『ナガサレール イエタテール』というのは、ニコ・ニコルソンさんのコミックエッセイ(太田出版)です。
これは、2011年3月11日の東日本大震災の地震で起きた津波によって実家を流され、その後2年、母娘三代で泣いて笑って自宅を建て直したその実録です。
ニコ・ニコルソンというのはペンネームで、作者は日本人の女性(東京在住の漫画家)です。
(作者自身もこのマンガの3人の主人公の1人として描かれています)
そして彼女と共に大活躍する「母ルソン(56) バツイチ」と、その母「婆ルソン(81)プチ認知」が登場します。
実家は宮城県の東南端の海沿いの町、山元町。
津波のあった日の話から、避難所の話、救援物資の話、都会の親戚宅での仮住まい、全壊判定の被害を受けた家を片付けに戻った時の話、、etc...
マンガだけでは無く、写真や詳細な記録を通して、保険やお金の話、その他、生々しい(向後に役立つような)具体的な実話や情報が満載されています。
「生まれ育った土地に帰りたい」と願う婆ルソンのため、二転、三転しながら再建を決めたものの、大工が足りない、お金が足りない、、等々いろんな問題が出て来ます。
さらには母ルソンの発病、婆ルソンのプチ認知など、、さらなる激震が続きますが、最後はめでたく家が建つのです♪
実際は悲惨な話なのに、それをここまで明るく面白く描けるにはよほどの作者の心身の力量が要ったことと思います。
震災に関するいろんな本が出ている中で、当事者がこのようなかたちで伝えてくれる話に、被災者では無い私たちもどれだけ救われる思いがすることでしょうか。
また、実際に被害に遭われた人たちにとっては、この一冊の本がどれほどの勇気を与えたことでしょう!
婆ルソンのひたすら家に帰りたいという純粋な想いにも胸打たれますが、それ以上に私は母ルソンのユニークなものの見方や考え方に惹かれました。
そして、この祖母、母と共に育った作者の行動力の凄さ!その「たくましさ」にも圧倒されました。
否、むしろ彼女はこの未曾有の出来事によって「鍛えられた」とも言えるのかもしれません。
同じ出来事に出遭ってもそこで家族がバラバラになってしまうこともあるかもしれませんが(そういう場合の方が多いのかもしれませんが)、この三人の結束力の強さ、絆の強さには感動してしまいました。
それはその中心に「家を建て直す」という、目的がはっきりとあったからということも大きい気がします。
(もちろん、立て直しを決めるまでには紆余曲折いろいろなことがあったのですが、、)
「家」というのは、単なるハコモノでは無いのです。
それはほんとうに「魂の拠り所」といっても過言では無いと思います。
余談になりますが、私の経験も書いてみます。
阪神淡路大震災の前に私が住んでいたのはマンションでしたが、それでもそこを買ってまもなく改装したりして、自分なりに住み心地よくするために手を入れ、ようやくこれから落ち着けると思った矢先に震災被害に遭い、手放すことになってしまいました。
私の場合は一部損壊でしたので、修理してそこに「住み続ける」という選択もしようと思えば出来ないことは無かった状況でしたが、職場もダブル被災で収入が途絶えたこともあり、また神戸の目を覆うような惨状が私には正視出来ず、その土地に居ること自体が苦しくてたまらなかったのです。
そこで踏ん張って暮らし続けるにはその時の私は(一人暮らしだったこともあって)あまりにもひ弱だと感じました。
その頃はまだ親も生存していたし、姉妹たちも近くに住んでいたので、お互いに助け合っていくことも出来たし、そしてもちろんその地に踏みとどまった沢山の人たちが死にものぐるいで頑張っていて、ボランティアの人たちも大勢来てくれて全国からの応援もいっぱいあったにも関わらず、私はなぜかとても「孤独」を感じたのでした。
そのような未曾有のことに出遭う時、人はその「本質」が露呈するのだとしたら、私の中に元々あったものが、その震災をきっかけにして、よりくっきりと浮上したのかもしれません。
自分の中に奥深く隠されていた「孤独」や、子どもの頃からずっと抱いていた傷付いた心が、癒されるために浮上し、発現したのかもしれません。
話が横道に逸れましたが、この本を読んで心底羨ましいと思ったのは、この祖母・母・娘の「信頼関係」でした。
頼り、頼られながらも、決して甘えなどは無く、それぞれが(精神的に)自立している、、
そして家を建て直す(生まれ育った土地に帰りたい)という「夢」を、何としても「あきらめない」粘り強さ。
それは言い換えれば「愛」の強さでもあるのかもしれません。
特に婆ルソンの、それまで自分が育て世話をしてきた花や植木や植物に対する情熱、それは家族同様のペットに向ける思いと同じか、それ以上のものがある気がします。
そのもの言わぬ存在(植物)への「愛おしさ」、それらと別れることは、まるで自分の身を引き裂かれるぐらいのつらさであることが、私にはよくわかります。
私は今でも空き家にしている伊豆の家を思い浮かべる時、その庭に自分が植えた花の一つ一つも全部思い出すことが出来ます。そしてその放ったらかしのままの花や植木たちのことを思うと心の中に涙が流れて止まりません。
だからこそ、この婆ルソンの気持ちが自分のことのように伝わって来るのです。
(例えそれを愛着を超える固執、「執着」だと笑う人がいようとも、、)
「ふるさとに帰りたい」という気持ち、それは、単に自宅や建物だけでは無く、その山や川や海、そして周辺の景色、その「自然全てがなつかしい」のだと思います。
だから、例えば新しい仮設住宅や復興住宅が、元の場所から遠い別のところに建って集団移住出来たとしても、以前と全く同じ感じでは決して過ごせ無いことでしょう、、。
この実家再建実録の一番凄いところは、婆ルソンのために、いつも部屋から眺めていたその庭の景色が「元通りに見える」ように、全く同じ位置に部屋や窓を作り、彼女の「その視線が変わらないように」するところでした。
それはまるで「最後の一葉」の物語のように、いつまでも変わらないその景色が彼女の「生き甲斐」でもあることを家族が何よりもよく知っていたからこそ出来たことだと思います。
そこにあるそのような深い深い「思いやりの心」こそが、この家の再建を可能にしたのでは無いかとすら感じました。
(ちなみにこれは、隈研吾さん設計の新しい「歌舞伎座」にも通じることではないかと思います)
今もなお、東北の地で、(あるいは被災して散っていった全国各地で)日々続いているそのような再建、復興への一人一人の夢や願いが、いつの日にか必ず実り、それぞれの人たちが、おのおの「自分の暮らしたいところで暮らしていける」ようになればいいなと、心から祈っています。
「人生いたるところに青山あり」と言いますが、「自分の好きなところで暮らせる」ということほど幸せなことは無いのではないかと私は思っています。
それはたぶん外側の器(建物)のことでは無く、自分の「心のふるさと」でもあり、どこで暮らそうとも居心地好く、「自分の心の平安を得ていくこと」が出来るということでもあるのかもしれません。
どこでどのように暮らそうとも、そのような「心の平安」や安らぎこそ、誰もが真に望んでいることなのかもしれませんね。
ご愛読に感謝です。
これは、2011年3月11日の東日本大震災の地震で起きた津波によって実家を流され、その後2年、母娘三代で泣いて笑って自宅を建て直したその実録です。
ニコ・ニコルソンというのはペンネームで、作者は日本人の女性(東京在住の漫画家)です。
(作者自身もこのマンガの3人の主人公の1人として描かれています)
そして彼女と共に大活躍する「母ルソン(56) バツイチ」と、その母「婆ルソン(81)プチ認知」が登場します。
実家は宮城県の東南端の海沿いの町、山元町。
津波のあった日の話から、避難所の話、救援物資の話、都会の親戚宅での仮住まい、全壊判定の被害を受けた家を片付けに戻った時の話、、etc...
マンガだけでは無く、写真や詳細な記録を通して、保険やお金の話、その他、生々しい(向後に役立つような)具体的な実話や情報が満載されています。
「生まれ育った土地に帰りたい」と願う婆ルソンのため、二転、三転しながら再建を決めたものの、大工が足りない、お金が足りない、、等々いろんな問題が出て来ます。
さらには母ルソンの発病、婆ルソンのプチ認知など、、さらなる激震が続きますが、最後はめでたく家が建つのです♪
実際は悲惨な話なのに、それをここまで明るく面白く描けるにはよほどの作者の心身の力量が要ったことと思います。
震災に関するいろんな本が出ている中で、当事者がこのようなかたちで伝えてくれる話に、被災者では無い私たちもどれだけ救われる思いがすることでしょうか。
また、実際に被害に遭われた人たちにとっては、この一冊の本がどれほどの勇気を与えたことでしょう!
婆ルソンのひたすら家に帰りたいという純粋な想いにも胸打たれますが、それ以上に私は母ルソンのユニークなものの見方や考え方に惹かれました。
そして、この祖母、母と共に育った作者の行動力の凄さ!その「たくましさ」にも圧倒されました。
否、むしろ彼女はこの未曾有の出来事によって「鍛えられた」とも言えるのかもしれません。
同じ出来事に出遭ってもそこで家族がバラバラになってしまうこともあるかもしれませんが(そういう場合の方が多いのかもしれませんが)、この三人の結束力の強さ、絆の強さには感動してしまいました。
それはその中心に「家を建て直す」という、目的がはっきりとあったからということも大きい気がします。
(もちろん、立て直しを決めるまでには紆余曲折いろいろなことがあったのですが、、)
「家」というのは、単なるハコモノでは無いのです。
それはほんとうに「魂の拠り所」といっても過言では無いと思います。
余談になりますが、私の経験も書いてみます。
阪神淡路大震災の前に私が住んでいたのはマンションでしたが、それでもそこを買ってまもなく改装したりして、自分なりに住み心地よくするために手を入れ、ようやくこれから落ち着けると思った矢先に震災被害に遭い、手放すことになってしまいました。
私の場合は一部損壊でしたので、修理してそこに「住み続ける」という選択もしようと思えば出来ないことは無かった状況でしたが、職場もダブル被災で収入が途絶えたこともあり、また神戸の目を覆うような惨状が私には正視出来ず、その土地に居ること自体が苦しくてたまらなかったのです。
そこで踏ん張って暮らし続けるにはその時の私は(一人暮らしだったこともあって)あまりにもひ弱だと感じました。
その頃はまだ親も生存していたし、姉妹たちも近くに住んでいたので、お互いに助け合っていくことも出来たし、そしてもちろんその地に踏みとどまった沢山の人たちが死にものぐるいで頑張っていて、ボランティアの人たちも大勢来てくれて全国からの応援もいっぱいあったにも関わらず、私はなぜかとても「孤独」を感じたのでした。
そのような未曾有のことに出遭う時、人はその「本質」が露呈するのだとしたら、私の中に元々あったものが、その震災をきっかけにして、よりくっきりと浮上したのかもしれません。
自分の中に奥深く隠されていた「孤独」や、子どもの頃からずっと抱いていた傷付いた心が、癒されるために浮上し、発現したのかもしれません。
話が横道に逸れましたが、この本を読んで心底羨ましいと思ったのは、この祖母・母・娘の「信頼関係」でした。
頼り、頼られながらも、決して甘えなどは無く、それぞれが(精神的に)自立している、、
そして家を建て直す(生まれ育った土地に帰りたい)という「夢」を、何としても「あきらめない」粘り強さ。
それは言い換えれば「愛」の強さでもあるのかもしれません。
特に婆ルソンの、それまで自分が育て世話をしてきた花や植木や植物に対する情熱、それは家族同様のペットに向ける思いと同じか、それ以上のものがある気がします。
そのもの言わぬ存在(植物)への「愛おしさ」、それらと別れることは、まるで自分の身を引き裂かれるぐらいのつらさであることが、私にはよくわかります。
私は今でも空き家にしている伊豆の家を思い浮かべる時、その庭に自分が植えた花の一つ一つも全部思い出すことが出来ます。そしてその放ったらかしのままの花や植木たちのことを思うと心の中に涙が流れて止まりません。
だからこそ、この婆ルソンの気持ちが自分のことのように伝わって来るのです。
(例えそれを愛着を超える固執、「執着」だと笑う人がいようとも、、)
「ふるさとに帰りたい」という気持ち、それは、単に自宅や建物だけでは無く、その山や川や海、そして周辺の景色、その「自然全てがなつかしい」のだと思います。
だから、例えば新しい仮設住宅や復興住宅が、元の場所から遠い別のところに建って集団移住出来たとしても、以前と全く同じ感じでは決して過ごせ無いことでしょう、、。
この実家再建実録の一番凄いところは、婆ルソンのために、いつも部屋から眺めていたその庭の景色が「元通りに見える」ように、全く同じ位置に部屋や窓を作り、彼女の「その視線が変わらないように」するところでした。
それはまるで「最後の一葉」の物語のように、いつまでも変わらないその景色が彼女の「生き甲斐」でもあることを家族が何よりもよく知っていたからこそ出来たことだと思います。
そこにあるそのような深い深い「思いやりの心」こそが、この家の再建を可能にしたのでは無いかとすら感じました。
(ちなみにこれは、隈研吾さん設計の新しい「歌舞伎座」にも通じることではないかと思います)
今もなお、東北の地で、(あるいは被災して散っていった全国各地で)日々続いているそのような再建、復興への一人一人の夢や願いが、いつの日にか必ず実り、それぞれの人たちが、おのおの「自分の暮らしたいところで暮らしていける」ようになればいいなと、心から祈っています。
「人生いたるところに青山あり」と言いますが、「自分の好きなところで暮らせる」ということほど幸せなことは無いのではないかと私は思っています。
それはたぶん外側の器(建物)のことでは無く、自分の「心のふるさと」でもあり、どこで暮らそうとも居心地好く、「自分の心の平安を得ていくこと」が出来るということでもあるのかもしれません。
どこでどのように暮らそうとも、そのような「心の平安」や安らぎこそ、誰もが真に望んでいることなのかもしれませんね。
ご愛読に感謝です。