「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

          豪州日本人収容所での昭和17年の天長節

2013-04-29 06:30:35 | Weblog
昨年2月、小ブログが書いた「蘭印から連行された戦時中の豪州の日本人収容所」についてシンガポール在住の方から、戦前ジャワのスマランにいた祖父の足跡を調べている、と「コメント」欄に連絡があった。僕は早やとちりして、この方の祖父も戦争勃発とともに蘭印政府によって逮捕され、豪州のアデライト近くの砂漠地帯にあるラブダイ(Loveday)の収容所にいた方だと思った。早速、当時のことを記録した「抑留日記」(古池三八勝著 平成11年私家本)を読み返してみたが、同じ戦前の横浜正金銀行勤務なのに、この方の祖父の名前は出てこない。そのはずであった。祖父の方は戦争が始まる前に日本に帰国されていた方なのだ。

読み返した古池さん(故人)の「抑留日記」によると、当時(昭和17年6月)ラブダイには、蘭印、カレドニアなどから連行された男子のみ992人が収容されていた。「日記」には昭和21年帰国するまでの収容所の生活が、メモの形だが克明に記されている。

今日は「昭和の日」、戦前は昭和天皇の誕生日で「天長節」といった。僕ら昭和1ケタ世代は色々と想い出がある日だが、ラブダイの収容所でも昭和17年の天長節を次のように祝った。「天長節の式典挙行。先ず聖寿の萬歳を寿ぎ、次いで皇軍兵士に感謝と武運長久を祈願、君が代斉唱、奉祝歌。団長の式辞、最後に万歳を三唱して閉会。今日の食事。朝食に菓子、リンゴ、昼食にもリンゴと食卓を賑わせた。幸い天候にも恵まれ、朝8時から運動会。盛会裏に25種目の競技を終了」とある。

昭和17年7月、収容者992人のうち241人が日英交換協定の基づき帰国できたが、古池さんは不幸にもその選にもれ敗戦まで抑留された。しかし、日記の記述によれば、食事、衣服などの待遇は好かったようで、空腹と空襲の内地よりは幸せだったかもしれない。

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2 コメント

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捕虜 (chobimame)
2013-04-30 08:45:13
捕虜の待遇についてよく聞く話に日本の捕虜収容所とロシアの捕虜収容所の待遇は最悪で酷いものだったけれど、連合軍(米豪英)の捕虜収容所の待遇はよく、日本人の自決や戦闘の意思を萎えさせたというのは本当なのでしょうか?
どこの国も敵国の兵隊ですから、本当に大事に扱ったのかは疑問です。日本は捕虜に対する鉄拳制裁があり、ロシアは拷問、寒さ、食事の貧しさで、とにかく酷いようでしたが、シベリア抑留の話ほど、詳細に聞こえてきませんから想像が出来ません。
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Unknown (kakek)
2013-04-30 11:11:52
chobimame さん
捕虜と民間人抑留とは違います。豪州には民間人収容所二つ(男性と家族持ち女性)と捕虜(主としてニューギア戦線)がありました。待遇はジュネーブ協定によりきちんとしていました。しかし、日本の捕虜の場合は、例の”生きて虜囚”の戦陣訓が災いで、収容所から不幸な脱走事件が起き、100数十人が殺されています。
日本の捕虜扱いは、日清、日露、第一次大戦時は、きちんとジュネーブ協定が守られていましたが、先の戦争のときは沢山の捕虜が南方戦線からも日本に連行され炭鉱などで強制労働させられ、病死しています。
戦争が終わった後も南方では、1万人以上の日本軍
軍人軍属が捕虜ではなくてJSPJapaese surrenderd personel)の資格で無償で昭和22年まで働かされています。
シベリアは当時のソ連は捕虜としていますが、完全にジュネーブ協定違反です。それに日本とは、ほとんど戦っていないのですから、おかしいですね。
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