ここ1、2年の間にたくさんの方にテレパスアートを「卒業」していただきました。
この「卒業」の意味について、ネガティブに受け止められる方もおられるようですので、今回はそれについて説明致します。
例えば美容院などでしたら、行きつけのお店からあなたはもう「卒業です」などと言われることは決してなく、髪はいくら切ってもまた必ず伸びてくるので、美容院との付き合いが一生ものである場合も多いことでしょう。
だからテレパスアートをご利用いただいている方も、同じように思っておられたとしても不思議では無く、お客様の方から「ここはもういいか!」と自ら「卒業」されるならともかく、反対の立場に立たされるのですから、ほんとにムッとしたり、「一体何よ」と不愉快に感じたり、私のことを傲慢に思われる方もおられるかも?しれません。
けれども、病院にも退院があり、またカウンセリングなどでも例えばアドラー心理学では(原則)十回までというふうにルール化されていることもあるようです。
ヒーリングアートを描いていた頃(2004年秋まで)のことですが、ある年配のお客様の絵に初めて「卒業」ということが描かれたことがありました。その絵に描かれたご本人が、丸めた「卒業証書」を自ら手にしておられたのです。
その方は大変ご苦労の多い人生を過ごされ、いつでも人のお世話ばかりでご自分の自由というものが全く無いような暮らしをしておられました。
最初に描かせていただいたこの方の絵でもやはり、箒やチリトリを手にし、頭には三角巾(タオル)を巻いて、いかにも「働き者」という感じで登場していました。
その後何度か描かせていただいているうちに、だんだん服装もおしゃれな感じになり、ある時、家の戸口の外に「五円玉」(ご縁)が落ちている絵になりました。
その絵ではこれからはこの方が外に出て趣味でも何でも好きなことをすることが出来、またそれがお小遣いも得られるようになりそうで、これからが楽しみ♪という感じでした。
その方の状況もまさにそのように進展していて、その方の人生においてはようやっとの平穏が訪れ、これからはそんなふうに何か自分にとっての楽しみを見つけて、「遊んでもいい!」というメッセージだったのです。
それで、私はもう絵は卒業されてもいいのでは?とおすすめしたのですが、うんと言われず、その後また頼まれた絵で、先述したような「卒業の絵」になり、ご丁寧にも「記念碑」(石碑)まで画面に登場していたのです。
それでも、その方は卒業することをオッケーされず、その後また頼まれました。
すると今度はその方のおつれあいがなぜか海の中でブランコに乗ってぶらぶらしているというような絵になりました。そしてその後そのおつれあいが倒れられて、結局彼女はまた介護とお世話の日々になってしまわれたのです。
それで、私は「卒業」というのは、例えば義務教育を終えて就職するか、進学するかというような感じで選択があり、また高校を終える時にも、大学に行くか、留学するか、専門学校に行くか、あるいは就職するか、家業を継ぐ等々(人によっては途中退学や留年もあるかもしれませんが)、次に選択があるのと似ているなと感じたのです。
そんなふうに、せっかくここで「卒業」して、また別の選択があるという時に(もちろん何を選択するかは全く本人の自由ですが)、その機会をふいにして同じコースを行ってしまうのは、ちょっともったいない気がします。
さらに学び続けたいというのもいいのですが、一方「もうお勉強はいいかな?」と感じたら、例えばフリーになって世界を放浪したり?どこか全然別のところで働いてみたり、あるいはボランティアをしたり、、いろんな体験をしてみるのもいいのではないかと思います。
ですから、「卒業」というのは、一つのチャンスでもあるのではないでしょうか?
もしそのままさらに上級コース(大学院?)へと進んで行かれた場合、これまでよりもさらに「課題」が難しくなり、人生においてもより学びが深まるようなシビアな出来事も起きて来るような、そんなことも多いようです。
これまで15年以上、テレパスアート(「魂の似顔絵」)を描き続けて、そのような絵をたくさん描いて来た体験から、以上のようなことを発見?したのです。
また、もうひとつの例として、ある女性がかなり年下の男性(親子ぐらい歳が離れている)と恋愛関係になり、絵ではそれは例えば深い「渓谷」に飛び降りるぐらいの凄い決意がいるという絵になっていたのです。
またそのお相手の男性は、やさ男?というか、かなり女性的なタイプで、たとえその渓谷に思い切って彼が飛び込んだとしても、向こう岸に泳ぎ着くことは難しそうで、溺れてしまうか、もしくは引き返すことになるのでは?という絵も描きました。
それでその頃はご本人に電話で絵の説明をしていましたので、この恋愛には相当の覚悟が要ることを伝えたのですが、彼女は彼を何とかしてあげたい、癒してあげたい、自分が治してあげたい(彼は何か心の病を抱えていたようです)という気持ちで、「自分はどうなってもいい」というぐらいに、彼女はひたすら彼に対する愛でいっぱいだったので、聞く耳を持っておられませんでした。
その後紆余曲折がありましたが、また絵を描いた時には、今度は彼女が黒枠の額縁に入っている絵になり、蓮の花も描かれていたので、私はドキッとして、これはまさに「命懸け」の恋になるのでは!?と直観し、彼女に気を付けるようにお伝えしたのですが、その不安感は的中してしまい、結局彼女は彼のDVが原因となったらしい怪我がもとで?急逝されてしまったのです!
それを知った時はかなりショックで、もっと強くはっきりと止めればよかったと、どんなに思ったことでしょうか。
彼女もどこかでそのことはわかっていたのか、自分は死んでもいいということを口にされたりしていたので、たとえそんなことになっても、決して彼を恨むことなく、もしかしたら、「自分の死を持って彼を立ち直らせたい」というぐらいの悲壮な決心をしておられたのかもしれませんが、それでも私はせっかくの絵が残念ながら何のお役にも立てなかったという無力感と、加害者へのくやしさで、かなり長い間落ち込みました。
一年ぐらい経った頃にその加害者の彼から、彼女の死を知らせる電話があり(私は彼女の死は他の方から聞いてすでに知っていたのですが)、また絵を頼まれたのですが、私は即お断りしました。
そしてそれ以降のお付き合いも(電話も)はっきりお断りしたのです。
プロの絵描きなら、どんな絵でも描くべき、頼まれたら相手が誰であっても、どんな状況であろうが、快く引き受けるべきという考え方ももちろんあるでしょうが、私はそうは思いません。
やはりお互いの信頼関係というものがあってこそ、このような絵は描かれるものだと思うからです。
絵を心のよりどころにしてくださるたくさんの方々に、ほんとうに心から感謝しています。
けれども人によっては、絵を「免罪符」にしたり、何かの証拠に使ったり?あるいは人との比較や優越感、また誰かを操作する?ためだったり、「自分にとってだけ」ものごとが都合良くうまくいくようにと願っている?わけでは決して無いのでしょうが、それでもあまりにも「自己中心的」な方も中にはおられます。
ある時、あるご夫妻の絵を頼まれました。妻の方は夫の身の潔白を疑っていて、絵を見ることで確かめようとされていたようでしたが、絵には両者が「狐と狸の化かし合い」をしている場面が現れました。
そして、それはグー、チョキ、パーのじゃんけんのように、勝ち負けでは無く、そのゲームをお互いが一生楽しむということが、そのご夫妻の(無意識の)楽しみ?(&学び)でもあるようでした。
そんなふうに、絵を通していろいろなことがわかりますが、その「意味」は人によってほんとうに多種多様です。
ですから、「卒業」をとても喜んでくださる人もいれば、ネガティブに解釈される方もおられて当然かもしれません。
けれども、どんな時でも私が勝手に(私利私欲や好き嫌いで)解釈して「卒業していただく」というわけでは無く、必ず「宇宙と相談」!?していますし、またオーリングテストでも確かめています。
これまで私の健在意識では、「もう卒業された方がいいのでは?」という方は何人もおられましたが、なかなか「卒業」(私の方が)させてもらえず、延々と描き続けたこともあります。
そして相手の方がそれで満足されたのかどうか、こちらが「卒業」と言わなくても、自然に頼まれなくなり、いつしかご縁が切れて、離れていかれた方もおられます。
ひどい絵!とご自身が思われたのかどうかはわかりませんが、私の目から見てもとてもぐちゃぐちゃの大変な状況にある絵(火山の噴火、大嵐、大げんか、家庭内暴力等々)を描いたことがあり、それはどうやら息子さんのことのようでしたが、親としてはそのような絵を見たくなかったのか、代金を支払ってもらえなかった(督促しても全く音沙汰無し)ということも、かつてありました。
自分にとって気持ちのいい、明るい素敵な絵だけがお役に立つとは限らず、時にはかなりシビアな内容であっても、人によってはそのような絵が必要なこともあり、また反対に、状況はほんとうに大変なのに、絵がまるで天国のような桃源郷になっている場合もあります。そういう絵によってしばしひどい状況を忘れ、希望を持つことが出来る場合もあるのかもしれません。
どんな絵もその人にその時必要な絵なのだと信頼して描いていますが、中にはこの人にはもう絵そのものが不必要なのでは?と感じることもあります。そんな時には私の方から「卒業」ということをお伝えしていますが、必ずしもその通りにする必要は無く、「どうしても」とまた頼まれたことも何度もあります。
けれどもこれまでの経験から言えば、その次の絵からは「さらに高いハードルにチャレンジする」段階へと入っていかれるような気がします。そのチャレンジのレベルの難易度が高いからと言ってそれが人格的な価値観の上下では無いとは思いますが、中にはそのように誤解されている方もおられるようです。
もしもどうしても「卒業」がお嫌な方は、例えば「再入学」!?するようなかたちで、また頼んでいただいても私の方は全くかまいませんし、お客様は一人でも多い方がありがたいですが(笑)、ただし、その先に待ち受けているものに関しては私は一切保証出来ませんし、責任も持てません。(決しておどかすわけでは無いのですが、、)
勉強熱心な方が多くて、最近は「卒業」したくないと思われる方が増えているのかどうか?定かではありませんが、私なら「もう勉強はいいよ」、フリーになって「自由課題」に好きなように取り組んでみては?(遊んでもオッケー!)と言われたら、どんなに嬉しくラッキー☆と思うかしれません。
かと言って、「人より早く卒業できたからエライ!」というわけでももちろんありませんが(爆笑)。
人それぞれの「ちょうどいい時期」というものがあり、皆さんそれぞれそのような「グッドタイミング」で卒業されるのだと信じています。
以上、かなり長文になってしまいましたが、ご理解いただけましたら幸いです。
この「卒業」の意味について、ネガティブに受け止められる方もおられるようですので、今回はそれについて説明致します。
例えば美容院などでしたら、行きつけのお店からあなたはもう「卒業です」などと言われることは決してなく、髪はいくら切ってもまた必ず伸びてくるので、美容院との付き合いが一生ものである場合も多いことでしょう。
だからテレパスアートをご利用いただいている方も、同じように思っておられたとしても不思議では無く、お客様の方から「ここはもういいか!」と自ら「卒業」されるならともかく、反対の立場に立たされるのですから、ほんとにムッとしたり、「一体何よ」と不愉快に感じたり、私のことを傲慢に思われる方もおられるかも?しれません。
けれども、病院にも退院があり、またカウンセリングなどでも例えばアドラー心理学では(原則)十回までというふうにルール化されていることもあるようです。
ヒーリングアートを描いていた頃(2004年秋まで)のことですが、ある年配のお客様の絵に初めて「卒業」ということが描かれたことがありました。その絵に描かれたご本人が、丸めた「卒業証書」を自ら手にしておられたのです。
その方は大変ご苦労の多い人生を過ごされ、いつでも人のお世話ばかりでご自分の自由というものが全く無いような暮らしをしておられました。
最初に描かせていただいたこの方の絵でもやはり、箒やチリトリを手にし、頭には三角巾(タオル)を巻いて、いかにも「働き者」という感じで登場していました。
その後何度か描かせていただいているうちに、だんだん服装もおしゃれな感じになり、ある時、家の戸口の外に「五円玉」(ご縁)が落ちている絵になりました。
その絵ではこれからはこの方が外に出て趣味でも何でも好きなことをすることが出来、またそれがお小遣いも得られるようになりそうで、これからが楽しみ♪という感じでした。
その方の状況もまさにそのように進展していて、その方の人生においてはようやっとの平穏が訪れ、これからはそんなふうに何か自分にとっての楽しみを見つけて、「遊んでもいい!」というメッセージだったのです。
それで、私はもう絵は卒業されてもいいのでは?とおすすめしたのですが、うんと言われず、その後また頼まれた絵で、先述したような「卒業の絵」になり、ご丁寧にも「記念碑」(石碑)まで画面に登場していたのです。
それでも、その方は卒業することをオッケーされず、その後また頼まれました。
すると今度はその方のおつれあいがなぜか海の中でブランコに乗ってぶらぶらしているというような絵になりました。そしてその後そのおつれあいが倒れられて、結局彼女はまた介護とお世話の日々になってしまわれたのです。
それで、私は「卒業」というのは、例えば義務教育を終えて就職するか、進学するかというような感じで選択があり、また高校を終える時にも、大学に行くか、留学するか、専門学校に行くか、あるいは就職するか、家業を継ぐ等々(人によっては途中退学や留年もあるかもしれませんが)、次に選択があるのと似ているなと感じたのです。
そんなふうに、せっかくここで「卒業」して、また別の選択があるという時に(もちろん何を選択するかは全く本人の自由ですが)、その機会をふいにして同じコースを行ってしまうのは、ちょっともったいない気がします。
さらに学び続けたいというのもいいのですが、一方「もうお勉強はいいかな?」と感じたら、例えばフリーになって世界を放浪したり?どこか全然別のところで働いてみたり、あるいはボランティアをしたり、、いろんな体験をしてみるのもいいのではないかと思います。
ですから、「卒業」というのは、一つのチャンスでもあるのではないでしょうか?
もしそのままさらに上級コース(大学院?)へと進んで行かれた場合、これまでよりもさらに「課題」が難しくなり、人生においてもより学びが深まるようなシビアな出来事も起きて来るような、そんなことも多いようです。
これまで15年以上、テレパスアート(「魂の似顔絵」)を描き続けて、そのような絵をたくさん描いて来た体験から、以上のようなことを発見?したのです。
また、もうひとつの例として、ある女性がかなり年下の男性(親子ぐらい歳が離れている)と恋愛関係になり、絵ではそれは例えば深い「渓谷」に飛び降りるぐらいの凄い決意がいるという絵になっていたのです。
またそのお相手の男性は、やさ男?というか、かなり女性的なタイプで、たとえその渓谷に思い切って彼が飛び込んだとしても、向こう岸に泳ぎ着くことは難しそうで、溺れてしまうか、もしくは引き返すことになるのでは?という絵も描きました。
それでその頃はご本人に電話で絵の説明をしていましたので、この恋愛には相当の覚悟が要ることを伝えたのですが、彼女は彼を何とかしてあげたい、癒してあげたい、自分が治してあげたい(彼は何か心の病を抱えていたようです)という気持ちで、「自分はどうなってもいい」というぐらいに、彼女はひたすら彼に対する愛でいっぱいだったので、聞く耳を持っておられませんでした。
その後紆余曲折がありましたが、また絵を描いた時には、今度は彼女が黒枠の額縁に入っている絵になり、蓮の花も描かれていたので、私はドキッとして、これはまさに「命懸け」の恋になるのでは!?と直観し、彼女に気を付けるようにお伝えしたのですが、その不安感は的中してしまい、結局彼女は彼のDVが原因となったらしい怪我がもとで?急逝されてしまったのです!
それを知った時はかなりショックで、もっと強くはっきりと止めればよかったと、どんなに思ったことでしょうか。
彼女もどこかでそのことはわかっていたのか、自分は死んでもいいということを口にされたりしていたので、たとえそんなことになっても、決して彼を恨むことなく、もしかしたら、「自分の死を持って彼を立ち直らせたい」というぐらいの悲壮な決心をしておられたのかもしれませんが、それでも私はせっかくの絵が残念ながら何のお役にも立てなかったという無力感と、加害者へのくやしさで、かなり長い間落ち込みました。
一年ぐらい経った頃にその加害者の彼から、彼女の死を知らせる電話があり(私は彼女の死は他の方から聞いてすでに知っていたのですが)、また絵を頼まれたのですが、私は即お断りしました。
そしてそれ以降のお付き合いも(電話も)はっきりお断りしたのです。
プロの絵描きなら、どんな絵でも描くべき、頼まれたら相手が誰であっても、どんな状況であろうが、快く引き受けるべきという考え方ももちろんあるでしょうが、私はそうは思いません。
やはりお互いの信頼関係というものがあってこそ、このような絵は描かれるものだと思うからです。
絵を心のよりどころにしてくださるたくさんの方々に、ほんとうに心から感謝しています。
けれども人によっては、絵を「免罪符」にしたり、何かの証拠に使ったり?あるいは人との比較や優越感、また誰かを操作する?ためだったり、「自分にとってだけ」ものごとが都合良くうまくいくようにと願っている?わけでは決して無いのでしょうが、それでもあまりにも「自己中心的」な方も中にはおられます。
ある時、あるご夫妻の絵を頼まれました。妻の方は夫の身の潔白を疑っていて、絵を見ることで確かめようとされていたようでしたが、絵には両者が「狐と狸の化かし合い」をしている場面が現れました。
そして、それはグー、チョキ、パーのじゃんけんのように、勝ち負けでは無く、そのゲームをお互いが一生楽しむということが、そのご夫妻の(無意識の)楽しみ?(&学び)でもあるようでした。
そんなふうに、絵を通していろいろなことがわかりますが、その「意味」は人によってほんとうに多種多様です。
ですから、「卒業」をとても喜んでくださる人もいれば、ネガティブに解釈される方もおられて当然かもしれません。
けれども、どんな時でも私が勝手に(私利私欲や好き嫌いで)解釈して「卒業していただく」というわけでは無く、必ず「宇宙と相談」!?していますし、またオーリングテストでも確かめています。
これまで私の健在意識では、「もう卒業された方がいいのでは?」という方は何人もおられましたが、なかなか「卒業」(私の方が)させてもらえず、延々と描き続けたこともあります。
そして相手の方がそれで満足されたのかどうか、こちらが「卒業」と言わなくても、自然に頼まれなくなり、いつしかご縁が切れて、離れていかれた方もおられます。
ひどい絵!とご自身が思われたのかどうかはわかりませんが、私の目から見てもとてもぐちゃぐちゃの大変な状況にある絵(火山の噴火、大嵐、大げんか、家庭内暴力等々)を描いたことがあり、それはどうやら息子さんのことのようでしたが、親としてはそのような絵を見たくなかったのか、代金を支払ってもらえなかった(督促しても全く音沙汰無し)ということも、かつてありました。
自分にとって気持ちのいい、明るい素敵な絵だけがお役に立つとは限らず、時にはかなりシビアな内容であっても、人によってはそのような絵が必要なこともあり、また反対に、状況はほんとうに大変なのに、絵がまるで天国のような桃源郷になっている場合もあります。そういう絵によってしばしひどい状況を忘れ、希望を持つことが出来る場合もあるのかもしれません。
どんな絵もその人にその時必要な絵なのだと信頼して描いていますが、中にはこの人にはもう絵そのものが不必要なのでは?と感じることもあります。そんな時には私の方から「卒業」ということをお伝えしていますが、必ずしもその通りにする必要は無く、「どうしても」とまた頼まれたことも何度もあります。
けれどもこれまでの経験から言えば、その次の絵からは「さらに高いハードルにチャレンジする」段階へと入っていかれるような気がします。そのチャレンジのレベルの難易度が高いからと言ってそれが人格的な価値観の上下では無いとは思いますが、中にはそのように誤解されている方もおられるようです。
もしもどうしても「卒業」がお嫌な方は、例えば「再入学」!?するようなかたちで、また頼んでいただいても私の方は全くかまいませんし、お客様は一人でも多い方がありがたいですが(笑)、ただし、その先に待ち受けているものに関しては私は一切保証出来ませんし、責任も持てません。(決しておどかすわけでは無いのですが、、)
勉強熱心な方が多くて、最近は「卒業」したくないと思われる方が増えているのかどうか?定かではありませんが、私なら「もう勉強はいいよ」、フリーになって「自由課題」に好きなように取り組んでみては?(遊んでもオッケー!)と言われたら、どんなに嬉しくラッキー☆と思うかしれません。
かと言って、「人より早く卒業できたからエライ!」というわけでももちろんありませんが(爆笑)。
人それぞれの「ちょうどいい時期」というものがあり、皆さんそれぞれそのような「グッドタイミング」で卒業されるのだと信じています。
以上、かなり長文になってしまいましたが、ご理解いただけましたら幸いです。