撮り旅・ヨーロッパ

ハンガリーを拠点にカメラ片手に古い教会を主に写真撮影の旅を楽しみ、そこで拾った生活、文化情報を紹介します。

ブダペストのMiniversum

2019-11-28 01:28:43 | 海外生活

 いつも長たらしいブログになってしまうんだけど、今回は短くを心掛けて、

特に文字が多いと読者は読み飽きるんでしょうね、判っているんだけど ......

昔、上司によく叱られました「お前のレポートは長くて、くどい」って、これって習性ですね。

さて、Miniversumって? 英語、洪語の辞書引いてみたけど無かった。 語の前に「a」の

冠詞がついていたので、洪語では「the」だから固有名詞ですね。 早い話がミニチュア模型セット

(ジオラマ)館の名前でした。

アンドラーシ通りのオペラ座の側で、ちょっと手前にあり、子供達ばかりでなく、小生のような

幼な心を捨て忘れた爺さんにも十分楽しめる所。 但し、同じ目線になることが肝要かと。

             .... 貼付画像はオランダ分を除き、すべてNov. 22 2019 に撮影

<Miniversumの入口>           

   Andrássy út 12

 入場料3,600Ft はちょっと高め。 但し、小生はシニアで 2600Ft. (14歳までの子供と同じ)

  

  もう35年も昔のことになるが、オランダのデン・ハーグという街にある「マドローダム」

 というジオラマに出張の帰りに寄ったことがあり、あれは戸外に造られていたけど、ここは

 ビルの中で、光源不足は致し方なしでピンボケ多数 

 

<マドローダムの思い出>

  当時はアナログ一眼レフ時代であったため、撮影日が明確にできないが、非常に感動した

 ことは鮮明に覚えている。                        1984 初秋

 

  Miniversumは、ハンガリーとオーストリア、ドイツの三国の都市をピックアップし、選択基準

はよく判らないが、決して大きく、有名な都市ではなく下記の場所をミニチュア化している。 

   1.ハンガリー ; Budapest, Győr, Pannonhalma, Sopron, Tata, Nagycenk

   2.オーストリア; Wein, Burgenland, Dürnstein

   3.ドイツ   ; Eisennach, Uelzen, Wartburg, Leuchtenburg

 

 ● ブダペスト西駅

 

 ● ブダペスト英雄広場

 

 ● ジュール (Győr)

 

 ● パンノンハルマ (Pannonhalma)

 

 ● ショプロン (Sopron) 

 

 ● タタ (Tata)

 

 ● ナジツェンク (Nagycenk) ...セーチェニ記念博物館

 

 ● ウィーン (Wein) 

 

鉄道好きには堪らない各国の列車モデルが楽しめる。

 ● ÖBB(オーストリア連邦鉄道)の貨車....at Burgenland (ブルゲンラント) in Austria 

 

 

 ● アイゼナハ (Eisenach) DB の操車場   

 

 ● ユルツェン (Uelzen) DB 構内

 

 ● DB(ドイツ鉄道)の貨車 .... at Wartburg (ワルトブルグ) in Germany

 

    これにて「ブダペストのMiniversum」は、お終いです。

    本ブログへのご訪問、有難うございました。

 

 

 


知りたいハンガリー近代史(1956年革命)

2019-11-25 19:00:22 | 海外生活

 今回は少し文字が多くなるが許して貰うことにしよう。 それは今まさに、世間を騒がせて

いる香港のデモと暴動、それにフランス、スペイン、イラクの反政府デモ、南米ではチリ、

ベネズエラと世界の各地で連鎖化している。 古くはここハンガリーでも建国史上、国民に

とって忘れることが出来ない民主化と独立を強く願った戦いが二つあった。

歴史は繰り返すではないが、それが中・東欧の社会主義諸国への連鎖、波及したという経緯と

ダブって見えてならない。

その二つの革命とは、

 ① 1848年3月15日 :オーストリアのハプスブルク帝国からの独立の為の革命

 ② 1956年10月23日:ソビエト連邦社会主義共和国連邦(ソ連)からの独立革命

その呼び方には、対象国の立場によって動乱、暴動、事件、紛争など様々のようだが、ハンガ

リーにおいては独立革命という呼び方に固執しており、二つの記念日は国の祭日となっている。

激動したハンガリーの近代史の中で、特に1956年の独立革命にスポットを当てたブダペスト

の街歩きと文献との照らし合わせで、もうちょっと深く理解したくなった。

(1848年の独立革命については又の機会にしよう)

 

1.1956年革命の勃発

  1953年3月5日の「偉大なる独裁者スータリンの死」が引き金になり、ハンガリーでも

 「小スターリン」と呼ばれた首相のラーコシ・マーチャーシュの独裁政権への反発と共産党

 の民主化運動が高揚し始めていた。 スターリンの後継指導者ニキータ・フルシチョフに

 よってハンガリーの後継者に抜擢されたナジ・イムレの目指す新しい共産党体制が、鬱積して

 いた労働者、農民と学生たちの不満ムードを後押しした。

 そして1956年の10月23日火曜日であった。 改革派分子達は改革のマニフェスト「16項目」

 を掲げ、デモを決行した。

 「16項目」の第1項目がソ連軍のハンガリーからの撤退であった(第二次世界大戦後からの

 ソ連支配に対する憤りも限界に達していたのである)

 午後3時にデモ隊はペシュトとブダの2箇所の集会所をスタートし、ベム広場で合流した後、

 国会議事堂を目指した。

 彼等の詩(1848年の革命時のペテーフィの『国民の歌』*1)を合唱しながらデモ行進した。

   *1 ; 立ち上がれ、ハンガリー人、国民はみんなに呼び掛けている

       何が起ころうと、今こそ立ち上がろう。

       自由人になるか、奴隷になるか、心が渇望する運命を選ぼう。 


 ① ペシュトの集会場所 

 3月15日広場でのペテーフィ銅像の周辺に12,000人の蜂起市民が集合    Nov. 23 2019

 

 ② ブダの集会場所 

 工科大学に集まった8,000人の学生がドナウ川沿いをベム広場に向かってデモ行進

                                       Nov. 23 2019

 

   ブダ側ベム広場 (Bem József tér) には 25,000人の蜂起市民が      Aug. 17 2019

 

 ③ 国会議事堂前のコシュート広場 (Kossuth Lájos tér)

  午後7時を過ぎると25万人に膨れ上がった。              Nov. 23 2019

 

 

  どうやら、かつての英雄の銅像を倒すという暴挙は独立革命の常道手段のようだ。

 唯一残された長靴のみの像が英雄広場脇に飾られ続け、人々は長靴広場などと呼んでいた

 らしいが、その像も1993年には郊外にあるメメント (Memento) 広場に移された。

2.動乱

 2-1. 第一次動乱

  10月24日未明より、ソ連軍は 6,000人の将兵と700台の戦車でデモを鎮圧開始した。

 そして10月27日までの5日間、自由闘争戦士とハンガリー治安部隊+ソ連軍が血を流す闘争

 を繰り広げた。 但し、ソ連軍は積極的な軍事介入ではなかった。(ハンガリーを支援する

 西側諸国との政治的な駆け引きで嚇しが目的であった。)

 <紛争の舞台>

   

 

 

 ① セーナ広場(現在の Széll Kálman tér)

    上記の写真と同じ場所                      Nov. 22 2019

  通称 “サボーおじさん” が指揮官として活躍していた地区で、マンムート (Mammut)

 モール裏の路地 Lövőház 通りに掲げられているモニュメント。(後に彼は死刑となった)

 

 ③ コルヴィン横丁

  武装抵抗の中心的な拠点で、ソ連軍が最も恐れた激戦の地区であった。

 道路の向かいにはキリアーン兵舎があり武器の調達や兵士の中には蜂起者や指導者になった

 者もいた。 又、地域的にもソ連軍の戦車が入り込めない過密住宅の迷路と地下道に繋がっ

 ておりゲリラ戦に適していた。 

 コルヴィン横丁入口(キリアーン兵舎側から見る)         Nov. 09 2019

 

   コルヴィン横丁内の映画館                      Nov. 09 2019

 

 キリアーン兵舎(コルヴィン交差点)

   指揮官のパール・マレーテルはナジ・イムレの側近で国務相を務めており、この兵舎で

  指揮官をしていたので戦いのプロでもあった訳である。 (後にナジと共に死刑となった)

                                   Nov. 09 2019

  

 現在の兵舎の中庭(建物内はほとんど使われていない模様)

 

 ④ メシテル (Mester) 街と左横の路地を入ったフェレンツ広場        Nov. 09 2019 

      

 ⑪ カールヴィン広場 (Kálvin tér)                                                        Nov. 09 2019

                                                        ソ連の支配権力を象徴する星のマーク

   が撤去された(1956年10月24日) 場所は定かでないが上記写真の旧UNIONビルと推定。 

   

 ⑮ モーリツ・ジグモンド環状広場 (Moricz Zsigmond Körtér)

                                                                                                Nov. 23 2019

 

 2-2. 第二次動乱

  10月28日(日)にソ連軍との間に休戦が合意に達し、翌日よりソ連軍はブダペストから撤退

 を開始した。 大勢のブダペスト市民は革命は勝利に終わったものと勘違いしてしまった。

   分捕ったソ連戦車の上で国旗を振る戦士達

 

  しかし、11月1~2日にソ連軍は、一旦引き上げた軍隊をハンガリーに引き返させ、侵攻を再開。

 クレムリン上層部の決定は、ソ連の軍事介入は他の衛星国を手放さない為の必要手段ということで

 あった。 

 すぐさまハンガリーナジ政府はワルシャワ条約機構から脱会し、中立国宣言をして、西側列強諸国

 からの支援と国連に中立擁護の要請をしたが、英+仏+イスラエル対エジプトで燻ぶっていた

 スエズ運河の利権を巡った第2次中東戦争が勃発(1956年10月29日)したことに加え、 

 頼みの米国アイゼンハワー政権はソ連との政治的な駆け引きによって不干渉政策を選んだため

 万事休する結果となった。 

 11月4~5日にソ連軍の情け容赦ない砲撃が終えると市民は隠れていた場所から姿を見せ始め、

 一気に動乱に終止符が打たれた。

 

 ナジと側近、その家族を含めた39人の避難者はユーゴスラヴィア大使館に11月4日~22日まで

身を寄せていたが、ソ連軍司令部により身柄をルーマニアに移され 1957年4月14日にハンガリー

警察に逮捕されるまで拘束された。 逮捕後はブダペストの中央刑務所に送られ留置された。

 <ユーゴスラヴィア大使館(現セルビア)>             Nov. 23 2019

 

 <ソ連軍の軍事介入の足跡>

 

3.結末

  事後の人民(報復)裁判によって、首相のナジ・イムレと側近たちは1958年6月16日に

 絞首刑となり、その遺体は刑務所の中庭に埋められ、4年後に隣接するケレストゥール

   (keresztúr) 共同墓地に密葬され、1988年まで家族達は墓を訪れることは許されなかった。

 民主化が成就した1989年の再裁判により無罪となり、英雄広場での国葬の後、東駅脇にある

 ケレペシ (kerepesi) 共同墓地に再埋葬された。           Nov. 23 2019

 

 犠牲者たちの名前が刻まれた墓標

 

 つごう330人が死刑を言い渡され、25,000人が投獄された。 この動乱では2,600人の死者と

20万人の亡命、難民が西側諸国に流出、なんて大きな代償であったことか。

この動乱の後、クレムリンの傀儡政権としてヤーノシ・カーダール(ナジ革命政府に参加したが

11月1日に政府を裏切りソ連についた)はハンガリーの最高指導者として、共産党を社会主義

労働党と名を替えて、その第一書記として32年間も、再び共産党単独の独裁的政策を続けた。

それは国民にとっての長い「集団的記憶喪失」または「自発的沈黙」の期間であったと云える。

新しい民主化の波に乗って、1989年10月23日にハンガリー共和国憲法は変更され、多党制の

ハンガリー第三共和国が誕生し、真の独立が33年後に実現したことになる。

さて、香港や他の国々の結末がどうなる事かと固唾を飲んでおり、ハンガリーと同じような悲劇

が起こらないで欲しいと願っている次第である。

 

 <参考文献>

   ● 「ハンガリー革命1956」   ヴィクター・セベスチェン著 (吉村弘訳)    白水社 

   ● 「1956年のハンガリー革命」   リトヴァーン・ジェルジ著  (田代文雄訳)   現代思潮新社 

         ● 「In The Shadow's Boots」   Visitors' Guide Book to Memento Park

 

    これにて「知りたいハンガリーの近代史(1956年革命)」は、お終いです。

   本ブログへのご訪問、有難うございました。


国8沿線(4)セーケシュ市のボリ城

2019-11-19 11:53:27 | 海外生活

 国道8号線(E66)のみ、どういう訳かブダペストを起点にしていないことは前述した通りで

Székesfehérvár(セーケシュフェヘールヴァール)と舌を噛みそうな長い名前の街を起点にし

ている。 恥ずかしい哉、その名を発音して未だかつて一回でネーティヴに通じたことがない。

その起点位置もM7(高速道路)のジャンクション整備により、60Km 出口地点から64Km地点

に数年前変更になったので、今回紹介するボリ城は厳密な意味では沿線でなくなった事になる。

 

Székesfehérvár 市は国8沿線では一番大きな街で、各方面から他の国道が放射線状に集まる

建国時の古都でもある。 歴代の国王が戴冠式をやったり、埋葬されたりしたハンガリー国内で

8箇所あるキリスト教の司教座の一つであった。 人口は約10万人で数の面からは、国内9位

の大きさである。

以前すでに、このブログで取り上げた(2013 03/03投稿)ので、最近の街の様子のみとして

ボリ城に特化したい。                                                                           Nov. 17 2019

  ボリ城 (Bory Castle) の所在地は街の郊外、北側にある住宅地の中にある。

1.セーケシュフェヘールヴァール (Székesfehérvár) 市街

  昔は城壁に囲まれていて、こちらが裏門であったが、今では脇に国道63号線が通って

 正面のようになった。                        May 19  2018

 

 反対側にある大聖堂(11世紀初頭に建造され、今は遺跡)の門が本来の正門であった。

 

 オスマン・トルコ軍の来襲で瓦礫に埋まったが、現在は遺跡公園となっている。

 

 旧城壁内には市庁舎、教会、博物館等、昔ながらの美しい中世の町並みが残っている。 

 

 ひと際高い街のランドマークであるバジリカは聖イシュトヴァン大聖堂。

   May 19 2018 

 

2.ボリ城 (Bory vár)

  城と云っても実際の城だった訳でなく、建築家であり彫刻家のボリ・イェネー (Bory Jenő)

 によって40年間掛けて造られた、いわば「お伽のお城」のような夏の休暇用コテージであった。

 彼の妻イロナ (Ilona Komócsin) も又、画家であった。

 Bory は1947年よりリタイアし、ここに居を移し、せっせと自分達の作品を製作し飾り続けた。

 Bory は1959年 80歳で、Ilona は1975年 89歳で他界した。

 ● ボリ城入口                   Nov. 17 2019 (以下の写真はすべて)

 

 ● ボリ城前庭

 

 ● 中庭 .... 主に彫刻が多い、ギャラリー

 絵画は妻イロナの役割

 

 ● 二人のアトリエ

 

 ● お城風の塔

 客室だったのだろうか? 各部屋には妻イロナの絵画が多く飾られている。

   

 

 テラスからは市街地が微かに望める。

 

 ● どうでもいい補足事項

 ハンガリーに来て最初に住んだ(1997~2000年)所がこの近所、時々の散歩コースであった

 白鳥でなくって、黒鳥だこりゃー。

  バーニャ湖 (Bánya-tó) という深い池で、昔は何かの鉱石を掘っていた採掘場で、突然に

 水が湧き出して来て、商売にならないので町民の憩いの場になったようだ。

 ここに生きたという証として、写真を残しておこう~ト。

 

  これにて「国8沿線セーケシュ市のボリ城」は、お終いです。

  本ブログへのご訪問、ありがとうございました。

 

「ハンガリーでのんびり」

  


晩秋の散歩コース

2019-11-16 15:25:13 | 海外生活

 先日、ブダペストの街中を歩き回っていて懐かしい場所にふと足を止め、シャッターを押し

たくなったその場所は昔、この近所に住んでいて毎日のようにジョギングをしていたドナウ川

河畔であった。                            Nov. 09 2019

 どの時間に行っても必ず同好の士は走っていて、挨拶を交わし合う友も出来たものだった。

 あの頃は、一応走り切るだけの体力はあったのだ。

  ♪ 砂利道を駆け足で、マラソン人が行き過ぎる、まるで忘却望むように....と五輪真弓を

  口ずさみたくなるような光景。

 

 そんな光景を見ていたら、今はとても「走り切る」という体力もなくなり、もっぱら「歩き」

になってしまったが(情けねぇ~ )、最近のコースを撮って自分がハンガリーで生きた証を

残しておきたくなった。

<スタート地点>                                                                               Oct. 06 2019

 スタート地点のみ、快晴日の写真を使用し、以下は Nov. 15  2019 に撮影したものである。

 

<0.5 Km 地点 >

 

<1 Km 地点 >

 ♪ 踏み切りの側に咲く、コスモスの花(花らしき物は全くなく枯葉ばかりだが)ゆらして、

  貨物列車が走り過ぎる、そして夕陽に消えてゆく.... 思えば遠くへ来たもんだ、この先

  何処まで行くのだろう.....   ここで又、海援隊が口をついて出る。

 

 ● 湖畔沿いの道に降りる

  

 

<2 Km 地点 > 

 又、また五輪真弓が出てくる ♪ 枯葉散る夕暮れは、来る日の寒さをもの語り、雨に壊れた

 ベンチには.......

  

<3 Km 地点 >

 

<4 Km 地点 >

 夏に賑わっていたビーチ (Strand) も、今は人っ子一人いない。

 

<5 Km 地点 >

  生憎の悪天候で、日暮れがいつもより早くやって来た。 生まれつき朝は苦手な人種だから

 散歩はいつもこの時間。

 駅に向かう坂道

 

<5.5 Km 地点 >

  スタート地点に戻り(p.m. 4:30)、合計距離6km 、所要1時間弱の最近の日課である。

 

 気力だけは、まだまだと思っていても体力って正直なもの。 若い時は大会で競えるほど

速く走ることが出来たのに、歳と反比例でスピードの方は次第に減速、そして急歩になって、

終いには両腕を背後に組んだ老人歩きになることだろう。

でも、この散歩が出来なくなった時がお迎えの時かと思うと頑張るしかない。

 

  これにて「晩秋の散歩コース」は、お終いです。

  本ブログへご訪問下さり、ありがとうございました。

 

「ハンガリーでのんびり」   


ブダペストの市(いち)

2019-11-10 13:48:37 | 海外生活

 古今東西、町の成り立ちと発展には、シルクロードの街道沿いに栄えた前例を引き合いに出す

までもなく、いち(市)が重要なファクターであったことは言うに及ばないことだが、ブダペスト

にはそのような場所が何処にあったのだろうか、探してみることにした。

ブダペストの街の発展に寄与した市(いち)というものは、国王が与える特権によって開設され

ており、規制と開催日を定めた13世紀中頃にベラ四世がペシュト市に与えた特許状が始まりで

あった。...蛇足ながら織田信長がそれに似た楽市楽座を、当時の鎖国状態に近い希薄な情報量の

     世の中で実践したという先見性には改めて驚愕してしまう。


1.13~15世紀にペシュトに存在した市場

 ① 干し草市場

 街が市壁に囲まれる以前は市教区教会前の広場にあった。         Mar. 03 2019

 

  市壁が出来た(1255年)後、現在のカールヴィン広場に移された...市内に干し草や藁を

 入れることを嫌った為。                        Nov. 09 2019

   国立博物館前に市(いち)は移された。

 <当時の市場>

 

 <13~15世紀のペシュト市街地図>

 

 ② 小麦市場

  市教区教会の隣なりにあった市庁舎前の広場に市(いち)は開催されていたが、エルジェー

 ベト橋を建設する為に、市庁舎を取り壊した(1890年代)。

 因って、現在は全く跡形もない。

 

                                    Aug. 29 2018

    

 ③ 家畜市場

 ハッキリした場所は明確ではないが、13世紀半ばにフランシスコ教会の裏手にあったらしい。

 家畜市場も後年、市壁の外に移された。                 Aug. 17 2019

 

 ④ 荷揚げ市場

  現在、くさり橋の対面に建っているフォーシーズンズホテルの辺りに荷揚げ市場があった。

 この場所はフォーシーズンズホテルがブダペスト市から2001年に買収したが、その前は

 ロンドンの生命保険会社グレシャムが1906年にアールヌーボー様式で建てた宮殿があった。

 第2次世界大戦後はソ連赤軍が住居として使っていた。

 グレシャム宮殿の前は、1827年に新古典派建築で建てられたナーコー家の邸宅であったので

 それ以前は、平地で荷揚げ市場が開かれていたと推定される。

                                      Nov. 09 2019

        

 ⑤ 木材市場

 国会議事堂の建設が始まったのが1885年(完成は1904年)であるので、それ以前は

 前述の荷揚げ市場と同時期に、この辺に木材市場があったようだ。     Nov. 09 2019

 

 ⑥ 石炭市場

  ペシュト市壁のすぐ外のデアーク広場の中にあって、ドナウ川の舟橋から市壁に沿って

 石炭を運んで商売が行われていた。 後にこの地にはルター派の教会が1799年から建築が

 始められ1811年から宗教活動が開始されるまで市場は続いた。     Nov. 09 2019

 

 ⑦ 新市場

  石炭市場は姿を消し、それに隣接する形で18世紀後半に、現在のエルジェーベト広場に

 ヨーロッパで最も大きな市場が登場した。 この場所はヴァーツィ門の外にあった墓地で、

 エルジェーベト広場と呼ばれるようになったのは1856年以降であり、それ以前は新広場

 (Uj-tér) 又は新市場 (Uj-vásár) と呼ばれていた。           Nov. 09 2019

 <当時の新市場>

 

2.ブダにあった中世の市場

 <15世紀のブダ市のロケーション>

 

 

 ⑧ 日常市場(現在のマーチャーシュ教会横の三位一体像辺り)

  三位一体広場と呼ばれるようになったのは19世紀からで、それ以前は「市(いち)広場」

 と呼ばれていた。                      May 06 2018

  

 

 ⑨ 土曜市広場

 ウィーン門横にあるカピストラーン広場の中に市(いち)が開かれていた。

 公文書館前にある公園                        May 06 2018

 

 ⑩ 聖ジェルジ市場

 ケーブルカーで登った所にある聖ジェルジ公園に市(いち)は建てられていた。

 当時は聖ジェルジ教会がここにあった。               

                                    Nov. 09 2019

 

 <参考文献> 

  写真以外のイラストマップ、古い画像は、南塚信吾氏著「ブダペスト史」(2007発刊)

  より拝借致しました。

          

        これにて「ブダペストの市(いち)」は、お終いです。

   本ブログをご拝読下さり、ありがとうございました。

 

「ハンガリーでのんびり」