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写真とコメントで紹介する旭川の郷土史エピソード集

日露戦争と旭川・前編

2022-02-20 10:46:24 | 郷土史エピソード



久々の原稿アップです。
今回は、旭川で昨秋から始めた連続歴史講座の準備や開催に加え、ブログネタの仕込みと執筆にもかなりの時間がかかってしまいました。
忘れずに覗いていただき、本当にありがとうございます。

ということで、新たに取り上げるのは日露戦争です。
今回から3回に渡り、旭川や陸軍第七師団との関わりについて見ていきます。
前編は、第七師団の出動と二〇三高地奪取までの旅順攻略戦についてです。



                   **********




画像01 旅順攻略などで使われた28センチ砲(「図説 日露戦争」より)


このブログで扱っているのは、ワタクシの好みもあって、大正から昭和にかけての話が多くなっています。
そんな中、明治、しかも日露戦争を扱うのは、以下のような理由があります。


◆その1…

日露戦争についてのこれまでのワタクシの知識ですが、実は以前熱中した司馬遼太郎の「坂の上の雲(小説とドラマ)」に多く依っていました。
ところが、実態は「坂の上の雲」で描かれたものといろいろと違っているようなんです。
史実に沿って書かれているとはいえ、「坂の上の雲」はやはり小説であること、またその後の歴史的な研究が一段と進んだためです。
なので、一度きちんと正しいところを押さえておきたいと考えました。
これが最大の理由です。

◆その2…

北海道の常備師団だった旭川第七師団は、乃木希典(まれすけ)大将率いる第三軍に途中から加わります。
そして以降、常に最前線で重要な任務を果たしました。
その具体的な動きを確認しておきたいと考えました。
合わせて第七師団の一兵士として従軍したワタクシの祖父が、どのような形で戦闘に関わったのかについても、分かる範囲で確かめたいと思いました。

◆その3…

日露の開戦は、札幌から旭川への第七師団の移駐が完了してわずか1年余りの時期の出来事です。
その後、旭川は国内有数の軍都と称されるようになりますが、部隊を送り出した当時の旭川の街にどのような動きがあったのか、これも押さえておきたいと考えました。



画像02 旅順攻略後、水師営で会見した乃木・ステッセルの両司令官(「図説 日露戦争」より)


画像03 バルチック艦隊の迎撃に向かう連合艦隊(「図説 日露戦争」より)



(日露戦争とは)


ここから本題です。
まず日露戦争とはどんな戦争だったのか、押さえておきたいと思います。



画像04 砲撃する奉天会戦の第三軍(「図説 日露戦争」より)


日露戦争は、明治維新後、近代国家として歩み始めた日本が、日清戦争に続いて戦った対外戦争です。
開戦は明治37(1904)年2月、講和の調印が翌年9月です。
日本が攻勢を保った中での講和でしたが、日本側の死傷者はおよそ12万人、費やした戦費はおよそ15億円の巨額に達しました。

一方、その位置づけについては、さまざまな見方があります。
基本的に日本という国家の存亡をかけた戦いだったという解釈。
韓国および南満州の支配権をめぐる日本とロシアの争いだったとする解釈。
この対立する2つの考えに代表されるようです。

前者は、南下の野望を持つロシア帝国の影響力が満州から朝鮮半島に及べば、やがて日本も危機に瀕することになる。
それに抗するための「祖国防衛」の戦争だったとする見方です。
「坂の上の雲」は、まさにこの立場で描かれています。
後者は、列強各国による帝国主義の時代に遅れて参入した日本が、その代表格であるロシアとの間で行った「朝鮮半島と満州の支配権をめぐる争い」とする見方です。
戦争で被害を受けた立場から見れば、当然このようになりますよね。

ともあれ、日清戦争後のいわゆる三国干渉を機に、日本とロシアは加速度的に緊張を高めていました。
そして国交断絶を通告した2日後の日本による旅順港奇襲攻撃により、戦端が開かれることになります。



画像05 旅順港奇襲攻撃に向かう連合艦隊(「図説 日露戦争」より)


(第七師団の出動)


こうして始まった日露戦争。
開戦以降、日本は陸軍、海軍とも総力戦を繰り広げます。
ただ旭川第七師団への動員命令は半年後の8月、さらに第三軍への編入は11月と大きく遅れます。
それは何故だったのでしょうか。

通常、戦争では、最初から全ての兵力を前線に投入するのではなく、戦況によって追加投入する予備戦力を置くそうです。
第七師団の動員の遅れについて、ワタクシは予備戦力として位置付けられたためと考えていました。
ただ詳しく見ていくと、そうした単純なものではないことが分かりました。
実は開戦直後、北海道がロシアによって攻撃される可能性があったことが背景にあったのです。



画像06 奈古浦丸撃沈を伝える記事(明治37年2月14日・函館新聞)


画像06は日本がロシアに宣戦布告した翌日の2月11日、津軽海峡にいた日本の商船がロシアの軍艦に撃沈されたことを伝える記事です。
実は開戦直後、ロシアの太平洋艦隊の一部は日本海に面したウラジオストックにいて、北海道近海に出動できる体制にあったのです。
これに対し、日本海軍はロシア太平洋艦隊の主力を、彼らが停泊していた遼東半島の旅順港に釘付けにするために全力を注いでいました。



画像07 ウラジオ艦隊の航跡図(児島襄「日露戦争」より)


画像07は戦史研究家で作家でもあった児島襄の大著「日露戦争」に掲載された当時のウラジオ艦隊の一部艦船の航跡図です。
津軽海峡はおろか東京近海にまで進出している様子が分かります。
このように、この時期、津軽海峡などの制海権はロシア側にあったわけです。

2月の商船への攻撃の意図は、あくまで日本の通商航路の妨害と見られます。
ただロシア軍による函館などへの艦砲射撃もありうるのではと、道民の中には動揺が広がったようです。



画像08 函館の状況を伝える記事(明治37年2月16日・北海タイムス)


画像08は当時の新聞記事です。
ロシアの軍艦と函館要塞との間で砲撃戦があったというデマが広がったこと、その結果、函館で住民が動揺し、多くの人が避難の準備を始めたことなどが書かれています。
また同じような状況は小樽でもあり、こちらは実際に札幌方面に避難しようと多くの人が駅に押しかけたと伝えています。

動揺する道民の様子も考えますと、予備兵力とはいえ、第七師団が北海道を離れることができなかったことが分かります。
こうした状況は、日露の新たな海戦の結果、ロシアが津軽海峡などの制海権を失うまで続きました。



画像09 黄海海戦での連合艦隊(「図説 日露戦争」より)


画像09はその海戦の一つ、8月にあった旅順沖の黄海海戦に臨む日本海軍の写真です。
詳しい内容は省きますが、この黄海海戦と、続く蔚山(うるさん)沖海戦でウラジオのロシア艦隊は打撃を受け、結果、北の制海権は日本側に移ります。
このため第七師団の出動がようやく可能となったわけです。

一方、陸の戦いでは、7月から始まった第三軍による旅順要塞の攻略が難航し、膨大な数の戦死者、戦傷者が出ていました。
このため陸軍は第七師団を第三軍に投入することを決め、10月下旬、戦地に派遣します。



画像10 旅順要塞を砲撃する第三軍(「図説 日露戦争」より)


(遼東半島上陸まで)



画像11 第七師団司令部(明治44年「東宮殿下行啓記念」より)


では第七師団の実際の出動の様子はどうだったのでしょうか。
8月の出動命令を受け、第七師団は戦地に赴く野戦師団と、北海道に残る留守師団に分かれます。
このうち野戦師団は、歩兵が12個大隊、騎兵が3個中隊、砲兵6個中隊、工兵3個中隊などの編成でした。
師団長は、そのまま第七師団長である大迫尚敏(なおはる)中将が務めました。



画像12 日露戦争に出征する第七師団(先頭は大迫師団長・旭川市立中央図書館蔵)


第1陣が旭川を発ったのは10月26日。
鉄道で室蘭に向かい、船で青森へ。
そこからまた鉄道に乗り、東京を経由して大阪に入ります。
そこでいったん待機をし、大陸に向かったのは11月13日から16日にかけてです。
そして第1陣が遼東半島の大連に上陸したのは20日。
まもなく全部隊が戦地に入りました。

画像13は、作家の半藤一利さんの「日露戦争史」に掲載された満州軍各軍の上陸地および進軍路です(第七師団の上陸地、進軍路は第三軍の先行部隊と同じ)。



画像13 日本軍の上陸地・進撃路(半藤一利「日露戦争史」より)


画像14 大連到着時の第七師団主力(「第七師団写真帖)より)



そして24日、いよいよ戦いに臨む将兵に大迫師団長は以下のように訓示します。


「顧うに、旅順の攻略は世界の耳目を一新し、我が帝国将来の作戦上至大の関係を有すべきものなり。即ち本師団をして特に此大攻撃に参与せしめらるる所以のものは、之が成功を需(もと)むるに急にして、時運は実に一日を緩うすべからざるを以てなり。是故に軍が我師団の将校下士卒は新来精鋭を以て自ら任じ、一歩も他に譲ることなく、率先健闘多年の教養を現実にし、誓て大勝を期せざるべからず。」


当時、いかに旅順攻略戦の成否が世界的にも注目を集め、日本の運命と直結していたのか。
それを戦いの当事者もよく認識していたことが分かります。



画像15 大迫尚敏師団長(「第七師団写真帖」より)


(旅順攻略)


ではその旅順戦です。
ここでは第七師団との関わりを中心に見ていきます。



画像16 乃木大将と東郷元帥(「図説 日露戦争」より)


日露戦争の序盤において、陸軍は満州と旅順という2つの場所で戦いを繰り広げました。
このうち旅順は、すでに書いたようにロシア太平洋艦隊の主力がいた場所です。
当時、ロシア海軍は、遠く本国からバルチック艦隊を極東に向かわせることにしていました。
日本としては、その到着の前に太平洋艦隊を壊滅する必要がありました。
2つの艦隊を相手に勝てるほどの力は、連合艦隊にはないからです。
このため海軍は、旅順港を守るロシア軍を攻めるよう陸軍に要請しました。
ロシアの守りを突破すれば、港にいる艦隊を殲滅することができるからです。
これが日露戦争の前半の大きな焦点となった旅順攻略の持つ意味です。



画像17 開戦直後の旅順港(「図説 日露戦争」より)


ただ旅順攻略は、思惑通りには行きませんでした。
港を囲う山々に設置されたロシア側の要塞は、20万樽ものセメントを使って作られた極めて堅固なものでした。
さらに要塞には、おびただしい数の重砲や最新鋭の機関銃が配備されていました。
これに対し乃木は8月と10月、2度に渡る歩兵の強襲を中心とした総攻撃をかけます。
もちろん先に重砲による砲撃を加えた上での突進です。
ただ日本の砲弾は壁の厚さが1点3メートルにも及ぶロシアの要塞には大きな打撃を加えることはできませんでした。
このため突進した歩兵はことごとく敵の機銃掃射や地雷、手榴弾などで撃退されてしまいます。



画像18 旅順のロシア軍堡塁要塞の位置図(「図説 日露戦争」より)


画像19 砲台を備えたロシアの要塞(「図説 日露戦争」より)



このうち1回目の総攻撃について、中尉として戦闘に参加した櫻井忠温(ただよし)がのちに書き、世界的なベストセラーとなった「肉弾」には、次のように書かれています。


「(敵の)砲台の上では我が砲弾が愛嬌よく砂煙を揚げているに過ぎなかった。流石の我が重砲、夜山砲、海軍砲を揃えて打っても、砲台のベトン(注=コンクリートのこと)は痛いとも痒いとも思っていなかったようである。守兵はしきりと機関銃の引鉄をいじって、いつでも御出なさいといった風に待っていた。(中略)その死骸は二重三重と重なり、四重五重と積み、ある者は手を敵の銃台にかけて斃れ、ある者は既に乗越えて、敵の砲架を握れるままに死したるあり。(中略)勇壮なるこの突撃隊が、味方の死屍を乗り越え踏み越え、近く敵塁に肉薄して、魚鱗がかりに突き入ると、たちまち敵の機関銃で、攻め寄る者ごとにいちいち撃殺されたため、死屍は数層のなだれをうって、敵塁直下にかくは悲惨なる死骸を積んだのである。」(櫻井忠温「肉弾」より)



画像20 第1回総攻撃の様子(「日露戦役写真帖」より)


この1回目の総攻撃は6日間続き、第三軍は戦死者5039人、戦傷者1万823人というおびただしい数の犠牲を出しました。
また10月の2回目の総攻撃では、工兵を動員して前進のための坑道を掘りましたが、坑道を飛び出した歩兵はやはりロシア側に狙い撃ちにされました。
この時の攻撃は1日のみで中止となりましたが、戦死者は1902人、戦傷者は2738人に上りました。



画像21 「白襷隊」の将兵(「図説 日露戦争」より)


こうした中、新たに第三軍に投入された北海道の第七師団。
乃木は、直後の11月26日に第三回の総攻撃の敢行を決めます。

この攻撃では、第三軍傘下の各師団から選び出された3000人余りの特別予備隊による夜襲部隊が組織されました。
彼らは、暗闇の中で敵味方を識別するために全員が白い襷をかけ、「白襷(しろだすき)隊」と呼ばれました。
第三回総攻撃で、戦地に入って間もない第七師団は、全軍の総予備隊とされました。
このためワタクシは「白襷隊」への第七師団の参加もなかったものと考えていましたが、実は主力であったことを知りました。



画像22 「白襷隊」の損害(児島襄「日露戦争」より)


これは児島襄の「日露戦争」に載っている「白襷隊」の損害です。
第七師団の4つの歩兵連隊のうち、唯一札幌にあった歩兵第二十五連隊の2つの連隊からの参加者が1565人、全体の半数以上を占めています。
また戦死者、戦傷者も全体も半数を超えています。

この表からも分かる通り、「白襷隊」の攻撃も失敗に終わります。
午後9時前に始まった戦闘では、早々にロシア側が探照灯を利用して要塞に近づく日本兵に銃火を浴びせます。
夜襲部隊はなおも前進を続けますが、目標には至りません。
指揮官(支隊長)である第二旅団長、中村覚中将が重症を負うなど、多数の死傷者を出した結果、未明には退却を始めます。
中村が戦線を離脱した後、指揮官を任された第二十五連隊長の渡辺水哉(みずや)大佐は、撤収後「中村支隊長以下将卒の死傷者算なく、携行の爆薬は已に尽き、如何ともなし難く、遂に攻撃中止命令を発したのである。生きてこの憂いを見たるは、一期の不覚なり」と述べています。

一方、この日の攻撃では、第七師団の残りの3つの連隊も苦戦する他の師団(白襷隊以外)の応援に回る形で前線に投入されました。
結果、第七師団はすべての連隊がこの第3回総攻撃に参加することとなりました。



画像23 児玉源太郎総参謀長(「歩兵第廿八連隊概史」より)


ドラマ「坂の上の雲」では、この後行われる二〇三高地の奪取戦の最中、高橋英樹演ずる児玉源太郎満州軍総参謀長が、品川徹演ずる大迫第七師団長に語りかけるシーンがあります。
児玉が「北海道の兵は強いそうだな」と言いますと、大迫は「さようでございます。強うございました。15000人の兵が1000人になってしまいました」と答えます。
品川さんは旭川出身の道産子。
台詞を語りながら、こみ上げてくるものがあったのではないでしょうか。



画像24 二〇三高地(保坂正康「最強師団の宿命」より)


その二〇三高地の奪取は、第3回総攻撃の後、乃木が自ら打ち出したものです。
二〇三高地は旅順の北にあって港を一望できる位置にありました。
ですから、もともと海軍や東京の大本営には、要塞を攻略せずとも、ここさえ押さえれば旅順艦隊への攻撃は可能であり、優先すべしとの意見がありました(つまり要塞越しに旅順港に砲撃を加えることは、日本の重砲の飛距離から可能であり、あとは二〇三高地からの目視による観測で、砲弾の軌道をコントロールすれば、命中させるのはたやすいということです)。

ただ第三軍の参謀たちはこれに耳を貸さず、あくまで正面突破に固執しました。
しかし3回の総攻撃はいずれも失敗。
それまで参謀が立てる作戦に異議を唱えなかった乃木も、さすがに方針の変更を指示したわけです。



画像25 二〇三高地を攻める第七師団の将兵(「第七師団歩兵第二十五連隊征露記念写真帖」より)


この二〇三高地奪取戦で中心を担ったのが、第七師団の将兵です。
11月29日、第三軍は第七師団を主力とした二〇三高地の新たな攻撃案を決めます。
翌30日、第七師団に東京第一師団の残存部隊を加えた攻撃隊が、二〇三高地に迫ります(第一師団は27日の二〇三高地攻撃で大きな打撃を受けていました)。
この日の攻撃では、まず130門の重砲による砲撃を加えた後、歩兵が突撃。
激しいロシア側の応戦に死傷者が続出しますが、なんとか頂上の一角の占拠に成功します。
ただ占拠した突撃隊はわずか数十人で、後に続くものはおらず孤立無援の状態でした。
このためたちまちロシア軍の反撃にあって奪還を許してしまいます。

実は二〇三高地戦では、27日の第一師団の攻撃でも、頂上の一角の占拠に成功したものの、同様の理由ですぐに失っていました。



画像26 二〇三高地への砲撃(「旭川市街の今昔 街は生きている」より)


これに激怒したのが満州軍総参謀長の児玉です。
12月1日、乃木と会った児玉は、作戦の不備を指摘し、矢継ぎ早に第三軍の参謀たちに変更を指示します。
実はそれぞれの軍の指揮権はあくまで司令官にあり、総参謀長といえども、直接、作戦を指示することはできません。
乃木と児玉の会見は2人だけで行われたため、実際のところははっきりしません。
ただ児玉が乃木に助力を申し出、乃木も一時的に第三軍の参謀に命令することを認めたのは間違いのないことのようです。
児玉と乃木は同じ長州藩出身で、古くからの友人でした。



画像27 日本軍による二〇三高地の攻撃(「第七師団写真帖」より)


このあと4日に再開された二〇三高地奪取戦。
児玉の指示により、以下のような作戦の変更がありました。
それまで他の要塞に向けられていた重砲を移動し、二〇三高地への集中砲撃が
できるようにしたこと。
3つに分けられていた突撃隊を一本にまとめ、一方向から厚く攻撃する体制に変えたこと。
そして高地の占拠に成功した際は、日本軍が持つ最大の重砲、28センチ砲で一昼夜山頂付近を砲撃し、ロシアによる奪還を阻止することです。



画像28 村上正路第二十八連隊長(「第7師団写真帖」より)


4日はまず威力を増した日本軍の砲撃が二〇三高地と周辺のロシア要塞に執拗に加えられ、翌5日朝、歩兵による突撃が始まります。
午前9時、先陣を切ったのは、第七師団歩兵第二十八連隊長である村上正路(まさみち)大佐率いる選抜隊です。
歩兵、工兵の180人がロシア軍の銃火を浴びつつ進撃し、何とか山頂に達したときは50人ほどになっていたそうです。
彼らはロシア軍の反撃に耐え、さらに後続の部隊が後に続きます。
このときの模様を、第七師団司令部編の「師団歴史」はこのように書いています。


「午前九時迄に突撃を準備し、一方には決死隊を四回に分つて二〇三高地西南角に向い突撃せしめ、次で歩兵第二十七連隊の一中隊、歩兵第二十八連隊の二中隊、歩兵第二十五連隊の一小隊、工兵第七大隊の大部を逐次高地上に攀登(はんと)せしめ、(中略)午後二時頃西南角は全く之を占領す。鞍部の敵は頑強に抵抗し、東北角頂も亦敵によりて妨げらる。偶々攻撃隊長の意見具申に依り東北角占領に決したり。此実行は意外に行われ、午後四時頃全く該地を占領せり。続て敵は数回逆襲を企てしも皆之を撃退せり」(「師団歴史」より)


なお余談ですが、このとき頂上にひるがえった二十八連隊の連隊旗は、のちの太平洋戦争のガダルカナルの玉砕戦で、敵の手に渡らぬよう焼かれたことが知られています。



画像29 日本軍奪取後の二〇三高地(半藤一利「日露戦争史」より)


さて、ドラマ「坂の上の雲」では、占拠した二〇三高地にすぐさま砲兵の観測班が有線電話を持って向かい、その観測班から第三軍司令部に連絡が入ります。
受話器を取った児玉総参謀長が「そこから旅順港は見えるか」と問いますと、しばらくののち「見えます。丸見えであります」と答えが返ります。
それまでの旅順攻略戦に大きな犠牲があっただけに、ついに目的を達したと感動を呼ぶ場面です。
史実でも、二〇三高地からの観測に基づき、第三軍はただちに28センチ砲による旅順艦隊への攻撃を行います。

ところがこの日露戦争の勝利に大きく貢献したと伝えられてきた二〇三高地の戦い。
実は戦いの前に旅順港のロシア太平洋艦隊の主力はすでに壊滅状態にあったことが、近年の研究で明らかになっています。



画像30 日本の砲撃を受けた旅順港のロシア艦隊(「第七師団写真帖」より)


そのきっかけとなったのが、二〇三高地奪取のはるか前、9月の攻撃での日本軍による海鼠山(なまこやま)の占領でした。
海鼠山は二〇三高地に近い海抜170メートル余りの高地です。
海軍がここに高倍率の望遠鏡を持ち込んだところ、旅順港内の大半を見ることができたというのです。
このため海軍はここに観測所を設け、9月末から海軍陸戦重砲隊、および設置されたばかりの28センチ砲による攻撃を行っていました。



画像31 28センチ砲による砲撃(「図説 日露戦争」より)


この結果、港にいたロシア艦隊の軍艦はいずれも砲撃を受け大破し、沈没こそしなかったもののほぼ廃艦状態になっていたというのです。
しかしそのことを陸軍は知りませんでした。

作家、半藤一利さんは、その著書「日露戦争史」の中で、次のように書いています。


「旅順艦隊が浮かべる鉄屑となっている事実を、日本の大本営も満州軍総司令部も察知することはなかった。あるいは遠くにあるゆえやむを得ないこととしても、第三軍司令部がぜんぜん認識していなかったことは、いまとなると不可思議としかいいようがない。」
「歴史というものは、人間の必死の思いや知能や努力を嗤(わら)うかのように、皮肉な事実を用意するものである。とくり返しかくわけはここにある。この時点で敵艦隊が浮かべる鉄屑になっていたとは!? さらにつづく旅順要塞攻略作戦とはいったい何であったのか。ほとんど言葉を失ってしまう。」(半藤一利(日露戦争史」より)

 

半藤さんの感慨は、至極もっともです。
さらにワタクシは、状況を把握していたはずの海軍からなぜ陸軍に情報が入らなかったのか、と思います。
そもそも旅順攻略が海軍の要請によって始まり、攻撃には前述した海軍陸戦部隊や軍艦による艦砲射撃も加わるなど、陸海が共同で行っていました。
さらに海鼠山の海軍の観測に基づく砲撃には、陸軍の28センチ砲も使われていました。
それなのになぜ、このようなことが起きたのでしょう。
海軍は砲弾を当てたものの、敵艦を壊滅したとは思っていなかったのでしょうか。
不可解の極みです。

北大の前身である札幌農学校の出身で、外交顧問や通訳として第三軍に同行した志賀重昴(しげたか)は、日本軍占拠のあとの二〇三高地の様子について次のように書いています。


「二〇三高地は元来素直なる二子(ふたご)山なりしに、二子の上に幾百の極小なる山が出来て、凹凸の多い醜い山となり、その形を一変した。もっとも初め七日間はこの凹凸も判然と見えたるが、味方の屍の上に敵の屍が累なり、その上に味方の屍が累なり、その上に敵の屍が累なり、その上に味方の屍が累なり、敵味方の屍が五重になって赤毛布(げっと)を敷き詰めたる様になり、(中略)味方が山の西南嘴(し)を占領して陣地を作らんとせし時は、土嚢がなくなりたる故、屍を積みに積みて累々と高く胸墻(きょうしょう=壕壁のこと)を築きたるなど、ほとんど小説を読むの感がする」(志賀重昴「日記」より)


旅順攻略戦で、第三軍が投入した兵力は約6万4000人。
戦死者は5052人、戦傷者は1万1884人に達しています。
このうち第七師団の戦死者は2081人、戦傷者は4676人とそれぞれ約4割に及んでいます。
第三軍の主力は、第七のほかは、第一(東京)、第九(金沢)、第十一(善通寺=香川)の各師団でした。
ドラマに出てきた1万5000人が1000人になったというのは、原作の小説にそうした記述があるにしろ誇張に過ぎますが、第七師団の死傷者はやはり突出しています。
一方、旅順攻略戦では、ロシア軍の損害も戦死者615人、戦傷者3837人に及んでいます。

日本側は戦いの途中ですでに作戦の目的を達していることに気づかず、ロシア側もすでに守るものは失っていたなかでなおも続いた皮肉な戦い。
亡くなった多くの魂の悲痛な叫びが聞こえてきそうです。




画像32 双方の戦死者の遺体が散乱する二〇三高地(「図説 日露戦争」より)


画像33 203高地奪取後の七師団の兵士たち(「歩兵第二十五連隊史」より)


新橋を深堀り!

2021-10-25 10:30:00 | 郷土史エピソード



久しぶりの原稿アップです。
前回は、旭橋&常盤橋と馬鉄=馬車鉄道について書きましたが、今回も橋の話です。
旭橋と並ぶ市中心部の重要な橋、新橋についてのあれこれです。


                   **********



画像01 永隆橋から見た牛朱別川、緑橋、旭橋


旭川市内で石狩川に架かる橋と言いますと10以上ありますね。
そのうち中心部にある橋というと・・・4つ!
上流側から、金星橋、旭橋、新橋、そして旭西橋ですねよ。
このブログでも何度か触れていますが、ワタクシが生まれ育ったのは10条通9丁目。
家の裏は緑橋と永隆橋の間の牛朱別川の堤防です。
のぼると旭橋の全景がきれいに見えます。
反対側には、パルプの工場とその向こうに大雪の山並み。
それと高校は旭川北高校でしたので、通学には金星橋を渡っていました(夏は自転車、冬はバスです)。



画像02 金星橋から見た石狩川、旭橋(右上)


このため身近な石狩川の橋と言うと、旭橋と金星橋ということになります。
ただ旭西橋、新橋も何度も通った馴染み深い橋です。



画像03 常磐公園裏から新橋を望む


そのうち新橋ですが、いま橋が架かっている近辺には、開拓のはじめ、渡船場が設けられていました。
それを示したのが、1890(明治23)年の地図です。



画像04 明治23年の旭川地図(「まちは生きている 旭川市街の今昔)より)


3つある格子状の市街予定地のうち、右上が現在の中心部に当たります。
少し拡大します。



画像05 明治23年の旭川地図(拡大)


中央に「土人渡場」とありますが、これが渡船場の位置とルートです(「土人」という用語はかなり問題がありますが、史実ですのであえてそのまま掲示します)。
ルート右側の川の中洲(中の島、中島とも)が今の常磐公園と常盤町です。
左側の中洲が今の新町周辺(下の島・しものしま)に当たります。
この時代、牛朱別川は、切り替え工事のはるか以前で、街の中心部寄りを流れています。
なので、この渡船ルートのほとんどは今は陸地です。

で、この渡船の近文側の起点だった場所のやや西側に、1925(大正14)年に架けられたのが新橋です。
新橋架橋直後の地図を見てみましょう。



画像06 大正15年の旭川地図


川の蛇行状態は相変わらずですね。
これも拡大します。



画像07 大正15年の旭川地図(拡大)


旭橋の下流、現在の位置に新橋が架かっています。
牛朱別川は切り替え前です。
なので中心部から新橋に行くには、牛朱別川に架かっていた蓬莱橋(ほうらいばし)という橋を通り、下の島と呼ばれていた中洲に入る必要がありました。
ちなみに蓬莱橋のあった場所(5条通1〜2丁目付近)は、現在、6つの道路が交わる変則交差点になっています。
第2のロータリーという呼び方もされていますよね。

そしてここで注目したいのは、かつて渡船のルートだった場所です。
1890(明治23)年と1926(大正15)年の地図を並べてみます。



画像08 明治23年と大正15年の比較図


いかがでしょうか。
中島と下の島の2つの中洲の間にあった川が無くなり、つながったようになっています。
ちなみに1914(大正3)年の地図を加えるとこうです。



画像09 3つの時代の比較図


1914(大正3)年の地図(下段右)では、まだ2つの中洲は川で分かれています(「公園」と書かれているところが中の島、中島です)。
1926(大正15)年(上段右)になると、これが一体化します。
一方、渡船ルートの川があった辺りには、石狩川から切り離された細い水路のようなものがあります(下段右)。
水路は常磐公園の千鳥が池から出て、牛朱別川に注いでいます。
細長い水路と言えば、現在、常磐公園には、千鳥ケ池とつながる細長い水路があります。
白鳥の池という名前です。



画像10 常磐公園の白鳥の池①


画像11 常磐公園の白鳥の池②



明治の渡船ルートは、川が頻繁に流れを変えていた時代のものですので、地図にある場所は確定されたものではありません。
ただあくまで地図上の変遷を見る限りですが、今の白鳥の池がかつての渡船ルートの名残りのようにも感じます。
この見立て、いかがでしょうか。
参考に、現在の旭川の地図も載せておきます。



画像12 現在の旭川(Google Maps)/span>


続いては、新橋架橋の経緯についてです。
1925(大正14)年にできた初代の新橋は、実は当時の陸軍の演習によって架けられました。



画像13 博進堂の絵葉書セット


これは当時、旭川にあった博進堂書房という本屋さんが発行した絵葉書のセットです。
袋には「大正拾四年九月旭川二於ケル 工兵隊特别大演習實况」と書かれています。
個々の絵葉書には、一連の架橋工事(演習)の様子を伝える15葉の写真が印刷されています。



画像14 工兵隊による架橋工事の様子①


画像15 工兵隊による架橋工事の様子②


画像16 工兵隊による架橋工事の様子③(遠くに初代旭橋が見えている)



ではなぜ新橋が軍隊によって架けられたのか。
その経緯は、工事の3年前の1922(大正11)年にさかのぼります。
この年8月、旭川は、北海道独自の行政単位であった区から市に移行します。
札幌、函館、小樽、室蘭、釧路と一緒の移行でした。
そして初代の市長の選任があるわけですが、これがかなり難航したことが伝えられています(これはこれで興味深いのですが、今回は詳しく述べません)。
結局、選ばれたのは元第七師団第二七連隊長で、陸軍予備少将だった岩田恒(いわた・ひさし)でした。
新旭川市史は、岩田の市政について次のように書いています。

「(岩田市長は)旧軍人の立場を活用して、軍都旭川の都市基盤整備にその能力を発揮した。任期中に札幌の日本赤十字社北海道支部病院(通称日赤病院)の旭川移転、秋月橋の架け替え、牛朱別川切替工事の議決(昭和七年竣工)等知られている。とりわけ軍人市長の面目を発揮したのは、大正十四年(一九二五)九月、第一九回特别工兵演習と称して、工兵隊の力を借りて旭橋下流の新橋架橋を昼夜兼行で完成させ、旭川市民生活の便益に大きく貢献している」(新旭川市史)



画像17 岩田恒初代旭川市長


ということで、古巣の陸軍に働きかけて、工兵の大規模演習を旭川で行うことに成功。
新しい橋を架けてしまったということですね。
具体的には、地元第七師団に加え、本州の近衛、第一(ともに東京)、第二(仙台),第八(弘前)、第十四(宇都宮)の各工兵大隊等から派遣された工兵が集まって工事(演習)が行われました。
9月2〜5日が準備、6〜17日が本作業という半月の突貫工事です。



画像18 修祓式の様子


画像19 完成した初代新橋



演習は昼夜交代で進められ、予定通り全長272メートル、幅4,5メートルの木橋が17日に完成。
翌18日午前には、市民も参加して渡橋式がありました。

こうした大規模な工兵演習が行われるのは、北海道では初めてでした。
このため地元を始め全道各地から見学団が訪れました。
その数はのべ2万5000人に上ったと伝えられています。



画像20 初代新橋の渡橋式と集まった市民(大正14年9月・「まちは生きている 旭川市街の今昔」より)


さてその後の新橋ですが、1945(昭和20)年、同じ木橋の形で架け替えられます。
ただこの2代目新橋は、1954(昭和29)年、大雨による水害により80メートル余りが流失してしまいます。
画像19は流出の被害を伝える一枚です。
残った橋の向こうに、様子を見にきた大勢の市民がいます。



画像21 一部が流出した2代目新橋(昭和29年・「旭川の橋」より)


その後、新橋は、長期間、通行不能の状態が続きますが、1958(昭和33)年になってようやく近代橋である3代目の橋が架けられます。
画像23は、橋脚のみが完成した時点の写真と思われます。
画像24は平成になっての3代目新橋ですが、交通量の増加に伴い、脇に歩道専用橋が増設されているのが分かります。



画像22 上空から見た旭橋、新橋(昭和32〜33年ころ・旭川市中央図書館蔵)


画像23 3代目新橋(平成3年・「旭川の橋」より)



なお現在の新橋は、4車線の立派な橋となっています。
これは2002(平成14)年に架け替えられた4代目の新橋です。

なお陸軍が架橋した橋としては、旭川では第七師団工兵隊が演習で設けた秋月橋もあります。
橋の名前は当時の工兵隊の隊長、秋月大佐の名前を取ったということです。




画像24 常磐公園上空からの空撮写真(昭和35年・旭川市中央図書館蔵)

お知らせ 連続歴史講座、始まります!

2021-10-11 13:47:03 | 郷土史エピソード


お知らせです。
以前に周知させていただいた連続歴史講座「もっと知りたい!旭川」。
いよいよ今週末(10月16日・土)から始まります。





初回は「総論・3つのキーワードで見る旭川」。
「山と川の恵みを受けたマチ」「北の守りの要のマチ」「文化・芸術のマチ」のそれぞれの視点で、旭川という街の持つ独自性について考えます。









若干ですが、まだ席がありますので、興味のあり方はぜひご参加下さい。







なお講座の模様は動画で収録し(固定カメラですが)、後日、You Tubeにアップすることにトライします。
なので、日程的に都合のつかない方はそちらをご覧ください。
アップについては、また後日、周知いたします。
なにとぞよろしくお願いいたします。








市民劇 オリジナル脚本注釈

2021-09-10 13:00:00 | 郷土史エピソード



今回も本に掲載できなかった市民劇関連の資料のアップです。
アップするのは、当初、本に掲載したオリジナル脚本に添える予定だった注釈です。
本やブログ掲載の脚本と照らし合わせて見ていただくとよいのですが、単なるウンチクものの読み物として見てもらっても楽しめるかと思います。


                   **********


◆ アクト1


* 女給
・ カフェーやバーで客の接待をする女性。初期のカフェーでは、和服にエプロン姿が定番スタイルだった。

* 東西声(とうざいこえ)
・ 舞台で口上を述べる際、見物客の注目を集める言葉。「東西東西(とざい、とーざい)。今日、ご覧に入れますは・・・」などと使う。

* 師団通
・ 旭川駅前と第七師団司令部を結ぶ戦前の旭川のメインストリート。



大正末の師団通 
 

* 第一神田館
・ 明治〜大正期の旭川にあった活動写真館。

* 活弁士
・ 活動写真弁士の略。映像のみの映画=無声映画時代に、スクリーンの脇で筋や台詞を語った説明者。活弁、弁士とも。

* 美しき天然
・ 明治30年代、九州佐世保の女学校で誕生した唱歌。日本人作曲の初のワルツとされ、活動写真の伴奏や、サーカス、チンドン屋の演奏曲=ジンタとしても知られる。またこの歌の旋律をもとに、大正時代の流行歌「船頭小唄」が作られたことでも知られる。

* 神居、旭川、そして永山の三村
・ 1890(明治23)年、上川開発のため北海道庁によって設置された。

* 屯田兵
・ 明治時代、北海道の警備と開拓の2つの役割を担って配備された兵士。

* 旭川駅
・ 1898(明治31)年に開業した旭川の玄関口。

* 陸軍第七師団
・ 北海道に置かれ、北鎮部隊などと呼ばれた旧日本陸軍の組織。



春光台から見た第七師団(大正8年) 


* 常磐公園
・ 1916(大正5)年に開園した旭川初の都市型公園。

* 悲願の市制施行
・ 実際は1914(大正3)年の区制施行時の方が住民の喜びは大きかった(当時の区は市に準じる北海道のみの行政単位)。区制施行は札幌、函館、小樽に大きく遅れていたこと、市制施行は区制廃止による全道一斉の措置だったことがその理由。


◆ アクト2


* エピグラフ
・ 書物の巻や章のはじめに示す引用句。この脚本では、旭川ゆかりの文学者の詩や散文を使っている。碑銘、碑文の意味も。

* 旭ビルディング百貨店
・ ゴールデンエイジの旭川で最も高かったビル。

* 旭川美術協会展
・ 1924(大正13)年、高橋北修らが開催した美術展。

* 旭川師範学校
・ 1923(大正12)年に開校した教員養成のための教育機関。

* 出面賃(でめんちん)
・ 出面(でめん・でづら)とも言う。大工や左官などの日当のこと。幅広くアルバイト代のことを指すことも。

* 旭川新聞
・ 1915(大正4)年創刊の北海東雲(しののめ)新聞が前身。4年後、旭川新聞と改題した。1942(昭和17)年、11紙が統合して北海道新聞が誕生するまで、北海タイムス、函館新聞、小樽新聞などと並ぶ道内有力紙だった。



旭川新聞社(昭和4年) 


* 黒珊瑚(くろさんご)
・ 詩人、小熊秀雄の異名。とぐろを巻いたような特異な髪形にちなみ、本人が署名記事に使った。



小熊秀雄


* コラージュ
・ 既存の写真や絵、実物など絵の具以外のものを使って表現する美術の技法。「糊付けする」の意味のフランス語が由来。

* 菊頭
・ 小熊の特異な髪型を指して高橋北修やその仲間が言った言葉。

* はんかくさい
・ 愚かな、おかしな、の意味の北海道の方言。


◆ アクト3


* 浅草行進曲
・ 当時人気だったカフェーをテーマにした昭和初期のヒット曲。

* 北海タイムス
・ 1887(明治20)年、札幌で創刊された北海新聞が源流(北海タイムスとなったのは1901年=明治34年)。1942(昭和17)年、道内11紙が統合して北海道新聞が誕生するまで、有力紙として親しまれた。戦後、同名の新聞が発刊されたが、1998(平成10)年に廃刊した。

* 音楽大行進
・ 1929(昭和4)年に始まった音楽の街、旭川を代表するイベント。吹奏楽、マーチングバンドなど約4000人が参加し、全国屈指の規模を誇る。



第1回慰霊音楽行進(昭和4年) 


* 帝国ホテル
・ 1890(明治23)年、東京都千代田区に開業したホテル。外国人賓客の接待ができる国を代表するホテルとして建てられた。



帝国ホテル  


* フランク・ロイド・ライト
・ アメリカ人建築家で、近代建築の3大巨匠の1人と称される。1923(大正12)年に竣工した帝国ホテル新館の設計者。

* 帝展
・ 現在の日展(日本美術展覧会)につながる帝国美術院展主催の公募展。1907(明治40)年に始まった文展(文部省美術展覧会)のあとを受け、1919(大正8)年から毎年開かれた。

* 北原白秋(きたはら・はくしゅう)
・ 詩、短歌、童謡など数多くの名作を残した福岡県生まれの文学者。旭川には、1925(大正14)年8月、樺太旅行の帰りに来訪している。

* 旭川信用金庫
・ 凶作の影響により疲弊した地元商工業者の苦境打開を目的に、1914(大正3)年に発足した旭川信用組合が前身。1951(昭和26)年に信用金庫となった。



旭川信用組合(昭和2年) 


* 極粋会(きょくすいかい)
・ 架空の組織だが、戦前の旭川にあった国粋主義団体「旭粋会」をモデルとしている。

* 黒色(こくしょく)青年同盟
・ 架空の組織だが、かつて存在した無政府主義者の団体「黒色青年連盟」をモデルとしている。

* たくらんけ
・ ばかもの、たわけもの、の意味の北海道の方言。

* 無政府主義者
・ 一切の国家権力を否定し、個人の完全な自由、および個人の自主的な結合による社会の実現を目指す人々のこと。

* アナキスト
・ 無政府主義者と同じ。

* 博徒
・ サイコロ博打など、賭博を生業にしている人。

* 大杉栄(おおすぎ・さかえ)
・ 大正時代の労働運動、社会運動に大きな影響を与えたアナキスト。関東大震災の際、妻でやはりアナキストだった伊藤野枝(いとうのえ)とともに、憲兵大尉の甘粕正彦(あまかすまさひこ)らによって虐殺された。

* 伊藤野枝(いとう・のえ)
・ 福岡県生まれのアナキスト・婦人運動家。平塚らいてうのあとを継ぎ、雑誌「青鞜」の編集・発行人を務めた。



大杉栄と伊藤野枝 


* 労働争議
・ 賃金など労働を巡る労働者と使用者の間の争いのこと。

* 階級闘争
・ 資本主義における労働者と資本家など、社会的な階級間の争いのこと。


◆ アクト4


* 浅草オペラ
・ 大正時代に東京浅草で披露された大衆歌劇。絶大な人気を誇ったが、関東大震災で劇場が壊滅的な被害を受けて衰退した。

* 「ベアトリ姉ちゃん」
・ 浅草オペラの代表曲。

* ルバシカ
・ ロシアの男性用上着。ロシア文化の影響を受けた大正〜昭和の日本の芸術家が好んで着たことで知られる。ルパシカとも。

* 十勝岳の噴火
・ 1926(大正15)年5月24日に発生した大災害。

* 泥流
・ 火山噴火や山崩れの際、雪などが融け山を流れ下る現象のこと。

* モガ
・ 切りそろえた断髪で洋服を着こなすなど流行に敏感な女性、モダンガールの略。大正末から初話初期にかけての流行語。男性はモダンボーイ=モボ。  

* 抱月(ほうげつ)・須磨子(すまこ)の芸術座
・ 抱月は劇作家、演出家の島村抱月、須磨子は女優の松井須磨子のこと。芸術座は、1913(大正2)年に抱月が須磨子を擁して作った劇団。2人は翌年9月、旭川を訪れ、ヒット作「復活」を上演している。



芸術座による「復活」の舞台 


* 参謀長
・ 参謀の役割は指揮官を補佐して作戦計画案を練ることで、あくまで補佐役であって部隊への指揮権は持っていない。参謀長は、各参謀の統轄者。

* 北海ホテル
・ 現在の「星野リゾートOMO7旭川」に繋がる旭川のホテル。1920(大正9)年、小樽にあった北海屋ホテルの旭川支店として営業を始めたのが始まり。3階建ての趣のある洋館で、4条通8丁目にあった。



北海ホテル(昭和3年)


* 北鎮(ほくちん)小学校
・ 創立は1901(明治34)年。第七師団の将校の子弟が通う私立の小学校として建てられた。当時としては珍しい男女共学。北の学習院と称された。

* 若山牧水
・ 酒と旅を愛した国民的歌人。数々の叙情歌で知られる。

* 「宵待草(よいまちぐさ)」
・ 竹久夢二(たけひさ・ゆめじ)の詩をもとにした流行歌。

* 竹久夢二
・ 明治末〜大正時にかけ独自の美人画で一斉を風靡した画家・詩人。

* 上川神社頓宮
・ 今のような手頃なイベントスペースが街中になかった時代には、この頓宮や真久寺(しんきゅうじ)六角堂などが主に文化団体の会合に使われた。旭川歌話会が頓宮で開催されたことはないが、そうした事実を伝えたく、劇中ではあえて開催場所とした。



上川神社頓宮(昭和2年) 


* 軍人歌人
・ 陸軍将校であり、歌人でもあった齋藤瀏を指して言った言葉。

* 酒井会長
・ 実際の旭川歌話会は、発足時、会長は置かなかった。酒井廣治は齋藤瀏らとともに顧問を務めた。

* 熊本第六師団
・ 旧陸軍の師団の一つ。熊本、大分、宮崎、鹿児島の南九州の出身兵士で編成された。司令部は熊本市にあった。

* 旅団長
・ 旅団は日本陸軍の編成の一つで、師団より小さく、連隊より大きい(旅団には2つの歩兵連隊が属し、師団には2つの旅団が属した)。旅団長はその指揮官。

* 常磐公園のボート
・ いつの頃から言われたかは定かではないが、筆者が小学生〜高校生の頃、常磐公園でボート乗りを楽しんだアベックはその後別れる、といった趣旨の話をよく耳にした。



常磐公園のボート遊び(大正末か) 


* 少将
・ 軍人の階級。将官では、大将、中将の下。旧陸軍では主に師団の旅団長、陸軍省の各部長などを務めた。

* 霧華(きばな)
・ 凍てついた朝、霧が草や木に付いて凍った姿を指す齋藤瀏による造語。旭川歌話会の合同歌集および瀏の第2歌集のタイトルでもある。旭川の銘菓「き花」のネーミングは、この言葉を元にしている。



旭川歌話会合同歌集「霧華」 


* 「魚歌(ぎょか)」
・ 1940(昭和15)年8月に刊行された齋藤史の第1歌集。装丁は版画家の棟方志功(むなかた・しこう)。新進歌人としての史の評価を定めた。


◆ アクト5


* 演歌師
・ 街頭でバイオリンやアコーディオンを弾きながら演歌と呼ばれた流行歌を歌い、歌の本を売った芸人、行商人。明治末から昭和初期に多く活動した。

* 宮越・三浦の大旅館
・ 師団通の入り口に、神社の狛犬のように鎮座していた2つの旅館。ともに一部3階建てで、7丁目に三浦屋、8丁目に宮越屋があった。



三浦屋旅館と宮越屋旅館(大正末期) 


* 丸井さん
・ 丸井今井百貨店旭川支店のこと。デパートが大型小売店業界の頂点にあった頃、道民の多くは各地にあった丸井デパートのことを敬称付きで呼んだ。



丸井今井百貨店旭川支店(昭和3年) 


* 金子寿(ことぶき)
・ 3条通7丁目角にあった食堂。創業は明治30年代末で、海産物商店として始まり、1922(大正11)年に食堂に転身した。

* 三日月
・ 4条通7丁目角、旭ビルディング百貨店の隣にあった食堂。1900(明治33)年頃の創業。金子寿と並ぶ人気店だった。

* ユニオン
・ 3条通8丁目にあったカフェー、ユニオンパーラーのこと。前身は1925(大正14)年創業の喫茶店。2年後、移転しカフェーとして新装開店した。



カフェー・ユニオンパーラー(昭和4年) 


* 添田(そえだ)さつき
・ 大正〜昭和期の作詞作曲家・小説家。父親は演歌師の添田唖蟬坊(あぜんぼう)。自身も様々な演歌を作った。

* 酌婦
・ 酌をするなど客の接待をする女性。店によっては性的な接待も行った。

* 中島遊郭
・ 現在の東1〜2条2丁目にあった遊郭。1907(明治40)年に営業を開始した。

* 廃娼(はいしょう)運動
・ 娼妓の人権保護の観点から、公娼制度の廃止を訴える活動のこと。


◆ アクト6


*(北海道護国神社)招魂祭(しょうこんさい)
・ 戦死した北海道出身者を祀る北海道護国神社のお祭り(慰霊大祭)のこと。例年、6月4日が宵宮祭で5日が慰霊大祭、6日が後日祭。かつての旭川には、招魂祭に合わせ、大勢の遺族が道内各地から集まった(もちろん今もお参りをする人は少なくない)。



招魂祭の賑わい(昭和6年) 


* 常盤橋(ときわばし) 
・ 昭和初期に行われた牛朱別川(うしゅべつがわ)の流れを変える切替工事の前、今の常盤ロータリーの場所にあった橋。旭橋と並び、中心部と師団のある近文地区を結ぶ重要な橋だった。

* ロータリー
・ 旭川の中心部にある変則交差点。牛朱別川の切替工事以前は橋があった場所のため、埋め立て後は6つの道が集まる形となり、ロータリー式の交差点となった。

* 牛朱別川
・ 旭川を流れる石狩川の支流。かつては今よりも市の中心部寄りを流れ、たびたび氾濫被害が出ていたため、1930(昭和5)年から1932(昭和7)年にかけ、流路を変えて旭橋の下で石狩川に合流させる切替及び埋立工事が行われた。



切替工事前の牛朱別川(昭和4年頃) 


* 百田宗治(ももた・そうじ)
・ 大阪市出身の詩人、児童文学者。一時、愛別町安足間(あんたろま)に移住を決意するなど北海道と縁が深い。


◆ アクト7・8


* 知里幸恵(ちり・ゆきえ)
・ 登別生まれで、旭川に移り住んだアイヌ文化伝承者。

* 嵐山
・ 旭川中心部から西に約5キロ。250メートル余りの高さがあり、雄大な景観が楽しめる。京都の嵐山にちなんでこの名前が付けられた。

* 石狩川
・ 大雪山系の石狩岳を源とし、上川盆地、空知平野、石狩平野を経て石狩湾に注ぐ全長268キロの北海道第一の川。

* 大雪山
・ 北海道の屋根と称される火山群。道内最高峰の旭岳を筆頭に、北鎮岳、白雲岳などからなる。大雪山とそこから流れる石狩川などの河川の恵みにより、旭川は北海道内陸部の中核都市として発展を遂げた。

* 日章小学校
・ 1893(明治26)年、忠別小学校として開校した旭川で初の公立学校。漢字1字の学級名を伝統としていることでも知られる。



日章小学校(昭和2年) 


* スタンド・バイ・ミー
・ 1961年、ベン・E・キングが歌った世界的ヒット曲。黒人霊歌にインスピレーションを受け、キング自身が競作で作詞・作曲した。

* ベン・E・キング
・ 1938年生まれのアメリカのソウルシンガー。男声コーラスグループ、ドリフターズのリードボーカルとして活躍後、ソロ歌手となった。

* パリジャンクラブ
・ カフェー・ヤマニの速田弘が4条通7丁目に開店した新店舗。

* 国防婦人会
・ 正式には大日本国防婦人会。1932(昭和7)年に全国組織が発足し、出征兵士の慰問や家族の支援などを行った。白の割烹着にタスキ姿が会服。

* 東条首相
・ 太平洋戦争開戦時の首相、東条英機(とうじょう・ひでき)のこと。

* ノモンハン事件
・ 1939(昭和14)年、旧満州とモンゴルの国境地帯で起きた日本軍とソ連軍との軍事衝突。機械化されたソ連軍の攻撃に、日本軍は大敗した。当時、満州派遣中だった第七師団でも多くの死傷者が出た。

* 従軍記者
・ 軍隊について戦場に行き、戦況を報道する新聞社や放送局、雑誌などの記者のこと。

* 旭川市博物館
・ 1952(昭和27)年、第七師団の北鎮兵事記念館だった建物を利用し、旭川市郷土博物館として開館した。1968(昭和43)年、旧旭川偕行社(現在の旭川市彫刻美術館)に移転。さらに1993(平成5)年、現在の大雪クリスタルホール内に移転した。




北鎮兵事記念館(昭和15年)






市民劇 旭川ゴールデンエイジを中心とした年表

2021-09-08 13:00:00 | 郷土史エピソード



今回も本に掲載できなかった市民劇関係の資料のアップです。
今回は、旭川ゴールデンエイジを中心とした年表です。
脚本を書く作業を行う中、当時どのような出来事が、どのような流れであったのかを確認するため作成しました。
さらにゴールデンエイジの前と後の出来事も追加しました。
この結果、年表のスタートは、上川盆地に神居、旭川、永山の3つの村が設置された1890(明治23)年となりました。
またラストは、ゴールデンエイジの主人公とも言える小熊秀雄が亡くなった1940(昭和15)年となりました(偶然ですが、ちょうど半世紀を見通す年表になりました)。
なお年表の見方ですが、太字が劇関連の出来事、その他が旭川を中心とした一般的な出来事になっています。
それではところどころ解説をしながら見ていきましょう。


                   **********


◆ 明治期


まずは明治。
開拓の時期ですね(もちろんその前にはアイヌの人たちの長い営みがあります)。
何もなかった上川盆地に急ピッチで街が建設されます。


<1890(明治23)年>
・9月 神居・旭川・永山の3村が設置される。
・この年まで 曙地区に約30戸の集落できる。

<1891(明治24)年>
・6月 永山兵村に屯田兵が入植。

<1892(明治25)年>
・この年 佐藤市太郎が北海道に移住。
・1月 旭川市街の土地貸し下げ開始。
・8月 旭川兵村に屯田兵が入植。



劇の登場人物で唯一明治以前の生まれなのが神田館の大将こと佐藤市太郎です。
市太郎は、江戸時代の末に当たる慶応3年に、今の東京都墨田区で生まれています。
北海道に渡ったのは25歳頃と伝えられています。


<1893(明治26)年>
・12月 佐野文子、島根県で誕生。
・9月 上川初の公立学校、忠別小学校開校。
・この年 上川神社の仮社殿が義経台(現在の宮下通5〜8丁目地先)に建つ。

<1894(明治27)年>
・4月 酒井廣治、福井県で誕生。
・5月 道庁が上川アイヌに近文の給与地を割り渡す。
・8月 日清戦争始まる。



劇の登場人物のうち、年長者はこの頃までに誕生しています。


<1895(明治28)年>
・3月 屯田兵に出動命令(東京で待機中、戦争終結)。

<1896(明治29)年>
・7月 空知太・旭川間の鉄道路線着工。

<1897(明治30)年>
・7月 空知太・旭川間の鉄道路線着工。

<1896(明治29)年>
・7月 空知太・旭川間の鉄道路線着工。

<1897(明治30)年>
・10月 今井呉服店旭川支店開設。




画像01 今井呉服店旭川支店


<1898(明治31)年>
・1月 曙遊郭営業開始。
・7月 空知太・旭川間の鉄道開通し、旭川駅開業。小樽・札幌方面と鉄路結ばれる。




画像02 開業当日の旭川駅


・10月 高橋北修、旭川で誕生。
・この年、酒井廣治、両親と旭川に移住。

<1899(明治32)年>
・3月 北海道旧土人保護法公布。
・7月 第七師団の建設工事着工。
・7月 劇場・佐々木座が新築開業。
・7月 剣淵・士別に最後の屯田兵配備。
・この年 小檜山鉄三郎、山崎与吉が、旭川で酒造りを開始。

<1900(明治33)年>
・4月 近文アイヌ地移転問題で、有志が政府要人への陳情のため上京。
・8月 旭川村を旭川町に改称。
・8月 佐藤市太郎の神田床旭川支店開業。
・11月 第七師団、札幌からの移駐開始。

<1901(明治34)年>
・3月 今のロータリーの場所に常盤橋架橋。
・4月 私立北鎮小学校が開校。
・9月 糸屋銀行旭川支店が開業。
・9月 小熊秀雄、小樽で誕生。

<1902(明治35)年>
・1月 上川測候所で零下41度を観測。
・4月 旭川に北海道一級町村制を施行。
・5月 第七師団が初の招魂祭。
・10月 第七師団の移駐完了。
・11月 龍馬の甥、坂本直寛がキリスト教伝道師として旭川に着任。

<1904(明治37)年>
・2月 日露戦争始まる。
・2月 今野大力、宮城県で誕生。
・5月 初代旭橋完成。




画像03 初代旭橋


・8月 第七師団に動員命令。以降、旅順攻略などに参加。


このあたりまでで、重要なインフラや商業施設の整備がかなり進んできています。
街の基盤が整備された時期です。


<1905(明治38)年>
・1月 鈴木政輝、旭川で誕生。
・3月 第七師団、奉天開戦で露軍と交戦。
・9月 日露戦争終結。
・12月 小池栄寿、鷹栖町で誕生。



劇に登場する実在の人物はほとんどが明治生まれです。
例外は先に述べた慶応生まれの佐藤市太郎、そして大正生まれのスタルヒンと三浦綾子です。


<1906(明治39)年>
・3月 第七師団主力部隊の旭川凱旋始まる。
・5月 上川馬車鉄道が営業開始。

<1907(明治40)年>
・9月 旭川・釧路間の鉄道が全通。
・10月 中島遊郭が営業開始。
・この年 大力、家族とともに旭川へ移住。

<1908(明治41)年>
・1月 石川啄木が来旭。

<1909(明治42)年>
・1月 道庁庁舎焼失を受け、旭川への道庁移転運動始まる。
・2月 齋藤史、東京四谷で誕生。
・6月 佐野文子が旭川に移住。
・8月 野口雨情が旭川の北海旭新聞に入社(11月退社)。

<1910(明治43)年>
・3月 師団と町の対立問題解決を受け、常磐公園の設置決まる。
・4月 知里幸恵が登別から旭川に転居。

<1911(明治44)年>
・6月 佐藤市太郎、4条通8丁目に活動写真館「神田館」を開業(のち「第一神田館」と改称)。
・7月 旭川町役場新庁舎落成。
・この年 4条通8丁目にヤマニ旭館食堂開店。



◆ 大正期


大正期の旭川は、1914(大正3)年の区政施行(区は市に準じる北海道独自の行政単位)、1922(大正11)年の市制施行に見られるように、開拓期を脱し、人間で言えば青年期に入った時期です。
芸術座や歌舞伎の興行、常磐公園の造成、各種の芸術グループの結成など文化的な出来事も多く見られるようになり、明治の時代に比べ、社会にややゆとりが生まれていることが分かります。
こうしたなかで小熊らが集い、いよいよ旭川ゴールデンエイジの活発な活動が行われるわけです。


<1912(明治45・大正元)年>
・2月 オーストリアのレルヒ中佐、スキー指導に来旭。
・4月 佐野文子、旭川の実業家と結婚。
・7月 明治天皇崩御。大正に改元。

<1913(大正2)年>
・5月 上川馬車鉄道、路線延長。

<1914(大正3)年>
・4月 旭川に区制施行。




画像04 区政施行の祝賀


・4月 旭川信用組合(現旭川信用金庫)設立。
・7月 第1次世界大戦始まる。
・9月 島村抱月・松井須磨子の芸術座が佐々木座で「復活」上演。

<1915(大正4)年>
・4月 齋藤瀏が大隊長として第七師団に赴任。
・7月 齋藤史が北鎮小に転入。



齋藤史・瀏親子は2度旭川で暮らしていますが、1度目の赴任です。


<1916(大正5)年>
・5月 ヴィクトル・スタルヒン、帝政ロシアで誕生。
・5月 常磐公園開園。




画像05 開園間もない頃の常磐公園


<1917(大正6)年>
・3月 ロシア革命。
・4月 第七師団が満州派遣。
・6月 第一神田館、5層建築に改築。
・7月 近文アイヌによる楽隊が東久邇宮来旭時に演奏披露。

<1918(大正7)年>
・7月 上川馬車鉄道が廃止。
・8月 シベリア出兵。
・8月 金田一京介が近文訪問、知里幸恵と会う。




画像06 金田一京助


・この年 高橋北修らヌタップカムシュッペ画会設立。

<1919(大正8)年>
・1月 パリ講和会議。
・1月 糸屋銀行、本店を旭川に移す。
・7月 旭川駅からの定期客馬車、運行開始。
・この年 高橋北修、絵の修行のため上京。

<1920(大正9)年>
・9月 齋藤史、父瀏の異動で三重県に。
・9月 3条通15丁目の錦座が新築開場。左団次・幸四郎一座が杮落とし興行。
・10月 第1回国勢調査、旭川区の人口6万1319人。
・11月 北海屋ホテル旭川支店開業(のち北海ホテルと改称)。

<1921(大正10)年>
・2月 佐野文子、夫を病気で亡くす。以降、様々な社会活動を行う。
・7月 速田弘ら旭川共鳴音楽会を創設。
・この年 小熊、樺太から旭川の姉の元へ。
・この年 酒井廣治、東京から戻る。
・この年 今野大力、郵便局に勤務し、詩作を始める。



小熊の来旭、酒井廣治の帰旭は同じ年だったのですね。
この2人はゴールデンエイジの牽引者と言って良いと思います。


<1922(大正11)年>
・4月 堀田(三浦)綾子、旭川で誕生。
・5月 知里幸恵が上京。
・8月 旭川、市制を施行。
・9月 知里幸恵が急死。
・10月 旭川に丸井今井百貨店開業。
・10月 佐藤市太郎、初の旭川市会議員選挙で当選。
・11月 旭川・稚内間の鉄道全通。
・12月 ソビエト連邦が成立。
・この年 小熊、旭川新聞の記者となる。

<1923(大正12)年>
・4月 旭川師範学校開校。
・5月 ヤマニが改装、カフェーの営業を開始。
・6月 町井八郎の町井楽器店、開店。
・6月頃 小熊、今野大力と知り合う。
・7月 小熊ら旭川文化協会が演劇上演。




画像07 旭川文化協会のメンバー


カフェ−としてのヤマニが誕生しています。
ゴールデンエイジの舞台も整ったと言うところでしょうか。


・8月 前年死去した知里幸恵の「アイヌ神謡集」出版。
・8月 宮澤賢治が来旭。
・9月 関東大震災。旭川にも避難民が多数訪れる。大杉栄・伊藤野枝が虐殺される。
・9月 小熊、震災で帰郷した北修と知り合う。
・10月 北修ら洋画研究会「赤耀社」結成。
・11月 建築家、田上義也が北海道に移住。
・12月 「赤耀社」がヌードデッサン会開催。

<1924(大正13)年>
・1月 小熊ら、チルチル童話会開催。
・3月 鈴木政輝・小池栄寿、大学進学のため上京。
・4月 佐野文子ら愛児園託児所を開設。
・5月 小熊、北修と上京(1回目・2か月で戻る)。
・6月 上川神社が神楽岡に遷宮。頓宮も常磐公園に造営。
・6月 築地小劇場が創設される。
・7月 加藤顕清が故郷旭川で個展。
・8月 旭川で乗合自動車「円太郎」の運行開始。
・9月 大杉・伊藤虐殺の報復を計画したとしてアナキストを逮捕(旭川鎖断社事件)。




画像08 旭川鎖断社の事務所


・10月 北修ら新装開店の旭ビルディング百貨店で美術展。
・12月 齋藤瀏、大佐参謀長として再び第七師団に赴任。史も同行。



齋藤史・瀏親子も旭川に戻ってきました。


<1925(大正14)年>
・2月 小熊が美術展で知り合った崎本つね子と結婚。
・3月 東京放送局がラジオの試験放送開始(7月から本放送)。
・4月 治安維持法公布。
・4月 小熊、妻と2回目上京。
・5月 男子普通選挙が実現。
・6月 ヤマニでラジオ放送を一般公開。
・6月 失火から第一神田館が焼失。
・7月 小熊が旭川に戻る。しかし社長の不評を買い、旭川新聞には復職できず、失業状態に。
・8月 北原白秋が来旭。
・9月 小熊、つわりに苦しむ妻を樺太の実家に置いて旭川に戻る。
・9月 亡命のスタルヒン一家が旭川に到着。
・10月 第2回国勢調査、旭川市の人口7万2341人。

<1926(大正15・昭和元)年>
・1月 東京で黒色青年連盟が発足。
・1月 小熊が旭川新聞に復職。




画像09 小熊がいた頃の旭川新聞社


・3月 のちに2・26事件で殺害される渡辺錠太郎が第七師団師団長に着任。
・5月 十勝岳噴火、同じ日に糸屋銀行破たん。
・10月 若山牧水が来旭。史に作歌を勧める。
・11月 旭川歌話会発足し、小熊ら幹事に。
・11月 砂沢市太郎らアイヌ差別解消のため解平社創設。
・12月 竹内武夫が北海タイムス旭川支局に赴任。
・12月 大正天皇崩御。昭和に改元。
・この年 松井梅太郎が旭川で初めて熊の木彫り始める。



◆ 昭和期


依然、旭川の文化、経済活動は活発ですが、1927(昭和2)年に起きた北海道初の治安維持法違反事件、名寄集産党事件の発生など、早くも社会には暗い影が落ちてきます。
さらに1931(昭和6)年には満州事変が勃発。
1934(昭和9)年の速田弘の自殺未遂、1935(昭和10)年の今野大力の死去、齋藤史・瀏親子も深く関わった1936(昭和11)年の二・二六事件の発生など、劇の登場人物たちも次第に苦境に陥ることになります。


<1927(昭和2)年>
・1月 旭川電気軌道東川線の一部運行開始。
・1月 小熊、大力、鈴木政輝ら詩誌「円筒帽」創刊。




画像10 詩誌「円筒帽」


・3月 大力が上京(1回目)。
・3月 旭川歌話会が齋藤瀏送別歌会。史も旭川を去る。
・4月 カフェーユニオンパーラー新装開店。開店当日に小熊、栄寿、政輝が訪れる。
・5月 旭川初のメーデー集会。
・5月 芥川龍之介・里見弴が旭川で講演会。小熊ら見に行く。
・5月 辻広駒吉ら国粋主義団体、旭粋会結成。
・6月 旭粋会と黒色青年連盟が常盤橋上で乱闘。
・6月 ヤマニで小熊が黒色青年連盟のメンバーに絡まれる。
・7月 芥川龍之介が自死。
・7〜8月 野口雨情ら招き、旭川で大雪山夏期大学(観光PRイベント)開催。
・8月 旭川の黒色青年連盟メンバー、不敬容疑で検挙。
・9月 大力、肋膜炎のため旭川に帰郷。
・11月 道内初の治安維持法違反事件。名寄集産党事件起きる。
・12月 星野由美子(北修の長女)、旭川で誕生。



事実上、昭和がスタートした年です(昭和元年は7日間のみ)。
事件関係の出来事が多いですね。
波乱の昭和のスタートといった感じです。


<1928(昭和3)年>
・3月 3・15事件。全国で共産党員一斉検挙。
・6月 小熊が妻子連れ、3度目上京(史実)。
・9月 若山牧水が死去。
・この年 スタルヒン一家の喫茶白ロシア開店。

<1929(昭和4)年>
・6月 第1回慰霊音楽大行進開催。
・9月 大力が上京(2回目)。
・10月 世界恐慌始まる。
・11月 旭川市街軌道1条線・4条線の運行開始。
・11月 高橋ことじ(北修の妹)ら女性文芸グループ、朱蘭会結成。
・12月 旭川電気軌道東旭川線の運行開始。
・この年 鈴木政輝の東京浅草の下宿を川端康成が訪問。

<1930(昭和5)年>
・4月 予備役となった齋藤瀏が史ら家族とともに東京へ。
・5月 牛朱別川切替工事が始まる。




画像11 牛朱別川切替工事の様子


・10月 第3回国勢調査。旭川市の人口は8万2514人。
・この年 田上義也設計でヤマニが改装。

<1931(昭和6)年>
・3月 この頃から、近文コタンでの木彫り熊の製作が本格化。
・5月 齋藤史、遠縁の医師と結婚。
・8月 初の全道規模の集会、全道アイヌ青年大会開催。
・9月 満州事変勃発。
・10月 北修、旭川生まれの画家として帝展に初入選
・11月 牛朱別川切替工事が竣工。
・12月 第3次アイヌ給与地返還運動で、近文アイヌが集会。

<1932(昭和7)年>
・3月 大力、駒込署で拷問受け、一時重体に。
・3月 満洲国建国を発表。
・5月 5・15 事件。
・9月 第七師団、満州に派遣。
・10月 石北線が全通。
・10月 牛朱別川旧流路の埋立工事竣工。
・11月 2代目旭橋完成。
・11月 スタルヒン一家の喫茶「バイカル」開店。

<1933(昭和8)年>
・1月 スタルヒン父、ロシア出身の女性従業員を殺害、逮捕。
・2月 小林多喜二、虐殺される。
・3月 日本が国際連盟を脱退。
・5月 加藤顕清を講師に、札幌で熊彫り講習会。
・6月 速田弘の新店舗、パリジャンクラブ開店。
・9月 旭川放送局がラジオ本放送開始。




画像12 旭川放送局


・12月 旭川国防婦人会が発会式。

<1934(昭和9)年>
・2月 速田弘、カフェーヤマニを閉店し、新店舗に全力投入。
・6月 林芙美子が友人の松下文子を訪ね、来旭。
・11月 スタルヒン、職業野球団参加のため上京。
・12月 速田弘、経営難で自殺未遂。その後、旭川を離れる。

<1935(昭和10)年>
・4月 大力が東京江古田の療養所に入院。
・5〜6月 小熊、第1詩集「小熊秀雄詩集」、長編叙事詩集「飛ぶ橇」相次いで刊行。
・6月 大力、療養所で死去。31歳。
・9月 アイヌ手工芸展覧会で松井梅太郎の木彫り熊が最高賞。

<1936(昭和11)年>
・1月 鈴木政輝ら、旭川で北海道詩人協会の発足式開催。
・2月 二・二六事件。史の幼馴染の栗原安秀、坂井直ら決起するも反乱軍として拘束される。
・5月 齋藤史、長女を出産。瀏、青年将校を支援したとして召喚を受け出頭。衛戍刑務所に収監。
・5月 旧常盤橋付近の埋立地にロータリーできる。
・6月 詩人、百田宗治来旭。
・7月 栗原、坂井らに判決。銃殺刑執行。



齋藤史・瀏の運命も大きく変えた二・二六事件の勃発です。
二人と事件の関わりについては、このブログの他の記事で詳述していますので、そちらを見て下さい。


<1937(昭和12)年>
・1月 齋藤瀏に禁錮5年の判決。豊多摩刑務所に移送。
・7月 日中戦争始まる。
・この年 料亭第一楼が閉店。




画像13 第一樓


<1938(昭和13)年>
・1月 女優岡田嘉子、演出家の杉本良吉と樺太国境からソ連に亡命。
・2月 第七師団に満州派遣命令。
・4月 小熊が旭川に一時帰省。
・7月 東京五輪、札幌冬季五輪の中止決定。
・9月 齋藤瀏が仮出所。

<1939(昭和14)年>
・5月 ノモンハン事件発生。
・9月 第2次世界大戦始まる。

<1940(昭和15)年>
・8月 齋藤史、第一歌集「魚歌」刊行。新進歌人として注目を集める。
・10月 第5回国勢調査。旭川市の人口8万7514人。
・11月 北海道綴方教育連盟事件。
・11月 小熊、肺結核により死去。39歳。




画像14 小熊秀雄・齋藤史


年表の最終年。
小熊が39歳で亡くなる一方、齋藤史は二・二六事件についてもふれた第一歌集「魚歌」で注目を浴び、現代短歌の巨人としてのキャリアをスタートさせます。
2人について調べてきたワタクシには、なにか創作の魂がバトンタッチされたような印象を受けます。
そんな出来事のつながりを見て取ることが出来るのも、歴史年表の面白さと思います。