昨日、郡山の福島中央テレビの社長だった今泉正顕氏の「お別れの会」に参列した。
今泉氏は同テレビ創立時の地元経営陣の一人で、40年前、僕も東京キー局から派
遣されて一緒に”生みの苦しみ”を味わった仲だ。「お別れの会」には福島県の佐藤
雄平知事、原正夫郡山市長も参列されて弔辞を読み、丹治一郎郡山商工会議所会
頭が葬儀委員長をつとめられた。会場には1500人の方が参席、それでも入れない方
がホテルロビーのテレビで故人にお別れを告げた。
今泉氏は、旧奥州街道「郡山宿」本陣の出で、40年前テレビ創立時は商工会議所の
専務理事であった。僕より4歳年上だから当時はまだ40歳を少し出たばかりの若さだ
ったが、大人の風格があった。そして、当時の流行の言葉でいえば”アイディアマン”
であった。まず、氏が社員採用にさいし、打ちだしたのは”10年定年制”であった。社
員は10年単位で契約を結び、契約が切れたらその都度契約をしなおそうというものだ。
結局、この制度は廃止になったが、開局時の社員の志気高陽には効果があった。
40年前、UHF局としてスタートした頃は、テレビの受像機は変換器(コンバーター)を取
り付けないと見えなかった。営業はCMを売るより、まず電気屋さん周りをしてコンバー
ターの普及から始まった。今泉氏の提案で開局時から始まった、福島県内を4地区に分
けて各地区の有力者をキャスターに呼んで、その地区のニュースを伝える番組はざん新
で営業面でもプラスになった。
笑顔を一杯にたたえた今泉氏の祭壇に献花する当時の”10年契約”社員もすでに第一線
から退いている。改めて井戸を掘った人の苦労を偲んだ。
今泉氏は同テレビ創立時の地元経営陣の一人で、40年前、僕も東京キー局から派
遣されて一緒に”生みの苦しみ”を味わった仲だ。「お別れの会」には福島県の佐藤
雄平知事、原正夫郡山市長も参列されて弔辞を読み、丹治一郎郡山商工会議所会
頭が葬儀委員長をつとめられた。会場には1500人の方が参席、それでも入れない方
がホテルロビーのテレビで故人にお別れを告げた。
今泉氏は、旧奥州街道「郡山宿」本陣の出で、40年前テレビ創立時は商工会議所の
専務理事であった。僕より4歳年上だから当時はまだ40歳を少し出たばかりの若さだ
ったが、大人の風格があった。そして、当時の流行の言葉でいえば”アイディアマン”
であった。まず、氏が社員採用にさいし、打ちだしたのは”10年定年制”であった。社
員は10年単位で契約を結び、契約が切れたらその都度契約をしなおそうというものだ。
結局、この制度は廃止になったが、開局時の社員の志気高陽には効果があった。
40年前、UHF局としてスタートした頃は、テレビの受像機は変換器(コンバーター)を取
り付けないと見えなかった。営業はCMを売るより、まず電気屋さん周りをしてコンバー
ターの普及から始まった。今泉氏の提案で開局時から始まった、福島県内を4地区に分
けて各地区の有力者をキャスターに呼んで、その地区のニュースを伝える番組はざん新
で営業面でもプラスになった。
笑顔を一杯にたたえた今泉氏の祭壇に献花する当時の”10年契約”社員もすでに第一線
から退いている。改めて井戸を掘った人の苦労を偲んだ。
今はテレビ業界もご他聞にもれず景気は悪いようですが、40年前も違った意味で大変でした。
東京は、すでに民放5局時代でしたが、地方は1局時代で、UHF波が出てやっと2局時代に入りましたが、果たして経営が成りたつか、どうかわからず、極力人員を抑え、局舎も小さくするようにしました。でも結果は反対で、スタートして2,3年で株主配当を出しています。それから高度成長、バブル期にはいってテレビ業界は黄金時代でした。
でも個人的には活字媒体育ちの僕には、地方のテレビは番組制作がなく(製作すれば利益性が悪い)て面白くありませんでした。
亡くなった今泉さんは、郡山の文化団体の指導者であり、郡山に新しいお祭りを作り、それを根つかせたりローカル文化の発展に貢献した立派な人でした。