「麦秋」といっても今の都会の人間には季節の実感がない。かって
日本の農業が米と麦の二毛作で支えられていた頃、梅雨の終わり
は「麦秋」-麦は黄金色に実り”秋”を思わせるシーズンだった。東
京生れの僕も一生に一回だけ、この「麦秋」を体験した。
昭和20年6月の「麦秋」である。東京の4,5月の空襲で動員先の
工場と学校を焼け出された僕らは「利根運河」の拡張工事に家を離
れて従事していた、敵の本土上陸を前に”撃ちてしやまん”-僕ら中
学3年生は来る日も来る日もモッコを担いでいた。食糧がなく空腹の
毎日だった。
日曜のある日、僕らは付近の農家へ援農作業に出かけた。収穫を終
えたばかりの”麦打ち”である。現在は多分機械作業だろうが、当時
は手作業で、莚の上の麦を木製の穀干をふるって脱穀するのだが、素
人には難しく、足手まといになるだけであった。
モッコ担ぎは重労働だったが、与えられる食事は貧しく、モウソウ竹の
食器に盛り切りいっぱいのご飯とニラの味噌汁、ラッキョウなどのお菜
が少々だった。空腹に耐えかね畑から人参を盗んだり、味噌工場から
乾燥された無味の”味噌玉”を盗んだりした。甘味恋しく”アディオス”
という糖衣の胃腸薬を買い、服用したら黒い便が出て驚いた悲しい想い
出もある。
日本産の麦が見直され、多少生産が増えてきたようだが、自給率となると
微々たるものだ。いったん外国からの輸入がストップすると、僕らが戦争
で味わった食糧難になる。相撲大会の賞品のスルメを野良猫に食べられて
しまった口惜しさが今も忘れられない「麦秋」の頃だ。
日本の農業が米と麦の二毛作で支えられていた頃、梅雨の終わり
は「麦秋」-麦は黄金色に実り”秋”を思わせるシーズンだった。東
京生れの僕も一生に一回だけ、この「麦秋」を体験した。
昭和20年6月の「麦秋」である。東京の4,5月の空襲で動員先の
工場と学校を焼け出された僕らは「利根運河」の拡張工事に家を離
れて従事していた、敵の本土上陸を前に”撃ちてしやまん”-僕ら中
学3年生は来る日も来る日もモッコを担いでいた。食糧がなく空腹の
毎日だった。
日曜のある日、僕らは付近の農家へ援農作業に出かけた。収穫を終
えたばかりの”麦打ち”である。現在は多分機械作業だろうが、当時
は手作業で、莚の上の麦を木製の穀干をふるって脱穀するのだが、素
人には難しく、足手まといになるだけであった。
モッコ担ぎは重労働だったが、与えられる食事は貧しく、モウソウ竹の
食器に盛り切りいっぱいのご飯とニラの味噌汁、ラッキョウなどのお菜
が少々だった。空腹に耐えかね畑から人参を盗んだり、味噌工場から
乾燥された無味の”味噌玉”を盗んだりした。甘味恋しく”アディオス”
という糖衣の胃腸薬を買い、服用したら黒い便が出て驚いた悲しい想い
出もある。
日本産の麦が見直され、多少生産が増えてきたようだが、自給率となると
微々たるものだ。いったん外国からの輸入がストップすると、僕らが戦争
で味わった食糧難になる。相撲大会の賞品のスルメを野良猫に食べられて
しまった口惜しさが今も忘れられない「麦秋」の頃だ。