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1995年の阪神淡路大震災がきっかけとなり自動書記で突如絵を描き始める 絵の仕事は26年目 ブログ光のチャレンジは11年

チャレンジ♪

2013-10-29 | お知らせ&催しのご紹介
もうすでにお聴きいただいているかもしれませんが、宇宙画『チャレンジ』に対応したスピリットソングを、現在アズミックアートのHPにUP!しています。

これまで『チャンス』と『アトラス』の2曲を掲載。(計3曲のUPとなりました♪)

実は『アトラス』の曲で最後にする予定だったのですが、歌詞に「風吹け~」と書いていたら、どうもそれ以来大型台風が続き、まさか!?
もちろん、私たちの歌と曲のせいでは無いとは思いますが 何となく責任を感じてしまい、せめて音楽だけでも変えよう♡ と、つい先日『チャレンジ』をUPしたのです。


アズミックアートの「スピリットソング」は、(「宇宙画」に対応して)全部で40曲あるので、ほんとうは全曲掲載したいところですが、そのためにはバイト数がとても足りません。

現在の容量では、せいぜい3曲でぎりぎりといったところなので残念ですが、今回のこの『チャレンジ』が、どうやら最後の更新UP♪となりそうです。

言い訳をさせていただきますと、元の音源はわりといい音なのですが、私の持っているノート型パソコンで聴くと自分で言うのも何ですが、正直なところ、ほんとうにちょっと何度も聴きたいとはあまり思えない?感じです。


それにも関わらず、恥ずかしながら皆さんにもやっぱり聴いてみて欲しいな♪と思ったのは、実はある方からいただいたおたよりに励まされたおかげです。

たまたま「テレパスアート」をお申し込みいただいた際のメールに書き添えてくださったご感想ですが、ご本人の許可をいただきましたので、下記にそのおたよりの一部を掲載させていただきます。

……………………………………………………

とても癒される曲でとても気に入ってます!
メロディが頭の中で自然に流れる時もあります(*^o^*)

今年7月末 アッパークラマス湖、シャスタ山を訪れるツアーに、奇跡的に参加させて頂きました。
当時は、100%に近いほど、そのツアーへの参加はありえなかったので、本当に 棚ぼた! でした。
永遠に魂に刻まれる旅となりました。

今回、テレパスアートをと思ったのは、その時アッパークラマス湖の湖上で撮影された、生アルジーが(らく~らのホームページにもアップされてる写真)チャレンジに描かれてるグリーンの部分が同じに見えたのと、楽譜の詩を、改めて拝読したら、旅で感じ想った内容そのままだった事に、つい先日気づきました。
感動でした!    

……………………………………………………

おたよりくださったS様、ほんとうにありがとうございます♪


これからも『チャレンジ』をはじめ、アズミックアートの全ての絵と音楽が、ささやかながら皆様方の心の慰めとなり、向後の日々の暮らしがさらに実り多く☆ また幸いに恵まれたものとなりますよう、心から願っています。


他の方々からも、テレパスアートやアズミックアートへの嬉しいご感想等をたくさんいただいておりますので、また機会があればぜひご紹介させていただきたいと思います。


☆ 皆様へ・・・心からの感謝をこめて♡
ご愛読&ご試聴まことにありがとうございます!!!



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魅力☆とやる気♪(本気)

2013-10-25 | 日記
「山崎亮さんの講演会」(10月5日に高の原にて)の感想の続きです。
「3回に分けて」云々と前回のブログ(3人寄れば。。)に書きましたが、今回(計2回)でこの話は終わります。

山崎亮さんの話は私にはとても面白かったのですが、このブログを読んでくれている方々にとってはあまり興味の無い話題かもしれません。
おつきあいいただきありがとうございます♪


さて、「魅力とやる気ならどちらが先か。。」ということでお話された時、山崎さんは言下に「それは『やる気』が先!」と即、答えられました。

例えば高の原は木津川市にありますが、そもそも「木津川市がどこにあるのか?」知らない人も多いことでしょう。(答*京都府です!)

そしてまた木津川市の「名産品」が何なのか?どういう観光地があるのか?その「魅力」を見つけ出して町を活性化するよりも前に、(前回このブログに書いたように)まず「本気で町を変えたい」と思っている「志士」(やる気のある人)を探し出して、「仲間作りからスタートする」ということです。
(木津川市の人口が約7万2千人だとすると、たった7人の「志士」がいれば始められるそうです!)

実はこの講演会には(お忍びで?)市長も来られていましたが、木津川市の市長は女性なんです。

それで例えば市長である彼女が、誰よりも熱い情熱を持って生涯をかけて!本気でやる気に燃えているとするなら、彼女のフォロワーが6人いれば、この町や市も変えられるということなのです。


けれども私はこの講演会に行った時に、「それはどうも無理では無いか、これではこれからもあまり変わらないのでは、、」と、すぐに感じてしまいました。

会場で講演会の前に司会者から「山崎さんを歓迎する意味で、お面(山崎さんの顔写真を拡大したもの)をみんなでかぶってびっくりさせて笑ってもらおう~」という提案があり、すでにお面(紙製の手作り)は用意してあって参加者全員(約百名ぐらい?)に配られたのですが、その時点で私はもうこれは「あかん!」(何考えとるんやろ!?)と、その感性にアウト!!!でした。


「まさか幼稚園の園児では無いのだから!」(苦笑)そんなことで「山崎さんが喜ぶだろう」という発想がそもそも考えられないし、第一そんなお面を作るひまがあるなら、もっと有意義な時間の使い方があるし、この日の主役は山崎さんでは無く、むしろ自分たち(市民)なんだから、、彼を持ち上げてどうするつもり!?と唖然としたのです。

彼を呼んだのは何のためなのか? その「目的」を忘れていると感じました。
(彼にゴマスリして一体どうする気なのだ!!!)

この感覚のずれ~~~、これこそがこの町が、市が「遅れている」理由そのものだということに、なぜ気付かないの!?と、思わず叫びそうになりました。


そしたらやっぱり会場に入って来た山崎さんは一瞬たじろいで?「気持ちワル~~」と言いながら、少々顔をひきつらせて失笑。
それでもみんなの前では「いやぁ~びっくりしました。嬉しいです」と、明るく笑ってフォローされていましたが、内心ほんとにギョギョ!(じぇじぇじぇ)だったと思います。

そしてこういう時にすぐに「苦言」を呈しないところが、さすがに大人だなぁ~(プロ!だなぁ)と感じました。
お面を作ってまで歓迎してくれたその「気持ち」に対して彼は「感謝」♪されたのです。


私は何でもすぐに感じたままを言葉にして批評、批判してしまいがちですが、「コミュニティづくり」(仲間づくり)の基本は、「決して相手を否定しない」ことで、「最初の段階ではどんなアイデアもどんどん出し合う」のです。

その時にすぐに批判、批評したり、責任を問うたりすると、みんな「萎縮」してしまって次の段階に進めません。例えば日本のマスコミなどはこの典型かもしれません。
「叩いてばかりいるとよい芽もつぶしてしまう」ことがけっこう多いのではないでしょうか。

もっとよいところを取り上げてほめることをすれば、さらに伸びていけるのに、、と思うことも多いですが、今回の件では「そう言う自分自身もまさにそうだなぁ~」と、山崎亮さんに教えられた気がしました(大汗)。


前回のブログで書きましたが、山崎さんはスタッフには(プロとして鍛えるために)かなり厳しいそうですが、コミュニティづくりで関わる地元の人たちに対してはとても優しく、どんな意見も褒めて、そして「さらによくするためにはどうしたらいいか」を常に考えて、その先へ、次の段階へと人々が進めるように、「どんなアイデアも決して否定はしない」そうです。

最初に否定されると、そこで人はストップしてしまうのですね!

な~るほど~そうなんですね。「子育て」「夫育て」も全くそうかもしれませんね。
それが山崎亮さんがあちこちから引っ張りだこで、今や時代の寵児となっている理由なのかもしれません。
その「コツ」を私ももっと会得しなければと感じました。


余談ですが、帰り道に若いアーティストの女性に話しかけられた時、この「お面」の感想を話したら彼女も『(あれは)不気味でしたね!』と同感してくれたので、やっぱりナと思ったのですが、自分自身の感じたこと、「自分の感性」もまた「否定する必要は無い」のだな~と気付きました。

ただ、「これだけが正しい」とか、「自分の感性だけが優れていてる」というふうに、片寄って思い込んでしまうことなく、相手も尊重し、お互いにどんどん意見を出し合って、「さらによいものを創りあげていく」ことこそが大切なのだということを、(実に当たり前のことではありますが)再認識させられました。


ところで、話がさらに飛びますが、山崎さんは「コミュニティデザイン」という仕事の中で、「スタジオL 」としてやる「コミュニティづくり」と、いわゆる行政などが従来やっているような「まちづくり」とはどう違うかということも話され、その話も私にとってとても興味深かったです。

また話が横道に逸れますが、例えばそれは「園芸」と「ガーデニング」の違いのようなものかもしれません。

ある時、ある音楽を教えている先生が、私たちの世代のような4分の4拍子が体に染み付いている唱歌&フォーク調タイプ?の(リズム感がちょっと違う)人たちことを、「園芸派」と言い、ビートルズ以降の?もっとリズム感があってノリのいい、ロックやジャズ、ポップなどの洋楽派?のことを、「ガーデニング派」というふうに分けて、その違いをわかりやすく説明してくれました。

その「たとえ話」で言うなら、ふつうの「まちづくり」というのはそういう従来の園芸調!であり、新しい「コミュニティづくり」というのは、ガーデニングに似ている?ということかもしれません。

どっちも大した違いで無いと思われるかもしれませんが、この違いこそ「大きな違い」なのです。
ここのところがわからないと、結局前とあまり大差の無い結果に終わってしまうことになるからです。


もうみんなうんざりしていて、「世の中が早く変わって欲しい」とか、「何とかもう少し住み易い、気持ちの好い世の中にしたい」などと願っているにも関わらず、そのヴィジョンがなかなか見えてこないで困っているからこそ、「新しいアイデア」と「新鮮な働き方」で動いている山崎亮さんたちに魅了されるのかもしれません。


彼は仕事を2つに分けて考え、プロとしての「営利業務」においてはこれまで一度も失敗したことは無いそうです。
そしてもう片方の「非営利事業」は全体の1%に留め、その中では「失敗してもいいような進め方」をするそうです。

そのような「頼まれてもいないのに」自分たちがやりたいからやる非営利事業をなぜ今もやり続けているかと言えば、それはそのような仕事を通して鍛えられるからだそうです。
例えば最初に取り組んだ「家島」においては、7年間、地元の人たちから叱られ放しだったそうです。

「家島」というのは、私が生まれ育った瀬戸内海沿岸の村からすぐ目の前に見えていた島で、私の子どもの頃はそこまでボートですぐに行けるので夏の浜辺では貸しボートが流行っていました。

山崎さんは「いえしま」と発音されたのでそれが正しいのだと思いますが、私たちの村では「えじま」と呼んでいました。
いずれにしてもその島が過疎になり、山崎さんたちがその活性化に取り組んだというお話を伺って、大変なつかしく嬉しかったです。


ところでそのような優れた(鍛えられた)プロ集団を率いた山崎さんですら、彼らの地元である「芦屋」では、一切何もやっていないそうで、とても意外!でした。
「自分の地元では仕事は引き受けない」(やらない)と決めているのだそうです。

それはなぜかというと、(「ふるさとは遠くにありて想うもの」ではありませんが、また、ふるさとでは石持て追われる石川啄木ではありませんが)はっきり言って「地元ではやりにくい」からだそうです。

ふつうに仕事しても、「えこひいき」したのではないかと思われたり、無い肚を探られたり、いろいろうわさの種になったり、、正統な評価が難しく、仕事がしづらいということのようです。

「そうなのか~」と、これには大変驚きましたが、それと同時に山崎さんぐらいの超プロでもやっぱりそうなのか、、とある面ではほっとしました。


そして、「やりたい人がやれるところからやっていく」というやり方(仕事の進め方)にも大変共感しました。
優先順位として、「うまくいったこと」やその体験、達成感などをまず最初に大事にしているそうです。

だから、例えば発想の仕方として、「地域の活性化」について考えるところから入るのでは無く、それよりも「自分のやりたいことから即やっていく」のです。


「日本でまだ誰もやっていないアイデア」を出し合ったり♪

何が自分にとっての幸せなのか? 

遠回りしなくていい、ここでもう今すぐそれをやってしまえばいい!!!


山崎さんはそう言いながら「三年寝た郎」という「昔話」をしてくれました。

あるところに寝てばかりいる若者がいて、村の人が「仕事をしろ」と怒ると、「仕事をしたらどうなるのか?」と彼は聞き、村の人が「お金が儲かる」と答えると、彼はさらに「儲かったらどうなるのか」と聞くのです。

そこで村の人が「のんびり寝て暮らせる」と言うと、彼は「そんなら今寝ればいい」と言って、また寝てしまうという物語です。


山崎さんがこの昔話を通して言いたかったことは、「お金を介してでないと出来ないところは、もうとっくに過ぎている!」ということなのです。

キッパリと「発想法」そのものを変えなければ、「元の木阿弥になってしまう」ということなのです!

「アベノミクス」は、「前のデフレ以来20年かけてやってきたことを、30年元に戻してしまった」と彼は残念そうに語っておられました。


そういう「危機感」や「危機意識」というものが無いからこそ、「お面」を冠るというような、古い単純な「ワンパターンの発想法」になってしまったのかもしれません。
(「木津川アート」の若者たちの、せっかくのアイデアをけなしてしまってごめんなさい♪)


たくさんの人が集まったこの日の講演会でも、会場に来た人たちが何らの出逢いも無く、新しい出遇いが「その場限り」に終わってしまって(若者は若者同士で固まって内輪の会話で盛り上がっても)、長年地元で暮らしているような年老いた人たちの知恵が活かされるわけでも無く、また連絡網一つ出来上がることも無く、この催し以降も「それが何の動きにも繋がっていっていない」ようです。

こんな好い機会を「活かし切れていない」のは、ほんとうにもったいないなぁ~と感じます。

「木津川アート」そのものはマスコミでも近年大きく取り上げられているので、表面的にはだんだん広がり評判になるかもしれませんが、実際のところ町が変わるとか、市が変わるとか、ということは(現状を見る限り)あまり無さそうに思えます。
付け焼き刃の「観光振興」では、長い目で見て「魅力」も続いていかないことでしょう、、。


今回のことから、何ごともまず「意識」が変わらなければ、、と、私はつくづく感じました。
若い人だからと言って発想も若い!?ということも無いし、また逆に年寄りだからといって必ずしも深い好い知恵があるとも限りません。
もっともっとお互いに話し合って顔見知りになり、コミュニケーションしていく必要があると思いました。
(あっ!な~んちゃって、またまた批判的コメントになってしまいました。スミマセン!)

ともかくそう思って、くだんの若い女性アーティストとも今後メール交換しようと約束したのですが、こちらの送ったメールに一切返信は無く、すっかり無視されてしまってとっても残念!でした。

メールアドレスを交換した折りに「個人情報ですから、、」とためらいながら彼女が言った時に、「この人、本気じゃ無いかも」(断りにくくてしぶしぶ、、?)とふと感じたのですが、やっぱりその通りでした。

たぶん彼女からすれば、「強引なおばはん!に負けて、無理矢理メールアドレスを書かされてしまった!!」
うんざり~~~と感じたかも!?
(「自分の感受性ぐらい」自分で引き受けろ、バカ者め!という、ある女性詩人の詩をふと思い出しました)


話はどんどん飛躍しますが、本日のニュースにもなっていましたが、日本の女性の地位(男女平等)が世界各国の中でも「一番下から数えて何番目という方が早い」ぐらいに、以前よりもさらに低下!していて、先進国とはとても言えないどころか、発展途上国よりも日本はもっともっと後進国になっていっているのです!!!


以前から日本がよくならないのは、女性があまりにもひどい状態におかれているからだと感じていましたが、まさにそれが証明されつつあるようです。

山崎亮さんが女性に対してどのような感覚を持っておられる方なのかは知らないのですが、ぜひそういうことにおいても、これまでに無いような斬新なアイデアと発想法、そしてユニークな行動力で「日本の女性が世界のトップに立ってリーダーシップを発揮出来るように」応援してもらえたらと思います。


「コミュニティづくり」の基本の基本は、まずそういうところからスタート♪
「女性の言葉に真剣に耳を傾ける」ところからではないかと思うのですが、どうでしょうか。
女性が幸せであってこそ、男性もそして子どもも幸せだと思うからです。


話があちこち飛んで文章が長くなり、少々解りにくかったかもしれませんが、最後まで読んでいただきありがとうございます。





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3 人寄れば・・・

2013-10-21 | 日記
ご報告が遅くなりましたが、過日(10月5日/伊勢神宮外宮遷宮の日)に「高の原」であった「山崎亮さん(コミュニティデザイナー)の講演会」で私の感じたことについて、(3回に分けて)お伝えします。

まず、一番印象に残ったのは、その「スピード」(時間の使い方のうまさ)です。
短い間にもの凄い量の情報を圧縮、凝縮して手渡された気がしました。

いまだにそれを「ほぐす」ことが出来ていない(咀嚼出来ていない)気もしますが、まるで言葉のシャワーを浴びたかのように、細胞が目覚める!?というか、その存在感(生身の臨場感!)と共に、私は大きな刺激を受けました。


非常にたくさんの情報量なので、どういうふうにまとめたらいいのか、何をどう伝えればいいのか、私のメモも不正確なので、ここに書くことの中にもしかしたら間違っていることもあるかもしれませんが、せめてその人柄のニュアンスだけでもお伝え出来れば、、と思います。

また、実際にその場で彼の提案する方法で、(グループに分かれての)「非常に短時間のワーク」も参加者同士で体験し、それも大変面白かったし、また、その中から出て来たたくさんの質問に対して、山崎さんがどんどん返答していくその速さと「適確さ」にも圧倒されました。


質問そのものも大変面白い、興味をそそられることばかりだったのですが、さらにその質問の意図するところを彼は一瞬に理解し、なおかつそれを一層深め、その質問者=聴衆 の最も聴きたがっているところをズバリ話されるのには、さすが!というか、まさに「プロ中のプロ」という辣腕の腕前を感じて、感服してしまいました。


ほんとうに「頭のいい人」の見本のようで、常に頭脳がフル回転していながら、しゃべり過ぎるという感じは全くせず、どんなに大きな声で鉄砲玉のようにしゃべっても、決して「うるさくは感じ無い」のです。

それは例えば「阿吽の呼吸」以上のものがありました。
そして、その回答は本当に適確であると共に、過不足が無く、ちょうどいい長さだったことにも驚きました。

質問は全部で15ぐらいあったかと思いますが、そのどれに対しても同じ長さというのではもちろん無く、さっさと切り上げるものもあれば、質問者にさらに質問をし返したりすることもあり、付け足すこともありといった中で、どの質問に対しても、まさにぴったりの、全く余計なところの無い、どれ一つとってもみても無駄の無い「見事な回答」でした。

かと言って政治家や官僚のように、無味乾燥というのでは無く、どれも誠意のこもったというか、「ニーズにきちんと即して応える」(聴衆を満足させる)もので、ユーモアもあり、時には辛辣な面もあり、またサービス精神も満載でした。


そして、「甘い、優しい人」という側面だけでは決して無く、「スタジオL 」という彼の主宰する会社の中では、彼はスタッフたちに対してかなり厳しく、むしろ、なあなあになることを避けて「緊張を維持する」ようにしているという意外な話を聴いて、びっくりもしました。

それは山崎さんが組織の中でトップとしての権威を保つためではもちろん無くて、地域に入っていって何かをやり始めたら、必ず誰か反対する人や、批判する人はいるので、もしも「叩かれて簡単に心が折れてしまうようではプロとしてダメ!」だからです。

だから山崎さんは徹底的にしごき、叩き、鍛えて、どんなことがあっても、へこんでもすぐに立ち直って「次の展開へ進んで行ける」ように、「スタジオL 」の人材を養成しているそうです。
(その具体的な育て方もかなりユニークなのですが、長くなりますのでこの話はまたの機会に、、)


ところで、実際にご本人を初めて拝見し、お会いする前にマスコミや彼の書いたものを通して感じていたその印象とはちょっとまた違った面も、私は感じることがありました。

山崎亮さんは、想像していた以上に、いかにも「出来る人」(頭の切れる人)そのものでした!!!
こちらがよほどしっかりしていないとその発信するところのものを受け止め切れないと感じました。

今まさに「旬の人」であり、売れに売れているだけあって、勢いが普通の人の何百倍もある気がしました。


さて、彼自身の印象についての前置きが長くなりましたが、彼が話された中で私の印象に残ったことを下記にご紹介します。


それはプロジェクトをスタートする前に、まず「自分の同士となる人(仲間)を探す」ということです。
ほんとうにやる気のある人、本気の人、「覚悟を決めた志士」が3人いれば、そこからやれる!そうです。

山崎さんたちがある地域で新しいプロジェクトをスタートする時にも、その地域に詳しい地元の人、3人に一時間ずつ話を聴く(合計3時間)ところから始めるそうです。

そして、その人たちにそれぞれ3人の人を紹介してもらう(計9人)。
そしてその9人がまたそれぞれ3人の人を紹介してくれて、27人となり、、というふうにして、最低100人ぐらいの人が関わるようになったら、そこから動きをさらに具体的に進めていくそうですが、まずは「人の話を聴く」ところから、、なのです。


そして、「お前、そんなことも知らんのか」と言われる方がよくて、前もって詳細に下調べするよりも、その「地元の人の方が地元のことは一番よく知っている」ので、何でも教えてもらう(ヒヤリングする)のです。

もしも質問者が先に何でも知っていたら真剣に訊く気になれないし、話す方もつまらないからです。
それに誰よりも「生活者のプロ」というのは地元のことをよく知っていて、地元のことに関してはプライドも持っているわけなのですから。

そうやって、まずは仲間を集め、やりたい人がやりたいことからやっていき、どんどん「本気を拡げていく」のだそうです。


この話を聴いて、私は毎年5月に1ケ月間開かれる伊豆高原の「アートフェスティバル」のことを、ふと思い出しました。
あの大きなイベントも、実は最初はたった3人から始まったそうなのです。

「南庭工房」の宮迫千鶴さんと谷川晃一さんという画家夫妻と、彼女たちの家を見つけてくれた地元の不動産屋さんのたった3人でスタートしたのです!!!


そういうわけで、(「三人寄れば文殊の智恵」ということわざもありますが)それは本当のことだったのだなぁと、山崎亮さんの話からもしみじみ感じたのでした。


☆ この話はまだ続きます。(3回に分けて書きます)
一つでも参考になることがあれば幸いです。

続きをお楽しみに♪



ご愛読に感謝です。



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普通がいい。普通でいい。

2013-10-19 | 日記
今朝は雨ですが、今夜の満月はどうでしょうか。
月が出ていなくても、私にとっては忘れられない記念日になりそうです。

というのは、昨日、2年ぶりにNさんとお会いして、ゆっくりいろんなお話が聴けたからです。
お会いするのは2年ぶりでも、個人的に長時間お話出来たのは約20年ぶり?のような気がします。

私はこのところなぜかあまり元気が出なかったので、いつも変わらぬ溌剌とした明るい彼女と会っていろんなお話が出来てとても嬉しく、おかげさまで少しパワーが戻った気がします。

また、今回このブログには書いていませんが、今後の社会の見通しや世界情勢?日本の方向性などについても彼女の見解を伺うことが出来て、とても安心しました。
超お忙しい彼女が貴重な時間を取ってくださったこと、共に楽しいひとときを過ごすことが出来たことに心から感謝です。


彼女はあちこちで「秀れい(れいという漢字は草冠の下に心が三つ)気光」(彼女が編み出したオリジナルの気功)を教えられたり、自宅で内観を合宿指導されたり、さまざまなワークショップや講演会などのイベントを主催されたりして活躍されています。

また太極拳を通じて「日中友好」の交流活動をされ、海外もあちこち行かれ、インドやネバールなどでは子どもたちの教育に携わって学校を建てられる運動などにも長年関わっておられます。
その実りの成果が今や着々と上がっていることを、(30年前には10歳だった小さな子どもが今や政府の要人になっていたり、、)『最近「30年ぶりの感激の再会」!をして直接に感じとることが出来た』という彼女の話を伺って、私も大変感動しました。


彼女が初めてインドへ出かけられた20代の頃に、飛行場まで見送りに行ったり、また帰国された時に出迎えてその感想を直に伺ったり、、というようなご縁もあったので、その「充実した30年」が彼女にとって如何に素晴らしいものだったかということが、その結実した努力の成果と共に、(傍目からですが)私自身にも十分に感じることが出来ました。

というわけで、彼女のお話の一部を下記にて皆さんともシェアしたいと思います♪

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彼女の持論でもあり、私も共感することですが、癒しとか、「気」とか、パワーというのは、外から貰うものでは無く、本来は誰もが自分の中にこんこんと湧く「いのちの泉」(源)☆ を持っているということ。
(弱っている時に一時的な応急措置として人からエネルギーを貰ったり、交流するのはもちろんオッケーなんですが)

だから、彼女は『「単なる病気治し」だけはしない』と言っておられました。
また厳しいようですが、「本人自身がやる気を持って無いような人」(ただ助けて欲しいだけの人や自分にとって都合のいいことばかりが起きることを望む人たち)にはあまり関わらないことにしているそうです。


人はよく「変わりたい」とか、「自分を変えたい」とか言うけれど、実は「自分自身は変わらないでいて、相手や周囲に変わって欲しい」と願っているのだ、、という彼女の話には深く納得すると同時に、思わず爆笑してしまいました。

あまりにもズバリ!の指摘だったからです。

そして、自分自身の「本来のパワーの源とは何なのか?」(どこにあるのか)ということについても、大いに考えさせられました。


その元々の「気力の原点」は一体どこにあるのか。

エネルギーが枯渇した時や体力が消耗した時に外からチャージし、充電すること(「気」を入れてもらったり、アロマとか、サプリとか、さまざまな助け)はその時だけのもので、やはり、自分自身でリフレッシュ出来るということが何より大事な基本ということです。

それに、それらのいろんな外側からの助けも、実際に「状況を変える程の力」を果たして本当に持っているのかどうか!?という問いかけには、かなりドキッとしました。


例えば、私の川柳の師であった時実新子先生の句には、その力が確かにありました。
「人の人生を一句で変えてしまうぐらい力」があったし、またそのような川柳を自分も作りたいと真剣に自分自身を見つめていく中で、自分の置かれた状況を変えたり、あるいはたとえ外側の「現実」は何も変わらなくても自分の心やものの見方が変わったり、また、状況に直面する際の自分自身の感情のコントロールのきっかけとなったり、、。

そういうことを振り返って考えてみた時に、果たして「テレパスアート」がほんとうに人の助けになっているのかどうか?
少しでもお役に立っているだろうかと、改めて私自身も内省しました。

外側の状況を直接的に変えられなくても、せめてその人が自分自身の本音や、ほんとうの「目的」に気付いて内側から自分を変える、「何らかの契機」や手伝いになっていればいいなと感じました。


「自分は変わらないでいて状況だけは変えたい」というのは、それは「欲」(エゴ)なのだ、という彼女の鋭い洞察力にはほんとうに感服しました。

そして、努力家でもある彼女の口から「還暦を過ぎてこそ、これからこそが努力が要る」という言葉を聴き、身の引き締まる思いがしました。


「努力」「智慧」「知識」の三位一体の話はさらに興味深いものでした。

知恵というのは、心の中から出て来るものだそうで、知識というのは「ノウハウ」(技術や情報)なのです。

また「努力」というのは、例えば体操をしたり、生活の仕方を変えたり、一人ひとりがそれぞれ違う自分の体のクセや個性をよく知って、また「内観」によって自分の内側の声を聴き、真に自分自身の「心身のバランスを整えていく」ということです。


そして、最終的に彼女の目差すところは、決して特別なことではなく、「普通がいいよね」「普通でいいのよね」ということなのです!

決して特別な存在や「霊能」に頼ったり、自分だけが他と違ったスピリチュアルな生き方をするというのでは無く、「普通に生きて、普通に死んでゆく、、」(普通に元気に暮らせたら)それが一番いいのです。

百歳までも元気に活動して、、というようなことは全く望んでいないし、「自分のやるべきことをやり終えたらもう十分だから、、」(どうしてそこまで長生きする必要があるの!? )と微笑みながら、自分の望む死ぬ時期(自分自身で決めている寿命?)までもちゃんと見定めて、それまでに「ちゃんとやり切る」ことに焦点を当て、それに向けてすでに今も目の前のことに集中している、彼女の潔い考え方にも大いに示唆を受けました。


彼女からはその他にもたくさんの有益な話や体に役立つさまざまな情報なども教えていただき、まるで個人授業のように、ほんとうに一人で聴くにはもったいないような、貴重なお話の数々でした。


実は上記の話は、明日(20日)彼女の主催する「東北支援チャリティー講演会」=生きる!=において、彼女が予定している内容の一端というか、その「エキス」でもあるのです。
(本日はダンス瞑想や彼女自身の講話なども同所であるようで、もしかしたらその中で話されるかも?)


さて、下記がその講演会のご案内です。

今回のメイン講師は、九州から来られる慈明院 名誉住職の「吉住明海住職」。
ゲストは日本WHO協会の理事長 関淳一氏。

また、この講演会の収益金は日本WHO協会を通して、東北支援の義援金として寄付されるそうです。
(ぜひ皆様方にもご協力を宜しくお願い申し上げます♪)


2年前にはフォークソングを歌われる方がメインゲストでしたが、私も娘と一緒に聴きに行って、大変楽しいひとときを過ごすことが出来ました。

今年は残念ながら私は所用で参加出来ませんが、興味のある方はぜひご参加いただけたら嬉しいです。
(今回のお知らせとご紹介が遅くなりましたことをおわびします)

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東北大震災から二年半、現地ではまだまだ厳しい状況が続いております。
「自分に何が出来るか?」心に留めて参りたいと思います。

今回は、福岡在住の住職吉住明海さんに「生きる!」というテーマでお話頂きます。

御住職は六歳の時、電車の車禍に両下肢を失われましたが、その後高野山大学で学び、出家得度される道を歩まれました。御自身の修業体験、人生体験を通して貴重なお話を伺えると思います。
後半、御住職とのトークをさせて戴きたいと思います。

たくさんの皆様にお聞き頂き、一緒に考えていきたいテーマです。
周りの皆様にもお声掛け下さいませ。

今回の収益金は日本WHO協会を通して、東北支援の義援金として送らせて戴きます。


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    東北支援チャリティー講演会

     = 生きる!=

日時:2013年10月20日(日)  13:00~16:00

場所:大阪阿倍野ベルタ 3F 講堂

講師:慈明院 名誉住職 吉住明海住職


ゲスト:日本WHO協会 理事長 関 淳一 氏


講師プロフィール

高野山佛教大学仏教科卒
昭和50年 「南峯山 慈明院」建立
高野山宗務支所役員・地区PTA会長・講演・執筆活動など

著書 『風吹くままに』『雨あがる』『辻説法』など


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灘のけんか祭りとご先祖のこと

2013-10-14 | 日記
「灘のけんか祭り」というのは、姫路市白浜町にある松原八幡宮の秋祭り(例年10月14日ー15日)のこと。
2013年の今年もいよいよ明日(10月15日)が本番クライマックス!だ。

大河ドラマになる予定の「黒田官兵衛」とも所縁のあるところなので、この秋は例年以上にきっと凄い人出に違いない。

その八幡さん(と、子供の頃は呼んでいた)のすぐ横は小学校になっていて、ユーチューブで祭りの動画を見ると一緒に写り込んでいることも多くて、懐かしい。

今は鉄筋コンクリートの「白浜」小学校だが、私が通っていた頃は木造で、名称が「粟生」小学校だった。
粟(あわ)が生まれると書いて、確か「ぞくせい」と呼んでいたと思う。


その頃は学校の校庭のすぐ前は松林になっていて、そのすぐ先はもう海だったから、その砂浜と校庭が地続きになっていて、そこで飯ごう炊飯やキャンプのまねごとも出来たし、運動場の草抜きなどもした覚えがあるので、その頃の校庭は全部草地になっていた気がする。

話が横道に逸れたが、ともかく、この八幡さんで行われる「けんか祭り」というのが、もう村挙げての一大行事で、正月よりももっとずっとワクワクしたものだった。

今でも仕事で海外にいる人でさえも、この祭りの時には戻って来るというぐらい、地元の人間にとっては、これがもう「生き甲斐」にすらなっているのだ。

幼い頃は朝起きると、(この祭りのときだけは特別に)まず「朝風呂」に入り、上から下まで、肌着はもちろん、足袋まで、何から何まで新調で「着物」に着替えるので、子供心にも気持ちがあらたまったものだった。
(少し大きくなって着物では無く洋服を着るようになっても、やはりこの習慣は続いていた気がする)


そういうわけで、(私もここで生まれ育った者の一人として)大体学校は13日から3日間は休みになっていたが、そのずっと前から村のどこを歩いていても、家の中に居ても、学校でも、あちこちから聞こえてくる太鼓の音に、身も心もウキウキしたものだ。

いや、もう、とてもウキウキという言葉では軽過ぎて、うまく言い表せないぐらい、何と言うか、血が騒ぐというか、血湧き肉踊るというか、小さな女の子だった私でさえももう居ても立っても居られないぐらい、気持ちが弾んだものである。


私はもう地元を離れてからの年月の方がずっと長いぐらいの年齢になってしまったが、村を離れるまでは、毎年必ず見ていたこの秋祭り。

亡父の祥月命日(16日)が近づき、なぜか突然にふるさとの祭りのことをブログに書きたくなってしまった。


祭りと言えばこの祭り以外に無いというか、他の祭りは「そんなの祭りじゃないよ」と思えてしまうぐらいに、この祭りだけは自慢出来る。

こんなふうに書いても、とてもこの熱気と迫力は伝わらないと思うので、ぜひとも一度現場を見て欲しい。

その前にちょっと今夜、このブログを読んだ人は「灘のけんか祭り」で検索して、ユーチューブで動画を見てみられると、いかに凄いかが少しは想像が付くかも?

兵庫県と姫路市から「重要無形民俗文化財」に指定されているそうだが、さもありなんと思う。


旧七ヶ村の屋台(御輿)の中で、やっぱり一番好きなのは自分の村(宇佐崎)の屋台で、黄色い「しで」や、屋台のてっぺんの飾りぎぼうし、法被の模様、ありとあらゆるものが他所よりもいいと思えるから不思議だ。

屋台の「練り合わせ」でも自分のところが一番うまかった!と思いたいが、それは「ひいき」であって、実際はみんなの目が見て知っているので、祭りが終わると、村中で、「今年はどこそこがよかった」とか、うわさや評判が駆け巡り、その話をしたり、聞いたりするのも、子供心にもとても楽しいものだった。
(その頃は、屋台や御輿と呼ぶよりも、「ヤッサ」と呼んでいたと覚えているのだが、今ではそれもおぼろな記憶になってしまった)


それぞれの村には屋台を仕舞う屋台庫(蔵)があり、そこに屋台が仕舞われる時や、また出される時なども、様子を見に行ったり、「寄り合い」と言えば祭りに関する話のことで、もう、「一年中が祭りで明け暮れる」といっても決して過言では無いぐらい、もうこの村に生まれ育った者は誰でも、そして男の子などは特に、「屋台を担げるようになる」のが何よりの楽しみで、それが大人になる楽しみでもあり、大人になったしるしというか、一種の「通過儀礼」とも言えるのだ。


それに、この村では女性だって大変なのだ。
祭りのお弁当作り(重箱に何段重ね!)に徹夜するぐらいの勢いで、それを山(御輿の練り合わせがあるところ)の桟敷席で広げてみなで食べるのだが、そこが女の腕の見せ所というぐらいに、気合いが入っている!

どこの家でも、こんなごちそうは今まで食べたことが無いぐらいというぐらいの豪華さで、そのために昔は祭りの頃には姫路の街中でも物価が上がったと言われていたぐらいなのだ。

だからからだろうか、ともかく姫路には今でも美味しい食べ物が多い。
特にこの白浜町一帯には、今でも古いお店やお風呂屋さんなどがそのまま残っていたり、旨いものもたくさん揃っていると思う。
そして我が家だけでなく、よそもみんな「家族揃って舌が肥えていた」気がする。

それに、みんな舌だけでは無く、口もよく動き、「批評精神」や、他と比較分析する鋭さも合わせ持っていたので、容赦無い言葉が飛び交い、(お世辞抜きで)お互いに鍛えられたのかもしれない。


料理はともかく、果物だけでも、この季節はちょうど美味しい盛りなので、柿、梨、ぶどう、栗、林檎、みかん等々、、と食べ切れないぐらいだったことを思い出す。

その山の上の桟敷席というのは、毎年抽選で(今はどうか知らないが)、良い席が当たると、本当に喜んだものだった。抽選とは言っても一等席はやはり値段も相当高かったと思う。

けれどもこれが一年の一番のハイライトであるだけに、誰もこの祭りに関してはケチったりすることは決して無い。
寄付もそれぞれ各家ごとに「割当」があり、そのために、一年中倹約して、それに備えるのだが、そんなところにお嫁入りして来る人はさぞびっくりしたことと思う。


それでも、御輿を担ぐ男たちのカッコいいこと、力強いこと。
ほんとに惚れ惚れとして見直してしまうぐらいなので、この祭りとその若衆に憧れて、わざわざここに嫁ぎたいと願う若い女性も意外にいるらしい。


この屋台(御輿)というのは相当に重いものなので、みんなが息と力を合わせないと担げない。
このような凄い祭りが続いている限り、この地も、町も、日本もまだまだ大丈夫!という気がする。

ともかく、元気の出る祭りなので、ぜひ一生に一度は、本場で生の祭りを体験して欲しいと思う。


そのついでにちょっぴり自慢させてもらうと、その松原八幡宮の拝殿前の両脇に鎮座する「狛犬」は、実はうちのご先祖(石工だった祖父、そして父の兄)が彫ったものなのである。

もしもこのブログを読まれた方で、その近くへ行かれた際には、ぜひとも写メや動画で狛犬もツイートしていただけたら嬉しい!


亡父はこの村で生まれ育って80余年の一生をここで終えたので、秋祭りの頃になるといつも亡父を思い出す。

亡父は『心配せんでもわしの死ぬ日はもう決めてある』と、その生前、口癖のようによく言っていたが、ほんとに祭りの終わった翌日に死んだのだ。

最期は病院のテレビで祭りを見ていたが、祭りの終わりと共に静かに逝ったのである。


屋台が山から下りて、それぞれの村々に帰って来る頃になると、提灯のあかりが灯り、太鼓の音や囃子声と共にぞろぞろと人々がその後を従いて歩き、また、家の中から外に出て名残を惜しんで屋台を見送るあちこちの人たちの後ろ姿が、夕暮れの風景と共に思い出される。


亡父も私もその何とも言えない風情と、全ての祭りが終わったあとの余情が何よりも好きだった。
家の角に立って黙って屋台を見送りながら、「今年も祭りが終わったなぁ~」という、さみしさとも安堵ともつかぬ、深い感慨に浸ったものだった。


その頃の村の人々はみんなそんなふうに「祭りと一体化」していたのである。

私ももうすっかり忘れていたと思っていたのに、何と、2、3日前の夜、突然に大きな声で「ヨーイヤサ」と寝言を叫んだので、我ながらびっくり!してしまった。

私の中に、こんなにも深く、灘祭りの影響が今なお消えずに遺っていたとは!!!

「三つ子の魂百まで」とよく言われるが、祭太鼓の音と共に、還暦を過ぎて益々その傾向は深まるばかりだ。








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