撮り旅・ヨーロッパ

ハンガリーを拠点にカメラ片手に古い教会を主に写真撮影の旅を楽しみ、そこで拾った生活、文化情報を紹介します。

ブダペストの明日を架けた橋たち

2019-03-29 00:26:58 | 海外生活

 街の発展に川の必要性とそれを活用する橋の重要性は古今東西共通の課題であった。

ブダペストにおいても例外ではなく、今回はドナウ川に架かる橋についての街作りにかけた夢と

経緯を紐解いてみようと思った。 同じような情報や写真が重複するかも知れないが、歳を取ると

忘れぽくなり、クドクもなるのか.......ご容赦を。

ブダペストの郊外も含めるとドナウ川に架かる橋は鉄道用も入れて、全部で11橋梁ある。

そのロケーションは次の通りである(2019年現在)

 

1.ブダペストに架かった最初の橋

  橋のない時代には筏やボートで渡っていたことは、古代ローマ帝国の時代からの方法

 であり、街や村が出来始めると渡し舟(今流でのフェリー)というものになった。

 1790年代になると多数の舟を結びつけて板を渡したいわゆる舟橋になった。 運行する船

 の為に、一日二回は真ん中付近を開閉しなければならなかった。 又、当時の冬は寒かった

 こともあるが、川幅も狭く浅かったので川は凍って、船橋を解体せねばならなかった。

                             SNS Wikipediaより拝借

2.セーチェーニ鎖橋 (Széchenyi lánchid)

  長い間の念願であった恒常的な橋が出来上がったのが、1849年11月21日のセーチェーニ鎖橋

 が最初の橋であった。 セーチェーニ・イシュトヴァンが 1832年に「ブダペスト橋同盟」を

 結成して準備を始めて以来、紆余曲折もあり、実に「明日を架ける橋」の為に17年の歳月を

 費やした。 これによりブダとペシュトは飛躍的な発展を遂げた。

 しかし、第二次世界大戦の末期 1945年1月18日に撤退するナチス・ドイツ軍により橋は破壊

 された。                           SNS Wikipediaより拝借 

    

 敗戦による壊滅的な打撃は、再建に4年を費やさせ、1949年11月に今の形に復元された。

                                   Sep. 27 2009

                                                                                                 Nov. 24 2007

                                                                                                  Jun. 23 2018

 

 

  橋の両袂にライオンの像は、彫刻家マルシャルコー・ヤーノシュ (Marsehalkó János)

 の作品で1852年に設置された。                    Mar. 04 2017

 

3.マルギット橋 (Margit hid)

  19世紀中頃になると、ブダとペシュトは益々繁栄し、セーチェーニ鎖橋だけでは手薄になり

 新しい橋の建設が切望された。 それはオーブダを結合させるマルギット島を経由した計画で

 1872年に着工し、1876年に完成した。

 工期の途中の1873年に、ブダ、ペシュト、オーブダの3つの町が合体しブダペスト市となった。

 現在のようにマルギット島を結ぶ枝橋部分が完成したのは、後年の1900年8月であった。

                                    Mar. 26 2019

                                                                                               Oct. 11 2018

                                                                                                 Oct. 11 2018

 

4.自由橋 (Szabadság hid)=フェレンツ・ヨージェフ橋

  上記2つの橋が完成すると、更に下流の市内中心部(教区教会)と古い町タバーンを繋ぐ橋と

 中央税関(現在のコルヴィヌス大学)とゲッレールトの丘を結ぶ2つの橋の建設が始まった。

 最初に完成したのは、フェレンツ・ヨージェフ橋の1896年であった。

                                    Apr. 29 2018

                                                                                               Nov. 17 2009

                                                                                                                                 

 4つの橋脚の上には、ハンガリーの神話に出てくるトウルルの標識をあしらっている。

                                    Mar. 26 2019

  

  橋の名前の由来は、1867年からハンガリーの国王になっていたフェレンツ・ヨージェフが

 竣工式に出席して、ペシュト側の南橋脚に「F・J」のイニシャルの付いた銀の鋲を打ち込ん

 だことからついた。 但し、今は自由橋(または解放橋とも)呼ばれている。

                                    Mar. 26 2019

 

5.エルジェーベト橋 (Erzsébet hid)

  当初の橋は、セーチェーニ鎖橋と同じチェーン吊り橋であり、ドナウ河岸で最も川幅が

 狭かった(290m)ので両岸の橋ゲタでチェーンを吊る美しい吊り橋となった。

 橋の建設は1898年に始まり、1903年に完成した。         SNS Wikipediaより

 

 1903年当時のエルジェーベト橋     1945年1月18日にドイツ軍に破壊された。

 

  この橋のみ長い間、破壊されたまま放置され、再建までに19年の歳月を要した。

 再建された橋はケーブル方式の吊り橋となったが、両岸から支える方式では安全性に問題

 があり、重量の重い路面電車や線路が橋の上から撤去されてしまった。(完成は1964年、

 くしくも日本では東京オリンピックで、共に戦後に終止符を打ったとは、何かの因縁?)

                                   Apr. 29 2018

  従来は夜間照明が無かったが、日洪国交樹立140周年記念事業として、日本政府の援助で

 2009年11月17日にライトアップが完成した日。             Nov. 17 2009

 

  ハンガリーが大好きだった、橋の建設に尽力したエルジェーベト王妃に因んで橋は名付け

 られた。 橋のブダ側の袂には銅像が見守っている。           Mar. 03 2019

 

6.ペテーフィ橋 (Petöfi hid)

  ブダペストの外環状道路をブタの南側と結ぶ橋で1937年の完成であった。

 この橋も他の橋同様、ドイツ軍によって爆破され、当時はホルティ・ミクローシュ橋と

 呼ばれていたが、1952年に再建された以降は、ペテーフィ(ハンガリーの詩人、1848年

 の革命で活躍)橋と呼ばれている。                   Oct. 11 2018

 

7.アールパード橋 (Árpád hid)

  マルギット島の北端をかすめ、ペシュト側とオーブダを結ぶ橋で1950年に完成した。

 当初はスターリン橋と呼ばれていたが、1956年の革命以降、アールパード橋となった。

 ハンガリーで最も長い橋で陸地の部分を含めると約2kmもあり、橋幅の 35.3m は

 国内最大である、戦後最初の橋。                   Oct. 11 2018

             橋の向こうはオーブダの街

 

8.ラーコーツィ橋 (Rákóczi hid)

  2011年まではラージマーニョシ橋 (Lágymányosi hid) と親しまれていた。

 エキスポ '96 の万博開催の為に、1992~1995年に建設された新しい橋である。

                                                                                                     Oct. 11 2018

 

9.コシュート橋 (Kossuth hid)

  現在は存在しないが、1943年にドイツ軍によりドナウ川に架かる橋のすべてが爆破された

 ため、臨時的に造られた橋で、わずか8か月の突貫工事で1946年1月15日に完成した。

                            SNS Wikipediaより拝借

  

 

  国会議事堂横のコシュート広場とバーチャーニ広場を結んだ。役割が終了した1960年には

 解体され、僅か15年間の命であった。 橋の有った位置には、記念のプレートのみが両岸

 に残されているのみである。                       Mar. 26 2019

 

10.ハーロシ橋 (Hárosi hid)

  環状高速道路M0が、ドナウ川下流(南側)を渡る橋でブダペストの郊外に位置する。

 別名デアーク・フェレンツ橋とも呼ばれ、1990年11月16日に完成した。

 ドナウ上流側は3車線化の拡張工事中(2019年3月現在)         Mar. 26 2019

   あれは2005年であったと思う、事故でM0は延々と渋滞し、迂回路を探し回ったが

 結局、ドナウを渡ることが出来ず、会社に着いたのが午後の出勤となってしまった。

 以後、M0は10年以上、拡張工事が何処かしらにやられている。

 

11.メジェリ橋 (Megyeri hid)

  環状高速道路M0がドナウ川の上流(北側)で渡る橋で、2008年9月30日完成の最も

 新しい橋である。 センテンドレ島を跨ぐ全長1.8km の最新ケーブル橋である。

                                    Mar. 26 2019

 

12.ドナウ川を渡る2つの鉄橋(鉄道)

 一本はブダペストの北側を渡る鉄橋で1896~1900年に架けられた。

                                    Oct. 11 2018

 

  もう一本はブダペストの南側を渡る鉄橋で1873~1876年に架けられた。

 ラーコーツィ橋 (Rákóczi hid)が 20 m ほどの間隔を持って、後から架けられた。

                                    Mar. 26 2019

 

                  これにて「ブダペストの明日を架けた橋たち」は、お終いです。

 

 

「ハンガリーでのんびり」   http://motsukahu.web.fc2.com

 

 

 

 

 

 

 


知っている積りだったブダペスト

2019-03-13 03:00:21 | 海外生活

 もうかなり長い間ハンガリーで暮らしてきたけど、ブダペストの事となるとアバウトな知識ばかりで、

チコちゃんに「ボゥーと生きてんじゃねぇ~よ」と叱られるほど、なんとノホホ~ンと暮らしてきた

ことか...... そこでブダペストの生い立ちと現在の街並みを重ね合わせながら、「ドナウの真珠」の源に

迫ると共に、より一層の認識と愛着を深めようと。

 

1.最初にブダペストに住んでいた民族は ...

  ローマ帝国が進出してくる前に、紀元前数世紀よりケルト人がドナウ川流域を広く支配しており、

 紀元前1世紀頃には今のゲッレールトの丘の麓に集落を作り、丘の斜面には葡萄畑が広がっていた

 という。

 ● 推定される現在の位置                        Mar. 03 2019

 ブダの丘とゲッレールトの丘との間には小川がドナウ川に流れ込んでおり、村落は後に“タバーン”

 と呼ばれる街となり、セルビア人やスラブ人がオスマン帝国軍に追われ北上して住みつき、別名

 「キシュペシュト」とも呼ばれ、ウィーンや南方からの玄関口として一時期は繁栄を誇った。

 

2.ブダペストで最初に作られた街「オーブダ」とは ...

  紀元1世紀にローマ帝国はこの地域を征服し始め、ドナウ川沿いにパンノニアという属州を作った。

 パンノニアは東西に下パンノニアと上パンノニアに分けられて、下パンノニアのアクインクム辺りが

 東西南北からの通商の合流点として発展し、ローマ帝国は川の右側(ブダ)と左岸(ペスト側)に

 国境防御の為の駐屯地を作った。 当初は6,000人ほどの軍勢であったが、兵士の家族やら商いをする

 住民で最初の街が出来た。 最盛時は5~6万人にもなったという。

 その場所は、今の「オーブダ」のある位置でアルパード橋の麓である。

                                  Oct. 11 2018

 しかし、4世紀頃になるとローマ帝国の勢いも衰え始め、ローマ人化した住民達は帰還し、5世紀

 にはクインクムは消滅してしまった。 その後にトルコ人、モンゴル系のアヴァール人と更には

   スラブ人がやって来て住みついた。

   <参考>

       アヴァール人;モンゴル系の遊牧民で5~9世紀に中央アジアの北東に住んでいたフン族と呼ばれた民族で、

            カール大帝に滅ぼされた後は滅亡し、スラブ人とマジャール人と同化してしまった。

                            よく耳にする「ハンガリー人の赤ちゃんのお尻には、日本人と同じ蒙古斑がある」という話の事実は、

                                 これが原点なのかも知れない。


 9世紀になると、ロシアの東部、ウラル山南麓に住んでいたウラル系言語を話すマジャール民族が

 2人の首長(クルサーンとアルパード)に率いられてドナウ川の流域を西へと移動して来て、

 ハンガリーの地を征服したのが西暦895年前後であった。

 二人の権力者のうちクルサーンは、オーブダの街に定住し、もう一方のアルパードはドナウ川の

 もう少し下流にある中州のチェペル島に住んだ。

 

 ● 首長クルサーンの居城

 現在のオーブダ区域の南端に、クルサーンの居城があったらしいが、実存したかは定かではない。

 古い資料からは、ちょっと高台にあったことや、後述するローマ円形劇場遺跡が今も残っている

 ことより、現在のウイラク・シャルロース聖母教会 (Ujlak Sarlós Boldogassony templom) 

 のある辺りではないかと個人的に推定している。             

   Apr. 29 2018

    オスマン帝国軍の去った後の 1745~1756年にカトリック教会として建てられた。


 ● ローマ円形劇場遺跡 (Amphitheatrum)

 ローマ帝国時代は、12,000人も収容でき、当然、後に支配したマジャール人もオスマン軍も継続

 して軍の訓練などにも使っていたのであろう。                Aug. 01 2015


 ● 聖ペトロ教会のあった所は、

 現在は 1749年に再建された聖ペテロとパウロ教会 (Szent Péter és Pál templom) となっている。

                                       Mar. 02 2019


 ● 王(王妃)の館があった所は、

 現在は 1781年に建てられた改革派(カルヴァン)教会 (Óbudai Református templom)がある。

    Mar. 02 2019


 ● 公衆浴場 (Thermae Maiores) 跡

 現在は幹線高架道路下にあり、発掘調査が始められたのは 1778年からであった。

 

                        (ローマ風呂博物館広報資料より拝借)

 ● シナゴーグ (Óbudai Zsinagóga)

 ハプスブルク帝国支配時代に、ユダヤ人はブダの街から追放された為に大量のユダヤ人は

 オーブダに移り住んだ。 シナゴーグは 1821年に建てられた。       Mar. 02 2019


 ● 古い街(市庁舎付近)に溢れる現代アート作品

 ヴァルガ・イムレの「雨降りに散歩」... 1986年の作品

  Mar. 02 2019


 このオーブダの街は、1873年に今のブダ、ペシュトとここの3つの街が合併し、ブダペストという

 大きな都の中に飲み込まれ、忘れ去られかけている古い街であるが 2000年前の遺跡も残されており

 悠久の歴史を辿る散策コースとしてお薦めしたい。


3.エステルゴムへの遷都

 クルサーンは 904年に暗殺され、アルパードも 907年に亡くなると、アルパードの子孫が首長を

 継いだ。 アルパードの曾孫のゲーザ (Geza) は拠点をエステルゴムに移した。

 その息子のイシュトヴァンはキリスト教に帰依し、ハンガリー王国を創始したのが西暦1000年の

 大晦日であった。

 ● エステルゴム大聖堂と王宮                     Jan. 05 2008


 ● 英雄広場 (Hősök tere) に立ち並ぶ建国の英雄たち

 中央にはハンガリーに進出して来た当時のマジャール人7部族の長たちの像    

                                     Sep. 27 2009  


 ● 左端に立つのが、ご存じ聖イシュトヴァン(初代国王) 

  Sep. 27 2009


4.ペシュトの街の生い立ち

 ローマ帝国は、ペシュトにも「コントラ・アクインクム」という要塞を造った。

 その位置は「3月15日広場」を中心とした一画であった。

 当時のペシュトは、対岸のゲッレールト丘付近のタバーンと呼ばれていた地区も一緒の街であった。

 ペシュトの城塞の南側には、聖母マリア礼拝堂が建っており、ジグモンド王の時代(1400年代)

 に教会として拡張された。 オスマン帝国の支配時代でペシュト側で唯一残ったキリスト教会。

  ● 2016年改装後の現在の名称、市教区教会

   Mar. 03 2019


  教会正門ファサード(改装前)                                                        Jan.19 2008

 

 しかし、この「コントラ・アクインクム」は 5世紀には荒廃し、9世紀にはマジャール人が定住

 して城塞も作り直し、11世紀には聖イシュトヴァン王の後押しで教区教会として改築した。

 それによりオーブダに追従して繁栄し、この左岸を「ペシュト」、右岸を「キシュペシュト」と

 呼び分けられるようになった。 この繁栄に伴いペシュトにはマジャール人、ドイツ系、スラブ系、

 イスラム系と多民族が住むようになり、特にドイツ系住民が権力を発揮し始めた。

 マーチャーシュ王の時代(15世紀)には、街を石作りの市壁で拡張し、都市化が加速した。

 <15世紀のペシュトの街>

  


 ● フランチェスコ修道院のあった所は、

 フランシスカン教会 (Belvárosi Ferences templom) として 1758年にバロック様式で再建、

 塔の建設は 1863年であった。

  

5.新しいブダの街の生い立ち

 1241~1242年にモンゴル軍がカルパチア山脈を越えて、ハンガリーの東部から侵入して

 ペシュトを破壊し、ドナウ川が凍結する1月にはオーブダ(当時はブダの街はなかった)、

 キシュペシュトを攻撃し走り去った。

 この襲撃によって3つの街は大打撃を受け、アドリア海に逃亡していたベーラ4世は戻って

 くるや反省点を踏まえ、新しい街づくりに取り掛かった。 それが石壁で囲った強固な街と

 城塞作りであり、オーブダにあった城塞を現在あるブダの位置に移した(1255年)

 この時期のブダ城丘は、今のケーブルカーのある付近までの北側のみで王宮と都市部は城壁で

 囲まれて一体になっていたが、15世紀になってジグモンド王~マーチャーシュ王の時代に

 王宮が現在の南側に追加され、都市部と王宮が区別されるようになった。

 これにより王と宮廷は居住地であったヴィシュグラードから頻繁にブダの王宮に滞在するよう

 になった。(しかし、まだ首都がブダペストに移った訳ではなかった)

 ● 追加された南側王宮                       Jan. 27 2008

 

 ● ヴィシュグラードの城塞と王宮跡

 アルパード王朝が途絶えた14世紀にフランス/ナポリ出のアンジュー王朝が築き、

 ハンガリーが最も輝いた 200年間の黄金時代を享受した。        Jan. 12 2008                               

 

 ● 英雄広場に立ち並ぶ英雄14人衆の中で傑出する2人の王

    ベーラ4世 (19代国王)    マーチャーシュ王(34代国王)

    

 

<15世紀頃のブダの街>

 

 ● 聖母マリア聖堂(現在のマーチャーシュ教会)

 教会は13世紀半ばにベーラ4世によって創立され、マーチャーシュ王によって塔の増改築された。

   Nov. 17 2011


 ● 聖ミクローシュ・ドミニコ修道院 ....現在のヒルトンホテルの位置

 城塞の中央部にある教会がペシュトから移って来たドイツ系住民の教会であった。

   May 06 2018

          

 ● マーリア・マグドルーナ教会 ....現在は塔のみが残っている

 オーブダからのハンガリー系住民が多く移り住んできた地域と教会。             May 06 2018

                       

6.オスマン帝国の支配

 1526年8月29日、ハンガリー南部のモハーチで70,000人のオスマン帝国軍と25,000人の

 ハンガリー軍が戦い、ハンガリー軍は大敗し、その報によりブダペストに残る王家やドイツ系

 の裕福な「市民」達はウィーンに逃亡した。 もぬけの殻となった城塞ではハンガリー国王の

 継承問題で、オスマン帝国+トランシルヴァニアの公サボヤイ・ヤーノシュ対ハプスブルグ家

 の間で国王を狙ってのブダ争奪戦が勃発。

 結局、1541年にブダペストはオスマン帝国のスレイマン大帝による支配となり、ハンガリー国

 は3分割され、トランシルヴァニアはオスマン帝国の保護国となり、ハプスブルク家が継承した

 ハンガリー王国は首都をポジョニ(現在のスロヴァキア首都ブラチスラバ)に置いた。

 以後、この状態が約150年間続くことになった。



    これにて「知っている積りだったブダペスト」は終了です。

    これ以降の歴史については続報(2)として又の機会にしたい。



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ブダペストのバスたち

2019-03-06 14:16:20 | 海外生活

 ブダペスト市内を循環するバスには今、どのようなメーカーと車種が運行されているのか、

俄然興味が湧き市内を散策してみることにした。 よってこの情報は2019年3月時点のもので、

掲載した写真も特記した以外は3月2~3日に撮影したものである。

下記に列記する順番は、概ねBKV(ブダペスト交通局)のメジャーなメーカー順になるかと推定。

1.メルセデスベンツ (Mercedes-Benz)

 ● オーブダ (Ó-buda) を走る “シタロ (CITARO)-G”

   2016年より導入された3軸の連節バスで、座席42人+立ち46人乗り、

   Mercedes OM407(10.7L)265kw出力 エンジン搭載

 

 ● アルパード橋 (Árpád hid) 沿いを走る “シタロ (CITARO)”

   2012年より導入された2軸のソロバス、座席28人+立ち40人乗り、

   Mercedes OM906(6.4L)205kw 出力エンジン搭載

 

 ● バッチャーニ広場 (Batthyany tér) で出発を待つ “シタロ (CITARO)”

 

 ● ゲッレールトの丘 (Gellért-hegy) 下を走る “シタロ (CITARO)-G”

 

 ● デアーク広場 (Deák tér) で出発を待つ “コネクト (CONECT)-G”

  2015年より導入された空港行き直通バス100E、3軸連節バス、148人乗り、

  Mercedes OM470(10.6L) 265kw出力 エンジン搭載

 

2.ボルボ (Volvo)

 ● 空港行きバス100Eのもう一つの車種 “Volvo 7700A”

 3軸連節バス、104人乗り、Volvo D9B (9.4L) 265kw出力 エンジン搭載

 

 ● ゲッレールト広場 (Gellért tér) 前を走る “Volvo 7700A”

 

 ● オーブダのセントリーレク広場 (Szentlélek tér) に待機する “Volvo 7000”

  2015年より導入された、2軸ソロバス、座席30人+立ち57人乗り、D7C(7.2L) 199kw

 

 ● バッチャーニ広場 (Batthyany tér) の “Volvo 7000”

 

3.MAN(マン)

    ドイツ(ミュンヘン)が本拠のトラック、バス、建機等の大型車両メーカー

 ● オーブダのセントリーレク広場 (Szentlélek tér) の “MAN ライオンシティ”

  2018年より導入されている低床、低エントリー2軸ソロバス、座席37人+立ち47人乗り、

  MAN D1556 (9L) 205kw 出力 エンジン搭載

 

4.ヴァンフール (Van Hool)... ベルギーのバスメーカー

 ● アンドラーシ通り (Andrássy-út) を走る “Van Hool AG300”

 2009年より導入されている3軸連節バス、103人乗り、MAN D2866(12L) 228kwエンジン

 

5.カルス社(トルコのバスメーカー)

   くさり橋~王宮を巡る観光客に人気の通称城バス(#16)に使われている中型バス

 ● The Ritz Carlton Hotel 前に待機する “カルサン・アタック (Karsan Atak)” 

  2015年からの導入、2軸ソロバス、座席23人+立ち18人乗り、Fiat NEF4(4.5L) 137kw

 

 ● Four Seasons Hotel 前を抜け、くさり橋を目指す “カルサン・アタック”

 

6.ネオプラン・ポーランド (Neoplan Poliska)社

 ● ウルシュ・ヴェゼール広場 (Örs vezér tere) の “Solaris Urbino 10”

  2014年からの2軸ソロバス、座席25人+立ち34人乗り、IVECO F4AE(5.9L) 177kw

                                                                                             Feb. 17 2019

 

 

7.Evopro Modulo Medio Electric社(ハンガリー)

  ハンガリーで開発された電気バスをBKVが、2016年春より20台購入しブダペスト

  市内路線で実用供試中。

 ● くさり橋を渡る “Evopro Modulo Medio ” 

 

 ● バッチャーニ広場で出発を待つ “Evopro Mudulo Medio”

 

8.トロリーバス

 トロリーバスは、ペシュト側の道路上空に架線の設置された所のみの運行である。

 2006年頃までは、イカルス製バスを多く見かけたが、現在はそれに替わる次の2車種が大半。

 ● Solaris-Skoda Trollino-12

  Solaris とはポーランドのバスメーカーで、前出のNeoplan Poliska社製のバス名である。

  Skodaはチェコの乗用車メーカーでドライヴモータ(160kw出力)を提供している。

 2軸ソロバス、69人乗り                      Feb. 17 2019

    東駅 (Keleti pályaudvar)で出発を待つ “Trollino-12”

 

 ● Solaris-Skoda Trollino-18

 3軸の連節バス、139人乗り、Skodaドライヴモータ 250kw出力                Feb. 17 2019

  ウルシュ・ヴェゼール広場 (Örs vezér tere) で東駅まで折り返す “Trollino-18”

 

 ● イカルス (IKARUS)・バス ....まだ残っているかも知れないが未確認

 3軸連接バス Ikarus-GVM280T                       2軸ソロバス Ikarus 412T

   

                                                           Net wikipediaより写真拝借 

<補足>

ハンガリー国内には、イカルスというバスを製造していた老舗メーカーがあり、東側共産圏の

国々にも数多くバスを提供していた。 地方に行けば、まだ生きていると思うが、残念ながら

ブダペストではその雄姿を見ることは出来なかった。

  1895年に鍛冶屋のワークショップから、Imre Uhry が創設し、2度の世界大戦を乗り越え、

共産社会で繁栄してきた話はハンガリーの立身出世伝としてよく知られている。

実を言うと、もう20年以上前になるが、イカルスの工場 (Székesfehérvár)の社員食堂を

3ケ月ほど使わせて戴いたことより、一宿一飯の恩義もあって、その後のアイリスバス(仏)

による1999年の買収、2003年の工場閉鎖ニュースには、我が身のことのように心が痛んだ。

そこでイカルス・バスを探しに、かつての本拠地であったSzékesfehérvárに行ってみた。

 セーケシュフェヘルヴァールは、 Alba Volan社がバス運行の業務をやっており、2軸のソロ

 バスの殆どがイカルス・バスでしっかり活躍していることにポッコリした気持ちになった。

 

 Ikarus C56.42V2 という車両で、座席44人+立ち32人乗り、 デトロイトディーゼル

 DDC-S50 (8.5L) 205kw出力エンジン搭載。

                     

     これにて「ブダペストのバスたち」は、お終いです。

 

             

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