撮り旅・ヨーロッパ

ハンガリーを拠点にカメラ片手に古い教会を主に写真撮影の旅を楽しみ、そこで拾った生活、文化情報を紹介します。

「春の目覚め作戦」バラトン湖の戦い(1)

2019-08-29 16:55:54 | 海外生活

 第二次世界大戦の最後の幕引きとなったバラトン湖周辺で起こったナチスドイツ軍最後の戦車戦

がハンガリー史上、最も悲惨な戦争の結果になってしまった。

この時、既に日独伊三国同盟に加わって大戦に突入したハンガリーであったが、政策の不一致から

ドロップアウトし、1944年の3月にはブダペストはドイツ軍に占領されてしまい、同年10月には

ナチスドイツ軍の傀儡政党の「矢十字党」が政権についていた。

そのひと月前の9月にはソ連軍がユーゴスラヴィアを越えて、ハンガリー国境に侵攻し、12月には

ソ連軍がブダペストを包囲したのであった。 遂にドイツ軍の激しい抵抗も叶わず、1月18日に

まずペシュトが、2月13日にはブダがソ連軍によって陥落、解放された。

ドイツにとって残された石油産地はツッステルドルフ(オーストリア北部)とバラトン湖の南部だけ

になっていた(....結局、日本軍と同じ状況であった訳である)

そこでヒットラー総統は、「春の目覚め作戦」と称して西部戦線の兵力を削いででも、最後の大勝負

としての戦車戦をバラトン湖周辺で決行したのであった。

この戦いは、ブダペストの市街戦を含め、1945年1月~3月まで行われ、ハンガリーの民間人2万人

と兵士2万人が死亡し、138,000人がソ連の捕虜になり、国土の荒廃はもとより国民の疲弊は、建国

史上最悪の結果に終わったのである。 この戦いの2か月後の5月9日にナチスドイツは降伏した。

 

もはや、その跡形もないだろうが、そんな戦線の町や村を辿ってみたいと思った。

               (以下の写真はすべて Aug. 26 2019 に撮影したものである) 

<ロケーション>

 

1.エニイング (Enying)

  ドイツ第23戦車師団がソ連第26軍狙撃師団と対峙し、戦線をコマーロム (Komárom) 

 エリアまで押し込んだが、それ以上の力はすでに残っていなかった。

 Kabótapuszta in Enying 

  戦場はまったくフラットなプスタ (puszta)と呼ばれる平原で、戦車戦としては、どうぞ

 勝手にドンパチやって下さいというような地形である。

 起伏があるといえば、この辺りは湿地帯もあり小さな湖が多いので、僅かな起伏はあるが

 全体的には平らで、退屈極まりない地形である。

     コウノトリが越冬(北アフリカ)まで間の水遊び、体力作り。

 

 <当時の戦場懐古写真>  ....写真集「バラトン湖の戦い」 大日本絵画出版より拝借

 

 ● エニイング (Enying) の町の中の教会 

  フェイエール (Fejér) 郡のエニイング地区で、1つの町と6つの村の集合体で、エニイング

 が行政の中心で、人口が6,600人である。 1540年代の終わりにトルコ人の町であったが、

 1686年にトルコ人を追放し、改革派教会を造って新しい町が出来た。

 現在、町の中には3つの教会がある。

 ① 聖三位一体教会 (Szent háromság templom)

  場所はバラトンボゾク (Balatonbozsok) にあり、最も古い教会で1755年の建立。

    

 

 ② 改革派教会 (Enying Református templom)

  1789~1892年に建てられた。

 

 ③ 聖ヨハネ教会 (Szent János templom)

  1838~1841年に建てられた。

  

 

2.ラヨシュコマーロム (Lajoskomárom) 村

 人口は2,100人、ここも又、プスタ(平原)である。 写真の向こうはEnyingの町。

  こんな広々とした所なら、一般市民を巻き込むことも少ないのだが、とかく家の近くで

 ドンパチやりたがる、民間人にとってはいい迷惑なことも多かっただろう。

 

<当時の戦場懐古写真>

 ● ラヨシュコマーロム (Lajoskomárom) 村の教会

 人口が少ないのに村には3つの教会がある。

 ① ボロメオの聖チャールズ教会 (Borromei Szent Károly temp.)

  

 

 ② ルーテル教会 (Lajoskomáromi Evangélikus temp.)

  

 

 ③ 改革派教会 (Lajoskomáromi Református temp.)

 

3.メゾコマーロム (Mező-komárom) 村

  人口は900人、ここも長閑な村である。 75年前に激しい殺し合いが繰り広げられていた

 なんて、もう知る人もごく僅かであろう。

 

<当時の戦場懐古写真>

  いろんなタイプの戦車が見られ、ナチスドイツの総力戦が窺える。

  この戦争でドイツ軍の失った戦車等の攻撃車両は1,500両にのぼったと云われている。

 

 ● メゾコマーロム (Mező-komárom) 村の教会

 ① ローマカトリック教会 (Szent péter és Pál római katolikus temp.)

  

 

  隣に現在使われていない古い教会、ほゞ同じ形状なので建て替えだろう。

   逆光撮影の練習 

 

  右側が現役の教会 

 

 

 村に沿ってシオー (Sió) 運河が流れている。 写真の向こうはバラトン湖方面。

 

 川のほとりで草をついばむ羊たちとは、戦争の話はとても似合わない。

 

   これにて「春の目覚め作戦」バラトン湖の戦い(1)は、お終いです。

   本ブログへのご参加、ありがとうございました。

 

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ハンガリーの花火

2019-08-22 22:20:41 | 海外生活

 8月20日はハンガリーの「建国記念の日」です。 ハンガリーには祝日になっている興国に関する

記念日が他に2つあります。 ①3月15日 ....1948年の独立革命の記念日

              ②10月23日 ....1956年のハンガリー革命(蜂起)の記念日

では、8月20日は歴史上、どんな日なのかということですが、ハンガリー王国の最初の王を国民皆

で祝おうということから、キリストの復活祭から50日目の日を「聖イシュトヴァンの日」と定めた

そうです。 日本での「建国記念の日」2月11日と同じような意味合いで、日にちが限定出来ないの

で「記念の日」として「の」を間に入れて “建国を偲んで国を愛する心を養う日” というのが正解なの

だそうです。 よって、この日は全国的にいろんなイベントが開かれ、その日の最後に「花火」が打ち

上げられる習わしとなっています。 ではその花火を覗いてみたいと思います。

 

1.ブダペストでの花火

  午後9時より、くさり橋 (Széchenyi Lánchid) とエルジェーベト橋 (Erzsébet hid) を閉鎖して

 橋の上から花火が打ち上げられていた(最近は、ドナウ川にボートを浮かべ、その上から打ち上げて

 いるという記事があった)

 ● エルジェーベト橋の袂では、明るいうちから場所取り。    Aug. 20 2006  @ 5:15 pm  

     この時期、懐かしの “トラバント” がまだ走っていたなんて!


 ● 花火打ち上げ寸前には、ドナウ河岸には黒山の人だかり。          @ 8:43 pm


 ● 王宮                              @ 8:56 pm

 

 ● 打ち上げがエルジェーベト橋から始まった                 @ 9:07 pm

 

 ● くさり橋でも打ち上げ始めた。 Inter Continental hotel と聖イシュトヴァーン大聖堂

 

 ● ゲッレールト (Gellért) の丘も照らし出される。

  Aug. 20 2005

 

2.バラトン湖での花火

  各市町村が個別に、9時より少しずつ時間をずらして打ち上げるが、当然、被る所もある。

 遠くから眺めていても迫力に欠ける難点がある。 やはり花火は近くから打ち上げ音と共に

 見るのが一番かと。

 2-1. バラトン・ヴィラーゴシ (Balatonvilágos) のケース          Aug. 20 2019

 花火はやはり近くで見るもの。 花火の打ち上げ時間は各々、10分程度である。

  Aug. 20 2017

   Aug. 20 2017

 

 2-2. バラトン・ケネシェ (Balatonkenese) のケース          Aug. 20 2019

 

 この花火が終わると、もう秋はそこまで。

         これにて「ハンガリーの花火」は、お終いです。

         本ブログへのご参加、ありがとうございました。

 

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ブダペストのカフェ文化(2)

2019-08-21 00:08:08 | 海外生活

前回の続きとして.....

3.カフェ復活時代(1956年頃~)

   1956年の「ハンガリー革命」の勃発を皮切りに東欧諸国も巻き込んだカフェ文化が復活し、

 1989年の東側の共産体制の崩壊に繋がった。 あの11月10日のベルリンの壁崩壊と東欧各国

 の民主化、いわゆる「東欧革命」が燃え広がったのであった。

 時期を同じくして、今まで躊躇っていたカフェもドンドン復活して来た。

   (..... このタイプは老舗のクラシックカフェというもので今回はここに焦点を当てている)

 その他に世界的なフランチャイズチェーン(コスタ、スターバックス等)の進出、又、こだわり

 を追求した個性路線のカフェと3つのタイプがあり、近年ではその数は数えきれない程の多さに

 なっている。

 <今回取り上げたカフェのロケーション>

  

 

 3-1. アストリア・カフェ (Astoria cafe)

  創業は定かではないが100年の歴史ということなので1900年前後で、取りあえず復活

 時代の方の入れた。 戦時下並びに共産社会の時代を通じて大きな破壊、損害もなく来た

 が財務上の問題を抱え、今日では Danabius Hotel Astoria に経営権が移った。

                                         Aug. 08 2019

 

 向こう奥がホテルのレストランでこちら側が大通りを眺めるカフェ。

 

 3-2. オウグスト・カフェ (Auguszt kávéház/cukrászda)

  上述のオストリア・カフェの通り斜め向かいに在り、店の入口には創業1870年と書いてある

 が、ブダ側のモールMammut 裏に在る本店と製造所の方が古い。 どちらかと云えば、お菓子

 やケーキの方が専門である。               Aug. 08 2019

 

 

  ここにも「ザッハートルテ」はメニューにあり、東欧のケーキ屋さんには定番のようだ。 

 それだけウィーンのカフェ文化の影響力は大きかったのだろう。

 

 

 3-3. カフェ・ムーヴェース (Művész kávéház/cukrászda)

  1898年の創業でネオ・ルネッサンス様式の建物とウィーンスタイルの内装は世界遺産

 のアンドラーシ通りにお似合いのケーキ屋さん、味もミニ・ジェルボーと呼ばれるほど

 の対抗店。 オペラ観劇前後の待ち合わせ場所にも最適であろう。    Aug. 17 2019

  

 

 3-4. アレクサンドラ・ブックカフェ (Alexandra book cafe)

  オリジナルは、1882年に建てられた貴族クラブ(テレスバロスカジノ)の舞踏会用のホール

 であったが、1911年にアールヌーボー様式の7階建ての「パリ大デパート」に建て替えられ、

 舞踏会用ホールの豪華なシャンデリアと天井のチャールズロッツのフレスコ画はそのまま移築

 された。 1,2階はアレクサンドラ書店で、カフェの名前も「A. ブックカフェ」となった。

 しかし、書店は2016年に廃業、カフェも2017~2018年まで2年間閉鎖していたが、昨年末に

 既に新しい店舗名になっていた「カフェ・パリ」で復活した。

 但し、生憎この日は又も改装中(次は何処へ行くのやら、消えて欲しくないカフェの一つ)

 改装備品の運搬用車両がビッシリ                 Aug. 17 2019

  

 

 3-5. ハディク・カフェ (Hadik kávéház)

  1911年に創業し、1920年代が全盛期であったが、常連だった若者は戦場に駆り出され、

 1940年に閉鎖。 ツェントラールやニューヨーク・カフェのような高級な店ではないが

 ローカルな文学と芸術にはピッタリな場所であった。

 常連客として、フリギス・カリンシー、モーリツ・ジグモンド、コストラーニ・ディジー

 (トラムの駅名になっている)が屯していた。 カフェは2009年にオールドファッション

 で復活した。                            Aug. 17 2019

 

 当時のポートレートを貼った壁が歴史を偲ばせる。

 

 石を敷き詰めた屋外テラスには、多くの若者達が集まったことであろう。

 

 当時の常連客フリギス・カリンシーに因んだ Karinthy torta を所望。

 

 3-6. アンジェリカ・カフェ (Angelika cafe & Resturant)

  1973年の創業であるので、カフェ復活期の初期であろう。 国会議事堂とは川向かいの

 バッチャーニ広場の聖アンナ教会の1階という場所も民主化運動→東欧革命に火をつけるの

 に好都合であったのかも知れない。                  Aug. 07 2019

 ドナウ川と国会議事堂を目の前に眺めるテラス。

 

 

 室内

 

 3-7. アンナ・カフェ (Anna café)

    創業が1954年であるので、クラシックカフェというよりブダペストを訪れた人なら、

 誰でも見たことのあるカフェ。  最も観光客の集まるヴァーチ通りの先端にカフェは在る。

   Aug. 08 2019

  

 3-8. ゲルローツィ・カフェ (Gerlóczy cafe)

  前述したように、ここも恰好の角地で、階上がブティックホテルになっており、パリ風

 カフェ&レストランとして人気上昇中のようだ。 建物は1892年築で、歴史的中心地に

 在るがカフェのオープンはそれほど古くはないと思う。           Aug. 17 2019

 

    これにて「ブダペストのカフェ文化(2)」は、お終いです。

    本ブログへのご参加、ありがとうございました。

 

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ブダペストのカフェ文化(1)

2019-08-19 01:32:02 | 海外生活

まず、ご理解を深める為に、ハンガリーの近代史における大雑把なエポックを整理してみます。

 1686年9月  オスマントルコ軍がブダを開放(ハプスブルク帝国により追放される)

 1699年1月  オスマン帝国のハンガリーから完全撤退とハプスブルク帝国支配がスタート。

 1848年3月  ペシュト革命が勃発 (結果的に革命と独立戦争は失敗に終わる)

 1867年6月  オーストリア/ハンガリー二重帝国が発足

 1914~18年  第一次世界大戦の敗北で二重帝国は崩壊

 1933年~   ナチス・ドイツに接近

 1945年~   第二次世界大戦で敗戦し、ソ連による東側共産主義体制に組み込まれる。

 1956年10月 ハンガリー革命の勃発 (結果的にソ連軍の制圧によって頓挫する)

 1989年10月 ハンガリー議会は憲法を改訂し、共産主義体制から脱却(各国の東欧革命を誘発)

 1989年11月 ベルリンの壁が崩壊し、東西冷戦が幕を閉じる。

以上の歴史的背景を踏まえて、ブダペストのカフェ文化は朱記の3つ部分に分けることが出来る

だろう。(異論もあるかも知れないが独断で) 

1.カフェの草分け時代(1844年頃)

  ペシュトにカフェが現れ始めたのは1780年代であったが、1840年代には民衆は旧態依然とした

 封建社会に飽き飽きし、変革の熱が急騰した。 カフェはパリ、ウィーンの西欧社会の香りに酔い、

 情報交流の場であり、多くの作家、詩人、芸術家達の夢の文化生活を語り合う場となった。

 そして行き着くところ、カフェは「ペシュト革命」を蜂起する場となった。 

 その代表的なカフェとしては .......

 1-1. ピルヴァクス・カフェ (Pilvax kávéház)

  1838年に創設された「カフェ・ルネッサンス」が前身で、1942年に引き継ぎ改名した。

 1848~49年のペシュト革命の中心人物であった詩人のペトフィ・シャンドールや多くの知識

 人達がここで定期的に会議を開き、革命と独立戦争の拠点としたカフェであった。 

 失敗に終わった革命後、1911年に建物は壊され、オリジナルのPilvak cafe は姿を消した。

 1921年に今の位置に Pilvak City Hotel として、階下がレストランとして稼働している。

                                   Aug. 17 2019

 

 当初のPilvak cafe 時代の位置(角地でなく、ちょっと入った所)

 <追記>

  この当時はブダとペシュトを合わせてカフェの数は40軒ほどであったが、革命思想的な

  カフェとして他に「Angol Királyné (英国女王)」「Magyar Király (ハンガリー王)

  といったカフェもあったが消滅して手掛かりが掴めない。

<ロケーション>

  

 

 1-2. カフェ・ルスブルム (Ruszwurm confectionery)

  1827年創業でブダペストで最も古いカフェ(ケーキ屋)であろう。 店は狭いがアンテーク

 の家具が当時の世界にいざなってくれる。 スイーツに目のなかったエリザベート皇妃は朝食

 用として下僕を差し向けたという嘘か真かの逸話もある。                             Oct. 27 2018

     

 カフェ前のテラスからマーチャーシュ教会が望め、今は格好の観光客の息つきの場である。

 

 この店の一押しは、中・東欧でお馴染みの “クレメーシュ” だとか。

 

 

2.カフェの全盛時代(1910~1930年)

  1890年代は、ハンガリーの建国1000年ということもあって都市部では建設ラッシュに湧き、

 ブダペストで500軒のカフェが林立したといわれる。 しかし第二次世界大戦でカフェは

 すっかり破壊され、その後の共産主義体制下では地下組織の根源だとして抑圧されカフェは

 消滅して行った。 この全盛期時代の代表的なカフェと云えば .......

 2-1. ツェントラール・カフェ (Centrál kávéház)

  1885年の創業で、ピンク色の建物・オレンジ色のテントを張ったオープンテラスは創業時

 からのトレードマーク。                       Aug. 07 2019

  フェレンツィ広場 (Ferenciek tere) からカーロィ通りを2~3分歩いた角地にある。

 実はこの角地が当時のカフェ繁栄条件の一つであったようだ。

  

 

  1890年創刊の近代的な文芸誌 “A hét (週)”  や 1908年の “Nyugat(西方)” の編集会議

 が開かれたり、店内にも飾られている写真の人物 エンドレ・アティといった詩人や小説家の

 モーリツ・ジグモンド、コストラーニ・デジェー等が集い、作品を書いたり、情報の交換を

 していた。 戦時下や社会主義時代になって多くのカフェは姿を消して行ったが、ここも一時

 戦争中に閉店していたこともあるが2000年に再開した。

 

 ウィーンにも同名のカフェがあるが、あちらは1876年の創業であるので、ブダペストの

 カフェはウィーンのカフェ文化の影響を受けているのである。 それはハンガリーに限った

 ことではなく、ハプスブルク帝国が影響を及ぼした東欧諸国で「ウィーン風」カフェ文化

 が、民主化の嵐(いわゆる東欧革命)を引き起こしたと言っても過言ではない。

 東欧各国には、各々自国風の珈琲(例えばブルガリア風とか、セルビア風...)は存在するが

 ミルクをたっぷり入れた「ウィーン風珈琲」が、カフェ・ヨーロッパなのである。

 実際、「カフェ・エヴァローパ」や「カフェ・ツェントラール」という同名のカフェは

 各都市にはいくつか存在するらしい。 味わい比べてみるのも面白い旅になるかも。

        .... 参考文献;「カフェ・ヨーロッパ」スラヴェンカ・ドラクリッチ著

 

 ツェントラール・カフェの名物は “メランジュ” である。 底に沈む蜂蜜を少しづつ溶かし

 ながら啜るコーヒーが絶妙。

 

2-2. ニューヨーク・カフェ (New York café)

   1894年の創業で2000年には閉店し、スポンサー探しと改装を経て2006年に復活した。

 創業当時の客は、作家や詩人が多く、有名作家のフェレンツィ・モルナールなどは朝から晩

 までたむろして執筆活動をしていたらしい。 又、ツェントラール・カフェに拠点を置いて

 いた文芸誌 “Nyugad (西方)” は一時期ここに移ってきたこともある。

  Aug. 07 2019

 音楽家のコダーイ・ゾルタン、リヒャルト・シュトラウスも常連であったという。

 

  ニューヨーク・カフェは世界一美しいカフェとの評判通り、豪華絢爛の外観、内装で

 ある半面、1936年には破産したり、閉鎖と再開を繰り返し、スポーツ用品店になったり

 の波乱に満ちた歴史を持っている。         SNS Wikipedia より写真拝借

   

 

 2-3. カフェ・ジェルボー (Café Gerbeaud)

  創業は1858年とペシュト側では最も古いカフェであろう。 スイスの菓子職人の Emile

   Gerbeaud が1884年に店を購入し、数々のハンガリースイーツを生み出し、繁盛させた。

 エリザベート皇妃もお忍びで訪問したとか、作曲家のフランツ・リストも常連だったらしく

 どちらかと云えば音楽家、美術、芸術家の溜まり場だった。

 現在は店の前のヴルシュマルティ広場 (Vörösmarty tér) は、長~い、長い改修工事中。

                                   Aug. 08 2019

 

 メトロM1の始発駅の横                                                          Feb. 17 2019

 

 

 1997年にはロココ調の天井に改装され、一層、西欧風に洗練された。            Aug. 08 2019

 

 本家ウィーンの Café Sache の銘菓 “ザッハートルテ” との味比べも面白いかと。

 

 2-4. ヤーパン・カフェ (Japán kávéház)

  ネオルネッサンス様式の建築で、当時は注目を集め、1890年に本屋と共に創業を始めた。

 多くの文化人に愛されたカフェであったが、現在は閉鎖され本屋だけになっている。

 日本人が関わっていたわけではないのに、何故、日本カフェなのか疑問であるが、当時は

 東洋の神秘として日本は人気があったようだし、室内には竹や菊といった絵が掲げられ

 エキゾチックな日本の雰囲気を醸し出していたという。

 <1900年代当時のカフェ>           SNS Wikipedia より写真拝借

   

 現在の本屋                              Aug. 07 2019

 

 <当時のカフェ状況>

 

  これにて「ブダペストのカフェ文化(1)」はお終いです。

  本ブログへのご参加ありがとうございました。 次回は「3.カフェの復活時代」を掲載します。

 

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ブダペスト(ハンガリー)における温泉文化

2019-08-10 17:44:50 | 海外生活

 ハンガリーには非常に多くの温泉があり、世界でも日本人と甲乙つけ難い温泉好きの国民だ。

オスマン帝国に150年もの間、支配されていたことが要因のように思われているようだが、その

時期に開花したことは間違いないが、既にローマ時代からブダペストのオーブダ地区にあるアク

インクム (Aquincum)には温泉遺跡も残っているので、あながちそれだけとは言い難い。

実際、温泉発祥の地イタリアやハンガリーを取り巻く東欧諸国に比べ、圧倒的に温泉が多いのは

何故なのか首を傾げなければいけない。

二度の大戦で海を失ったハンガリーの国策として、海の替わりに温泉を各市町村に造らせ、国民

の体力や健康増進の為に、強く推進して来たのも大きな要因にも思えるし、太古の昔には火山活動

や地震も多かったらしいので、「テルマエ・ロマエ」ではないが、国中が桃源郷やユートピアの

ような所であったからと想像するのも面白いものだ。

前置きが長くなったが、本ブログは写真主体にしているので、詳細の歴史的考察は違う機会にする

として、ただイントロとしてはブダ側にはローマ時代から三つの源泉があった。

   ① ゲレールトの丘の麓にある下部温泉郷(Al-hévizという)

   ② ヨーゼフの丘(王宮)の麓にある上部温泉郷 (Fel-hévizという)

   ③ オーブダ地区にあるローマ時代の温泉郷

 又、④ ペスト側には新しい(1900年以降)温泉郷が出現した。

<ロケーション>

 

 ①-1. ゲレールト温泉 (Gellért gyógyfürdő)

 現在の温泉はホテル内にあるが、オスマン帝国時代は露天風呂であった。

 ホテル前の円形の建物は源泉の積りらしく、飲める鉱泉が流れている。    Aug. 09 2019

 

 温泉の入口は建物の右側(ゲレールトの丘との間)にある。

 

 

 レセプション

 

 

 内部浴場         当然のことながら撮影禁止の為、Wikipediaの写真拝借

 

 

 夏場に開放されている屋外温水プール                  Aug. 07 2019

  中世よりこの温泉には治療効果があり、地方から多くの人々がやって来る貧しい人達用の

 温泉であった。 今日の温泉は1918年に建設されたものである。

 以前は男女別々の入浴であったが今は混浴である(勿論、水着着用であるが)

 

 ①-2. ルダシュ温泉 (Rudas gyógyfürdő)

  トルコ語で「緑の柱の温泉」と呼ばれていたように、浴槽を囲って緑色の大理石の柱が立ち

 並んでいた優雅な温泉であったという。 オスマン帝国のブダ総統であったムスタファ・パシャ

 が1570年に造らせたと云われている。 第2次世界大戦で破壊され、僅かに残った建物を使い

 1952年に再建されて、今日に至っている。

   エルジェーベト橋から見たルダシュ温泉               Mar. 03 2019

    手前の緑色の丸屋根部が昔の温泉で、向こうの黄色い建物は屋内温水プール。

 温泉入口                               Aug. 07 2019

 

 レセプション

 

 温泉浴場内部         SNS Wikipedia の写真拝借

  浴槽の方は金曜深夜から土・日は混浴日、平日は男女別々

 

 ①-3. ラーツ温泉 (Racz gyógyfürdő)

  ターバン地区と呼ばれていた所に、1358年にラヨシュ大王によって造られ、王宮と地下通路

 で直結していたらしい。 オスマン帝国時代には「デバガネ温泉(この地区のトルコ名)」と

 いう名をもって改築された。 オスマン撤退後はラーツ温泉として市民の温泉となった。

 第2次世界大戦で破壊され、浴場の一部が残り、修復して使っていたが2002年より改築を始め、

 建物の方は2010年に完成したが、未だにオープンに至っていない。

  男性用と女性用で入口が別々になっている。 以前より全裸でも入れる温泉として有名

 であったが、それを踏襲か? (女性は胸当て付きのエプロン、男性は前掛けが使用可能)


<補足説明>

  高架道路の向こうの森の中に温泉はある。 右手の教会は当時は東方正教の教会であった。

 ターバン地区というのはオスマン帝国がバルカン半島を経てハンガリーに侵攻して来た時に

 追われて来た陶磁器、金属加工、皮革加工等の特殊技能を持った人々が集まった場所で

 ペシュト側の発展に大きく寄与した地区であったが、オスマン撤退後はブダに吸収された。

      ターバン地区                       Mar. 03 2019

 

  内部浴場                  SNS Wikipediaより写真拝借

  

 

 ②-1. キラーイ温泉 (Kiraly gyógyfürdő)

  この温泉は中世にはなかったもので、城壁の外にあると包囲された時に使えなくなるので

 城壁内にオスマン帝国ブダ総統のムスタファ・パシャが1578年に造らせた。 当時、近くに

 あったカカシュ(カラス)門に因んで「カカシュ・カブー(門) 温泉」と呼ばれていた。

 オスマン帝国撤退後、所有者がケーニヒ(ハンガリー語ではキラーイ)家の時の名前が今も

 使われている。 大戦の破損も少なく古い浴場が残っているが、建物自体は1959年の修復後 

 のものである。                           Aug. 08 2019

 

 レセプション

 

 浴場の丸屋根(この形はどの温泉も同じようだ)

 

   内部浴場            

    SNS Wikipedia の写真拝借

 

 ②-2. ルーカチ温泉 (Luckacs gyógyfürdő)

  ここはオスマン帝国時代は火薬工場が建てられていたが、火薬工場の水車を動かすのに工場の

 西にあった温水湖の温水が使われていた。 よって水車の周りには多くの住宅用の浴場があった。

   現温泉の向かいにある温水湖跡                   Aug. 07 2019

 

  ルーカチ温泉と呼ばれるようになったのは、オスマン帝国の撤退後、ハプスブルク帝国

 が火薬工場の中庭に浴場を一か所にまとめた時からである。

 電車通りからの入口で、正面の建物は源泉の湧いている小屋で鉱水を持ち帰る人もいる。

 

 温泉の入口

 

 内部中庭の温水プール

 

  ドナウ川を眺めることができた裏門側(建物は老朽化しているが、当時は道路もなく優雅な

 建物であったことが推察できる) 主として地方から出て来た農民たちが治療にやって来た所

 であったという。                           Aug. 07 2019

 

 ②-3. チャーサール温泉又はヴェリ・ベイ温泉 (Veli Bej gyógyfürdő )

 上部温泉郷 (Fel-héviz) の源泉のあった場所で、この源泉はローマ時代からのものでフン族

 の長であったアッテラが浴場を造り、マジャール族の首長アルパードもこの地に居を構えた

 という古い温泉である(1148年)。

 オスマン帝国時代の前、マーチャーシュ王の時代には温泉は拡張され、ヨーロッパ中で一世を

 風靡した。 オスマン帝国時代には完全に改築され名前をヴェリ・ベイ温泉と呼ばれた。

 オスマン撤退後は、マルツィバーニ・イシュトヴァーンが所有した時に慈善団体に寄付され、

 この温泉の収益で病院建設や病人の無料診察に充てて来た(1844年~)

 

 ルーカチ温泉との間にある丸屋根の浴場は、合同で稼働している。

 

 更に右隣なりにあるのがチャーサール温水プールである。          Aug. 07 2019

 

 以下、温水プールが主体になっているが、冷たい水から温めていたら、とてもペイしないので

ある程度の温かい源泉は近くにある筈である。

 ③-1. ローマ温泉 (Romai fürdő)                 Aug. 07 2019

                                                                   

 ③-2. チッラグヘジ温泉 (Csillag-hegy fürdő)                           Aug. 07 2019

 

 ④-1. セーチェニ温泉 (Széchenyi gyógyfürdő)

  ヨーロッパ最大、ハンガリーで最も人気のある温泉で、1913年にバロック建築様式で造ら

 れた新しい都会の温泉である。 三つの露天風呂と15個の屋内温泉があり、74℃と77℃

 の二つの源泉を持つ。                         Oct. 26 2018

 

④-2. マルギット温泉 (Margit Palatinus Strandfüfdő)

  マルギット島の中にある夏場用の野外温水プールである。 冬場は島内にあるホテルの

 温水プールとスパがお薦めである。                  Aug. 08 2019

   マルギット島は広大な敷地と残された自然、整備の行き届いた清潔さ、治安の良さは都会

  の中で一日中、誰にも邪魔されずにノンビリ出来る、ブダペストで唯一の場所であろう。

 

   これにて「ブダペスト(ハンガリー)における温泉文化」は、お終いです。

   本ブログへのご参加、ありがとうございました。

 

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