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1995年の阪神淡路大震災がきっかけとなり自動書記で突如絵を描き始める 絵の仕事は26年目 ブログ光のチャレンジは11年

ナガサレール イエタテール

2013-04-29 | 本の紹介
『ナガサレール イエタテール』というのは、ニコ・ニコルソンさんのコミックエッセイ(太田出版)です。

これは、2011年3月11日の東日本大震災の地震で起きた津波によって実家を流され、その後2年、母娘三代で泣いて笑って自宅を建て直したその実録です。

ニコ・ニコルソンというのはペンネームで、作者は日本人の女性(東京在住の漫画家)です。
(作者自身もこのマンガの3人の主人公の1人として描かれています)
そして彼女と共に大活躍する「母ルソン(56) バツイチ」と、その母「婆ルソン(81)プチ認知」が登場します。

実家は宮城県の東南端の海沿いの町、山元町。

津波のあった日の話から、避難所の話、救援物資の話、都会の親戚宅での仮住まい、全壊判定の被害を受けた家を片付けに戻った時の話、、etc...
マンガだけでは無く、写真や詳細な記録を通して、保険やお金の話、その他、生々しい(向後に役立つような)具体的な実話や情報が満載されています。


「生まれ育った土地に帰りたい」と願う婆ルソンのため、二転、三転しながら再建を決めたものの、大工が足りない、お金が足りない、、等々いろんな問題が出て来ます。
さらには母ルソンの発病、婆ルソンのプチ認知など、、さらなる激震が続きますが、最後はめでたく家が建つのです♪

実際は悲惨な話なのに、それをここまで明るく面白く描けるにはよほどの作者の心身の力量が要ったことと思います。
震災に関するいろんな本が出ている中で、当事者がこのようなかたちで伝えてくれる話に、被災者では無い私たちもどれだけ救われる思いがすることでしょうか。
また、実際に被害に遭われた人たちにとっては、この一冊の本がどれほどの勇気を与えたことでしょう!

婆ルソンのひたすら家に帰りたいという純粋な想いにも胸打たれますが、それ以上に私は母ルソンのユニークなものの見方や考え方に惹かれました。
そして、この祖母、母と共に育った作者の行動力の凄さ!その「たくましさ」にも圧倒されました。
否、むしろ彼女はこの未曾有の出来事によって「鍛えられた」とも言えるのかもしれません。

同じ出来事に出遭ってもそこで家族がバラバラになってしまうこともあるかもしれませんが(そういう場合の方が多いのかもしれませんが)、この三人の結束力の強さ、絆の強さには感動してしまいました。
それはその中心に「家を建て直す」という、目的がはっきりとあったからということも大きい気がします。
(もちろん、立て直しを決めるまでには紆余曲折いろいろなことがあったのですが、、)


「家」というのは、単なるハコモノでは無いのです。
それはほんとうに「魂の拠り所」といっても過言では無いと思います。


余談になりますが、私の経験も書いてみます。
阪神淡路大震災の前に私が住んでいたのはマンションでしたが、それでもそこを買ってまもなく改装したりして、自分なりに住み心地よくするために手を入れ、ようやくこれから落ち着けると思った矢先に震災被害に遭い、手放すことになってしまいました。

私の場合は一部損壊でしたので、修理してそこに「住み続ける」という選択もしようと思えば出来ないことは無かった状況でしたが、職場もダブル被災で収入が途絶えたこともあり、また神戸の目を覆うような惨状が私には正視出来ず、その土地に居ること自体が苦しくてたまらなかったのです。
そこで踏ん張って暮らし続けるにはその時の私は(一人暮らしだったこともあって)あまりにもひ弱だと感じました。

その頃はまだ親も生存していたし、姉妹たちも近くに住んでいたので、お互いに助け合っていくことも出来たし、そしてもちろんその地に踏みとどまった沢山の人たちが死にものぐるいで頑張っていて、ボランティアの人たちも大勢来てくれて全国からの応援もいっぱいあったにも関わらず、私はなぜかとても「孤独」を感じたのでした。

そのような未曾有のことに出遭う時、人はその「本質」が露呈するのだとしたら、私の中に元々あったものが、その震災をきっかけにして、よりくっきりと浮上したのかもしれません。
自分の中に奥深く隠されていた「孤独」や、子どもの頃からずっと抱いていた傷付いた心が、癒されるために浮上し、発現したのかもしれません。


話が横道に逸れましたが、この本を読んで心底羨ましいと思ったのは、この祖母・母・娘の「信頼関係」でした。
頼り、頼られながらも、決して甘えなどは無く、それぞれが(精神的に)自立している、、
そして家を建て直す(生まれ育った土地に帰りたい)という「夢」を、何としても「あきらめない」粘り強さ。

それは言い換えれば「愛」の強さでもあるのかもしれません。
特に婆ルソンの、それまで自分が育て世話をしてきた花や植木や植物に対する情熱、それは家族同様のペットに向ける思いと同じか、それ以上のものがある気がします。

そのもの言わぬ存在(植物)への「愛おしさ」、それらと別れることは、まるで自分の身を引き裂かれるぐらいのつらさであることが、私にはよくわかります。

私は今でも空き家にしている伊豆の家を思い浮かべる時、その庭に自分が植えた花の一つ一つも全部思い出すことが出来ます。そしてその放ったらかしのままの花や植木たちのことを思うと心の中に涙が流れて止まりません。
だからこそ、この婆ルソンの気持ちが自分のことのように伝わって来るのです。
(例えそれを愛着を超える固執、「執着」だと笑う人がいようとも、、)

「ふるさとに帰りたい」という気持ち、それは、単に自宅や建物だけでは無く、その山や川や海、そして周辺の景色、その「自然全てがなつかしい」のだと思います。
だから、例えば新しい仮設住宅や復興住宅が、元の場所から遠い別のところに建って集団移住出来たとしても、以前と全く同じ感じでは決して過ごせ無いことでしょう、、。


この実家再建実録の一番凄いところは、婆ルソンのために、いつも部屋から眺めていたその庭の景色が「元通りに見える」ように、全く同じ位置に部屋や窓を作り、彼女の「その視線が変わらないように」するところでした。

それはまるで「最後の一葉」の物語のように、いつまでも変わらないその景色が彼女の「生き甲斐」でもあることを家族が何よりもよく知っていたからこそ出来たことだと思います。
そこにあるそのような深い深い「思いやりの心」こそが、この家の再建を可能にしたのでは無いかとすら感じました。
(ちなみにこれは、隈研吾さん設計の新しい「歌舞伎座」にも通じることではないかと思います)


今もなお、東北の地で、(あるいは被災して散っていった全国各地で)日々続いているそのような再建、復興への一人一人の夢や願いが、いつの日にか必ず実り、それぞれの人たちが、おのおの「自分の暮らしたいところで暮らしていける」ようになればいいなと、心から祈っています。

「人生いたるところに青山あり」と言いますが、「自分の好きなところで暮らせる」ということほど幸せなことは無いのではないかと私は思っています。

それはたぶん外側の器(建物)のことでは無く、自分の「心のふるさと」でもあり、どこで暮らそうとも居心地好く、「自分の心の平安を得ていくこと」が出来るということでもあるのかもしれません。

どこでどのように暮らそうとも、そのような「心の平安」や安らぎこそ、誰もが真に望んでいることなのかもしれませんね。



ご愛読に感謝です。




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夢を叶えるコツ

2013-04-25 | 人物紹介
私の友人でほんとに不思議なぐらい何でも願いがスイスイ叶ってしまう人がいます。
その彼女に「願いの叶うコツ」を尋ねると、「笑顔と感謝かな?」と笑いながら答えてくれました。

「そっか!」って、半分納得するものの、でもやっぱり「彼女だから出来るのよね~」って、どこか彼女のようにはうまくいかない自分に対して、ちょっと引け目というか、羨ましさを感じてしまうところがありました。
彼女が近づいて行くだけで、何かもうみんな自然に笑顔になってしまうような、そんな「なごみ力」!?を持った人だからです。

それに笑顔と感謝なら、私もそれなりに実行してるつもりだけどなぁ?~って思ったりして、、。
「やっぱり私にはまだまだ感謝が足り無いのかなぁ」なんて、つい自分を否定したり、責めたりしていました。


ところが、今日、何と「より具体的なそのコツ」がわかったのです。
ある人の言葉の中にそのヒントを発見したのです!
(ただし、これはまだ実践していないので、その効果は私自身で確かめたわけでは無いのですが、、)


株式会社「夢を叶える学校」を経営されている「武田葉子さん」のお話の中に、そのヒントがあったのです。

下記はその「夢を叶える学校」のHPです。
http://yume-kana.jp


それから彼女のブログは下記です。
http://ameblo.jp/yumekana321/entry-11438037945.html


武田葉子さんのことは、たまたま別のサイトに載っていたインタビュー記事を読んで初めて知ったのですが、その記事を通して知った彼女の言葉にとても深い感銘を受けました。


下記は、そのインタビューの載ったサイト「 Bird's eye 」(バーズアイ)からの抜粋引用です。
……………………………………………………………………………


無くなってしまったものにしか意識が向かなかった自分に気づき、今在るものに意識を向けると感謝が湧いてきました。

(中略)

本当はこの日常の生活の中にいっぱいキラキラしたものが散りばめられているんではないか。
自分がこれはいい、これはダメと判断を下す前の状態に本当の事があるような気がしだしたのです。


―― 人間の思考が働く前の状態、あるがままの姿の中に何かある、と思われたんですか。
武田 そうなんです。今ここに全てがある、今ここに生きることなんだ、と直感したのです。
それからは、あまりあれこれ迷わなくなりましたね。
何かあってもすぐに自分の思考で判断しないようにするんです。


―― そうすると、どうなるんですか。
武田 そのことに判断するのを止めて、私は何を望んでいるのかと自分に問いかけてみるんです。

そうすると、すべての人が豊かになること、みんなの心が豊かになること、ということを本当は望んでいる。
そうするとその方向へ運ばれてゆくのが分るんですね。
「ほんとうに心から思えばそうなる」という確信がどんどん増えてゆくんです。

(中略)

―― 外に起こったことに目を向けることから、自分の内側に目を向けるということですね。
武田 外の事象に一喜一憂して振り回されない。
今ここに生きるヒントは、自分の内側に目を向けることなんじゃないかと。

一人の内が変われば世界は変えられる、という言葉に共鳴しますね。


(中略)

人間の思いや念は大きな力も持っているんですね。
「夢を叶える学校」は想えば必ずそうなるということを一人一人が実感できるんです。


―― 武田さんのこれからの夢をお聞かせ下さい。
武田 「今を生きる」という私のテーマを決めて、本当の生き方をしてゆく、それがこれからの挑戦ですね。

そして多くの人が「夢を叶える学校」を通して豊かな人生を送っていただけるようにしてゆけたらと思っています。

…………………………………………………………………………………

以上、抜粋引用終わり。


この武田葉子さんの講演会が、〝 夢を叶える時代 〟と題して、
6月15日(土)大阪の天満研修センター1階101ホールにて(14:20~15:10)開かれます。
(会場電話/06-6354-1927)

興味を持たれた方は、ぜひ一度彼女のサイトやブログをご訪問されてはいかがでしょうか。

この日には武田さんのお話に続き、「エハン・デラヴィさん」の〝 奇跡とコンタクトする時代 〟という講演もあるそうです。(15:30~17:30)

THD(株式会社トータルヘルスデザイン)の主催ですので、お申し込みやお問い合わせはこちらへどうぞ。
(THD電話/0124-15-1846) 要予約:参加料(事前振込/¥3000)(当日¥4000)

なお、東京でも同じ内容で開催されるようですが、そちらは翌日の6月16日(日)のようですので、日をお間違いなく。参加をご希望の方は、念のため、各自で「再確認」していただけましたら幸いです。
(私はただ「紹介するのみ」で、決してTHDのまわし者ではありません!ので、誤解されませんよう、、笑)


さて、そういうわけで、すっかり話が前後してしまいましたが、インタビューに答えて彼女が話しておられるように、例えば、外側のうまくいっていない状況に目を向けて、そのことにあれこれ心を煩わせるのではなく、ほんとうの自分の願っていること、「自分の真の望み☆」に焦点を合わせ、「意識をそこに向ける」ことが大事なんですね!

それが実は何よりの「夢実現のコツ」であり、ポイントだったんですね!!
とてもシンプルなこと☆ だったのです。


あああああああ~~~~~~~そうだったのかぁ~~~~~~~って、ほんとに深く深く納得がいきました。
初めて腑に落ちました!!!!!!!

武田葉子さん、ありがとうございます♡


このコツを知って、「これはぜひとも皆様にもブログでお伝えしなければ♪ 」と、即更新したのは、実は私のブログを読んでくださっているある方から届いたメールがきっかけなんです。

「花にインタビュー」の記事もとても好評のようなんですが、最近書いた「夢に生きる」という話がその方にとって、何かピンと来るところがあったらしいのです。


これまで私は自分のブログはどうも長過ぎて!?皆さん読む途中で少々うんざりされるのでは?と、内心気にしていたのですが、そんな心配もすっかり吹っ飛んで、とっても嬉しくなってしまいました。

勇気を出してメールしてくださった方に心から感謝です♡
この場を借りて心より御礼申し上げます。ほんとうにありがとうございました♪


おかげさまで、私自身もこのような「夢を叶えるコツ」を知ることが出来、皆様にもお伝え出来てほんとうによかったです。
これから皆様と共に、さっそくこのコツを実践して、お互いにどんどん夢を叶えていきたいですね☆

ちなみに私はたまさんを囲んで「宇宙学校」で思い切り語り合えることを夢見ています。


これを読まれている方の中で、もしもそんなふうに念願叶ったなら、ぜひまたお知らせ下さいね♪
楽しみにお待ちしていま~す♡



下記の絵は『チャンス』です。
(アズミックアートのHPで音楽も試聴出来ます)




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花にインタビュー(その3)

2013-04-24 | 花のつぶやき
今頃はさつきの花盛りです。散歩する道すがらもどこもかしこも「さつき」の垣根が続いています。

昔から不思議に思っていたことですが、お金持ちの家の庭には必ずさつきの植栽がある気がするのですが、どうでしょうか?
お金持ちなのにみなどうして同じようなさつきの庭が多いのかな?なんて不思議に思っていました。

お金持ちに反発するわけでは無いのですが、どこも同じような感じで、それってあまり「個性」が無いな~と感じていたのです。
だからなのかどうか、私にとって「さつき」はそれほど特に好きな花というわけではなかったのです。
かと言って嫌いというわけでも無く、花はどの花もみんな好きではあるのですが、さつきはいっぱい種類のある割にはどれも同じ様に見えてしまって、どちらかと言えば山の岩肌に咲く素朴な「つつじ」の方がずっと好きでした。


そんなことを想いながらさつきの花を眺めていると、

「個性って何よ!?」って、さつきさんがちょっと怒ったような声で言いました。

「あのね、単に目立てばいいのだけが個性じゃないのよ。いかにも『個性』っていう感じなのは、あれは個性では無いの」とさつきさんが言うのです。


「へぇ~そうなんだ!」と私は驚いて
「じゃあ、ほんとうの個性って、何? どうやったら見分けられるの?」と思わず尋ねました。


するとさつきさんはこう教えてくれたのです。
「個性って『愛』なのよ」って。


「えっ、個性って、愛なの?」
「そう、愛を持って見るとね、『個性』が見えて来るの」


そうかぁ、そういうことだったのね♪
どれもみな同じように見えていたのは、私が「愛」を持って見ていなかったからなのね。

「教えてくれてありがとう!さつきさん」


さつきさんはもう怒っていませんでした。
すましたような、ちょっと照れたようなさつきさんがそこに光って咲いていました。







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夢に生きる~続き

2013-04-23 | 本の紹介
「夢に生きる」というテーマの続きで、私の経験を書いてみます。

子どもがまだ小さかった頃のこと、ある時私は肺炎にかかってしまいました。
単なる風邪と思っていたら、長く微熱が続き、受診して初めてわかったのです。
すぐに入院を~と言われたのですが、その時は病室が空いていず、入院待ちということで一旦家に帰りました。

それからしばらく日中もずっと自宅で寝ている日々が続いたのですが、その時、近くに住むおば(父の妹)が、「昔自分も肋膜炎を患ったことがあるけれど、、」と言って、「こんにゃく湿布」を教えてくれたのです。

それはこんにゃくを温めてタオルに包み、それを患部に当てるという単純な手当法でしたが、簡単なこともあってやりやすく、その治療を続けながら(病室が空くのを待つ間に)私はいろんなことを想っていました。


その中でも一番想ったことは、「このまま死ぬとしたら、それまでに何をしたいか」ということでした。
それを考えた時に、ふと三つのやりたいことが浮かんで来ました。

一つは、その頃なぜか頭の中に勝手に物語が浮かび、寝ていてもストーリーがひとりでに出来上がり、物語の最初から最後まで全部暗記しているというか、頭の中ですらすらとその全てが書けたのですが、それをあるところに投稿することでした。

またもう一つは、2度訪れたことのあるSwedenのことでした。
私は高校の時からのペンパルがたまたまスウェーデン人だったので、彼女からもらった素敵なクリスマスカードやプレゼント等もあり、また27歳と29歳の時に旅をした折りのお土産や、彼女の家に滞在させてもらったりした時にいただいた想い出の品や旅の記念写真、地図、コイン、その他絵本など、たくさんの資料がありました。

その頃(1970年代)はまだ北欧はあまり日本では一般に知られておらず、私の持っている「宝もの」をみんなに見てもらいたいと思ったのです。
もしも私がこのまま死んでしまったら、それこそ「宝の持ち腐れ」になってしまってもったいないと感じたのです。

それで、「小さな旅」というタイトルで、チケット(招待状のような感じで)も手作りし、ある喫茶店を借りて、展示と交流の集いを計画したのです。
来てもらうのはほとんど知り合いか友人たちですが、その頃住んでいた街のタウン誌にもお知らせと案内を載せてもらいました。

そして、最後の一つは、『女ならやってみな!』という映画の自主上映運動で知り合った仲間たちと一緒に、女性のたまり場「フリースペース」を開くことでした。
それはその頃流行り出していたリサイクルショップを兼ねたものでもあったのです。


もちろんこれら三つのことを実行に移したのは、実際に体が元気になってからでしたが、そのイメージのほとんどは寝ている時に頭の中で出来上がっていたのです。
そしてそういうことを毎日考えていろいろ想像しているうちに、自分が肺炎にかかっていることなどすっかり忘れ、なぜかいつのまにか熱も下がり、病室が空くまでに肺炎はすっかり平癒してしまったのでした!
(「こんにゃく湿布」も効いたかもしれませんが、、)

家で寝付いていたその安静期間はほんの十日間ぐらいだったかと思います。
その病気をきっかけにして、(その頃30代の前半だった)私は、まるで「不死鳥」のように蘇ったのでした!


ちなみに「肺炎」という病気は、ルイーズ・ヘイさんの『ライフ・ヒーリング』という本によりますと、「肺」は「生」を取り入れたり出したりするところで、「肺に問題があるのはふつう生を取り入れるのがこわいからです。あるいは思う存分に生きてはいけないと思い込んでいるからかもしれません」と書いてありました。

つまり、彼女の言によれば、「これまで女性は息をひそめて生きてきました。第二級市民のように生活空間を持つ権利も、時には生きる権利さえも取り上げられているのだと思い込んで」いたことが、その病の底にはあるらしいのです。
だからこそ、「女性は社会の一員として自分の空間を持ち、息を深く胸一杯吸い込んで」自分らしく生きることで、元気になっていくのですね♪

もちろんこのようなことをその頃の私は理論的に解っていたわけでは無いし、その当時は、病気に対してこのような「スピリチュアルな見方」やアプローチが出来るなんてことは、全く知られていませんでした。
まして、そのような女性の置かれた社会的立場の「息苦しさ」(生き苦しさ)が肺を傷めるなんて思ってもみませんでした。(誰にとってもそれがその病気の全ての原因とは言いませんが、、)

けれども当時の自分の状況を思い返してみると、まさにその通りの環境にありました。
それまでずっと保育士(昔は保母さんと呼ばれていた)として正職員(公務員)でバリバリ働いていた私が、夫の仕事の都合で転居したためにその仕事を辞めざるを得ず、その頃は年齢制限もあり、一旦辞めると再び正職員になるのは難しく、また子どもの幼稚園の送り迎えなどもあって、ほんの短時間のパートで働くぐらいしか出来なかったのです。

なので、私の場合は、そういう悶々とした思いが積もって、胸の塞がれた状態が長く続き、それがそのような「肺」の病として外に現れ出たのかもしれません。
だからこそ何か新しいことを思い付き、女性の仲間たちと共に新鮮な空気や時代の新しい流れに触れて、どんどん元気と勇気を取り戻していったのかもしれません。

その頃の自分の勢いを思い返してみると、もしかしたらあれは「躁状態」!?だったのではと思うぐらいに、すっかりはじけていた気がします。今のおとなしい?私から見ると、同じ自分とは思えないぐらいです(笑)。


ところで、話が長くなりましたが、本題はここからです。

夢の実現の「ポイント」というか、ヒントなんですが、最近読んだPHP5月号(No.780)の小冊子の中のエッセイにとても参考になることが書いてありました。
(麻生圭子さんの「京都、日々是いいかげん」という連載エッセイの五です)

その中から下記、一部抜粋引用します。

「何が好きかより、何ができるか」
…………………………………………………………………

好きなことを自由に仕事にできればいいですよね。
その好きなことが、人からも求めれるなら、いうことなしです。

(中略)

うつわを見ていると、土をいじっていると、無心になれる。やさしい気持ちになれる、しあわせだ、好きだ、それはみんな主観です。
自分がどう感じるか、です。

それは自由で、美しいことだけれど、それだけでは仕事にならない。
仕事というのは、客観的に、それを評価してくれる人がいて、はじめて成り立つものだからです。

でも、得意なこと、というのは、客観です。
自分は何ができるのか。
何をするとき、自分はいちばん生きるのか。役に立てるのか。

(中略)

ちなみに私は、好きなことより、得意なことを優先することで、仕事を得てきた。

……………………………………………………………………

以上引用抜粋終わり。


この一文を読んで、なるほど、そうだったのか!と深く納得がいきました。

私もよく「好きなことを仕事に出来ていいね」と羨ましがられたりすることも多いのですが、考えてみると、私は絵は元々好きで美術館にもよく行ったりしていましたが、そんな関係の仕事をしようとか、美大に行きたいとか、そんなことは一度も思ったこともありませんでした。

大学を出て就職をする時は今よりももっと女性には求人すらほとんど来なかった時代です。
女性の仕事と言えば保母さんとか、看護婦さんとか、学校の先生ぐらいしか無かったし、もしも例えばスチュワーデスに憧れたとしても、容姿端麗、自宅通勤、おまけに身長などの厳しい条件があり、私にはとても無理でした。

世界中を旅してみたいとか、通訳や翻訳の仕事をしてみたいと思ったこともありましたが、それはほんとにただ単純に好きというだけで、本気でそれについて「どうしたらそうなれるのか」調べたり、努力したりしたこともなかったのです。

中でも本は「本の虫」と言われるぐらい好きで、「活字中毒」ぐらいに、ご飯を食べる時でも何か活字を見ながら、、というそんな感じでしたが、それでも出版社に勤めようとか、図書館で働きたいとか、そういうことは全く思いもしませんでした。
今から思えば司書の仕事等、資格も取れた筈なのに、ほんとに不思議です。

ともかく、好きなことよりも、「自分に出来ること」をするしかなかったのです。
そういうわけでしたので、子どもは好きでしたが、だから保母さんになったわけでは全く無くて、その時の自分にはそれしか出来ることが無かったからなのです。

その時の私の願いはただ、ただ、「家を出て自活したい」というその一点のみでした。
ともかくどんなところであれ、どんな仕事であれ、雇ってくれるところがあれば、就職して何とか一人で食べていければそれでいいと真剣に思っていたのです。

そして一旦就職したらそこを変わるとか、辞めるなんて、全く考えたこともなかったのです。
とにかく一生働いて一人で食べていきたいというのが、その頃の私の何よりの願いと覚悟だったのです。
それが「自由」の基本だと信じていたからです。


そんな私が今のような仕事をするようになったなんて!?
1995年(平成7年)の阪神淡路大震災がきっかけとなって、その後「自動書記」による絵は描き続けてはいても、それが仕事になるとか、仕事にしようなんてまさか思ってもみず、それが「突然のリストラ」にあったことでこの道で食べていくようになったのですから、ほんとに人生はわからないものですね。

だから、麻生さんが書いておられることにとっても共感したのです。
「夢に生きる」ことは、実は「自分に出来ることをする」ということでもあるのかもしれませんね?

『夢行脚』の諸九(しょきゅう)だって、そうだったのです。
俳諧で生活の糧を得ていけるなんて、そんな夢みたいなこと、初めは思ってもみなかったのです。
ただ、「自分に出来ること」として、ほんとうにそれしかなかったからなのです。

それも最初からそれが得意だったのでは無く、俳諧を知ってから長い年月をかけて少しずつ学んでいったのです。
そしてそれがどんどん好きになり、その好きを追求していった果てにそれが、仕事となっていったのです。
決して「これを仕事にしてやろう!」と思って、句を詠んでいたわけではなかったのです。

彼女は、ただ、ただ、置かれたその環境の中で「自分に出来ること」として精一杯目の前のことに集中し、それを句にすることに打ち込んでいく中で、その句が評価され、周囲の人たちに喜ばれ、やがてその存在が広く知られていったのです。


そんな彼女の生き方の素晴らしいところは、決してそれを止めなかったことだと思います。
夢に生きることを決してあきらめなかったからこそ、生涯を「夢に生きる」ことが出来たのではないでしょうか。



随分長くなってしまいました。
最後まで読んでいただき、ありがとうございます♪


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夢に生きる

2013-04-21 | 本の紹介
現実がシビアであればあるほど、逃避では無いが、本の世界に没頭したくなる癖が私にはあるようで、子どもの頃は押し入れに隠れてでもいろんな本に読みふけっては、親によく叱られていたものだった。

そして、最近もなぜかまたその癖が復活したようで、忙しいにも関わらず本が手放せない。
読みかけの本が手元にいっぱいあるのだが、その中ですでに読了した下記の本をご紹介する。

『夢行脚 俳人・諸九の恋』(中央公論社/浮穴みみ著)

白石さんという方がこの本の書評を書いておられたので、そこからあらすじなど、下記一部引用させていただく。

……………………………………………………………………………

江戸中期、『奥の細道』で松尾芭蕉が歩いた道を、老齢の身でたどった実在の女性俳諧師がいた。
それがこの物語の主人公・永松なみこと諸九(しょきゅう)である。
彼女は庄屋の妻の座を捨て、俳諧の宗匠・有井湖白(ありいこはく)とかけおちをしたという過去を持つ。
その湖白が亡くなると出家し、やがて女宗匠になっていくーー
そんな波瀾に満ちた生涯を描いた評伝小説だ。

(中略)

なみは湖白との逃避行のとき<人の一生は夢>であり、その夢に生きることが俳諧師の仕事だと受け止める。
そこに<本当の、わたくし>があるのだと。
そんな愛と俳諧と夢に生きた一途な女性の物語。
どこまでも<本当の、わたくし>の心の赴くまま、前へと進む姿は、透明な水のひと筋のようにすがすがしい。

…………………………………………………………………………

以上、引用抜粋終わり。

この時代の不義密通は重罪、死罪にも価するぐらいだったのに、この物語(史実が織り交ぜられている)においては何と二人は無事逃げ仰せて生き延び、奇跡的に添い遂げることが出来、晩年は俳諧師としても成功し、幸せな人生を全うするという、現代だって難しいような「ハッピーエンド」を迎えるところが、何と言っても気に入る。

そんな「夢のようなこと」を達成するのは、至難の技なのに、一体どうやって!?と、まるで推理小説のようなスリルとドキドキを覚えるが、この評者も書いているように、「あくまでも端正な文章で淡く美しく描かれている」ために、安心して読めるのだ。
そしてだからこそ、まっことに「すがすがしい」気持ちのいい読後感を得ることが出来る。

もしもこのところ鬱々として過ごしておられる人がいたら、一服の清涼剤のように、この本をぜひお薦めしたい。
読み終わったら「よし、自分も夢に生きよう!」と勇気が湧いて来るかもしれない。


私の亡父(大正初め頃の生まれ)もまたそのような「夢に生きた人」だった。
けれども父は男だったゆえに、夢だけに生きるわけにはいかず、親や妻子や兄弟姉妹たちを養うために、「夢と共に生きた」というべきか、うまくバランスを取りながら夢と現実を両立させていたようにも思える。

それでも父にはどこか常にさみしさがあったように思う。
それは諸九のように夢だけを選び、その夢を貫いて徹底して夢に生き抜くということが出来なかったからかもしれない。

もし父が生前にこの本に巡り会っていたら、果たしてどう感じたことだろうか。
父に倣って私も俳句を始めたあの十代の頃が無性になつかしい、、。
父と、この本を中にして共に語り合ってみたかったなぁ!と、しみじみ思う。
ちなみに父もまた俳句を50年以上も(死ぬ間際まで)続けていた風流人であったから。

私は俳句を途中で止めて、現実だけに生き、その後、30代の初めに川柳の師・時実新子に巡り遇って以降、再び夢に生き始めたのだった。
けれどもその夢も、師の死で半ばにして終わり、夢から覚めてみれば現実のただ中に浮き沈みしている私の姿ばかりが見える。

アズミックアートという夢、絵の夢、音楽の夢、それらも今や風前の灯火?のように、「現実」の前に揺らいで今にも儚く消えてしまいそうだ。
あぁ、私も諸九のように、尼さんになって旅をしてみたい!
あちこち、好きなところに滞在し、、漂泊の旅の途上で人生を終えるのもいいかもしれない。

なんてことを考えていると、亡くなった友達の声や師の声がふと聞こえて来そうだ。
「自己憐憫は止めなさい!それよりもさっさと行動しなさい!!」と。
ほんとにその通り。夢に生きるというのは、ただ坐ってぼぉ~と夢見ていることでは決して無い。

何よりもその夢をしっかり胸に抱きながら「現実」のただ中で行動し、生き抜く(生き延びる)こと。
それは、「現実」もまた「夢」だと悟っているからこそ!


夢を忘れかけている人、夢に生きたくても「現実」に阻まれて苦しんでいる人、どうやって夢に生きることが出来るのかを具体的に知りたい人、自分には夢なんか無いと思い込んでいる人、そして、「今更この年でそんな夢なんて!」と最初からあきらめている人、、そんな人たちにぜひ読んでもらいたい本である。


下記はアズミックアートの宇宙画『ミルキーウェイ』です。




無断転載、コピー等はご遠慮ください。





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