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写真とコメントで紹介する旭川の郷土史エピソード集

「旭川歴史市民劇」解説① 登場する実在の人物 小熊秀雄・高橋北修

2019-01-07 19:00:00 | 郷土史エピソード
2019年、あけましておめでとうございます。
今年もこのブログをよろしくお願いいたします。

さて、前回このブログでご紹介した旭川歴史市民劇。
タイトルは、「旭川グラフィティ ザ・ゴールデンエイジ(仮題)」としてありましたが、この度、「旭川青春グラフィティ ザ・ゴールデンエイジ」とすることが決まりました。
「青春」の2文字を加えたのは、この舞台が、主人公である十代の若者5人の成長譚であり、群像劇であること、また描いている大正末から昭和初期という時代が、旭川を人間で例えると、ちょうど青年期に当たる、という思いがあったからです。

この「旭川青春グラフィティ ザ・ゴールデンエイジ」、今年は、2月のキャスト・スタッフの公募に始まり、6月のオーデション、それに続くワークショップ形式の稽古開始と、いよいよ2020年の本番に向けた作業が本格化します。

そこでこのブログでは、この作品の時代背景や人物について、より深く知っていただくため、解説編をシリーズで載せていくことにしました。
具体的には、舞台に登場する実在の人物や描かれる出来事、使われる劇中歌などについて詳しく説明していきます。
もちろんブログとしては、通常の郷土史エピソードも書いてゆくつもりですので、こちらもご期待を。

ということで、まずは人物解説から。
今回は、舞台上でも大活躍する詩人・小熊秀雄と、画家・高橋北修です。



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旭川の文化活動を牽引した民衆詩人

小熊秀雄(おぐま・ひでお)1901(明治34)年-1940(昭和15)年


小熊秀雄

常に虐げられる側に立った視点で数多くの作品を残した「民衆詩人」。
大正末から昭和初期にかけての旭川時代は、新聞記者として活躍するかたわら、詩、短歌、童話、絵画、演劇など多彩な分野で地元の文化活動をリードした。

「流浪の果てに旭川へ」

小熊は、明治34(1901)年、小樽市生まれ。
3歳で母親と死別し、その後、東北、北海道、樺太を渡り歩く。
このうち樺太では、高等小学校を卒業後、漁師の下働き、農夫、職工、伐採人夫などの職を転々とした。
この過酷な経験は、常に虐げられた民衆の側に立ったのちの創作姿勢を養った。


詩人仲間との会合で(昭和3年・前列左端が小熊)

「旭川の文化活動の中心に」

小熊が旭川に来たのは大正10(1921)年、20歳の時だった。
翌年から三味線の師匠をしていた元芸妓の姉のつてにより、旭川新聞社で働き始める。
新聞社では、社会部記者となり、文才を見込まれて文芸欄も任された。
小熊愁吉(しゅうきち)等の名前で紙上に詩を発表するかたわら、童話の読み聞かせや文化人有志による演劇の上演、地元の画家グループとの美術展の開催など、さまざまな分野で地元の芸術・文化活動を主導した。


近文コタン取材時の記念写真(後列左から2人目)

「東京への思い捨てがたく」

旭川で充実した生活を送っていた小熊だが、中央詩壇で活躍するという夢は捨てがたく、大正13〜14年にかけ、上京しては生活のめどが立たず旭川に舞い戻るという行動を繰り返す。
昭和3(1928)年、小熊は3年前に結婚した妻のつね子と、長男焔<ほのお>を連れて3度目の上京を企て、ついに豊島区池袋周辺に落ち着く。
この辺りは、多くの画家がアトリエ村に暮らすなど芸術家が集ったことから、パリに倣い、小熊によって「池袋モンパルナス」と名付けられた。


小熊秀雄詩集(昭和10年)


「2つの詩集と赤貧の中での死」

その後プロレタリア文学運動に接近した小熊は、弾圧を受けながらも旺盛な意欲で創作を続け、昭和10(1935)年、第1詩集「小熊秀雄詩集」、長編叙事詩集「飛ぶ橇(そり)」を相次いで出版、詩人としての地位を確立する。
しかし戦時色が強くなり、作品の発表の場が狭まるなかで生活は困窮を極め、5年後、赤貧のうちに肺結核により39歳の若さで没した。
旭川では、昭和42(1967)年に、小熊の功績をしのび、常磐公園に詩碑が建立されたほか、翌年には優れた現代詩集に対して贈られる小熊秀雄賞が創設されている。



常磐公園の小熊秀雄詩碑



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「大雪山の北修」として親しまれる地元画家の草分け

高橋北修(たかはし・ほくしゅう)1898(明治31)年-1978(昭和53)年


高橋北修

旭川時代の小熊秀雄と交流のあった画家。
大正7(1918)年に、「ヌタックカムシュッペ画会」を結成した地元美術界の草分けである。
「大雪山の北修」として親しまれ、昭和6(1931)年には旭川生まれの画家として帝展に初入選。
戦後も全道美術協会の結成に参加するなど地元画壇をリードした。


「旭川画壇の草分け」

北修は、本名高橋喜伝司<きでんじ>。
明治31(1898)年に旭川に生まれた。
印刷屋などで働くかたわら、十代後半から本格的に絵の修業を始め、大正7(1918年)年、盟友の画家、関兵衛<せき・ひょうえ>らと「ヌタップカムシュッペ画会」(ヌタップカムシュッペはアイヌによる大雪山の呼び名)を結成。旭川画壇の草分けとして活躍した。



「ヌタックカムシュッペ画会」結成の頃(左端が北修・高橋北修展図録)

「多彩な交流」

酔うと誰彼かまわず喧嘩を吹っかけるなど、いわば破滅型の芸術家だったが、飾らない人柄で交友は広く、「絵描きの北修さん」と多くの市民から慕われた。
大正10(1921)年に旭川にやって来た詩人、小熊秀雄とは、議論が白熱するとしばしば取っ組み合いに至ったが、連れ立って上京するほどの仲でもあった。
プロ野球創生期の名投手スタルヒンが、父母とともに旭川に亡命してきた当時は一家と親しく付き合い、少年スタルヒンに北修が絵を教えた時期もあった。



ラジオドラマ収録の際の記念写真(昭和13年・後列中央)


アトリエにて(高橋北修作品集)


「大雪山の北修」

日本画から画業を始めた北修は、その後油絵に転じ、風景や市井の人々などのモチーフを中心に創作を続けた。
特に大雪山を望む風景を描いた作品には定評があり、「大雪山の北修」との異名を持つ。
昭和6(1931)年には、旭川生まれの画家として初めて帝展に入選。
戦後も純生美術会や全道美術協会の結成に参加するなど地元画壇をリードした。
また絵画以外の創作にも意欲を見せ、彫刻や舞台装置、紙人形なども手掛けた。
長く常磐公園の千鳥ヶ池に設置され市民に親しまれた「熊の親子の噴水」や、同じく常磐公園にあった初代の岩村通俊<いわむら・みちとし>像も北修の作品である。
昭和37(1562)年、脳出血で倒れ、右半身に麻痺が残ったが、左手に絵筆を持ちかえて創作を続けた。
昭和53(1978)年、死去。
享年79歳。



北修が描いた大雪山


北修制作の親子熊の噴水(旭川市中央図書館蔵)







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