撮り旅・ヨーロッパ

ハンガリーを拠点にカメラ片手に古い教会を主に写真撮影の旅を楽しみ、そこで拾った生活、文化情報を紹介します。

アドリア海の街と教会(8)Dubrovnik-2 

2018-03-21 18:28:21 | 旅行

 見どころ満載なドゥブロヴニクでの追加版として、一周 1.9km 、高さMax. 25m の城塞壁

の上に巡らされた遊歩道から見た風景を最後に掲載したい。 

              「紅の豚」はドゥブロヴニクを飛ぶ。


<写真撮影のポイント>

市街地東側

 

ボカール要塞(西側)からの景色

 対岸の堅固なロヴリイェナツ要塞が望める。

 

ミンチェタ要塞(北西側)方向

 西側市街地とスルジ山(403m)を望む

 

  山頂にはナポレオンから贈られたと云う白い十字架と独立戦争展示館(左)がある。

 

 Ⓓ 城壁南側

  

 

城壁東側

         城壁の外にはカフェもある

 

ロクルム島を眺望

 島内にはベネディクト会修道院や植物園もあり、日帰りの探索コース

 

Ⓖ 旧港を眺める

 

 旧港にトバリが下りる

 

Ⓗ 城塞北側から東側市街地を望む

 

Ⓘ ミンチェタ要塞付近からの市街地全景

 

Ⓙ 狭い階段のある路地

 

Ⓚ プラツァ通り

 雨で濡れたような大理石の石畳が中世への旅の情緒を醸し出してくれる。

 

Ⓛ ブジャ門

 旧市街地第2の門(北側)

 

 これにて「アドリア海の街と教会(8)Dubrovnik-2」を以って、アドリア海はすべてお終い。

 

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アドリア海の街と教会(7)Dubrovnik-1

2018-03-19 08:26:58 | 旅行

  ドゥブロヴニク市の人口は43,000人ほどでクロアチア国内では11番目である。

市街地には28,000人ほどが住んでいる。町の起源は他のアドリア海沿岸の都市と同様、

4~5世紀のローマ帝国の侵攻から都市化が本格的に始まった。

他とちょっと違う点は、6世紀に東ゴート王国が崩壊後、ビザンチン(東ローマ)帝国

→ヴェネツィア共和国の支配下の後、1358~1808年まで海洋独立国家ラグーサ共和国

として発展を遂げた。 その後は他の都市と大差ない歴史をたどる。

但し、1667年に襲った壊滅的な大地震と、1991年のユーゴスラビアからの独立戦争で

歴史的な建造物の大半は破壊され、世界遺産存続の為に1995年以降に復興、再建された。

 

<旧市街マップ>

◆ ピレ門

 旧市街には4つの門があるが、正門と云ったらこの門であろう。

 

 門の上でドゥブロヴニクの守護聖人である聖ヴラホの彫像が出迎えてくれる。

 

◆ 聖救世主教会 (St. Saviour Church)

 ピレ門を入って、城壁を潜るとまず目に飛び込んで来るのが、真っすぐ伸びた

 メイン通りのプラツァ通りで、その始まりが聖救世主教会である。

 1528年にルネサンス様式で建てられ、1667年の大地震で残った数少ない一つである。

 

 さすがにファサードの丸窓、彫刻は年季物。

 

❷ フランシスコ会修道院

 14世紀に城壁の外に建てられたが、外敵の攻撃から守る為に、今の場所に移されたが、

 現在の物は1667年の大地震の後に再建されたものである。

 

  右側の門には、イエスを抱きかかえる聖母マリアの彫刻等が目を引く。

  

 

❸ オノフリオの大噴水

 聖救世主教会の前の広場にある噴水というか水汲み場というか。

  ユニークな蛇口がいっぱい。

 

➍ 聖クレア修道院

 13世紀末に女子修道院として建てられ、孤児院としても使われてきた。大地震後に再建。

 

メインのプラツァ通りを東に下って行くと、中世にタイムスリップしたような町並みが満喫

出来る。 時計台付き鐘楼に突き当たった所が、最も賑わうルジャ広場(夏祭りは超賑わい)

  

 

 鐘楼と鐘突き男ゼレナツ

 

  プラツァ通りを横に交差する多くの細い路地

  

 

❿ スポンザ宮殿

 1516年に通関所や倉庫としてルネサンス様式で建てられたが、現在は公文書館で使用。

 

  内部

 

⓬ 聖ヴラホ(聖ブラシウス)教会

 ドゥブロヴニクの守護聖人ヴラホに献堂する為に建てられた。

 現在の教会は1667年の大地震の後に、1715年にバロック様式で再建されたものである。

 

⓭ ドミニコ会修道院

 ロマネスク、ゴシック、ルネサンス様式を折衷した構想で15世紀に建てられた。

 

 門は美しいゴシック様式。

 

⓮ 旧総督邸  ⓯ 聖母被昇天大聖堂

 左が旧総督邸でラグーサ共和国時代の総督住居と行政関係庁舎。 向うが大聖堂の側面

 

 オリジナルの大聖堂は1192年に建てられたらしいが、大地震後17世紀に再建された。

  

 

 グンドゥリチ広場;大聖堂の西隣なりに有って、午前中は青空市場が近隣住民で、

          午後はレストラン、カフェ等が観光客で賑わう。

 

◆ 聖ルカ教会と受胎告知教会

 聖ルカ教会;古いクロアチアの教会でオリジナルは9~11世紀にかけて建てられた。

 受胎告知教会;1534年に創立、18世紀に再建された。(後ろの高い建物)

 

 門の上に飾れれている聖人達の彫刻は15世紀に造られたものだが、教会は1786年に再建。

 

◆ カーメルの聖母教会 (Church of our Lady of Mt. Carmel) 

 大聖堂の東隣なりに佇む小さな教会。 1630年頃に建てられた。

  

  これにて「アドリア海の街と教会(7)Dubrovnik-1」は、お終いです。

  次回のDubrovnik-2 に続く。

 

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アドリア海の街と教会(6)

2018-03-15 13:47:29 | 旅行

   最後の目的地はドゥブロブニク、どこでも美しい地の代名詞 “.....の真珠”という俗称を

既に戴いている。 数ある世界の真珠の中で、ここは間違いない世界有数の景勝地であろう。

それはドゥブロブニクだけに限らず、ダルマチア地方全体の総称として宝石の一群と言える。

そういう観点から、まずは道中各地の風景を辿ってみたい。

            地名についてのカタカナ表示に誤りがありましたらご容赦下さい。(自信なしにつき)

① ゴルニャ・プロチャ (Gornja Ploca) 付近

 高速道路A1のボシリィエヴォ (Bosilijevo)より、ダルマチア地方へ入る手前は、もう

 3月だというのにいまだに雪が残っていた。

 右手の特徴ある形状の山は、Zir山(850m)、向こうがアドリア海の尾根 Velebit 山脈。

 

<旅のルート>

 

② マスレニツァ (Maslenica)

  高速道路A1の Zadar-1 出口手前9km地点で、国道8号線と合流する付近一帯は、

  クロアチアの最大のフィヨルド地帯で一大景勝地である。

写真上にはヴェレビット(Velebit)山脈が連なる。山脈の向こうとこちらが雪有無の分岐点だろう

 最も高い山がスヴェト(Sveto)山で標高1751m、麓に若干、雪が見られるが、山の地肌は

 白いが雪ではなく、石灰岩だろう。 

 

③ スクラディン (Skradin) 付近

 橋の向こうに見える町は静かなリゾート地

 

 サービスエリアからは湖とアドリア海を眺めることが出来る。

 秋に訪れた時の、紅葉模様もまた絶景。

 

④ ブラトー・ナ・ツェティニ (Blato na Cetini) 付近

この辺りは豊富な石灰岩の採掘エリアなのだろう。山は近郊で最も高いMiletnjak山(1619m)

 

 高速道路沿いにある採石場

 

⑤ ブレラ (Brela) 付近

 高速道路A1をセスタノヴァク (Sestanovac) で下り、海岸沿いの国道8号線に向かう。

 海岸手前 G/Brela 村に興味深い形の山を発見(名前不明、876m)

 

  海岸にぶつかると、息をのむ岬の大パノラマの出現、麓を走るのは国道8号線。

 

 ここからはハンドルを右に左に、海岸沿いをつづら折り。

 

⑥ マカラスカ (Makaraska) 付近

 この付近は海岸と山が接近しており、海と山の両方を楽しむことの出来るリゾート地として

 非常に多くの避暑観光客を集める。街もドゥブロヴニクに次ぐ大きさで人口は14,000人。

 

⑦ バチナ (Bacina) 付近

 この辺りは海岸より遠ざかり、山の中に入るが穏やかな湖と村に遭遇出来る。

 

⑧ ポロチェ (Ploce) 付近

 ここは、何なんだと思ってしまう町(水郷の町?、水耕?、養殖?、製塩?)

 

⑨ コミン (Komin) 付近

 水量豊かなネレトバ川の流域で、果物の生産が盛んで、道路端に多くの直売所が立ち並ぶ。

 

⑩ クレク (Klek) 

小島に建っている四角い建物は灯台?  または通行料徴収所(他の国にもあったような)

 

⑪ ストン (Ston) 側国境検問所

 青い建物はクロアチアの検問所で、ボスニア・ヘルツェゴビナの国境はその先。

 

 橋の右側はビストリーナ (Bistrina) 湖で山の向こうはボスニア・ヘルツェゴヴィナである。

 

⑫ ドリー (Doli) 付近

 海に散りばめられた離島美

 

⑬ スラノ (Slano) 付近

 筆舌に尽くし難い、入り江と山のコントラスト

 

⑭ ブルセチーネ (Brsecine) 付近

    離れ小島に育まれた松(?)が癒しを与えてくれる。

 

⑮ グルージュ (Gruz) 湾

 グルージュ湾に掛かる近代的な橋梁とフェリー埠頭

 

 長距離バスターミナルは旅人の玄関口

 

⑯ ドゥブロヴニク (Dubrovnik) 旧市街

 待望の「魔女の宅急便」「紅の豚」のモデル地に到着!

 

      これにて「アドリア海の街と教会(6)」は、お終いです。

 

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ウィーンの街と教会(3)

2018-02-11 09:46:47 | 旅行

  映画「第三の男」での名シーンといえば、プラーター遊園地と墓地のラストシーン

でしょう。 敗戦で遊園地でもあるまいにといった人っ子一人いない舞台設定はある意味

で戦争批判なんだろうか? そして当時のままのゴンドラの姿、形を今も頑なに使って

いることもあの悲惨な戦争体験を風化させない為とも解釈出来る。

12.プラーター遊園地(郊外)

 1766年にハプスブルク家のヨーゼフ2世が市民の為に開放したことから遊園地は

 始まった。 1873年(明治6年)に、ここで万国博が開催され日本の陶芸技術が

 ハンガリーにも広がったということより、我々に関係の深い所でもある。

 

大観覧車Riesendradは、1897年にフランツ・ヨーゼフ皇帝即位50年を記念して作られた。

直径61m、高さ65mの大きさである。

 

当時のままのスタイル、形状を守っているゴンドラ。

 

13.中央墓地(郊外)

 1874年のウィーンの都市計画の一環として造られたヨーロッパで2番目に大きい市営墓地。

 墓地の入口が数か所あるが、第2入口 (2. tor)が楽聖達が眠る「名誉墓地」に近い。

 

入り口をはいると、真っすぐ伸びた舗道がカール・ボロメウス教会まで続いており、

左側手前の「第32区A」が楽聖達が眠る墓地である。

 

● 名誉墓地に眠る楽聖達の墓

 

    ベートーベンの墓           モーツァルトの墓

  

                    

    シューベルトの墓         ヨハン・シュトラウスの墓

     

 

● カール・ボロメウス教会と両翼を広げる霊廟アーケード

 教会はカール・ルエーガー市長により1908~1910年に建てられ、2000年から聖ボロメウス

 を祀るということでカール・ルエーガー教会という名称がボロメウスに替えられた.

 

●「第三の男」で使われた並木道

 直線距離の長い道だったのでカール・ボロメウス教会裏の墓地間の通路が使われた

 ようだ。 探してみたが、同じような道ばかりで、此処だと断定出来なかった。

 映画の脚本を原作のハッピーエンドから、真逆の哀愁と悲劇性に変更したのが当たった。

 世界中が疲弊していたこの時代の世情に、ぴったりフィットしたのだろう。

 それにアントン・カラスのあのメロディも大きな援護弾であったことは言うまでもない。

 それと原作ではアンナ・シュミットはチェコ人でなく、ハンガリー人であったことは

 興味深い。

 

<その他のウィーン市街地の教会>

● ミノリーテン教会(市庁舎そば)

 ミノリーテンとはあまり聞かれない名前であるが、フランシスコ会から枝分かれした

 修道会だそうで、教会は1276~1350年に建てられた。 1782年より皇帝ヨーゼフ2世

 の命により、「マリアの雪」イタリア国際教会の所有となる。

  

 

 内部は荘厳な石造り

  

 内部にレオナルド・ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」のモザイクレプリカがある。

 

(参考)市庁舎

 

● ミヒャエル教会(王宮広場脇)

 1220~1240年に後期ロマネスクと初期ゴシック様式の混在する形で建てられた。

 1792年に改築したものが現在の姿である。

  

 

 主祭壇に雪花石膏と化粧漆喰を使ったロココ調の彫刻「天使降臨」は逸品。

  

 

(参考)王宮の入り口門

 

● イエズス会教会(シュテファン大聖堂の東側)

 オリジナルは1631年に建てられ、1705年頃に今の姿に改築された。

  

 

 ピンクやグリーンの色彩の大理石を使った美しい内装である。

 天井はドームのフレスコ画のように見えるが、騙し絵になっておりドームではない。

  

 

 入口側の身廊の2階には2004年に設置された美しいパイプオルガンがある。

  

 

● ドミニカ会教会(シュテファン大聖堂の東側、中央郵便局のそば)

 オリジナルは、1237年にドミニカ会修道士たちによって建てられたが、オスマン・

 トルコ軍の攻撃で破壊した。 その後、1634年にバロック様式で再建された。

  

 

 祭壇と天井ドームのフレスコ画は素晴らしい。

  

 

● フランツィスカーナ教会(シュテファン大聖堂の南側)

 この地区はウィーンの市街地で最も古く、教会は17世紀の初頭に建てられた。

 教会前の広場には「モーゼの泉」や古いカフェなどがありロマンチックな場所らしい。

 広場は工事中(2018, Feb.)

  

 

 

         これにて、「ウィーンの街と教会」は、全てお終いです。

 

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ウィーンの街と教会(2)

2018-02-07 11:07:10 | 旅行

 第二次世界大戦後、ウィーンは連合国(米、英、仏、ソ)によって4分割統治され

ていたことは前回で話した通りであるが、映画「第三の男」の冒頭で各国の統治区域

の映像が、これも数秒ながら映し出されたが、まずその場所を明確にしよう。

1.アメリカ統治区域;ヴォティーフ教会

  映像はこのアングルであった。 1879年にネオゴシック様式で建立。

  

   塔の高さは99m、 正面ファサードは工事中(2018 Feb. 時点)。

 

  南門も美しく、豪華。

  

 

  主祭壇

  

 

  正面入り口側、身廊

  

 

2.英国統治区域;シェーンブルン宮殿

 1696年より建築が始まったが、1743年からのマリア・テレジア時代での大幅な改築

 により、現在の姿になり、ハプスブルク家の夏の離宮となる。反対側に庭園が広がる。

 

3.ソ連統治区域;ベルヴェデーレ宮殿

 映像ではこの門(南門)が映っていたようだ。

 

 門を入ると上宮である。 中(2階)にはクリムトの作品が展示されている。

 宮殿は数々の戦いの英雄プリンツ・オイゲンの夏の離宮として建てられた。

 下宮は1716年に、上宮は1723年に完成した。 1752年にハプスブルク家に売却された。

 

4.フランス統治区域;ウィーン西駅

 西駅は二度の大再建(1754年と2011年)により、面影が全くなくなっている為、割愛する。

 

ナレーションが終わり、ホリー・マーティン(ジョセフ・コットン)がウィーン西駅に着き、

直ぐに、友人ハリー・ライム(オーソン・ウェルズ)の住まいを訪ねるところからストーリー

は始まる。

5.ハリーの住まいとヨーゼフ広場;

  パラヴィッチーニ宮殿をロケに使っており、現在も健在。

  

 

ハリーがトラックに轢かれて死んだという場所(ヨーゼフ2世像前)...身代わり殺人である

 

● アウグスティーナ教会(広場内にある);

 1339年に建てられ、1634~1918年まで宮廷の教会として、ハプスブルク家の結婚式に使用。

  

 

  身廊の長さは43m、高さ20m

  

 

 身廊の入り口側

  

 

6.Hotel Sacher;ホリー・マーティンが泊まっていたホテル

 1876年創業の老舗、世界中に知られたザッハートルテ(生菓子)は玄関横の店舗で買える

 

(参考) Hotel Sacher の向かいが国立オペラ座である。

 

7.カフェ・モーツァルト;クルツ男爵との待ち合わせ場所

撮影はホテルザッハーの1階ということになっているが、当時ホテルの損壊がひどく、ロケを

やれる状態ではなく、3ブロック北のノイア・マルクトにセットを組んで撮影したらしい。

 

8.ルプレヒト教会横の階段;

 ハリーの住まいの管理人が殺され(口封じの為)、マーティンが下手人として疑われ、

 ハリーの恋人アンナ・シュミット(アルダ・ヴァリ)と共に逃亡するルート。

「ルプレヒト教会」はウィーンで最古の教会で740年頃に建てられ、塔は11~12世紀に追加。

 

9.ハリーが生きていると思った瞬間と場所;

   マーティンが物陰に潜む追跡者に対して、「出て来い!」と叫ぶ、ビルの一室に灯りが点り、

 「うるさい! 何時だと思っているの!」というようなご婦人の罵声と同時に、そのコモレ灯

 が向かいのビルの扉に隠れているハリー・ライムの顔だけを浮かび上がらせる。 

 なんと素晴らしい演出といつまでも記憶に残るシーンだったので、是非ともその場所を写真

 に収めたいと願っていたが、残念ながら、その場所を探し出すことが出来なかった。

 帰りの電車の時刻も迫るし、おまけに寒いしで、Judenplatz の方が断然、ピッタリの場所

 と勝手に自分自身で決めて引き上げることにした。

 後で、ネットでベートーベンの住んでいたパスクァラティハウスの裏の路地だと知ったが、

 アンナの飼っていた猫の行動範囲や灯りが点いたビルの距離より、やはりJudenplatz の方

 が現実性があるような気がするが、正解はネットの通りだと思うけど、またいつか確かめに

 来る機会があることだろう。

 

 ユーデンプラッツ (Judenplatz)          朱線のようにコモレ灯が射したら....

                                                                              

10. アム・ホーフ (Am Hof);

      マーティンがハリー・ライムを追いかけて見失った広場がアム・ホーフである。

  モニュメントの向こうがアム・ホーフ教会。

  教会は、1386~1403年にカルメル会によって、ゴシック様式で建てられたが、広場自体

 はローマ時代から存在し、バーベンブルグ時代にはロマネスク様式の宮廷礼拝堂が居城と

 共にこの場所にあった。 映画では地下下水道に通じる広告塔があったが今は見当たらない。

 

11. ホーエルマルクト (Hoher Markt);

   キャロウェイ少佐(トレヴァー・ハワード)達がハリー・ライムを張り込んでいた広場。

 向こうのビルの角にマーティンが囮として、待っていたCafe Aurel があったようだ。

 

   モニュメントの向こう側が、風船売りが立ち止まっていた場所ではないだろうか。

                                                               

<参考>

上の写真で向こうのビル2つを渡り廊下で結んだ所に有名なアンカー時計がある。

    


<周辺の教会>

● ペーター教会

 オリジナルの教会は、4世紀には既に存在しており、歴史的にはウィーンで

 最も古い教会といえるだろう。現在の教会は1733年に改築されたものである。

 

 祭壇部  バロック芸術の傑作

 

 「マリア昇天」の天井画(1714年完成)には、目を見張らせられる。

 

● ショッテン教会;

 バーベンブルグ家のハインリッヒ2世によって1155年より教会の建設が始まった。 

 修道院も併設されており、当初はアイルランド修道士によって活動をしていたが

 その後、オーストリア人修道士(ベネディクト派)に引き継がれた。

    正面入口とファサード

  

 

  教会の手前は、フライウング広場で12月には伝統的なクリスマスマーケットが開催。

 

      これにて、「ウィーンの街と教会(2)」はお終いです。

 

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