撮り旅・ヨーロッパ

ハンガリーを拠点にカメラ片手に古い教会を主に写真撮影の旅を楽しみ、そこで拾った生活、文化情報を紹介します。

「バラトンそぞろ歩き 古城(4)その2」

2017-12-27 00:43:24 | 海外生活

4.ヴェスプレーム城内   訪問日 24 Dec. 2017

 城への入場門:火の見の塔 (Tűztorony) を左手に緩い坂道を登って行く。

 塔の高さは48m、13世紀に作られ、数回の修復を経て1984年のものが現存。


英雄の門 (Hősök kapuja) が城塞のスタート。

英雄の門は、イシュトヴァン1世が建国のため部族間の戦いで果敢に戦った兵士達を迎える門

であった。 かつての城は今は残っていない。 オスマン・トルコの攻撃やハプスブルク帝国

からの独立戦争で破壊され、城塞内は19世紀に再建されたものである。

城の北側からも、脇の階段を使って入場できる。


<城内案内図>


④ 三位一体像 (Szentháromság szobor) ; 1750年に設立

 

③ フランシスコ派教会&修道院 (Ferences és Kolostor) ;

  1730年にバロック様式で建てられ、1909年にネオロマネスク様式で再建された。

   

 

⑩ 聖ジョージ礼拝堂跡 (Szent György-kápolna) ;

 ヴェスプレームで最古の建物と推定される礼拝堂跡で、ドーム形状の屋根の下

 には古い貴重な遺品を数多く見ることが出来る。

 

⑪ 聖ミカエル大聖堂 (Szent Mihály Székesegyház);

 オリジナルは、11世紀にロマネスク様式で大聖堂の霊廟は建てられ、祭壇は

 14世紀にゴシック様式で追加されたが、現在の物がネオロマネスク様式で

 改築されたのは1907~1910年であった。

  

       クリスマス・ミサの終わった教会内部


⑬ ギゼラ礼拝堂 (Gizella-kápolna) ;

  13世紀に造られ、現在の物は1995年に復元された。

  

               (現在、改修工事の為、30-06-2013の写真を使用)


 城内で最も古い物として壁画とゴシック様式の天井構造がここに有る。


⑮ 司教館 (Püspöki palota) ; 1765年のバロック様式で、天井のフレスコ画は逸品。

          (現在、改修工事中の為、写真は 17-11-2007 のものを使用)


ピアリスタ (Piarissta) 教会; 1823~1833年にクラシック様式で建立。

  

 

⑧ イシュトヴァン王とギゼラ妃の像より眺める景色

   (像には冬季保護カバーが掛けられていたので、写真は17-11-2007のものを使用)

 

城塞よりベネディクトゥスの丘(北方向)を望む。

 

城塞より、聖ラスロー教会とイシュトヴァン橋梁(西方向)を望む。

 

城塞より、聖マルギット教会と市街地中心(東方向)を望む。

 

   この時期は、ほとんどの観光建造物は閉館の為、内部を拝観することは叶わなく、

 盛り沢山の歴史的遺産が存在するので、暖かくなったら、じっくり個別に紹介したい

 なあと思いつつ、これにて「バラトンそぞろ歩き 古城(4)その2」を終えます。

 

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バラトンそぞろ歩き 古城(4)その1

2017-12-25 18:39:48 | 海外生活

 バラトン湖周辺で、城の形を留める最も大きい古城はヴェスプレーム (Veszprám) の城である。

この城(町)が、ハンガリーの国作りに非常に重要な宗教的な役割を担っていたので、多少長く

なっても、この国の土地を使わさせて戴いている身分として、忘れない為にも記しておきたい。

ハンガリーは建国1000年以上の歴史を誇る非常に古い国であり、9世紀末頃に、もともとは

ウラル山脈の麓で暮らしていたマジャール民族が次第に西に移住して、最終的に7つの部族が

今のハンガリーの地であるカルパチア盆地に定着した。

この7つの部族を取りまとめていたのが、ゲーザという部族長で、その息子が初代の王となる

イシュトヴァンである。

997年に首長ゲーザが亡くなると、息子イシュトヴァンは首長の座を継承する為に、親戚の

宿敵コッパーニと戦うことになり、ヴェスプレーム郊外で勝利を収めた。

後に、ハンガリーの北部にある町エステルゴムでハンガリー国王として戴冠し、キリスト教に

改宗した彼は、キリスト教を国教にすると共に、ヴェスプレームに城を改築*し司教座も置いた。

(1009年)   * 古文書に依ると、マジャール族がこの地を征服した時には、城は

           すでに存在し、おそらく9世紀にフランク族の要塞であったようだ。

国王となったイシュトヴァン1世は、ドイツのハイエルン大公ハインリヒ2世の娘ギゼラを妃に

迎え、ヴェスプレームの大聖堂で、彼女が初代のハンガリー王妃として戴冠した。

その後、歴代の王妃もここで戴冠し、この町に住むようになったので、ヴェスプレームは

「王妃の都」または「王妃の町」と呼ばれるようになった。


 ヴェスプレーム城塞全景


<ロケーション(広域)>

ヴェスプレームの市街環状線より、各主要都市に網目のようにアクセスでき、人口はさほど多く

ないが(62,000人)、ハンガリーでは基幹都市の一つである。


<市街地マップ>

 ヴェスプレームは7つの丘で構成されていると云われる坂道の多い街であり、ヨーロッパの

 典型的な田舎にある閑静で美しい小さな城下町である。(上記地図の朱丸位置が撮影場所)

 城内に入る前にこの章では、城外を紹介する。 ...... 訪問日 20 Dec. 2017


◆城北の方角;  

          城下の聖マルギット廃墟より城塞を眺める。


● 聖マルギット廃墟;聖カトリーヌ・ドミニカ修道院が正式名、1240年の建立で、現在は廃墟。

    国王ベラ3世の娘マルギットは聖人と称せられ、1246~1252年まで、ここに暮らした。


        ベネディクトゥスの丘 (Benedek-hegy) から城塞を眺める。


◆城西の方角;

        聖ラスロー (Szent László) 教会から城塞を眺める。

 

● 聖ラスロー教会; オリジナルは15世紀に建てられたが、トルコ軍によって破壊され、

          現在の物は、1902年に新ロマネスク様式で再建された。


  城下からの眺め(火の見塔 Tűztoronyの下付近)


● 聖アンナ礼拝堂;オリジナルは、1724年にバロック様式で建てられた。現存は1907年に改築。


● イェジュイタ (Jezsuita) 教会廃墟;

  1747年にバロック様式で建てられたが、1773年より廃墟になっている。


◆ 城東の方角;   

     ベネディクトゥスの丘の下から城塞を眺める。

 手前はセード (Séd) 川で川幅は狭いが、枯れることなく延々と郊外まで続く。  

         ....「バラトンそぞろ歩き(3)美しい村たち」 19 Sep. 2017 投稿を参照。


● 聖マルギット (Szent Margit) 教会; 1938年にネオバロック様式で建立。


◆ 城南の方角;  

  オーヴァロシ (Óváros) 広場。城へはここから入るのが一般的(北側から入る道もあるが)


◆ヴェスプレームMAV駅; 市街より北へ3kmと遠く離れている。

11:00発 ジュール (Győr)行き(12:59着)、ブダペスト行きは1本/時間あり (1.5時間所要)

 

    これにて、「バラトンそぞろ歩き 古城(4)その1」は、お終いです。

 

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バラトンそぞろ歩き  古城(3)

2017-12-18 14:42:19 | 海外生活

  湖畔より22kmほど北側内陸部に入ったシュメグ町(ヴェスプレーム郡、人口6200人)

 にあるバラトン周辺で城の形を残している3つ目の古城を訪ねた。(17 Dec. 2017)

3.シュメグ城 (Sümeg vár)

  1260年代に国王ベラ4世(在位1235-1270)は、再度のモンゴル人の襲撃に備え、標高

270mの丘の上に石の城を築いたのが、オリジナルで、当初は南側の砦のみであった。

その後ヴェスプレームの司教に譲渡し、1552年にオスマン・トルコ軍にヴェスプレームが

陥落した為、司教区が一時、ここに移された。 その間にトルコ軍の襲撃に備え、城を厚い

壁で補強・拡張し、ハンガリー軍唯一の城として持ち堪えた。 

しかし、1713年のハプスブルク帝国との独立戦争で破壊された。

1960年代より大規模な修復が開始され、1989年から現在に至る。

 

<ロケーション>

  

 

城模型による外観と見取り図

 

城入口門

 

城門

 

初期に出来た砦(3層)

  

 

1階部にある礼拝堂

  

 

礼拝堂の隣なりにある拷問部屋

 

上階は城主の居間や会議室

 

16~18世紀に拡張された部分

 

拡張した側(北西側)から中庭を挟んで見た初期の砦

 

シュメグの町中心を望む。 左がフランシスコ教会、右がローマカトリック教会

 

MAVのシュメグ駅方面

 

城の北側、城へはここから左の坂を登る。 レストラン、土産物屋、乗馬クラブが麓に有る。 

 

フランシスコ教会; 1653年にバロック様式で建立。

 

教会内部、日曜ミサ前

 

   これにて、「バラトンそぞろ歩き 古城(3)」は、お終いです。

 

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バラトンそぞろ歩き  古城(2)

2017-12-04 23:55:16 | 海外生活

2.キニズイ城 (Kinizi vár)

  バラトン湖周辺に城の形として残る2つ目の古城である。(訪問日 02 Dec. 2017)

 14世紀末から15世紀の初めに、アルパート時代のアーコシ (Ákos)族の族長ヴァジョーニ家に

 よって造られた。 その後、部族は消滅し、1472年に国王マーチャシー1世よりキニズイ・

 パール家がこの領地を任された。 キニズイ・パール家は以下の3つの偉業を残し、20年間

 この地に繁栄をもたらした。

 1.キニズイ城の拡張整備

 2.既存の教会をゴシック様式で再建し、聖イシュトヴァン教会を設立(1482年)

 3.聖ミハーリィ (Mihály)修道院を建立(1483年)

最終的には、1663年にトルコ軍の攻撃により破壊され、現在の物は1954~1960年に発掘・復元。

<ロケーション>

 

当時の城模型と見取り図

  

 

 入場門(東門)と守備隊詰所

 

 内部

 

 外堀は普段は貯水・排水溝として使い、敵の侵入に際しては水を張って防御することが可能。

 

 

5層の住居塔; 断面10x12mの四角形、高さ25m、壁厚2~2.5m(底部)

 

 

 1階部は牢獄

 

 

 上階は城主の住居

 

 礼拝堂内部には、キニズイ・パールの墓石(棺)が展示。

 

 

塔の屋上から礼拝堂・ホール・住居跡を見下ろす。

 

塔の屋上からべスプレーム (Beszprém、北東方角)を望む。

 

南の方角はナージ・ヴァジョーニ (Nagyvázony)の村の中心を望む。 人口1800人

 

<補足>

 聖イシュトヴァン教会;オリジナルの教会は11世紀に既にあり、その基礎の上に現存の教会を再建。


 正門の上に石像・彫刻が数点残っており、(他の石像は、HP「バラトン遍路の旅」に記載)

            

 教会内部の保存状態も良く必見の価値あり。

 


聖ミハーリィ (Mihály)修道院 当時を再現した模型と現状


 現在は壁の一部と基礎しか残っていない。(1543年にトルコ軍によって破壊された)

                                                                                (写真上のみ、30 Jun. 2007 撮影品)

    

      これにて、「バラトンそぞろ歩き 古城(2)」は、お終いです。

 

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