは教会の長い歴史の中では、ほんの一滴か、変化は見られない。

                                    Mar. 28 2019

  教会の特徴としては、窓の真ん中で仕切った柱を持つ尖塔、縁取り模様の付いた傾斜した

 スリット窓、屋根の庇の下にある半円形の紋様が典型的なロマネスク様式を示している。

 門の周りにあった屋根や壁画は破壊、そして上から漆喰で塗り潰されており、歴史を感じさせる。

 

 

 単身廊の内陣                             Jun. 09 2007

 

  壁に描かれていただろうフレスコ画は漆喰で塗り潰された後、改革派に所有されていた

 時代の18世紀頃に上書きされた聖書の引用文が祭壇上の壁に残されている。

 

 

 <ロケーション>

 

 野生の公園 (Vadas park) には、多くの行楽客が訪れるらしい。

 

 

2.ヴェレミール (Velemér) の聖三位一体教会

  12世紀の中頃にロマネスクとゴシック様式が混在する形で建てられたアルパード時代を

 代表する教会。 この教会も17世紀始めの宗教革命の折りにカルヴィン派の教会となったが

 1732年にカトリック教徒に戻された。 現在の姿に改築されたのは1941年であった。

                                                                                                   Jun. 09 2007

 壁に小さい四角い穴が開いているのは壁乾燥の為の通気口(多分、壁画の保存が目的)

 

  教会自体は非常に小さいが、壁面いっぱいに描かれているフレスコ画はアクイラ・ヤーノシ

 の作品(1377年)で、かつてハンガリー史で塗り潰された復元不可能な壁画の多い中で、数

 少ない鮮明に残された、まさにハンガリーの貴重な宝物と云える。 

  単身廊で壁面に隈なく描かれているフレスコ画に圧倒される。

  小さな祭壇部の壁面にも、

 

 祭壇と礼拝席の境目にも、

    

 

 礼拝席の壁にも、

 

 

3.チェストレグの聖モーリツ教会 (Csesztregi Szent Móric templom)

   15世紀後半にゴシックとロマネスク様式が混在する形で創建され、18世紀にバロック様式

 で再建された。  教会内部のバロック様式のフレスコ画は、1803年に献納されたもので

 前出のヴェレミール教会の壁画(ロマネスク様式)ほど古くはない。 対比すると面白い。

                                    Jun. 09 2007

 

 祭壇側の身廊

 

 入口側2階席と天井のフレスコ画

 

 祭壇部天井のフレスコ画

 

     これにて「国8沿線(3)ヴァシュ郡、中世の教会」は、お終いです。

     本ブログへのご参加、ありがとうございました。

 

「ハンガリーでのんびり」