前回から始めた2020年公演予定の歴史市民劇「旭川青春グラフィティ ザ・ゴールデンエイジ」の解説編。
作品に描いた大正末から昭和初期にかけての旭川について、理解を深めていただくのが目的です。
今回は人物解説の第2弾ということで、前回と同じく、作品の登場人物のうち実在した人物2人を紹介します。
マルチな才能を見せたカフェー店主の速田弘、そして歌人の齋藤史。
2人ともとても魅力的な人物で、作品の中でも重要な役割を担っています。
**********
旭川一のモボと呼ばれたカフェー店主
速田弘(はやた・ひろし)
旭川を代表するカフェー、ヤマニの2代目店主。
斬新な新聞広告で注目を浴びるなど、時代を先取りした経営感覚で、店を旭川有数のカフェーに育てた。
戦時色が強まる中、経営の悪化から失意の中で旭川を去るが、戦後、東京銀座でクラブチェーンを成功させて復活する。
旭川初の弦楽アンサンブルに参加するなど、事業以外でも豊かな才能を発揮した。
速田弘(旭川回顧録)
「ヤマニの兄貴」
カフェー・ヤマニ(昭和5年・絵葉書)
ヤマニは、明治44(1911)年、旭川の師団通(今の平和通買物公園)4条8丁目に速田仁市郎<はやた・にいちろう>が開店した食堂が前身。
食堂としても繁昌していたが、大正12(1923)年、時流に乗ってカフェーに転身、さらに人気を不動のものにした。
このカフェー時代のヤマニの名物店主だったのが、「ヤマニの大将」、「ヤマニの兄貴」、「旭川一のモボ」などと称された2代目の弘である。
「斬新な経営感覚」
喫茶「アボQ」の開店を伝える記事(昭和4年・旭川新聞)
弘の経営は、時代を先取りした鋭い感覚が特徴だった。
自ら考案した斬新なコピーの新聞広告を立て続けに掲載するとともに、当時始まったばかりのラジオ放送の聴取免許をとって客集めに利用したほか、ギリシャ神話の女神の名をもじった「アボQ」なる突飛な名前の喫茶店をヤマニ脇に開店させるなど、新機軸を次々と打ち出した。
さらに舞台装置の製作にも携わった画家、高橋北修らの協力を得て、ステージショー的な企画も行った。
速田作のコピー(昭和6年・旭川新聞)
「共鳴音楽会と、田上義也との交友」
共鳴音楽会の集合写真(大正11〜12年・旭川回顧録)
新感覚の経営者、速田弘のヤマニには、多くの文化人が集った。
特に注目されるのが、音楽家のグループである。
実は弘は大正10(1921)年に結成された旭川初の弦楽アンサンブル「旭川共鳴音楽会」のメンバーで、チェロを弾いた。
弘の音楽仲間の中には、バイオリニストとしても活躍した北海道を代表する建築家、田上義也<たのうえ・よしや>もいる。
田上は、本拠地の札幌から度々旭川を訪れ、弘の依頼でヤマニの改装や、新店舗、パリジャンクラブの設計を手掛けている。
「挫折と戦後の復活」
ヤマニの広告(大正14年・高橋北州=修の字が見える・旭川新聞)
斬新な感覚とマルチな才能、幅広い交友関係を武器に、大正から昭和初期にかけての旭川の飲食業異界に新風を吹かせた弘だが、その後、戦時色が強まるとともに事業を取り巻く環境は急速に悪化する。
パリジャンクラブの開店で立て直しを図るものの、事態は好転せず、昭和9(1934)年、弘は自殺未遂を企てる。
一命は取り留めたものの破産状態となり、旭川から姿を消した弘だったが、戦後はなんと東京銀座でクラブチェーンを経営して成功を果たし、実業家として復活を果たしている。
カフェー・ヤマニ(昭和4年・旭川新聞)
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旭川で2度暮らした日本を代表する歌人
齋藤史(さいとう・ふみ)1909(明治42)年-2002(平成14)年
幼少期と十代の2度に渡って旭川で過ごす。軍人歌人として知られた父、瀏<りゅう>を訪ねて来旭した若山牧水の勧めで短歌を始め、のちに日本を代表する歌人となる。昭和11(1936)年の二・二六事件では、北鎮小学校での幼馴染だった栗原安秀<くりはら・やすひで>ら決起した青年将校が処刑され、彼らを支援した父も禁固刑の判決を受けたことから、事件は生涯を通して創作の重要なテーマとなった。
齋藤史
「軍人歌人の娘」
齋藤瀏(1879-1953)
齋藤史は、明治49(1909)年、東京生まれ。
陸軍将校で、佐々木信綱<ささき・のぶつな>門下の歌人でもあった父、瀏の転勤に伴い、幼少期の5年間と、10代の2年余を旭川で過ごす。
1度目の旭川滞在では、当時将校の子女が通っていた北鎮小学校で学ぶ。
のちに二・二六事件で決起する栗原安秀は同級生、坂井直<さかい・なおし>は1年下の幼馴染だった。
当時の北鎮小学校
「牧水夫妻の訪問と作歌の勧め」
旭川での牧水夫妻と斎藤一家
大正15(1926)年8月、2度目の旭川勤務で師団参謀長を務めていた瀏のもとを若山牧水夫妻が訪れる。
飄々として飾らない人柄に史は強く魅かれ、「あなたは歌をやるべきだ」という牧水の言葉をきっかけに本格的な作歌の道に進む。
「旭川歌話会と小熊秀雄との出会い」
旭川を去る際の新聞記事(昭和2年・旭川新聞)
牧水の来訪は、地元の歌人にも刺激を与え、東京時代に北原白秋の教えを受けた酒井廣治<さかい・ひろじ>らを中心に、短歌の研究会「旭川歌話会」が結成される。
「旭川歌話会」には、齋藤親子も参加。
ここで史は、幹事の一人としてやはり「歌話会」に加わった小熊秀雄と出会う。
その後まもなく、齋藤親子は、瀏の転勤のため旭川を離れることになり、「歌話会」メンバーは送別歌会を開いて別れを惜しんだ。
「運命を変えた2・26」
二・二六事件の慰霊碑
瀏と史が東京に戻っていた昭和11(1936)年、二・二六事件が起きる。
栗原、坂井をはじめとする青年将校は反乱軍とされて処刑され、彼らの相談役だった瀏も禁固刑を受ける。
このことに史は大きなショックを受け、以後、事件は生涯に渡り創作上の大きなテーマとなった。
なお史は、昭和55(1980)年、71歳の時に旭川を訪れ、かつての参謀長官舎の跡地を始め、旧偕行社や近文地区などを回っている。
「牧水も来て宿りたる家のあと大反魂草は盛り過ぎたり(齋藤史)」
作品に描いた大正末から昭和初期にかけての旭川について、理解を深めていただくのが目的です。
今回は人物解説の第2弾ということで、前回と同じく、作品の登場人物のうち実在した人物2人を紹介します。
マルチな才能を見せたカフェー店主の速田弘、そして歌人の齋藤史。
2人ともとても魅力的な人物で、作品の中でも重要な役割を担っています。
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旭川一のモボと呼ばれたカフェー店主
速田弘(はやた・ひろし)
旭川を代表するカフェー、ヤマニの2代目店主。
斬新な新聞広告で注目を浴びるなど、時代を先取りした経営感覚で、店を旭川有数のカフェーに育てた。
戦時色が強まる中、経営の悪化から失意の中で旭川を去るが、戦後、東京銀座でクラブチェーンを成功させて復活する。
旭川初の弦楽アンサンブルに参加するなど、事業以外でも豊かな才能を発揮した。
速田弘(旭川回顧録)
「ヤマニの兄貴」
カフェー・ヤマニ(昭和5年・絵葉書)
ヤマニは、明治44(1911)年、旭川の師団通(今の平和通買物公園)4条8丁目に速田仁市郎<はやた・にいちろう>が開店した食堂が前身。
食堂としても繁昌していたが、大正12(1923)年、時流に乗ってカフェーに転身、さらに人気を不動のものにした。
このカフェー時代のヤマニの名物店主だったのが、「ヤマニの大将」、「ヤマニの兄貴」、「旭川一のモボ」などと称された2代目の弘である。
「斬新な経営感覚」
喫茶「アボQ」の開店を伝える記事(昭和4年・旭川新聞)
弘の経営は、時代を先取りした鋭い感覚が特徴だった。
自ら考案した斬新なコピーの新聞広告を立て続けに掲載するとともに、当時始まったばかりのラジオ放送の聴取免許をとって客集めに利用したほか、ギリシャ神話の女神の名をもじった「アボQ」なる突飛な名前の喫茶店をヤマニ脇に開店させるなど、新機軸を次々と打ち出した。
さらに舞台装置の製作にも携わった画家、高橋北修らの協力を得て、ステージショー的な企画も行った。
速田作のコピー(昭和6年・旭川新聞)
「共鳴音楽会と、田上義也との交友」
共鳴音楽会の集合写真(大正11〜12年・旭川回顧録)
新感覚の経営者、速田弘のヤマニには、多くの文化人が集った。
特に注目されるのが、音楽家のグループである。
実は弘は大正10(1921)年に結成された旭川初の弦楽アンサンブル「旭川共鳴音楽会」のメンバーで、チェロを弾いた。
弘の音楽仲間の中には、バイオリニストとしても活躍した北海道を代表する建築家、田上義也<たのうえ・よしや>もいる。
田上は、本拠地の札幌から度々旭川を訪れ、弘の依頼でヤマニの改装や、新店舗、パリジャンクラブの設計を手掛けている。
「挫折と戦後の復活」
ヤマニの広告(大正14年・高橋北州=修の字が見える・旭川新聞)
斬新な感覚とマルチな才能、幅広い交友関係を武器に、大正から昭和初期にかけての旭川の飲食業異界に新風を吹かせた弘だが、その後、戦時色が強まるとともに事業を取り巻く環境は急速に悪化する。
パリジャンクラブの開店で立て直しを図るものの、事態は好転せず、昭和9(1934)年、弘は自殺未遂を企てる。
一命は取り留めたものの破産状態となり、旭川から姿を消した弘だったが、戦後はなんと東京銀座でクラブチェーンを経営して成功を果たし、実業家として復活を果たしている。
カフェー・ヤマニ(昭和4年・旭川新聞)
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旭川で2度暮らした日本を代表する歌人
齋藤史(さいとう・ふみ)1909(明治42)年-2002(平成14)年
幼少期と十代の2度に渡って旭川で過ごす。軍人歌人として知られた父、瀏<りゅう>を訪ねて来旭した若山牧水の勧めで短歌を始め、のちに日本を代表する歌人となる。昭和11(1936)年の二・二六事件では、北鎮小学校での幼馴染だった栗原安秀<くりはら・やすひで>ら決起した青年将校が処刑され、彼らを支援した父も禁固刑の判決を受けたことから、事件は生涯を通して創作の重要なテーマとなった。
齋藤史
「軍人歌人の娘」
齋藤瀏(1879-1953)
齋藤史は、明治49(1909)年、東京生まれ。
陸軍将校で、佐々木信綱<ささき・のぶつな>門下の歌人でもあった父、瀏の転勤に伴い、幼少期の5年間と、10代の2年余を旭川で過ごす。
1度目の旭川滞在では、当時将校の子女が通っていた北鎮小学校で学ぶ。
のちに二・二六事件で決起する栗原安秀は同級生、坂井直<さかい・なおし>は1年下の幼馴染だった。
当時の北鎮小学校
「牧水夫妻の訪問と作歌の勧め」
旭川での牧水夫妻と斎藤一家
大正15(1926)年8月、2度目の旭川勤務で師団参謀長を務めていた瀏のもとを若山牧水夫妻が訪れる。
飄々として飾らない人柄に史は強く魅かれ、「あなたは歌をやるべきだ」という牧水の言葉をきっかけに本格的な作歌の道に進む。
「旭川歌話会と小熊秀雄との出会い」
旭川を去る際の新聞記事(昭和2年・旭川新聞)
牧水の来訪は、地元の歌人にも刺激を与え、東京時代に北原白秋の教えを受けた酒井廣治<さかい・ひろじ>らを中心に、短歌の研究会「旭川歌話会」が結成される。
「旭川歌話会」には、齋藤親子も参加。
ここで史は、幹事の一人としてやはり「歌話会」に加わった小熊秀雄と出会う。
その後まもなく、齋藤親子は、瀏の転勤のため旭川を離れることになり、「歌話会」メンバーは送別歌会を開いて別れを惜しんだ。
「運命を変えた2・26」
二・二六事件の慰霊碑
瀏と史が東京に戻っていた昭和11(1936)年、二・二六事件が起きる。
栗原、坂井をはじめとする青年将校は反乱軍とされて処刑され、彼らの相談役だった瀏も禁固刑を受ける。
このことに史は大きなショックを受け、以後、事件は生涯に渡り創作上の大きなテーマとなった。
なお史は、昭和55(1980)年、71歳の時に旭川を訪れ、かつての参謀長官舎の跡地を始め、旧偕行社や近文地区などを回っている。
「牧水も来て宿りたる家のあと大反魂草は盛り過ぎたり(齋藤史)」