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写真とコメントで紹介する旭川の郷土史エピソード集

小説版「旭川青春グラフィティ ザ・ゴールデンエイジ」第四章・第五章

2022-08-30 11:30:00 | 郷土史エピソード
<はじめに>




先週から掲載を始めた「小説版 旭川青春グラフィティ ザ・ゴールデンエイジ」。 
今回は前半の終わり、第四章と第五章です。
第四章では、主人公の一人、義雄、そして彼が一目惚れした後の歌人、齋藤史が、それぞれ心を痛める「ダブル失恋」の場面が登場します。
手前味噌になりますが、小熊秀雄がからむこの場面は、この物語の中でワタクシが一番好きなシーンです。
そして第五章では、その史と父親の瀏が旭川を去ります。
四章と五章の間には、大正から昭和の改元があります。
天皇崩御の日の様子については、実在の史が書いた手記の一節を引用させていただいています。
散文でも才能を発揮した彼女の名文の一つです。
それでは今回も最後までお付き合いください。





                   **********




第四章 大正十五年十二月 上川神社頓宮



 霧華(きばな)とは、一般には霧氷又は樹氷などとかかれて居る「きばな」に私が宛てた文字である。霧氷、樹氷では硬すぎ、大きすぎて、ここのきばなを表現するには不適当だし、又「木花」では誤解を生じるから、この文字にしたのである。

                  (齋藤瀏「自然と短歌」)



 石狩川と牛朱別(うしゅべつ)川に挟まれた中島(なかじま)地区は、旭川の中心部と陸軍第七師団のある近文(ちかぶみ)地区の接点に当たる場所である。そこには石狩川に架かる旭橋、そして牛朱別川に架かる常盤橋(ときわばし)の二つの主要橋があり、交通の要にもなっている。

 その中島地区で旭川初の都市公園の造成が始まったのは、十五年前、大正元年のことである。五年後には堀池や築山が完成して開園した。公園には、その後、ボート乗り場や茶屋なども設けられ、今では市民の憩いの場として定着している。当初は中島公園と呼ばれたが、まもなく常磐公園と称されるようになった。「なかじま」、「ときわ」、ともにこの一帯を示す古い呼び名である

 この中島地区の一角は、川の中洲に当たることから、もともと中心部には近いが具体的な利用計画はなかった土地である。そこが公園となったのは、造成開始の二年余り前に表面化した当時の旭川町と七師団の確執があった。

 発端は、師団側が持ち出した衛戍地(えいじゅち)、つまり駐屯地の町からの分離独立案である。師団の中で、一般町民と同率の町税が軍関係者に課せられるのは不当であるとの意見が高まったのだ。
 衛戍地では、土木、衛生、教育などさまざまな公的事業をすべて自前で賄っている。施策の恩恵を受けていない町の税を、住民と同様に負担する必然性はないというのが理由である。是正されなければ、旭川町から離れ、別の一村を設立することも辞さない、それが師団の主張だった。

 これに対し町は、制度上、特例は認められないと拒否した。しかし師団を失っては、当時目論んでいた、町から、市に準じる区への昇格に影響が出るのは必死と思われた。このため紆余曲折はあったが、結局は町が折れざるを得なかった。そして明治四十三年、軍関係者に対する実質的な税の軽減に加え、近文地区の利便性の向上を図る各種の施策の実施など、師団側の要求を全面的に飲んだ八項目の協定書が交わされる。その八項目の一つが、近文地区に隣接する中島地区に公園を設けることだった。

 こうして誕生した常磐公園の堀池には、大小二つの島がある。そのうち大きい方の千鳥が島には小ぢんまりとした社が建っている。県社上川神社頓宮(とんぐう)である。
 
 上川神社は、上川地方開拓の守護、旭川鎮守の神社として、明治二十六年に創設された。長年、中心部にあって信仰を集めたが、二年前、市南部の高台である神楽岡(かぐらおか)に遷移した。
 これに合わせて造営された頓宮は、神輿渡御の際の御旅所(おたびしょ)としての役割を担っている。毎年七月の例大祭では、神楽岡を出発して市内を巡った神輿が頓宮で一夜を過ごし、翌日、また市内を巡って本社に帰る。

 その頓宮では、二時間前に始まった旭川歌話会の歌会が少し前に終了したところである。控室に、会の幹事である三人が戻ってきた。
 第七師団参謀長でもある齋藤瀏(りゅう)、地元信用組合の総代を務める酒井廣治(ひろじ)、そして小熊秀雄である。部屋には鋳物製の石炭ストーブがあって、薬缶から白い湯気が立っている。

「いや、いや、お疲れ様でした。おかげで、今回もいい会になりました」

 五歳ほど年長の瀏に椅子を勧めながらそう話しかけたのは、酒井である。まだ四十代そこそこだが、薄い茶色の絣の袷と羽織を着こんだ姿は、年よりも落ち着いて見える。

「これも名幹事のたまものだな。小熊君。本当にご苦労さま」

 休日とあって、瀏も軍服ではなく和装である。かっぷくの良い体躯を、焦げ茶の御召と黒の羽織で包んでいる。頭は丸刈りだが、目元がやさしいため、軍人特有の威圧感はない。

「いえいえ、皆さんに手伝ってもらってるんで、なんとか役目を果たせてるんですよ」

 書生姿の小熊は、そばに立ったままである。

「でも旭川歌話会、本当に結成して良かった。毎回、やるたびに作品の質が上がっている。君もそう思うだろう」

 そう瀏が向けると、小熊はうなずいた。

「やっぱり創作は、切磋琢磨が必要なんでしょうね。周りの刺激が、こんなにも大切なものかと僕も再認識しました」

 旭川歌話会は、この夏に酒井や瀏が呼びかけて結成された旭川初の本格的な短歌の勉強会である。市内や近郊の四十人余りが参加し、この日を含め、これまでに四回の歌会が開かれている。

「ま、そういう意味では、旭川の短歌界も大きな刺激を受けて飛躍したということでしょう。軍人歌人として知られる齋藤参謀長が旭川勤務になり、去年は白秋先生、今年は牧水先生が来てくれた。こうしたことがなかったら、歌話会結成の話など持ち上がりませんでした」
「白秋の弟子である酒井会長が旭川に戻っていたことも大きかったと思いますぞ。やはり地元で中心になる方がいないとね」
「いえいえ。それはそうと、きょうの歌話会で言うと、やはり史嬢ですな。前回は最高点だったが、きょうは別の意味で驚かされました」

 酒井は、そう言うと、会場から持ち帰った短冊を探り始めた。瀏は苦笑している。

 これこれ、と言って酒井が作品を取り出した。

「長髪の小熊秀雄が加わりて歌評はずみきストーブ燃えき。長髪の小熊秀雄が加わりて歌評はずみきストーブ燃えき。……うん、やはりこりゃ短歌を始めたばかりの人が作る歌ではありません」

 小熊は、困ったなという表情である。

「また当の本人を目の前にして、こうした歌を出すというのは……。や、父君を前にしてこれは失言でした」
「いやいや、わたしは一向に。ただなりは大きいが、まだ子供ですから。含みは、やはりないのでしょう」
「もちろんですよ。幹事の立場を忘れて、私があれこれ批評を言うので、印象に残ったのだと思います」
「まあ、ここはそういうことにしておきますか」

 酒井がこう言って破顔すると、師範学校の制服姿の義雄と武志が部屋に入ってきた。会の出席簿や筆、硯などが入った箱を抱えている。

「小熊さん。これはこっちでいいんですか?」
「ああ初参加の君に手伝わしてしまって悪いな。武志君も会員でもないのに使ってしまって」
「僕は一番下っ端なんですから当然です。こいつは、どうせ暇なんで」
「暇とはなにさ。お前が付いて来てくれって言ったんだろ」

 義雄と武志がいつものようにやりあっていると、遅れて史が部屋に入ってきた。黒白の千鳥格子の袷に、大柄の牡丹を配った紫の羽織。歌会という場所を意識したのか、洋服好きの史には珍しい装いである。

「親父様。迎えの車が着きました。酒井先生もごいっしょにどうぞ」
「うん、お送りしましょう。どうせ師団の差し向けの車なんだから、遠慮せずに」
「そうですか。それは助かりますが。でも史さんは?」
「わたくしはもう少しやることがありますから」
「申し訳ないねえ。本当はあなたにお手伝いしてもらうのは気が引けるんだ」
「いやいやそれは私が命じたんだ。もう女学校も出てしまったんだし、家でぶらぶらしているんだから」

 ちらりと娘を見やりながら瀏がそう言うと、史がわざと不満げに応える。

「あら、ぶらぶらとは失礼だわ。でも会のなかでは年少者ですから、当然のことです。親父様、あまりお待たせすると……」
「ああそうだな。さ、会長」

 瀏がそう言って立ち上がると、小熊も酒井を促した。

「あとは会場をもとに戻す程度ですから、気にせんでください」
「そうかい。それじゃ。お先させてもらいますか」

 瀏と酒井が皆にねぎらいの言葉をかけて出ていくと、部屋にはほっとしたような空気が流れた。師団の参謀長と信用組合の総代。その立場で出席しているのではないとしても、やはり同席する若者に緊張は隠せない。


「義雄さん」

 二人が片付けを始めようとしたときに史が声をかけた。

「あ、はい!」
「始まる前は、時間がなくて失礼しました。やっと来てくださったんですね。ありがとうございます」

 お辞儀をすると、義雄も慌てたように返す。

「あ、いえいえ、なんもです」
「なかなかお見えにならないので、やはり短歌には興味がないのかなって」
「いえ、そんなことはないんですが、その……」
「ああ、こいつ、行きたくてしょうがなかったんですけど、いい作品持ってかなきゃ史さんに恥ずかしいって」

 そう言う武志の腕を義雄が引っ張る。

「よけいなこと言わなくていいの。小熊さん、会場もとに戻すって言ってましたよね。僕らでやりますから。おい、行くぞ」
「あ、ざっとでいいからね。……ふっ、何あわててるんだ」

 二人が部屋を出て、歌会の会場となっていた拝殿に行くと、しばらく部屋は沈黙に包まれた。史が何か言いたそうなそぶりをしているのを察した小熊は、椅子を勧めた。

「史さんに会計をしてもらえると助かりますな。金の計算とか、全く苦手でね」

 そう言いながら、小熊も少し離れた椅子に座る。

「詩人さんで、お金の計算が得意な人って……。やっぱり似合いません」
「そりゃそうだ。史さんの言うとおり」
「……あの、迷惑でしたか?」

 居住まいを正した史がそう問うと、小熊は、えという顔をした。

「きょうのわたくしの歌」
「ああ。……突然自分の名前が出てきたんで、少し驚きました」
「それだけ?」
「うん。……斬新で、とても良かった」

 史は、ほっとしたように微笑むと、小熊の顔を覗き込むようにして聞いた。

「わたくしが最初に小熊さんとお会いした日のこと、覚えていらっしゃいます?」
「もちろん。旭川に来られてすぐ、父君に会いに官舎にお邪魔した。その時ですよね」
「親父様が新聞記者の方がいらっしゃると言うから、てっきり師団担当の方かと」
「父君は軍人でありながら、歌集も出して、絵も描かれると聞いたんで、どんな人か会ってみたくなったんですよ」
「でも親父様の前で、いきなり軍の悪口を言い出して。わたくし、なんて人なのと思いました」
「いやー、思ったことは口に出してしまうたちなんで。……でも、父君は度量が広い。だから歌話会の幹事も引き受けたんです。ただこれだけは、お嫌いのようですな。会うたびに、その黒珊瑚はどうにかならんかと言われる」

 小熊はトレードマークの長髪を自ら指した。

「わたくしは、新聞に『黒珊瑚』という署名記事を見つけて吹き出しました。すぐ貴方だとわかりましたから。それと、わたくし、小熊さんのこと、ずっと独身だと思ってたんですよ。最初に来られた時、男やもめなのでと、おっしゃってたから」
「ああ、でもその時は確かに」
「ええ、その後にご結婚されたんですよね。旭ビルディングの美術展に来られた小学校の先生が今の奥様」
「はい、その通りです。よくご存じで」

 小熊の意外そうな顔を見て、史はいたずらっぽい笑みを浮かべた。

「ええ、いろいろと探らせていただきましたから」
「……そうか、じゃ僕の素行の悪いところは、みんな知られているんだ」
「そうですわ。いろんな女性に声をかけている事とか、お腹の大きな奥さまを、樺太の実家に一人残して旭川に戻ってきた事とか。奥さま、なんてお気の毒」
「いやあれは……。話せば長くなるんだが、義母(はは)と僕の折り合いが悪いので、いないほうが良いと本人も言い出して……」
「勘弁してあげます」

 そう言うと、こらえ切れず吹き出した。

「そんなに言い訳なさらなくても」
「……いや。これは失敬」

 社(やしろ)の外はもうかなり暗くなってきている。冬の間も頓宮に参拝に訪れる人はいるが、夕方以降はまず人気はない。


「……わたくし、そろそろ旭川を去ることになりそうですの」

 しばらくの沈黙の後、史がそう切り出した。

「え? それはもしかして父君の異動で?」
「ごめんなさい。それ以上詳しくは……」
「なるほど、失礼しました」
「父もわたくしも旭川が好きなんです。だからとっても残念」
「うーん、それはびっくりですね」

 小熊が続く言葉を探しているのを、史は待っている。

「そうですか……。せっかく歌話会もできたばかりなのに、惜しいことです」

 ストーブの上の薬缶がシューシューとかすかに音を立てている。

「……でも史さんは歌を続けてください。僕は、短歌は古い芸術だと思っていたが、あなたの歌を見て思い直した。牧水が歌をやるべきだと言ったそうだが、史さんはぜひ歌を作り続けてください」

 史は小さく息を吐くと、伏せぎみにしていた顔を上げた。

「……ありがとうございます。小熊さん、ひとつお尋ねしていいですか?」
「……何でしょう?」
「小熊さんは、いずれまた東京に行かれるおつもりなんでしょう?」
「……うーん、ま、そうなるでしょうなあ」
「どうしてわざわざ東京に行かれるのですか? 旭川には、良いお仲間とお仕事があって、とてもいきいきしているように見えますのに」
「……確かにそうですね。いい仲間がいて、大好きな姉もいるし、なにより妻子を養うことのできる職場もある」
「なら」
「でも、心の奥のもう一人の自分がそれじゃいかんと言うんですよ。それじゃ本物の詩は書けないって。……僕はね、弱い人間です。だから温かい所にいると、ちゃんと自分と向き合えなくなる」
「創作って、そんなに不自由なものなのですの? だったら、わたくしはやりたくない」
「いやいや、それはね、自分がそうなんです。私という人間の業であり、それが使命なんですよ。あなたには、あなたの使命があるように」
「……使命って、変えることはできないんでしょうか?」

 史はそう言うと、立ち上がって窓に近づいた。いつの間にか、雪が降り始めている。気温の低い旭川ならではの乾いた粉雪である。


「……申し訳ありません。師団通まで送っていただけませんでしょうか」
「わかりました。お送りします。……ええと、義雄君たちはどこにいるのかな」

 と、小熊が立ち上がった時、入り口の扉の脇から若者二人が顔を出した。

「ああ、そこにいたのか。会場の片づけは?」
「はい。終わりました。……というか、とっくに終わってたんですけど」

 武志が頭をかきながらそう言うと、小熊はたちまち恐縮した。

「ああ、それは申し訳なかった。で、もう一つ悪いんだが、僕は史さんを送ってゆくので……」
「はい。社務所に声をかければいいんですよね。どうぞ、遅くなりますから」
「そう? 悪いね。じゃ史さん」

 史は窓から離れると、入口近くにいた義雄と武志に近づいた。

「義雄さん、きょうは来てくれて本当にありがとうございました。じゃ、武志さん、お言葉に甘えて、お先しますね。御機嫌よう」

 史は、お辞儀をすると、小熊の後について部屋を出た。ストーブの石炭が切れかかってきたのか、時折カン、カンという金属が収縮するときの音がしている。


「……いやいやいや、まいったんでないかい」

 押し黙ったままの義雄の様子を伺っていた武志が、おどけたように言った。

「……全くさ。部屋に入るったって、あの雰囲気じゃ入れないべさ」

 義雄の表情は変わらない。

「……あのさ。知ってる? ここの、常磐公園のボートってさ、アベックで乗ると、別れちゃうんだって。あ、いっけね……」
「……そう、気ぃつかわないでいいべさ」

 立ったままだった義雄が椅子にかけながら言った。

「何よ」
「いくら鈍感な俺だって分かるっしょ。あの会話聴いてりゃさ。……史さん、小熊さんのこと好きだったんだな。ものすごーく」
「……うん。まあな」

 武志も腰を掛けた。

「しかもかなり前からさ、ずっと好きだったんだわ」
「……そうかもね」
「で、せめて自分の気持ち、伝えておこうってさ」
「……そだねえ」
「もしかしたら、二人きりになることって、もうないかもしれないしさ」
「……うん、ま、そういうことなんだべな。……あれ、お前……」

 武志はうつむいている義雄の顔を下から覗き込んだ。

「泣いてるんかい?」

 目が赤くなっている。

「……したってさ。史さんの気持ち考えたらさ。可哀想だべさ」
「……うん。……ま、俺はお前の方が可哀想だけどね」
「……うん、俺も史さんと同じくらい悲しい」

 再び下を向いてしまった義雄の横で武志は思案顔である。すると、あのさと言って立ち上がった。

「俺、歌作ったんだけど、聞いてくれる?」
「え、なに、歌ってなにさ。短歌のこと? なんでお前が?」
「いいじゃん。浮かんだのよ。歌。武志作」

 いいかと言うと、武志は一言一言確かめるようにして自作の歌を披露し始めた。

「慰めの……言葉探すも見つからず……。ここまでいいか?」
「うん」
「……初恋やぶれし……友よ許せよ」
「え?」
「だから。慰めの 言葉探すも見つからず 初恋やぶれし 友よ許せよ」

 とたんに義雄が吹き出した。

「なんなのよそれ、全然歌じゃねーべ」
「え、歌じゃん」
「歌じゃねーって。普通の会話、五七五七七にしてるだけだべさ。ほんとお前って」
「何よ」
「初恋やぶれし友よ許せよ、って、なんだよそれ。ククク」

 義雄が笑い出したのを見て、武志は少し安心したようだ。

「……腹減ったな。どっか食いに行こうか」
「お、いいね。どこ行く? お前の好きなとこでいいよ」
「……ヤマニでライスカレーかな」
「おお、こないだ大将が始めた奴な。うん、じゃ行くべ」

 二人は、社務所に声をかけに行く途中もじゃれ合っている。

「ライスカレー、武志のおごりな」
「え、なんでよ」
「当然だろ。友よ許せよって謝ってんだから」
「なによそれ、意味わかんねーし」






第五章 


 十二月に入ると、いよいよ北海道らしい激しい吹雪がつづいた。
 土地に生れ育った人々が、落ち付きはらって冬に籠り、当り前の事として毎日の雪を眺め、平気に凌いで行くのが羨ましかった。
 折から、大正天皇御不例(ごふれい)の報が、しきりにきこえて、伝導の仕どころの無い毎日の屈(くぐ)んだ心の中に、かなしく積っていくのであった。
 神去りました知らせを受けた夜は、殊に寒く、絶えず父の勤めさきからかかる電話を待って、誰も寝るどころではなく、黙りあって座って居た。馬橇の鈴の音ひとつ聞えない、くらい夜であった。

              (齋藤史 散文集「春寒記」から「師走の思い出」)



 そしてわずか一週間の昭和元年が過ぎ、年が明け、昭和二年となった。




昭和二年三月 カフェー・ヤマニ


 
 カフェー・ヤマニのある師団道路は、旭川一の目抜き通りである。北北西の方向に伸びる通りは途中でさらに西方向に折れ、常盤橋と旭橋を経て第七師団のある近文地区に至る。
 
 旭川の街の始まりのころ、この道は村外れの田舎道の一つに過ぎなかった。それが賑わいを見せるようになったのは、明治三十一年、通りの起点の位置に道央と結ぶ鉄道の拠点、旭川停車場が設けられたためである。

 その後、稚内や網走、富良野方面にも鉄路が伸びると、旭川の商圏は一気に拡大する。札幌や小樽、さらには本州からも大勢の商人が流入し、通りにはさまざまな商店が軒を構えた。衣類から日用品、薬や食品、書籍、時計、眼鏡など、ここに来れば大概のものは手に入る。最近では、東京銀座の銀ブラに倣い、師団道路をブラブラ、団ブラという言葉も使われ出した。

 そうした人出の増加を見込み、中心部には各種の飲食店も急増した。ただこちらは二条から五条辺りの条通りやその仲通りに多く、師団道路にある店は意外に少ない。ヤマニは、先代の食堂時代から、この数少ない目抜き通りに面した飲食店の代表格である。

 そのヤマニ。今は、昼の喫茶営業の時間で、カウンターでは店主の速田が手持ちぶさたにしている。少し離れたテーブルには、制服姿の義雄が新聞を読んでいる。その義雄をせかすように声をかけたのはボーイ姿の武志である。

「あのさ、駅いかないの?」
「……うん」
「うんじゃねーよ。史さんの出発、そろそろだべさ?」
「……うん」
「あのさ!」

 武志がじれったそうに声を上げた時、義雄が新聞の記事を指差した。

「『熊本第六師団旅団長に栄転の齋藤参謀長御一家、きょう旭川を出発』。新聞にまで書いてあるんだもの。どうせ行ったって物凄い人なんだろ。おれなんか行ってもしょうがないべさ」
「でもさ。気持ち伝えておいた方がいいんじゃない? 後悔するよ」
「いいのよ。もう俺は踏ん切りがついたんだから」

 そう言いながらも浮かない顔の義雄の様子が武志には気に入らない。

「踏ん切りって何よ」
「踏ん切りは踏ん切りっしょ。だいたいさ、思うんだよね、どうかしてたんじゃないかって。よく考えたら、そんなすげえいい女かなーとか、思ってさ」
「お前だよ。ここで。天使が舞い降りた、とか言ってたやつ。まさに、この場所で」

 思わず身振り手振りが伴う。

「いやいや、天使って。ついそういう言葉が浮かんだだけなんだわ。俺、いちおう詩も書いてるしさ。まあ普通に考えたら、言い過ぎだよな。そうそう天使って言える人、いないしさ。ま、どうにかすることって、あるじゃない。誰でもさ。それによく考えたら、史さん、結構、気が強い感じだし……」

 義雄の話の途中で、速田と武志がクスクスと笑い出した。

「……え、何笑ってるの。なにさ大将まで」

 当惑している義雄に、後ろから声をかけたのは史である。

「気が強いって、どなたの事ですの?」

 細かな花模様の紺のワンピース。ボーカラーの長い襟をリボンのように胸の前で蝶結びしているのが、大柄な史によく似合っている。義雄がなにやら弁明をしている間に店に入ってきたらしい。

「いやいや気が強いっては、そういう意味ではなくて。あの、あれでして。……いや、そ、それより、どうしたんですか、だ、だ、だって、きょうは……」

 また北修のようになっている。

「ええ、でも最後にヤマニの美味しいコーヒーを飲んでおかなくちゃと思って。そしたら親父様まで」

 史が涼しい顔で答えると、遅れて瀏が店に入ってきた。軍服姿。外に車を待たせているらしい。

「……ああ、わかっとる。すぐに戻るから、少し待っていてくれ。……おお、義雄君。それに……」
「あ、武志です」
「ああ、そうだ武志君。君らにも世話になった。ここでは、酒はよく飲んだが、コーヒーは飲んだことがなくってね」
「大将、お願いできるかしら。わたくしと親父様と」

 史は速田に声をかけると、瀏とともにカウンター前のテーブルについた。

「よござんすよ。お二人に最後に飲んでいただけるなんて、光栄の限りです」

 武志が運んできた水を飲むと、父娘(ふたり)はそれぞれ名残惜しそうに店内を眺めた。史が店に入ってきた段階でもう察したのか、速田はいち早くコーヒーの準備を始めていたようだ。すぐにドリップされたコーヒーがほろ苦い香りを立て始めた。

「来ていただいたのはうれしいんですが、お時間は大丈夫なんですか? 駅で皆さん待っておられるのでは」

 淹れたてのコーヒーをカップに移しながら速田が尋ねた。

「いやいや、どうせ固い挨拶ばかりだから、あまり早くいきたくないというのが本音なんだ」
「歌話会の皆さんには、先日、送別の歌会を開いてもらったんです。その時に御挨拶させていただきました」

 ともに肩幅のあるがっしりとした体躯に丸顔。こうして並ぶと父娘(ふたり)はよく似ている。さっぱりとした性格も含め、史は父親から多くを受け継いでいる。

 速田はそういうことなんですねと返すと、近づいてきた武志に手で大丈夫と合図をし、自らコーヒーをテーブルに運んだ。

「大将に、自ら運んでいただくなんて」
「光栄だな。ではいただこう」

 瀏はカップを持ち上げて香りを確かめると、ゆっくりと口に近づけ、コーヒーを味わい始めた。時折うんうんと頷いている。
 史は、スプーンで一つ砂糖を入れてかき回した後、やはり一口一口確かめるようにしながら飲んでいる。


「……ああ、やっぱりおいしい。わたくし、ここのコーヒーの味は忘れません」
「うん。こんなうまいコーヒーがヤマニにあったとは。知らないでいて損をした気分だな。ますます旭川に思いが残る」

「熊本へは直接行かれるのですか?」

 テーブルから少し離れたところで二人を見守るようにしていた速田が尋ねた。

「はい。親父様は直接。わたくしと母は、東京の親戚のところに寄ってから向かうことにしています」
「向こうはもう暖かいんでしょうね」
「そうですね。もう桜が始まっているんじゃないかしら。着いたときは、もう見られないかも」
「そうか。九州はもう経験済なんですね」
「はい。ここと同じで二度目です」

 黙ってコーヒーを味わっていた瀏が、奥のテーブルにいる義雄に目を向けた。

「……そうだ、義雄君」

 義雄は、はいと言って居住まいを正す。

「小熊君といっしょで、君も専門は詩らしいが、ぜひ短歌も続けてほしい。特に歌話会に君のような若い人が加わっていることはよいことだ。期待しているよ」
「はい。ありがとうございます」
「それじゃ、あわただしいが、そろそろ行かねば」

 コーヒーを飲み終えた瀏が立ち上がった。釣りはいらないと言って速田に札を渡し、おいと史に声をかける。

「申し訳ありません。先に車に乗ってらしてください。すぐ行きますから」

 なにかやり残したことでもあるのだろう、そう察した瀏は軽くうなずくと、ゆっくりと外に向かった。

「では御一同、お世話になりました。お達者で」

 敬礼をした瀏は、義雄らが立ち上がって見送る中を去っていく。
 瀏が外に出ると、一緒に立ち上がっていた史が義雄の方を向いた。

「義雄さん。短い間でしたけど、本当にありがとうございました」
「いえ、とんでもないです」
「わたくし、この三か月、自分の使命って何なんだろうって考えていたんです」
「使命……ですか?」
「ええ。小熊さんに言われたんです。『あなたには、あなたの使命がある』って」

 史は少しうつむくと、言葉を選びながら続けた。

「そうしたら、わたくしにとって大切なのは、毎日のなにげない暮らしや周りの方々との関わりのように思えてきました。ですから、これからはそうした日常や周りの人たちとの関わりの中で生まれてくる言葉とともに生きていこうと思います」

 史はそう言うと、再び義雄に顔を向けた。

「生意気な言い方ですが、義雄さんは、人にはない感性をお持ちの方と思います。創作がそうなのかはわかりませんが、義雄さんもきっとご自分の使命を全うされていくんだろうなって思います」

 義雄は溢れそうになる思いを抑えながら応えた。

「……ありがとうございます。僕の方こそお世話になりました。史さんもお元気でいて下さい」

 義雄が頭を下げると、史もならった。

「……行かなくては」

 史はテーブルに置いてあった上着とハンドバッグを手に取ると、店にいる三人の方を向いた。

「それでは皆さま、御機嫌よう」

 史は少し早足で入口のドアに向かうと、レジの横で足を止めた。そして名残惜しそうに店内を見渡すと、外に出た。
 見上げると、いつの間にか、厚く黒い雲が空を覆っている。



                 ***



(夢の続き、あるいはその後の物語・実在の人物その一)


齋藤瀏… 

 昭和四年、第二歌集「霧華(きばな)」を出版。翌年、予備役となり、軍務から離れ東京に住む。昭和十一年、二・二六事件で決起した青年将校を支援したとして拘束され、禁固五年の判決を受けて下獄する。終戦間際に故郷である長野に疎開。戦後もそのまま居住した。昭和二十八年、七十四歳で死去。


齋藤史…

 二・二六事件では、旭川の北鎮小学校で幼なじみだった二人の青年将校が処刑され、父、瀏も禁固刑を受ける。以来、事件は、史の創作上の大きなテーマとなった。昭和十五年、第一歌集「魚歌(ぎょか)」を上梓。以来、歌壇の中心として活躍。現代短歌大賞など多くの文学賞を受賞した。平成十四年、九十三才で死去。



(後半に続く) 




<注釈・第四章>


* 常磐公園(ときわこうえん)
・ 1916(大正5)年に開園した旭川初の都市公園。今も市民の憩いの場として親しまれている。地域名は「盤」、公園名は「磐」の字を使う。

* 上川神社頓宮
・ 今のような手頃なイベントスペースが街中になかった時代には、この頓宮や寺院などがさまざまな団体の会合に使われた。旭川歌話会が頓宮で開催されたことはないが、そうした事実を伝えたく、あえて開催場所とした。



上川神社頓宮(昭和2年)

* 霧華(きばな)
・ 凍てついた朝、霧が草や木に付いて凍った姿を指す齋藤瀏による造語。旭川歌話会の合同歌集および瀏の第2歌集のタイトルでもある。旭川の銘菓「き花」のネーミングは、この言葉を元にしている。


旭川歌話会合同歌集「霧華」

* 牛朱別川(うしゅべつがわ)
・ 旭川と、北隣りの当麻町を流れる石狩川支流の一級河川。昭和初期、洪水対策として、旭川中心部で流路を変える大規模な切り替え工事が行われた。

* 旭橋

・ 川の街、旭川を象徴する橋。初代は1904(明治37)年、北海道で2つ目の鋼鉄橋として誕生。1932(昭和7)年架橋の2代目旭橋は、北海道3大名橋の一つで、美しいアーチで知られる。


初代旭橋

* 常盤橋(ときわばし)
・ 昭和初期に行われた牛朱別川(うしゅべつがわ)の流れを変える切替工事の前、今の常盤ロータリーの場所にあった橋。旭橋と並び、中心部と師団のある近文地区を結ぶ重要な橋だった。


常盤橋(昭和5年頃)

* 衛戍地(えいじゅち)分離独立案
・ 旭川町からの分離独立も辞さないという陸軍第七師団の強硬姿勢を示したプラン。新しい遊郭の設置計画に対する強硬な反対姿勢など、当時の旭川町の町政運営に対し、不満を募らせていた師団が嫌がらせ的に無理難題を持ちかけたという側面もある。

* 区
・ 本州の市に準じる当時の北海道独自の行政単位。北海道で市が誕生するのは1922年(大正11)年まで待たねばならなかった。

* 上川神社
・ 上川地方および旭川の鎮守として、1893(明治26)年に創設された。

* 軍人歌人
・ 陸軍将校であり、歌人でもあった齋藤瀏を指して言った言葉。

* 酒井会長
・ 実際の旭川歌話会は、発足時、会長は置かなかった。酒井廣治(さかいひろじ)は齋藤瀏らとともに顧問を務めた。

* 長髪の小熊秀雄が加わりて・・・
・ 齋藤史の作品だが、作ったのはゴールデンエイジ期ではなく晩年。旭川時代を振り返っての歌。

* 美術展に来られた小学校の先生
・ 当時、神居小学校の音楽教師だった崎本(さきもと)つね子のこと。会場で知り合った小熊とつね子は、翌1925(大正14)年2月に結婚する。



独身時代のつね子

* わたくし、そろそろ旭川を
・ 実際には軍人である父の異動を匂わすことはないと思われるが、あえてこうしたやり取りとした。ただし瀏の異動については、この場面の前年である1925(大正14)年11月、小樽新聞に少将への昇進が内定したという記事が掲載されている。このため、異動先は不明なものの、周囲には翌春には旭川から去ると受け止められたはずである。

* 常磐公園のボート
・ いつの頃から言われたかは定かではないが、筆者が小学生〜高校生の頃、常磐公園でボート乗りを楽しんだアベックはその後別れる、といった趣旨の話をよく耳にした。



常磐公園のボート遊び(大正末か)



<注釈・第五章>


* 旭川停車場
・1898(明治31)年、北海道官設鉄道上川線の駅として開業した旭川の玄関口。現在の駅舎は4代目。

* 熊本第六師団

・ 旧陸軍の師団の一つ。熊本、大分、宮崎、鹿児島の南九州の出身兵士で編成された。司令部は熊本市に置かれた。

* 旅団長
・ 旅団は日本陸軍の編成の一つで、師団より小さく、連隊より大きい(旅団には2つの歩兵連隊が属し、師団には2つの旅団が属した)。旅団長はその指揮官。

* 送別の歌会
・ 1927(昭和2)年3月に開催された旭川歌話会の歌会のこと。会の立ち上げに参加した齋藤瀏の熊本への異動が決まったため開かれた。



送別歌会の出席者(最前列に齋藤父娘。最後列に小熊がいる)

* 予備役
・軍隊の構成員のうち、現役を終えたり、退いたりした要員。一定期間、有事には現役招集される。

* 二・二六事件
・ 1936(昭和11)年に起きた陸軍青年将校によるクーデター未遂事件。旭川は、陸軍第七師団の本拠地であったことから襲撃した側、された側ともに多くの関係者がいる。

* 栗原安秀・坂井直 くりはらやすひで・さかいなおし
・ 旭川の北鎮小学校で史の幼馴染みだった陸軍将校。二・二六事件で決起し、ともに事件後、銃殺刑に処された。

* 「魚歌(ぎょか)」
・ 1940(昭和15)年8月に刊行された齋藤史の第1歌集。装丁は版画家の棟方志功(むなかたしこう)。新進歌人としての史の評価を定めた。「魚歌」とはつたない歌という意味。

* 現代短歌大賞
・ 現代歌人協会が主催する短歌賞。1年間に刊行された歌集や短歌に関する著作のなかからもっとも優れたものを選ぶ。







小説版「旭川青春グラフィティ ザ・ゴールデンエイジ」第二章・第三章

2022-08-28 11:30:00 | 郷土史エピソード
<はじめに>




前回から掲載を始めた「小説版 旭川青春グラフィティ ザ・ゴールデンエイジ」。
今回は第二章と第三章。
いよいよ物語の主要舞台になるカフェー・ヤマニの登場です。
ヤマニは大正末〜昭和初期の旭川に実際にあったお店です。
この物語の頃のヤマニはまだ食堂時代から続く和風建築のままですが、昭和5年には第二章にも登場する名建築家、田上義也の手によって、斬新なデザインのファサード(外壁)が取り付けられ、魔法のようにモダンな姿に変身します。
また店長の速田も登場する時代が早すぎたと思えるくらい鋭い経営感覚を持った魅力的な人物です。
物語では、そんなヤマニに右翼とアナキストの2つの団体の人物が現れ、なにやら剣呑な雰囲気が漂います。
そして第三章では、この物語の前半のヒロインであるのちの歌人、齋藤史が登場します。

それでは今回も最後までお付き合いください。





                   **********




第二章 大正十四年八月 カフェー・ヤマニ



こゝに理想の煉瓦を積み
こゝに自由のせきを切り 
こゝに生命(いのち)の畦(あぜ)をつくる
つかれて寝汗掻くまでに
夢の中でも耕やさん

              (小熊秀雄 「無題(遺稿)」




 北海道の中央部に広がる上川盆地は、大雪山系(たいせつさんけい)の山々を源とする大小の河川が作る沖積平野である。
 上川とは、文字通り川の上流を意味する。その川とは北海道を代表する大河、石狩川である。山々から流れ込む大小の河川は、盆地を進む中で合流して一つにまとまり、盆地南西部から硬い岩盤の山地を貫ぬく渓谷、神居古潭(かむいこたん)を経て空知(そらち)平野に至り、さらに遠く石狩河口へと向かう。

 その上川盆地の最大の特徴は、調和の取れた美しい景観にある。概して盆地地形は、山に囲まれた安定感の反面、ある種の息苦しさを生む。ところが上川盆地の東にそびえる大雪(たいせつ)の山々は、二千メートル級の高山であるにも関わらず威圧感はない。中心市街地から四・五十キロ離れているためである。一方、他の方角の山々は街のすぐ脇にあるが、標高は低く姿もやさしい。
 東の雄大かつ荘厳な山塊に、他の方角の親しみのある山地。この独特の景観を持つ上川盆地に、北海道内陸部の開発拠点を設けようという構想が持ち上がったのが、明治十年代である。

 二十年代に入ると、道央から上川に向かう道路が建設されるなど、計画は具体化が進む。明治二十三年には、アメリカ、ミシガン大学で学んだ北海道庁技師、時任静一(ときとうせいいち)が市街地候補の三か所の測量を命じられ、街づくりの基礎となる区画割を作成した。現在、旭川の中心部となっているのは、石狩川と忠別川(ちゅうべつがわ)に挟まれた当初第三市街地とされた場所で、碁盤の目状の整然とした町並みが広がっている。

 その碁盤の目の中で、ほぼ東西に設けられた条通のうち、一、四、七の各条通は、他の通の幅が十一間(約二十メートル)なのに対し、十五間(約二十七・三メートル)と広い。その主要道路の一つ、四条通と、駅前から北に伸びるメインストリート、師団道路の交点に当たる四条通八丁目角にあるのがカフェー・ヤマニである。

 旭川一のカフェーの名店とされるこの店は、明治四十四年、同地で開業したヤマニ旭館(あさひかん)食堂が前身である。店主は、先月、二十三歳になったばかりの速田弘(はやたひろし)。屋号のもととなった父親の仁市郎(にいちろう)から店を受け継いだのは三年前のこと。時流を見てビヤホールに改装すると、二年前にはカフェーへと転身させた。

 その速田は、地元では「旭川一のモボ」、「ヤマニの大将」、「ヤマニの兄貴」などと称されている。中肉中背、細面で、頭はオールバックに固めてある。舶来の赤いベストに黒の蝶ネクタイ、吊りズボンがいつものスタイルだ。


 四十席余りの広い店内では、半年ほど前から始めた女給連によるミニショーが終わったばかり。ショーの監督でもある速田が戻ってくるのをカウンター脇で迎えたのは、師範学校生の塚本武志である。白シャツに蝶ネクタイ、前掛けをしている。

「大将、お疲れ様でした」
「おお、ありがとう。武志君、君もボーイ姿が様になってきたね」
「ここでお手伝いを始めてもう一か月ですから」
「でもいいのかい? 学校のほうは」
「大丈夫ですよ。大将の弟子してるだけで社会勉強になりますから」
「ま、うちは人手が足りないで助かるんだけどさ」

 そう言って速田が武志の肩をポンと叩いた時、ガランガランと入り口の鐘が鳴って三人連れが入ってきた。画家の高橋北修、詩人で新聞記者の小熊秀雄、そして武志の親友、渡部義雄。

「これは、これは、北修さん。あれ、小熊さんは上京したと聞いていましたが?」

 目ざとく寄っていった速田がそう声をかけると、いつもの背広姿の北修がおどけたように言った。

「それが、また戻ってきちまったのよ。今度は……んー、三か月か」

 小熊が二度目の上京を企てたのはこの年の春のことである。前年に開かれた旭ビルディングの美術展会場で知り合った二歳年下の小学校教師と結婚したのが二月。そして二人連れ立って東京で新生活を始めたが、やはり詩や小説などの作品は売れず、新妻のなけなしの蓄えもほどなく尽きて旭川に戻った。

「まあヤマニが恋しくて帰ってきたってとこさ。それより紹介するよ。渡部義雄君。我が詩人の集いに参加したての有望株さ。こっちは旭川カフェー界の風雲児、ヤマニの大将こと速田弘御大だ」

 この日は背広姿の小熊に紹介されると、ぺこりと義雄が頭を下げる。

「渡部です。はじめまして」
「速田です。あなたのことは武志君から聞いてましたよ。ま、ここはお酒を飲まない人も来るところだから、たまに顔みせて下さい」
「きょうは我が愛する旭川の精鋭たちに、義雄君を引き合わせようと思ってね。ああ喜伝司とはたまたまそこで会っただけさ。じゃ俺は先に」

 そう言って小熊が奥のテーブルに向かうと、北修が口をとがらせた。

「どうせ俺は部外者よ」
「そうだ、北修さん。時間あります? 今度やるショーで手伝ってもらいたいことがありまして。良かったら奥に」

 北修は、東京で絵の修業をしていた時、大きな看板屋に勤めていて、たまに舞台装置の制作にも関わっていた。なので、ヤマニのショーで書き割りなどを使う際、制作を依頼されていた。

「おお、いいよ。大将の頼みとあらば、なんなりと」

 二人がカウンター裏の事務室に消えると、いつの間に寄って来たのか、武志が義雄の上着の裾を引っ張った。

「なしたのさ、お前。こんなところに来て」
「詩の集まりがあるからって小熊さんに呼ばれたのさ。それにお前のことも気になってたし。……それにしてもここ、さすが旭川一のカフェーだな」
 
 義雄は趣味の良い椅子やテーブルが並んだ店内を見渡した。

「そりゃそうよ。ここの大将は何をやってもセンスがいいのさ」
「お前はさ、なんでも影響されやすいんだから。……まあいいや。ここって旭川の文化人のたまり場なんだろ? どういう人が来んの?」
「教えてやるかい」
「え、お前。そういう人たちのこと、知ってんの?」
「当たり前っしょ」

 そう言うと、武志は一段高くなっているカウンター脇に義雄を連れていき、説明を始めた。

「まずあのテーブル席の三人。一番右は町井八郎さん。東京音楽学校を出た音楽の先生で、近くで楽器店もやってる。真ん中は札幌の人で田上義也(たのうえよしや)さん。有名な建築家だけど、バイオリンの名手で、旭川でも何度か演奏会を開いてるんだわ。で、この二人を結びつけたのが、左にいる竹内武夫さん。北海タイムズの支局長さん。実はうちの大将もチェロを弾くんで、この三人とは仲良しなのさ」

 まるで我が事のように誇らしげに言うと、武志は続けた。

「で、あそこの席なんだけど、いまタバコを吸ってるのが加藤顕清(けんせい)さん。東京美術学校を出た彫刻家さん。住んでいるのは東京だけど、ときどき旭川に戻ってきてる。眼鏡をかけているのは、歌人の酒井廣治(ひろじ)さん。東京時代は北原白秋の一番弟子と呼ばれた人で、旭川を代表する実業家でもある。そしてその隣でニコニコしている着物の人は佐藤市太郎さん。速田さんはヤマニの大将だけど、佐藤さんは活動写真館、神田館の大将。旭川以外にもいろんなところで活動写真館を経営してるのよ」
「そうなんだ。すげーな」

 義雄の声が高くなる。

 武志が解説した通り、旭川一の目抜き通りにあるヤマニには、連日のように多彩な顔ぶれの文化人、経済人が詰めかけている。その中心は、今や街づくりの主役となった開拓二世である。多くは北海道生まれで、文芸や音楽、美術といった文化活動に熱心な人物も少なくなかった。

 そんな地元の文化人のリーダー格として活躍していたのが、自らも小樽生まれの開拓二世の小熊である。その小熊の甲高い声が奥のボックス席から響いた。

「おーい、義雄くん。そろそろ来いよ」
「あ、すぐ行きます。武志、したっけな」

 そう言い残して義雄が向かった席には、小熊のほかに同年輩の三人の若者がいた。

「彼が話をしていた渡部君だ。こっちが鈴木政輝(まさてる)くん。東京の日大に進学して、今帰省中。こっちは今野大力(だいりき)くん。郵便局で働いてる。栄寿は……あ、美術展の時に会ってるか」

 先に紹介された二人は、軽く義雄に会釈をした。久しぶりといったように手を上げたのは小池栄寿である。政輝と栄寿は二十歳。大力は二十一歳。いずれも小熊と政輝が中心となって始めた詩誌「円筒帽(えんとうぼう)」の同人である。

「渡部君、詩はいつごろから?」

 書生姿で、浅黒い精悍な顔付きの政輝が義雄に聞いた。

「半年ほど前からです。でもまだ自分の思いをどう表現していいか、わかんなくて……」
「まあ、そういう時期は悩まずどんどん書くべきだと思うな。そうすれば自然と形ができてくる。なあ?」

 政輝が振った大力は、詰め襟の制服を着ている。

「いや、僕もまだ自分の気持ちにふさわしい言葉が何日も出てこないことがあります」

 それを聞いて、小熊が大げさにうなずいた。

「なるほどねえ。でも珍しいな。大力がこういう席に出てくるのは」
「いえ、鈴木君が帰ってきていると聞いたもんで……」
「そうかそうか。諸君、これが今野大力だよ。友のためにあえて苦手な場にも出てくる。人間性だね」
「そんなことないですから……」

 と、大力が坊主頭を掻いた時、入り口の鐘の音とともに大きな声が響いた。

「あの、すみません。困ります」
「いーから、ここに入っていくのを見た奴がいるんだよ」

 そう言って武志を押しのけるようにして入ってきたのは三人の男である。いずれも襟に旭川極粋会(きょくすいかい)の文字が入った揃いの法被を着ている。そして、少し遅れて白の麻の上下を着た大柄な男が現れた。

 旭川極粋会は、一年前に市内の有力者が中心となって結成した国粋主義の団体である。
 明治三十年代、都市機能の整備を待ち、陸軍第七師団は、一時的に置かれていた札幌から旭川に移駐した。三十三年からほぼ丸二年かけて行われた移駐では、司令部を始め、札幌に留め置かれた一つの歩兵連隊を除くほぼすべての部隊、病院や刑務所などの組織が旭川に移された。
 ちなみに第七師団の「七」は「なな」ではなく「しち」と呼ぶ。明治二十九年、宮中で行われた初代師団長、永山武四郎(ながやまたけしろう)の任命式が行われた際、明治天皇が「だいしちしだん」と呼んだためで、以来、この呼称が使われている。
 こうして七師団(しちしだん)の本拠地となった旭川には、その後、少なくない数の右翼団体ができた。極粋会はそれらをまとめる上部組織として位置付けられている。

「営業中なんですよ。困ります」

 法被姿の三人は、止めようとする武志に罵声を浴びせ、店の中央まで進んできた。

「うるっせーんだよ」

 それぞれの席で客を接待していた女給のなかには、驚いて声を上げるものもいる。
 その時、カウンター脇の事務所のドアが開き、速田と北修が現れた。

「武志君、どうしたの? その方たちは?」
「すみません、大将。なんか探してる人がいるって……」

 武志の言葉にかぶせるように、法被姿の三人のうちスキンヘッドの男が速田に近づいた。

「おう、黒色(こくしょく)青年同盟の梅原って奴な。ここにいるはずなんだわ。出してもらおうか」
「梅原さん? 何かの間違いじゃないですか。ここにはそんな人いませんよ」

 速田が怪訝そうな顔をすると、吊り目が特徴の小柄な男が吠えた。

「このたくらんけがあ。ここに入るのを見た奴がいんだよ」

 客の一部は、あわてて帰り支度を始め出した。その時、麻の上下が三人を制して前に出た。旭川極粋会の現場責任者を務める片岡愛次郎である。

「まあ、ちょっと待て。……速田さんですよね。極粋会行動部長の片岡です。実は、無政府主義者の一味がいましてね。そこの梅原って男が、ある町工場(まちこうば)で悪さしたんですよ」
「そうなんですか。で?」
「うちの若い者が話をしようとしたら逃げましてね。で、探していたら、この店に、というわけなんです。お引渡し願えないですかね」
「でも、そういう方はいませんのでねえ」
 
 速田の表情は変わらない。

「速田さん。ご存じだと思うが、うちは純粋な愛国者の善意で支えられている団体だ。一方、黒色青年同盟っていうのは、アナキスト。危険な連中です。ご理解いただけませんか」

 片岡の言うように、黒色青年同盟は、二年前に東京で結成された無政府主義者の全国組織である。一年前には、北海道でも旭川や小樽に地方組織ができた。

「おう、行動部長がこうやって言ってんだ。さっさと出せよ」

 吊り目が突っかかったとき、奥の席にいた小熊が、ひとつ首をぐるんと回すと声を上げた。

「あーあ、今日日(きょうび)の蠅は、飛び回るだけじゃなく、ギャーギャー喚くようになったんかね。うるさくってしょーがねえな」

 それに呼応したのは、カウンターの脇にいた北修である。

「あのよ、お前ら極粋会ってのはあれだろ、辻川のとっつぁんが会長なんだよな」
 
 そうですがと片岡が答える。

「辻川泰吉(やすきち)といやあ、元は博徒の顔役。今は足を洗って旭川有数の実業家よ。そうだよな」
「おっしゃる通り」
「ただな。俺の知っているとっつぁんは、昔から堅気の衆を困らせるようなやり方は嫌いだったはずだ。だからよ」

 そう言って、北修が小熊を見る。喧嘩もするが、こうした時の二人の呼吸は絶妙である。

「おー分かった。なんなら俺が使いになろうか。そのとっつぁんとやらに来てもらうんだろ」

 席を離れて寄ってきた小熊を見ながら北修が言った。

「ま、こいつらの出方次第だけどな」

 二人の参入に意表を突かれたのか、法被姿の三人はどうしたものかと顔を見合わせている。

「……画家の高橋北修先生ですよね。会長の名前を出されちゃ、ことを荒立てるわけにはいきませんわな」

 ポケットに両手を入れたままの片岡は、苦笑しながらそう言うと、速田に顔を向けた。

「……まあ、今日のところは引き上げることにしましょう。ただね速田さん。梅原ってのは、東京から流れてきた男だが、すこぶる問題のある奴なんだ。見かけた時は、ぜひ知らせてほしい」

 片岡は部下の三人に行くぞと声をかけ、歩き始めた。三人は会計のところにいるボーイを威嚇しながら片岡を追ってゆく。


「すみません、なんか関わらせてしまって」

 極粋会の四人が店の外に出たことを確認した速田が、小熊と北修に頭を下げた。

「いーってことよ。それより武志も頑張ってたんじゃないか。やめてください、営業中でーす、なんてさ」

 北修がカウンターにいる武志をからかうと、小熊とともに奥の席から出てきていた栄寿と政輝が言った。

「……あれ、武志君、なんか服変わってない?」
「あと、いつの間に義雄君、そっちに行ったの?」
「えーと、それは、訳があって……」
「あ、ぼくも、武志に言われて……」

カウンターには義雄もいて、何故かともにもじもじしている。その時、小熊が声を上げた。

「二人とも、もういいんじゃないか。そこで金庫番みたいに頑張っていたらばればれだよ。梅原さんとやら、出ておいでよ」

 カウンターの後ろの棚には、品揃えでは北海道でも負ける店はないと速田が自慢する各種の酒が並んでいる。その棚を背にした武志と義雄の間から、長髪の若い男が立ち上がった。黒ズボンに白シャツのボーイの格好をしている。黒色青年同盟旭川支部長の梅原竜也(たつや)である。

「黒色青年同盟の梅原と申します」

 武志があわてて説明を始める。

「あの、さっき大将にカウンターの下にこの人がいるから、そばに立ってれって。で、もし見つかった時、ごまかせるかもしれないんで、服も交換して……。あと一人で不安だったんで、義雄にも来てもらいました」
「店の裏にこの人がいましてね。何か訳ありだったんで、入ってもらったんです。さ、こっちにおいでなさい」

 速田にうながされてカウンターを出た梅原は、店の中央まで進み、深々と頭を下げた。

「皆さん、ご迷惑をおかけしました。普段は、できるだけ仲間と一緒にいるようにしているんですが……」

 と、栄寿の隣にいた大力が声を上げた。

「……あの、すみません。ひとつ聞いていいですか?」
「ああ、はい」
「東京からきたと聞きましたが?」
「はい。その通りで」
「では、震災の時に殺された大杉栄や伊藤野枝(のえ)と関係があったのではないですか?」

 梅原は少し考えると、うなずいた。

「……そうですね。彼等ととても近い所にいたのは確かです」
「じゃ旭川には?」
「……向こうでは日々監視の目がきつくなっていましてね……」

 そうですか、ありがとうございましたと頭を下げた大力が席に戻ると、梅原が速田を見た。

「……では私はそろそろ」
「お仲間を呼んだ方がいいんじゃないですか。連中、まだうろうろしてるかも」
「いえ、大丈夫です。それに、これ以上迷惑は……」

 速田がでもと言いかけた時、カウンター脇の椅子に座って話を聞いていた小熊が声を上げた。

「大将、本人が言ってんだから、無理に引き止めなくてもいいじゃない」

 立ち上がって梅原の前に出る。

「それより梅原さん。さっき片岡なにがしが言ってた話だけど、俺の耳にも入ってるよ。労働争議に割り込んで、あんた町工場の社長を何日も大勢で囲んて吊し上げたそうじゃない。俺は、労働運動の意義は認めるが、それじゃ暴力だ」

 問われた梅原はふっとひとつ息を吐くと、小熊の目を見た。

「小熊さんでしたよね。失礼ですが、社会改革ってのは、情が入っちゃ駄目なんですよ。特にこの旭川は、陸軍師団の城下町だ。軍関係者や右翼団体が街を闊歩してる。我々も時には非情にならなければならないんです」
「だとしても……」

 梅原の言葉に次第に熱がこもっていく。

「私はね、理念は語ったものの何も反撃しないで嬲り殺された大杉や伊藤とは違う道を行こうと旭川にやってきたんです。ここで私は逆襲の足がかりを作るつもりなんだ。だからこそ私は……」

 そこまで言うと、梅原は店内中の人の目が自分に注がれているのに気づいた。

「……失礼。仲間が待ってますので」

 再び深く頭を下げると、梅原は急ぎ足で店を出ていく。


 ガランガランと鐘の音がしたあと、北修がおどけたように言った。

「……右翼にアナキスト、師団通はにぎやかだねえ」
「詩人に絵描き、女給に社長。まだまだいるよ。だから世の中は面白い。なあ君たち」

 小熊がカウンターの二人にそう振ると、義雄がとまどいながら答えた。

「え? あ。そうかもしれません。なあ」

 と同意を求めた時、武志が素っ頓狂な声を上げた。

「あ!」
「何? どうした?」
「……あの人、俺の服着たまま行っちゃった!」





第三章 大正十五年七月 カフェー・ヤマニ


あかしやの金(きん)と赤とがちるぞえな。
かはたれの秋の光にちるぞえな。
片恋(かたこひ)の薄着のねるのわがうれひ
「曳舟(ひきふね)」の水のほとりをゆくころを。
やはらかな君が吐息のちるぞえな。
あかしやの金と赤とがちるぞえな。
                (北原白秋「片恋」)




 ヤマニの大将こと、カフェー・ヤマニの二代目店主、速田弘は、若年ながら旭川の実業界きっての才人として知られている。
 体調を崩していた父親から店の経営を受け継いだのが、二十歳になったばかりの頃。それまで、弘はほとんど店の切り盛りには関わっていなかった。それだけに周囲にはヤマニの将来を危ぶむ声が少なくなかった。

 ところが若き二代目は、それまでの食堂から、まずビヤホール、さらにはカフェーへと大胆に転身を図る。その裏には、まず「食う」ことが優先された父親の時代に比べ、自分たち開拓二世の時代には、飲食業にもより高い付加価値が求められるという読みがあった。
 事実、生ビールを始め、各種の洋酒、ソーダ水やホットオレンジ、ホットレモンなど新たな嗜好品が旭川にも流入してきていた。さらにカフェーは、より身近で素人っぽい女性である女給との疑似恋愛的なやりとりが男たちの心をつかみ、全国的に急増していた。

 そうした時流に乗ったことに加え、速田は当時の一番のメディアであった新聞を使った宣伝を武器にした。

「カフェー劇場 ヤマニ座」
「街の波止場 女セーラー入港中」

 子供の頃から、作文が得意で、絵も達者だった速田は、自作のキャッチフレーズに、やはり自作のカットを添えた営業広告を連日のように地元新聞に掲載した。

「ヤマニの女は人殺し女子(おなご) 胸を突かうか首切りましょか イッソ!とどめを えェ刺しましょか」

 中にはこんな芝居調の広告文句もあった。その斬新さは、「次はどんな広告が出るのか」と、地元っ子の間で話題になるほどだった。

 さらに店の一角で行われるミニショーも、多才な速田ならではの趣向だった。速田は十代の頃からチェロを弾き、旭川で初めて結成された弦楽アンサンブル、旭川共鳴(きょうめい)音楽会で活動した。さらに自身が指導するチャールストン・ジャズバンドなるグループも結成していた。
 ミニショーは、このバンドによる演奏のほか、女給たちの歌や踊りが中心で、寸劇や福引などを行うこともあった。そのすべては、速田自身の監督のもとで披露された。


 そのヤマニでは、速田と女給たちがショーの出し物の稽古をしている。

「立ち位置、もう少し広がった方がいいかな。……そう、で、もう少し全体に右」

 普段は鷹揚な態度で女給たちの評判も上々な速田だが、こうした場面では細かなところまでダメを出す。ただこだわる一方で、ユーモアも忘れない。

「あと、みんな、もっと笑顔ね。せっかくべっぴん揃いなんだから、もったいないっしょ」

 表情を崩した女たちが取り組んでいるのは「ヤマニのテーマ」。浅草オペラの大ヒット曲「ベアトリ姉ちゃん」をもとに速田が作った替え歌である。
 カウンターの前では、その様子を北修と義雄が見ている。義雄は武志に用事があって少し前に店に着いたばかり。だが、何故か武志の姿はない。

「さあ、もう一回、頭からやろう」

 速田はそう声をかけると蓄音機に用意したレコードに針を落とす。流れ出したワルツの調べに乗って、女給たちが歌い始めた。


ヤマニの姉ちゃんまだねんねかい
鼻からちょうちんを出して
ヤマニの姉ちゃんなに言ってんだ
むにゃむにゃ寝言なんか言って
歌はトチチリチン トチチリチン ツン
歌はトチチリチン トチチリチン ツン
歌はペロペロペン 歌はペロペロペン 
さア早く起きろよ

 「ベアトリ姉ちゃん」は、東京の浅草オペラで人気を集めた舞台「ボッカチオ」に登場する歌曲である。元歌では「ベアトリ姉ちゃんまだねんねかい」と、登場人物の若い娘、ベアトリーチェに呼びかけるが、速田はこれを「ヤマニの姉ちゃん」と替えた。

ヤマニの姉ちゃん 新米女給さん
なぜそんなにねぼうなんだ
さあ早く起きないか
もう店が開く時間だ

 笑顔で歌う女給たちの後ろには、小さなベッドがあって、そこに誰かが寝ている。歌に登場する新米女給のようだ。

歌はトチチリチン トチチリチン ツン
歌はトチチリチン トチチリチン ツン
歌はペロペロペン 歌はペロペロペン 
さア早く起きろよ

(原曲 「ベアトリ姉ちゃん」小林愛雄・清水金太郎訳・補作詞 スッペ作曲)


 二番に入ると、そのベッドが前方に向かって次第に傾き、歌が終わると同時に寝ていた女給が転げ落ちた。持っていた目覚まし時計を見た彼女は、客席奥に向かって駆け出してゆく。

「たいへん。遅刻しちゃうー!」

 カウンター脇の通用口から新米女給の姿が消えると、速田が手を叩いて女たちに告げた。

「オーケー、上出来、上出来。きょうはこのあたりにしておこう。あとはみんな休んでて」

 監督の指示に二階の控え室に移動を始めた女たちと入れ替わるように北修が前に出てきた。

「大将、なんまらいいわ。これ見たらヤマニのファンがまた増えるわ」

 後に従う義雄も目を輝かせている。

「ほんとです。芝居仕立てになってるんですね」
「ああ、たまにマイムを入れてもいいんじゃないかなと思ってね。ベッドが傾く仕掛けは北修さんのアイデアさ」
「はい。よくできてました。どうやって動かしてるんですか?」

 ああ、それはと速田が言いかけた時、傾いたベッドの陰から武志が顔を出した。

「……俺だよ。北修さん、勘弁してくださいよ。中は狭いし、女は重いし」

 仏頂面で外に出てきた武志は、モスグリーンのルバシカを着ている。もとはロシアの男性用の上着だが、明治の終わり頃から、ロシア芸術に憧れる演劇人や絵描きらに愛用された。腰の辺りを赤い紐でくくっている。

「だいたいこのベッドだってほとんど俺が作らされたじゃないすか。絵の修業をさせてくれるっていうから、弟子になったのに……」
「え、なに? お前、大将の弟子だったじゃん?」

 義雄が驚くと、武志は目線をそらした。

「いや店の手伝いはさせてもらってるよ。でも絵描きもかっこいいかなって」
「相変わらず、腰が据わんない奴だな」

 そして、ツンツンと武志の上着を引っ張る。

「それにこの恰好、いつも形から入るんだから。北修さん。いいんですか、こんなの弟子にして」
「装置作りはよ、手間がかかるからな。手伝いがいると重宝なんだよ」

 涼しい顔である。

「あーあ、俺もう北修さんの弟子やめよっかな。きついし、きったなくなるし」
「まあ、そう言うなって。俺に付いてるといいぞ。看板描きも覚えられるし、小唄だって、都都逸だって教えちゃうぜ」
「そんなの絵に関係ないじゃないですか」

 武志はそう言うと、置かれたままのベッドを指差した。

「ちょっと直したいところがあるんですけど。手伝ってくれます?」
「おう、いいよ。武志先生のご指示とあらば」
「止めてくださいよ。そういうの……」

 二人がベッドを引きずってホール脇の物品庫に行くのを見届けると、速田が義雄に声をかけた。

「……なんか、いいコンビだね、あの二人。……そういえば義雄君。久しぶりだね。あ、そうか、先だっての十勝岳の噴火で富良野に行ってたんだ」
「はい。学校で支援隊が組織されたんで、参加したんです。二週間、上富良野(かみふらの)に入ってました」

 旭川の南東に位置する十勝岳が爆発的な噴火を起こしたのは、この年の五月二十四日のことである。正午すぎと午後四時すぎの二度あった噴火は、山頂付近にあった残雪を溶かし、大規模な泥流を引き起こした。死者・行方不明者は百四十四人。未曽有の大災害である。

 さらに同じ日には、旭川の糸屋(いとや)銀行が経営破綻するという出来事もあった。もともとは兵庫県で創業した銀行だが、開拓景気に沸く北海道に注目して旭川に本店を移し、営業範囲を、上川、留萌、宗谷、空知の各地方に広げていた。ところが、大正後期になると、大戦景気の反動による不況の影響を受けて一気に不良債権が増加。営業停止に至ったのである。火山の噴火と銀行の破綻。地域にとっては二重のショックだった。

「泥流がすごかったって聞いたけど」
「そうですね。一面泥の海みたいになってて。これに百人以上も飲み込まれたのかって。あ、そう言えば銀行つぶれたの、影響なかったんですか?」
「うちはほとんど取引がなかったのさ。ただ周りはね」
「去年は、神田館の火事もありましたしね」
「そうだね。だからうちなんかが頑張って師団通を盛り上げなきゃならないと思うのさ……」

 速田はそう言うと、話題を変えた。

「それはそうと、どうなの創作の方は?」
「ああ、そっちはなかなか」
「鈴木政輝君に続いて、今野大力君も東京に出たんだろう」
「はい、だから自分も頑張ろうと思うんですけど……」
「ま、焦らないことだわ」
「……大将、上富(かみふ)の最初の一週間は武志も一緒だったんですよ。言ってませんでした?」
「え、そういや用事で休みますって。そうか、言ってくれたらよかったのに」
「照れ臭かったんじゃないですか。そういう奴ですから」
「なるほどね」

 速田が目を細めながら、うなずいた時、入り口の鐘が鳴ってドアが開いた。二人が目を向けると、襟に白のレースが付いた空色のワンピースにクロッシュ帽、耳隠しの若い女が様子を伺うようにして入ってきた。小ぶりのハンドバックを脇に、日傘を手にしている。

「……ごめん下さい」

 速田がはいと答えると、すばやく店内を見渡たした女は、慌てたように言った。

「ごめんなさい。まだ開店前ですね」
「や、そうなんですが……。コーヒーですか?」
「……ええ」
「では、大丈夫です。お入りになってください。すぐ支度しますから」
「……でも」
「いえ、いいんです」

 速田はそう言うと、恐縮した面持ちの女に向かい、体を折り曲げるようにしてお辞儀した。片手は腹のところに、片手はテーブル席の方を示している。まるで淑女をエスコートする紳士である。

「どうぞ、お入りください」
「ああ、はい。……それでは失礼いたします」

 笑いをこらえながら女が席に着くのを見て、速田はカウンターに入った。女は好奇心を隠せない様子で、店内のあちこちに視線を向けている。湯を沸かし始めたところで、奥の扉から北修と武志が戻ってきた。物品庫での作業を終えたようである。

「ああ、いいところに来た。あちらのお客様にお水を」
「お客様? ああ、わかりました」

 武志は一番入口に近いテーブル席に座った女をチラリと見ると、カウンターにあるコップに水を注いだ。お盆に乗せると、テーブルに近づき、女の前に置く。

「いらっしゃいませ。……どうぞ。ご注文は?」
「ああ、それは聞いてるんだ。コーヒーでよろしかったですよね」
 
 速田はコーヒーをドリップする用意を始めている。

「ええ、お願いします」
「それでは、もう少々お待ちください」

 武志がカウンターに戻りかけたところで、女があのと声をかけた。くっきりとした二重瞼の奥の瞳に好奇心が溢れている。

「はい、なにか?」
「こちらは旭川一のカフェーと聞いてきましたが、ロシア風なんですね」
「え? ロシア風?」
「ええ、とっても素敵」

 女は目線を武志の顔から彼の上着に移した。

「ああ、これですね。これはあの、訳がありまして……」

 慌てたように武志が言うと、女は右手を口元にやりながら目を細め、コロコロと笑った。

「とってもお似合いですわ。抱月(ほうげつ)、須磨子(すまこ)の芸術座の舞台に出てくる方みたい」

 抱月、須磨子は、言わずとしれた演出家、島村抱月と、女優、松井須磨子のことである。大正三年には、カチューシャの歌のヒットで知られる「復活」の舞台を持って旭川にもやってきた。が、すでに二人とも故人である。

「……ごゆっくりどうぞ」

 武志が照れくさそうに告げたとき、義雄とともに奥のテーブルに座っていた北修のだみ声が響いた。

「……もしかしてあんた、齋藤参謀長のところのお嬢さんじゃないのかい?」
「……はい。齋藤瀏(さいとうりゅう)はわたくしの父ですが」

 齋藤瀏は、旭川第七師団に二年前に着任した陸軍大佐である。佐佐木信綱(ささきのぶつな)門下の歌人でもある彼は、文武両道の幾分毛色の変わった参謀長として、市民にも知られていた。

「やっぱりか。一度、そこの北海ホテルで、父さんと一緒にいるところを見かけたんだわ。そのとき、連れの小熊秀雄が、参謀長と娘さんだって。あ、俺は高橋北修と言います」

 北修がそう言うと、やや怪訝そうな表情だった女は、笑みを浮かべて立ち上がった。

「初めまして、わたくし齋藤史(ふみ)と申します。そうですか。小熊さんのお友達なのですね」

 どうやら小熊とは面識があるらしい。

「まあ喧嘩相手って言った方がいいかな」
「ああ、面白いお店。やっぱり来てよかった」

 この齋藤史と名乗る女、見かけよりはかなり若いようだ。コロコロとよく笑う。

「あの、北修さんはね、絵描きさんなんですよ。あ、これお願い」

 武志に淹れたてのコーヒーを渡しながら速田が口をはさんだ。

「そうですか、絵をお描きに」

 史はほほえみながらそう言うと、コーヒーを運んできた武志を見て言った。

「ああ、なので、こちらの方も」
 
 どうやら武志の衣装がたいそう気に入ったようだ。

「んー、それは関係あるというか、ないというか……。着替えてこようかな」

 武志が頭をかきながら、小声でつぶやく。

 ヤマニは、昼間、喫茶として営業しているため、味にうるさい速田が淹れるドリップコーヒーを目当てに来店する客が少なくない。ただそれでも史のような若い女が一人で店を訪れるのはきわめて珍しいことである。北修を始め、武志や義雄、普段からたくさんの女性に囲まれている速田までもが、一人優雅にコーヒーを味わう史をちらちらと見ている。
 好奇心を抑えきれなくなった速田が口を切った。

「……あの、参謀長のお嬢さんって言うと、やっぱりお生まれは」
「ええ、東京の四谷ですが、小学校は旭川の北鎮(ほくちん)小学校に通ったんです。今回は父もわたくしも二回目の旭川生活を楽しんでおります」

 北鎮小学校は、将校が住む官舎街の一角にある男女共学の小学校である。通うのは七師団所属の将校の子弟のみ。陸軍将校の互助組織である偕行社(かいこうしゃ)が運営する私立の学校である。皇后の御下賜金(おかしきん)によって建設されたことから、北の学習院とも呼ばれている。

「そういえば、先週までお宅に若山牧水が来てたんじゃなかったかい。歌詠みの。新聞で見たぜ」

 北修は椅子から乗り出すようにして言った。

「はい。父は軍人ですが、短歌をやっております。なので、牧水先生とは東京でお会いしたことがあって、それが縁で訪ねていらしたんです」

 若山牧水は、九州、宮崎出身で、多くの新聞、雑誌の歌の選者としても活躍する当代一の人気歌人である。短歌雑誌発行による借金返済のための資金稼ぎの旅に出て、北海道に入ったのが先月末。旭川には、齋藤家である参謀長官舎に四泊し、揮毫品の頒布会や講演を行うとともに地元歌人らと交流を深めた。

「そういや小熊さんが新しい短歌の会を作るって言ってましたけど、関係あるんですか?」

 速田はいつの間にかカウンターから出て、史のテーブルの側に来ている。

「はい。牧水先生の歓迎の歌会を開いた時に、父や酒井廣治先生が、旭川歌話(かわ)会を作ろうというお話になって」
「かわかい?」
「はい。歌とお話で歌話会。それで小熊さんに幹事をお願いしたところ、快く」
「そうか。奴さん、こんところ顔を出さないと思ったら、それで忙しいんだ。ま、こんな美人さんに頼まれれば、頑張るよな。なあ義雄くん」
「え、あ、はい、あの、そうですね」

 実は義雄は先程から史の様子に釘付けなのである。急に速田に振られてなにやらもごもごと言っている。

「美人、みんな好きですからね。なんちゃって」

 かわりに武志がおどけるが、北修の耳には入っていない。

「その歌話会とかにはあんたも?」
「はい。実は牧水先生が、あなたも短歌をやった方が良いとおっしゃってくださったものですから」
「短歌と言えば、そこの義雄君も小熊さんの集まりで詩を作っているんですよ。その会にも入れてもらえばいいのに」

 今度は速田が振ると、義雄は慌てたように首を横に振った。

「いえいえ、僕なんかが……」
「あら、同じような年代の方に入っていただけると、うれしいですわ。ぜひいらしてください。お待ちしておりますわ」
 
 史がにっこりとしながらそう言うと、義雄が跳ねるように立ち上がった。声が一オクターブ高くなる。

「ご、御親切に。あ、あ、ありがとうございます」
「おい、焦った時の北修さんみたいになってるっしょ。大丈夫かい」

 武志がからかうと、また史がコロコロと笑った。

「ああ、やっぱり楽しいお店。勇気を出して来てよかった」

 史はそう言うと、コーヒーを飲み干し、ハンドバッグと日傘を手にした。

「すみません。お代は?」
「ああ、もうお帰りですか。でしたらそちらの会計で。武志君、お願い」

 史は先を行く武志に付いて入り口脇のレジスターのところに行くと、財布から小銭を出して支払いを済ませた。そして軽く武志に会釈すると、店内の三人に顔を向けた。

「それでは、皆さま、失礼いたします。御機嫌よう」

 武志を含む四人は史の後ろ姿をうっとりとした表情で見送る。


「いやー、普段水商売の娘ばかり見ているせいか、新鮮だねー。みんなには悪いけど」

 退店する史を見届けた速田が女給たちの休憩室がある二階に目をやった。

「おうよ。何ちゅうか、若いのに、優雅と言うか」
「やっぱり、おじさん方も感じるところはおんなじなんですね。……ぜひいらしてください、お待ちしておりますわ、だってさ。たまんないねー、なんまらめんこいわ、なあ」

 レジスターの所から戻ってきた武志が義雄の背中を叩く。だが義雄は史の去った入り口の方を見たままである。なにやらぶつぶつつぶやいている。

「え、なに? 何言ってんだよ。……ん? 天使? 天使ってなんだよ?」

 その時、義雄が振り向いて、武志の両肩をつかんだ。

「天使だよ、天使。武志、スゲーよ。俺、天使を見ちゃったよ。わかんないの? スゲーよ。天使が目の前に舞い降りたんだよオ!」


(続く)




<注釈・第二章>


* 大雪山系
・ 標高2291メートルの主峰、旭岳などからなる北海道中央部の山々の総称。「富士山に登って、山岳の高さを語れ。大雪山に登って、山岳の大(おおい)さを語れ(大町桂月)」のフレーズで知られる。

* 石狩川
・ 大雪山系の石狩岳を源とし、上川盆地、石狩平野を経て石狩湾に注ぐ全長268キロの北海道第一の川。

* 神居古潭(かむいこたん)
・ 旭川市と深川市の境にある約10キロメートルに渡る石狩川の渓谷。アイヌ語のカムイコタン(魔神の住む所)が名前の由来。古くから交通の難所だった。

* 空知平野(そらちへいや)
・ 石狩川の中流域に広がる石狩平野のうち、上川地方に隣接する北部地域の平野部のこと。

* 石狩河口
・ 石狩川の最下流部。石狩湾にある日本海に注ぐ出口。

* 時任静一・ときとうせいいち
・ 工部大学校を経て、アメリカに留学。ミシガン大学で都市計画を学んだ工学士。旭川などの市街化計画を立てるため、北海道庁に嘱託技師として雇われた。時任はアメリカの都市に倣い、300年後、500年後も区画の変更を必要としない立案を目指したと伝えられている。

* 忠別川(ちゅうべつがわ)
・ 上川地方を流れる石狩川の支流の一級河川。大雪山系の忠別岳を源とし、旭川市内で美瑛川(びえいがわ)と合流し、まもなく美瑛川は石狩川と合流する。

* 速田弘・はやたひろし
・ 1905(明治38)年に旭川で生まれる。大正〜昭和の旭川の飲食業界で異色の才能を発揮したカフェー経営者。

* 女給
・ 飲食店で客の給仕に当たる女性のこと。多くはカフェーで客を接待する女性をさす。和服に白いエプロン姿が定番とされるが、過激なサービスを売りにする店が増えるにつれ、エプロンなしの店が一般的となった。


大正時代のカフェーの女給

* 田上義也・たのうえよしや
・ 栃木県出身。札幌に移住し、北海道建築の父と称された名建築家。音楽家としても活躍した。

* 北海タイムス
・ 1887(明治20)年、札幌で創刊された北海新聞が源流(北海タイムスとなったのは1901年)。1942(昭和17)年、道内11紙が統合して北海道新聞が誕生するまで、有力紙として親しまれた。戦後、同名の新聞が発刊されたが、1998(平成10)年に廃刊した。

* 町井八郎・まちいはちろう 竹内武雄・たけうちたけお
・ のちに旭川で始まるマーチングバンドの国内最大級のイベント、音楽大行進を共同で発案した人物。

* 加藤顕清・かとうけんせい
・ 旭川で少年〜青年期を過ごした。のちに日本を代表する彫刻家となる。

* 酒井廣治・さかいひろじ
・ 戦前戦後を通して旭川の文化活動を主導した歌人。旭川信用金庫の初代理事長を勤めるなど実業界のリーダーでもあった。

* 北原白秋・きたはらはくしゅう
・ 詩、短歌、童謡など数多くの名作を残した福岡県生まれの文学者。旭川には、弟子の酒井に会うため、1925(大正14)年8月、樺太旅行の帰りに来訪している。

* 佐藤市太郎・さとういちたろう
・ 幕末の江戸で生まれ、北海道に移住した経済人。理容業で成功したあと、興行の世界に進出し、全道各地で活動写真館を経営した。



佐藤市太郎

* 鈴木政輝・すずきまさてる
・ 旭川生まれの詩人。1936(昭和11)年、北海道詩人協会を旭川で発会させ、中心メンバーとなるなど、地元詩壇のリーダーとして活躍した。

* 「円筒帽」(えんとうぼう)
・ 1927(昭和2)年に、小熊秀雄、鈴木政輝、今野大力らが旭川で創刊した詩誌。


「円筒帽」創刊号(昭和2年)

* 旭川極粋会(きょくすいかい)
・ 架空の組織。戦前の旭川にあった国粋主義団体「旭粋会」をモデルとしている。

* 陸軍第七師団(りくぐんだいしちしだん)
・ 旭川に司令部が置かれた北海道の陸軍の常備師団。北鎮(ほくちん)部隊などと呼ばれた。

* 黒色青年同盟(こくしょくせいねんどうめい)
・ 架空の組織。かつて存在した無政府主義者の団体「黒色青年連盟」をモデルとしている。

* たくらんけ
・ ばかもの、たわけもの、の意味の北海道の方言。

* 無政府主義者
・ 一切の国家権力を否定し、個人の完全な自由、および個人の自主的な結合による社会の実現を目指す人々のこと。アナキストとも。

* 博徒
・ サイコロ博打など、賭博を生業にしている人。

* 大杉栄・おおすぎさかえ
・ 大正時代の労働運動、社会運動に大きな影響を与えたアナキスト。関東大震災の際、内縁の妻でやはりアナキストだった伊藤野枝とともに、憲兵大尉の甘粕(あまかす)正彦らによって虐殺された。

* 伊藤野枝・いとうのえ
・ 福岡県生まれのアナキスト・婦人運動家。平塚らいてうのあとを継ぎ、雑誌「青鞜」の編集・発行人を務めた。



伊藤野枝と大杉栄

* 労働争議
・ 賃金など労働を巡る労働者と使用者の間の争いのこと。



<注釈・第三章>


* カフェー・ヤマニの広告
・ 大正末から昭和初期にかけて、当時の旭川新聞に頻繁に掲載された。時代を先取りした斬新なコピーとカットが特徴。ともに店主の速田弘の手による。



ヤマニの広告・ヤマニの兄貴(速田のこと)作品と書いてある

* 旭川共鳴音楽会(きょうめいおんがくかい)
・ 1921(大正10)年に旭川で結成された弦楽アンサンブル。バイオリン、ビオラ、チェロなどの奏者がメンバーだった。その後、奏者が増え、小規模な管弦楽団となる。定期的な演奏会を開いた他、チャリティー音楽会などにも出演した。速田弘はチェリストとして参加した。

* チャールストン・ジャズ・バンド
・ 速田弘が結成したとされるバンド。詳細は不明。

* 浅草オペラ
・ 大正時代に東京浅草で披露された大衆歌劇。絶大な人気を誇ったが、関東大震災で劇場が壊滅的な被害を受けて衰退した。

* 「ベアトリ姉ちゃん」
・ 浅草オペラの代表曲。スッペ作曲のオペレッタ「ボッカチオ」に登場する歌。

* 「ボッカチオ」
・ オーストリアの作曲家、フランツ・フォン・スッペ作のオペレッタ。日本では、まず大正初期に帝国劇場で邦訳による初演があったあと、浅草オペラで繰り返し上演され、人気を博した。

* なんまら
・ すごく、とてもという意味の北海道弁「なまら」のさらに強調した言い方。

* ルバシカ
・ ロシアの男性用上着。ロシア文化の影響を受けた大正〜昭和の日本の芸術家が好んで着たことで知られる。ルパシカとも。

* 十勝岳の噴火
・ 十勝岳は、上川地方と十勝地方にまたがる火山。1926(大正15)年5月24日に発生した噴火では、大規模な泥流(でいりゅう)が発生し、死者・行方不明者が144人にのぼる大惨事となった。

* 泥流
・ 火山噴火や山崩れの際、雪などが融けて山を流れ下る現象。

* 糸屋(いとや)銀行
・ 明治時代に関西から旭川に進出、その後、本店も旭川に移した銀行。十勝岳が噴火した1926(大正15)年5月24日、不況の深刻化に伴い経営破綻し、旭川は二重のショックとなった。


糸屋銀行本店(大正4年)

* 今野大力くんも東京に
・ 実際に大力が上京したのは1927(昭和2)年3月。

* 上富(かみふ)
・ 上富良野のこと。

* クロッシュ帽
・ 釣鐘に似た形の女性用の帽子。ツバが下向きについている。

* 耳隠し
・ 大正から昭和初期を中心に流行した女性の髪型。両サイドの髪にコテなどでウェーブをつけて耳を隠した。

* 齋藤史・さいとうふみ
・ 東京出身だが、父親の転勤に伴い、旭川で2度暮らした。のちに日本を代表する歌人となる。



齋藤史

* 抱月・須磨子の芸術座
・ 抱月は演出家の島村抱月、須磨子は女優の松井須磨子のこと。芸術座は、1913(大正2)年に2人が作った劇団。



芸術座による「復活」の舞台 

* 島村抱月・しまむらほうげつ
・ 明治〜大正期の演出家、演劇指導者。師である坪内逍遥(つぼうちしょうよう)と創設した文芸協会で活動したのち、女優、松井須磨子と芸術座を結成した。1918(大正7)年、世界的に流行したスペイン風邪により業半ばにして急逝した。

* 松井須磨子・まついすまこ
・ 文芸協会を経て、パートナーである島村抱月と結成した芸術座で女優として活躍する。1919(大正8)年、前年にスペイン風邪で急逝した抱月の後を追い、自死した。

* カチューシャの歌
・ 芸術座の舞台「復活」の劇中歌。主役の松井須磨子が歌い、レコード化されて大ヒットした。作詞は島村抱月と相馬御風(そうまぎょふう)、作曲は中山晋平(なかやましんぺい)。

* 「復活」
・ トルストイ原作の芸術座の当たり演目。1914(大正3)年に帝国劇場で初演された。芸術座は、同じ年、旭川の佐々木座でも「復活」を上演している。

* 参謀長
・ 参謀の役割は指揮官を補佐して作戦計画案を練ること。あくまで補佐役であって部隊への指揮権は持っていない。参謀長は、各参謀の統轄者。

* 齋藤瀏・さいとうりゅう
・ 長野県生まれの陸軍将校。佐佐木信綱(ささきのぶつな)門下の歌人としても知られる。旭川の第七師団には、大隊長、参謀長として2度赴任した。



齋藤瀏

* 佐佐木信綱・ささきのぶつな
・ 万葉集の研究で知られる歌人、国文学者。

* 北海(ほっかい)ホテル
・ 旭川最初のホテル。1920(大正9)年、小樽にあった北海屋ホテルの旭川支店として営業を始めたのが始まり。3階建ての趣のある洋館だった。



北海ホテル(昭和3年)

* 「ああ、面白いお店。やっぱり来てよかった」
・ 実際には、高級将校の娘である史が1人でカフェーに出かけることはなかったはずだが、ここでは、ヤマニに興味を持ち、思い切って飛び込んだという設定とした。

* 北鎮(ほくちん)小学校
・ 創立は1901(明治34)年。第七師団の将校の子弟が通う私立の小学校として建てられた。

* 偕行社(かいこうしゃ)
・ 旧陸軍の将校で作った組織。親睦や互助、軍事研究などの目的があった。偕行社が各地で運営した宿泊施設を指すことも。

* 若山牧水・わかやまぼくすい
・ 酒と旅を愛した国民的歌人。数々の叙情歌で知られる。このシーンでは牧水の来旭を5月の出来事としているが、実際はこの年10月の出来事。


若山牧水

* 旭川歌話会(かわかい)
・ 若山牧水の来旭を直接のきっかけに結成された短歌の勉強会。この場面ではすでに結成されていたことになっているが、実際の結成はこの年11月。

* 「あなたも短歌をやった方が良いと・・・」
・ 旭川訪問時、齋藤瀏の参謀長官舎に4泊した若山牧水が、瀏の娘である史に作歌を勧めた事実を元にしている。史は、このことが短歌の道に本格的に進む契機となった繰り返し語っている。






小説版「旭川青春グラフィティ ザ・ゴールデンエイジ」プロローグ・第一章

2022-08-27 11:38:31 | 郷土史エピソード
<はじめに>



連続歴史講座の実施などに集中していたため、ブログはなんと5か月ぶりの投稿です。
実はこの間、講座開催などと並行し、2021年3月に上演した旭川歴史市民劇「旭川青春グラフィティ ザ・ゴールデンエイジ」の小説化に取り組んでいました。
その作業がほぼ終了しましたので、これからしばらくは、書き上がった「小説版 旭川青春グラフィティ ザ・ゴールデンエイジ」をアップしていきたいと思います。

この作業、実は市民劇にスタッフとして参加してくれた方から、「小説にしたものも読みたい」と言われたことがきっかけです。
また戯曲版の「ゴールデンエイジ」は、去年出版した旭川歴史市民劇の本に載せましたが、多くの方にとって戯曲を読むという行為はあまり馴染みがありません。
このお芝居は、旭川の歴史について、一人でも多くの人に知ってもらいたいという思いで書きました。
なので、より多くの方に親しまれている小説の形でも書いてみようとも思ったわけです。

ただ戯曲については、若い頃に何本か書いた事がありましたが、小説を書くのは初体験。
戯曲と違って、登場する人物の風体や場所や建物の様子などを、読者が想像できるよう言葉によって「描写」しなければなりません。
さらにこの物語の場合、原作は群像劇なので一つのシーンにかなりの数の人物が登場します。
なので、どの台詞を誰が話しているかを示すことにも苦労しました。

よくドラマのシナリオを小説化したものがありますが、この作品はそれと同種です。
力不足のところが多々ありますが、戯曲を読むよりは親しみやすくなっていると思います。
また戯曲と違って旭川の歴史の様々なうんちくを盛り込んでいますので、郷土史の知識を得ると言う意味ではこちらの方が良いと思います。

それでは、全十一章のうち、今回は「プロローグ」と「第一章」を掲載します。
最後までお付き合いいただけると幸いです。

なお物語と歴史的事実についてより深く知ってもらうため、文末に注釈を付けてあります。
こちらも参考にしていただけると幸いです。





                   **********




プロローグ 大正十四年六月 第一神田館




 暑いねぇ、まったくなんて日だい。映写室ってのはただでさえ暑いってのにさ。しかもきょうは六月。お天道様(てんとさま)、なんか勘違いしちまってるんじゃないのかい。あー、早くへっぽこ活弁(かつべん)の試写なんか終わらしちまって、アイスクリンでも食べに行きたいもんさ。あ、それより腹だ。腹が減っちまった。

 ……ちきしょー、あのデブ活弁。くだくだくだくだ文句ばかりたれてよ。震災で東京中の活動写真館がぶっ潰れちまって、おまんまの食い上げだってんで、流れてきたんだろ? それがこんな田舎の小屋に出てやるだけでありがたいと思えだの何だの。るせーんだよ。だったらさっさと帰っちまえよ。文句と一緒で、説明もやたら長くってよ。せっかくの活劇ものだってのに、写真がもったりしちまって台無しよ。

 ……リンリンリンリンリンリンリンリンうるせーなぁ。まだコマ送りが早いってかよ。しかしこの仕組みも誰が考えたんだか。活弁がボタンを押すと、映写室のベルがリンと鳴る。猿回しの猿じゃあんめえし、ベルに指図されてどうすんだよ。

 ……ああ? これでも早いってのか。おいおい、素人じゃあるまいし、活動写真のコマ送りは一秒に八コマまでって、分かってんだろうが。それ以上遅くすりゃ、フィルムが燃えちまうんだよ。これが限度。……何だ。野郎、説明止(や)めやがった。……ああ? 何だって? あの下手くそ技師じゃ語れねぇ。替えろって?

「もう我慢ならねえ。おう、上等だ、デブ。こっち上がってこい。相手してやるよ」

 ……ああ? 野郎、怒ってやがる。客もたいして呼べないくせして、俺らの何倍も給料もらいやがってよ。

 ……ん? なんだみんな騒いでる。え? 何? 後ろ? 後ろってなんだ? ……あ、やべえ。電灯に蓋すんの忘れてた。


 ……ちきしょー、駄目だ。下のフィルムにも火が移っちまって。


 ……ゲッ、ゲホッ。……煙がすげえ。目と喉が焼け付いちまって。もうダメだ、逃げねえと。


「みんな、逃げろー。逃げてくれー」




昨日の晝(ひる)火事 第一神田館燒く 映畫(えいが)「怒濤(どとう)」試寫中發火


 昨日午前十一時四十五分頃、突然旭川常備消防番屋火の見櫓から全市民を驚かす二つ番の警鐘が亂打され、師團通の一角に當り黒煙濛々(もうもう)と空を衝く。火元なる活動常設館、第一神田館三階は紅蓮の猛火に包まれ、附近一帯に火の粉は雨の如く降りしきり、一時は大火を豫期された程だった。


ホースの雨で猛火を喰ひ止む


 發火と同時に市内各消防番屋は勿論、永山、近文、東鷹栖、東旭川、神楽等の近村消防組、及び野砲隊より寶井中尉指揮の兵卒六十六名、並びに外出中の兵卒、及び二十八聯隊、二十六聯隊工兵隊より各一箇小隊出動の上、防火に努め、一方常備消防より自動車喞筒(ポンプ)駈付(かけつ)け、左隣なるメリヤス屋の路次にホースを引き入れ、延燒の火の手を防ぎ、各消防組も又ホースを此の方面及び裏手なる旗亭(きてい)梅林等に懸命に力を注いだので、さしもの猛火も僅(わずか)右隣なる旭勧工場(かんこうば)屋上を一尺四方燒いたのみで、午後一時四十分、漸く消止めた。現場は旭川随一の目貫の場所柄で、旭ビルを初め各大小商店、旗亭等、櫛比(しっぴ)しゐるのと、眞晝間(まひるま)の事とて彌次馬多く、一時非常の雑踏を來した。


詳しき原因は目下取調中


 火災は寫真變(かわ)りの爲め、三階映寫室において技師、森久治(二九)が海洋活劇、山本嘉一、水木京子出演の「怒濤」を試寫中、誤つて火を失したものにして、詳細は目下取調中。損害は建物總坪三百四十坪、損害見積り三万五千圓、其他五千圓位の見込みであると。因(ちなみ)に技師は鼻と足部に火傷を負ふた。






                   **********






第一章 大正十三年十月 旭ビルディング百貨店




おゝ平坦な地平に
人は皆打伏す時
我は一人楼閣を築かふ
人が又我を真似るならば
我は地下のどん底に沈む
あらゆる者の生長する時
我はいと小さくちゞんで行く
人が皆美しく作り飾る時
我は最もみにくゝ生きやう   

                             (今野大力「我が願ひ」)




 その建物の大部分は、約百キロ離れた南富良野の石切り場から運んできたという花崗岩でできていたが、なぜか中に入ると樟脳(しょうのう)の匂いがした。

 建物ができたのは三年前。同じ師団道路にある札幌に本店のある百貨店、丸井今井が、三階建てのモダンなビルディングに建て替えられたひと月後のことだ。旭川初のビルディングという称号は譲ったが、こちらは四階建てと高さでは上回り、街の新名所として華々しく披露されるはずだった。

 ところが地主と建主、出資者ら十指に余る関係者が、詰めた協議をせぬまま見切り発車で着工したため、完成後の利用を巡って一向に意見がまとまらない。なんと竣工から半年を過ぎてもゴタゴタが続くありさまだった。

 ようやく衣料品を中心とした小売店として開業したものの、目新しさは半減。モダンなのは外観だけで、品揃えなどは旧来の店と変わりないというのでは、客足の伸びる要素はない。わずか一年で閉店を余儀なくされてしまった。

 このいわくつきの物件、口の悪い地元っ子から幽霊塔なる異名で呼ばれたほどだったが、嫌気のさした建主から小樽の物産会社が土地、建物を買い取ったのが一年前。その名も旭ビルディング百貨店として新装開店が決まったのが、この年春のことである.


 そのビルの最上階。二十畳ほどの程の大部屋に、長身痩躯、高い頬骨が特徴の眼光の鋭い男がいる。高橋北修(ほくしゅう)。二十六歳になったばかりの地元生まれ、地元育ちの画家である。お気に入りの一張羅(いっちょうら)、太い縦縞の入った紺の背広を着こんでいる。

 部屋の壁には大小さまざまな額装された絵画が運びこまれている。ビルの新装開店に合わせ、自らが所属する旭川美術協会が開催する絵画展の準備に当たっているのである。

 ……確かここは、一時期、繊維問屋の倉庫代わりにされていたよな。だからやたら樟脳(しょうのう)臭いんだ。北修が一人そう納得すると、大きな絵を抱えた三人の少年が、ふうふう言いながら部屋に入ってきた。

 旭川師範学校一年の渡部義雄(わたべよしお)と塚本武志(つかもとたけし)、そして二人の友人である同級生。皆、十五歳で、スタンドカラーのシャツに、絣の着物と袴。学校の制帽を被っている。一番遅れて入ってきた少年はかなりしんどそうだ。

「北修さん。何も言わずにいなくなんないでくださいよ。俺ら、指示してくれないと、どこに何置けばいいか分かんないんだから」

 三人の中では一番小柄な武志がそう言って口を尖らせた。童顔で丸顔。ニキビが目立っている。
 その武志をなだめた義雄は、北修ほどではないが長身で細面。七三に分けた髪の下には、旺盛な好奇心を示す瞳が光っている。

「あの、これはどこに置けばいいですか」
「おお、失敬、失敬。そうだな、それは……こ、ここらへんだな。あと、それは、そ、そっちな」

 言葉に突っかかるのは、興奮したりあせったりした時の北修の特徴である。
 三人は、指示された場所に絵を置くと座り込み、汗を拭った。

「やっぱり四階まで何度も往復するのはしんどいや。北修さん、話が違いますよ。ちょっと絵飾るだけって言ってたのに。これじゃ出面賃(でめんちん)、奮発してもらわなきゃ。なあ」

 と武志が義雄に同意を求める。

「いやあ、といってもねえ……」
「こいつなんか、かなりへばってますよ」
「……もう、足、パンパン」

 武志に指をさされた同級生はというと、漫画にしたいような眼鏡の痩せっぽちである。積極的に会話に加わる元気はないようだ。

「何言ってんだ。いい若いもんが。体鍛えるいい機会じゃねえか。したら、そのままちょっと休憩してろ」

 少し離れたところで絵の梱包を外していた北修が言うと、三人はへーいと声を合わせた。



「……これもわかんねえな。どーも俺にゃ、抽象画って奴は性に合わねえ」

 絵を眺めていた北修が独り言を言うと、着物の襟をバタバタさせていた武志が口を挟んだ。

「わからないと言えば下の階にもとんでもないのがありましたよ。何て言ったっけ、旭川新聞の記者さん」
「小熊秀雄(おぐまひでお)さんだよ。別名、黒珊瑚(くろさんご)」

 すぐ名前が出てきたところを見ると、義雄もその絵には興味を惹かれたらしい。

「そうそう、黒珊瑚。黒珊瑚。でもたまげたわー。何描いてあんだかわかんないうえに、絵の真ん中に本物の塩ジャケの尾っぽ、貼ってあんだから」
「確かああいう絵って、コラージュって言うんですよね?」

 義雄が聞くと、北修がまくしたてた。

「おう、お前らよく聞け。あんなのはな、こ、こけおどしよ。あいつはな、か、変わったことをすりゃ、芸術になると思っていやがる。だいたいあの頭だってそうなんだ。あのもじゃもじゃが、モダンだって言いやがる」

 と、その時、義雄らと同じ書生姿の男が部屋に入ってきた。当の本人、小熊秀雄である。日本人離れした彫りの深さに、ニックネーム通りとぐろを巻いたような特異な長髪。二十三歳。北修より十センチ近く背は低いが、その特徴と痩身のせいで実際より大きく見える。

「……誰の頭がもじゃもじゃだって? これは天然のパーマネントウエイブと言ってほしいな。ところで喜伝司(きでんじ)、まだほとんど絵を飾ってないじゃないか。展示は任せろって言ったのはお前だろ」

 小熊が問い詰めるように言うと、一緒に現れた小池栄寿(こいけよしひさ)が取り成した。小熊らよりさらに年下の二十歳だが、地味なグレーの背広を着込んでいることと、きちっと整えた髪型のせいか、やや老けて見える。

「まあまあ小熊さん。そのために出面賃払って旭川師範学校の精鋭に来てもらってるんだから」

 栄寿はそう言うと、義雄に声をかけた。

「な、大丈夫だよな」
「……ああ、はい。とりあえず搬入は終わったんで。あとは梱包外して、飾るだけですね」
「この子らかい。師範学校の文芸部ってのは」
「ああ。君たち、小熊さんとは初めてだっけ?」

 栄寿が聞くと、元気な二人が立ち上がった。

「あ、はい。一年の渡部義雄です。よろしくお願いします」
「同じく塚本武志です」

 痩せっぽちも立ち上がろうとするが、もたもたしている。

「ああ、いいよいいよ、休んでて。旭川新聞で、文芸欄、社会欄を担当している小熊秀雄です。絵は本業ではないんだが、描くのは好きでね。な、喜伝司(きでんじ)」

「喜伝司って?」

 義雄が小声で尋ねると、武志が北修さんの本名らしいよと答えた。
 その時、日焼けした顔、小柄だが引き締まった体つきの少年がつかつかと部屋に入ってきた。着古した四つボタンの黒っぽい上着に、同じ色の丈の短いズボンを履いている。

「小池さん。言われた作業は終わりましたよ。あと何やれば」
「ああ、悪いね。まだ細かい作業があるんだよな」
「早く片付けちゃいたいんですよね。これ終わったら、別のところで仕事あるんで」

 いらつきを隠さない。

「ああ、僕もすぐ下に行くからさ」

 少年はため息を付きながらわかったと言うと、去り際に言い捨てた。

「俺ら、休んでるヒマないんで。よ・ろ・し・く、お願いします」

「……何だよ。あいつ、感じわりーな」

 武志がムッとしたのを見て、小熊が話し始めた。

「……奴は東二(とうじ)。松井東二。近文コタンでは、ちったあ知られた顔さ。親父は腕の良い熊狩りだったんだが、事故で死んじまってね。だからあの年で、あれこれ稼いでる。な、栄寿」
「たしか年は君らの一つ下じゃなかったかな。悪いやつじゃないんだが、ぶっきらぼうでね……。おっと、ぼやぼやしてると、東二にしかられる」

 腕組みを解いた栄寿は、座ったままの同級生をちらりと見ると、二人に尋ねた。

「下はもう力仕事はないんで、彼借りて大丈夫かな?」
「ええ、僕らは」

 目で武志に確認した義雄がうなずく。

「じゃ、外した梱包材はまとめて縛っておくこと。別の子に取りに来させます。あと掲示が終わったら、作品名と作者名を書いた紙があるんで取りにきてください。では、ここは任せますよ。君、いいかい?」

 栄寿が部屋から出ていこうとすると、ヘトヘトだったはずの同級生がバネのように勢いよく立ち上がり、小走りについて行った。

「したっけ、また後でね」

「何だ、元気あんじゃん、あいつ」

 武志が呆れると、義雄が苦笑しながら小熊に尋ねた。

「……あの、小池さんって、美術協会の事務局長さんなんですか?」
「栄寿かい。いや、まったくの部外者さ。奴は教師で、やってるのは僕と同じで詩だ。美術協会には、こういう実務を仕切れるやつがいないんで借り出されてるってわけさ。ま、旭川の文化人の中では貴重な人材なんだが、そこが詩人としての奴の限界ともいえる。……なんてえことを言いまして。どれどんな作品が来ているのかな」

 そう言うと、小熊は少しはにかんだ表情を浮かべながら、少し離れたところに立て掛けてある絵に近づき、眺め始めた。

「じゃ、俺らもやるかい」

 義雄が武志に声をかけると、二人は運び込んだ作品の梱包を外し始めた。

 

 作業を再開して十分ほど経った頃、作品の点検をしていた北修が、近くにいた小熊に声をかけた。

「ところで小熊よ。お前の推薦した『抽象画研究会』とかいう連中の作品、どうにかならんのか。何描いてるか分かんねえ絵見せられたって客は喜ばんだろうが」

 そして声を低くしてこう付け加えた。

「お前のシャケもだけど・・・」
「ああ? 聞き捨てならんことを言うな。お前は客を沸かせるために絵を描いてるのか? 第一、芸術は分かる、分からないじゃない。全身全霊で感じるもんだ」
「そんなこたあ分かってる。ただ上か下かもわかんねえ絵を見せられても、俺りゃ何も感じねえってことよ」

 それを聞いて小熊の声が大きくなった。

「あーあ、情けないねえ。自分の認識を超えた作品に会うと、とたんに思考停止に陥る。喜伝司、だからお前はだめなんだよ」
「言いやがったな。いつも言ってんだろ。俺はお前より三つも年上なんだから呼び捨ては止めれって。そ、それから、き、喜伝司は言いにくいんで北修で通してるんだ。分かったか、この菊頭野郎」
「菊頭たあなんだ。いいか、そこの二人、よく聞けよ。こいつはな、せっかく絵の修行に東京に行ったのに、震災にあって逃げて帰ってきた軟弱者よ」
「うるっせーな。お前だって、せっかくあのおっかねえ東京に付いていってやったというのに、『詩、売れません』とか言って、二か月でとんぼ返りしたろうが。ど、どっちが軟弱よ」
「何を」
「何だ」

 いきなりつかみ合いを始めた二人を見て、たまげたのは少年二人である。しばらくはあっけに取られていたが、まず義雄が声を上げ、武志も続いた。

「ちょっと、ちょっと、止めてくだい。大人気ないですよ」
「そうですよ。まあ、いいじゃないですか。そんな喧嘩するような話じゃないじゃないですか」

 実はこうした喧嘩は、北修と小熊の間では珍しいことではない。お得意の芸術談義で議論が白熱すると、ともに自己主張の激しい質(たち)だけに、お互い引くことを知らない。時には殴り合いに至ることもあるくらいで、つかみ合いなど子犬のじゃれ合いのようなものである。
 その二人が、若者の仲裁の言葉に噛み付いた。まず北修が小熊から離れると武志を睨みつける。

「ああ? お前、今なんて言った?」
「えっ、ああ。……まあ、いいじゃないですかって……」

 義雄にも。

「おめえは?」
「……あの、大人げないって……」
「まあ、いいじゃないか? 大人げない? お前ら何はんかくさいこと言ってんだ。俺らの世界に、まあいいじゃないかなんてことは、一つもないんだ」
「その通りだ。俺たちの主張は自分の命そのものだ。それを否定されるってことは、自分を否定されたってことだ」
「そうよ。お前ら、そもそも何なんだ、何をもって俺らの話をどうでもいいと断じるんだ」

 どうやら標的は若い二人に切り替えられたようである。

「何をもってとか言われても……」

 困ったように武志を見る義雄。

「……そんな大それた意味は……」

 武志は涙目になっている。

「どうした君たち。質問に答えたまえ」

 小熊がそう言うと、武志がいきなり深々と頭を下げ、義雄もならった。

「ごめんなさい。許してください!」

 思わぬ二人の反応に、小熊があきれたように頭(かぶり)を振った。

「……ダメだ。君たち、全然ダメじゃないか」

 と、そこに駆け込んできたのは、下の階で栄寿を手伝っているはずの同級生である。息を切らせている。

「あの、たいへんです。小池さんが、小熊さんにすぐ来るようにって」
「ん? 俺? どうした。なんかあったか」
「それが、野良犬が下の階に入り込んで……」

 小熊と顔を見合わせた北修が尋ねた。

「野良犬? 野良犬がどうした」
「絵を、小熊さんの絵を、齧ってるんです!」           




(続く)





<注釈・プロローグ>


* 第一神田館 
・神田館の大将と呼ばれた実業家、佐藤市太郎が、1911(明治44)年に旭川の師団通に建てた活動写真館。常設館としては北海道で2番目にできた。6年後に改装されて以降は、一部5階建ての威容を誇ったが、1925(大正11)年、試写中の映写室から出火し全焼した。


炎上する第一神田館(大正14年)

* 活弁
・活動写真弁士の略。無声映画時代にスクリーンの脇で筋や台詞を語った説明者。活動弁士、弁士とも。

* 震災
・1923(大正12)年に起きた関東大震災のこと。北修は東京の向島寺島町の借家にいたところを被災し、急死に一生を得ている。

* 師団通
・旭川駅前と第七師団司令部を結ぶ戦前の旭川のメインストリート。師団道路とも言う。



大正末の師団通

* 旗亭
・料理屋、料亭のこと。


*勧工場
・戦前にあった集合型の小売施設。今で言うと、小規模なショッピングモールのような店舗。




<注釈・第一章>





* 旭ビルディング百貨店
・ゴールデンエイジの旭川で最も高かったビル。


旭ビルディング百貨店

* 今野大力・こんのだいりき
・旭川で青年期を過ごしたプロレタリア詩人。

* 丸井今井
・北海道で最も歴史のある百貨店。旭川には、1987(明治30)年に進出し、丸井今井呉服店旭川支店として開業した。その旭川支店が百貨店になったのは1922(大正11)年。もちろん旭川初の百貨店だった。

* 高橋北修・たかはしほくしゅう
・ 旭川画壇の草分け的存在である画家。


高橋北修

* 旭川美術協会
・高橋北修らが結成した旭川初の美術団体「ヌタップカムシュッペ画会」(ヌタップカムシュッペは大雪山を示すアイヌ語)が発展解消し、1923(大正11)年に発足した組織。

* 旭川師範学校
・ 1923(大正12)年に開校した教員養成のための教育機関。

* 出面賃(でめんちん)
・ 出面(でめん・でづら)とも言う。大工や左官などの日当のこと。幅広くアルバイト代のことを指すことも。

* 旭川新聞
・ 1915(大正4)年創刊の北海東雲(しののめ)新聞が前身。4年後、旭川新聞と改題した。1942(昭和17)年、11紙が統合して北海道新聞が誕生するまで、北海タイムス、函館新聞などと並ぶ道内有力紙だった。



旭川新聞社(昭和4年)

* 小熊秀雄・おぐまひでお
・ ゴールデンエイジの旭川の文化活動を牽引した詩人。のちに東京に出て活躍する。

* 黒珊瑚(くろさんご)
・ 小熊秀雄の異名。とぐろを巻いたような特異な髪形にちなみ、本人が署名記事に使った。



小熊秀雄

* シャケが貼られた小熊の絵
・ 油絵をベースにしたコラージュ。小熊は実際に旭ビルディング百貨店での美術展にこの作品を出展した。


美術展に出展した小熊の絵

* コラージュ
・画面に、様々なものを貼り付ける美術の技法。「糊付けする」を意味するフランス語が語源。

* 小池栄寿・こいけよしひさ
・ 旭川生まれの教師、詩人。戦後になり、手記「小熊秀雄との交友日記」を発表する。

* 近文コタン
・ 明治期に入り、政府が同化政策の一環として、上川地方のアイヌ民族を集住させた地区のこと。この措置により、彼らは古くからの山野をめぐる自由な暮らしを奪われた。

* 「震災にあって逃げて帰ってきた」
・ 北修は関東大震災の際、住んでいた借家が倒壊する直前に外に飛び出して急死に一生を得ている。

* はんかくさい
・ 愚かな、おかしな、の意味の北海道の方言。

* 「小熊さんの絵を、齧ってるんです。」
・ これも実際にあった出来事。どこからか準備中の美術展会場に入り込んだ野良犬が壁に立てかけてあった小熊の絵のシャケの尾を齧ったという。












日露戦争と旭川・後編

2022-03-11 11:16:44 | 郷土史エピソード




3回シリーズで掲載している「日露戦争と旭川」。
前編では、乃木第三軍による二〇三高地奪取までの動きを、旭川第七師団との関わりを中心に書きました。
中編では、第七師団の一兵士として従軍したワタクシの祖父について、そして日露陸戦最大の戦い、奉天会戦について書きました。

最終回の今回は、将兵を送り出した当時の旭川の街の動きや住民の意識について紹介します。

そしてシリーズのまとめとして、改めて日露戦争と旭川との関わりを見たうえで思ったこと、ブログの執筆中に起きたロシアによるウクライナへの軍事侵攻を受けて感じたことを書きたいと思います。




                   **********




<旭川移駐の実態>



画像01 建設中の第七師団の施設(「北海道第七師団写真帖」より)


前編で触れたように、日露戦争の開戦は明治37(1904)年2月、第七師団の旭川移駐から間もない頃の出来事でした(移駐開始が明治33年、完了が35年)。
移駐とは、駐屯地=本拠地を変えることです。

初代の第七師団長である永山武四郎ら北海道開拓の責任者たちは、もともと北海道の中心にある旭川に陸軍の本拠地を置く構想を持っていました。
当時の仮想敵国だった北の大国、ロシアに備えるためです。
ただ当時、まだ旭川はまだまだ未開の地です。
このため、まず札幌に仮の本拠地を置きました。
その上で旭川の街の整備が済むのを待って本拠地を本命の地に移した、というわけです。

さらに言いますと、旭川に軍の本拠地を置く構想は、地元住民にとって全く知らない話で、移駐は降って湧いたような話でした。
もちろん地元が誘致をしたこともなく、建設予定地の住民の中には、土地の譲渡になかなか同意しない人もいたそうです。



画像02 完成当初の第七師団(「ふるさとの思い出写真帖 明治大正昭和 旭川」より)


一方、北海道以外の陸軍の師団は、熊本、仙台など、いずれも旧城下町だった都市に本拠地を置いていました。
旭川のような新開地に師団の本拠地を設けるのは、初めてのことでした。
ですので、いわば「慣れない同士の同居の始まり」といった状態が、当時の七師団と旭川の関係と言えます。

日露戦争期の旭川を見ていきますと、軍関係のさまざまな動き・出来事がありますが、ワタクシにはどうも様子見が先行すると言うか、不慣れな感じを受けます。
そこにはこうした事情が影響したように思います。

では実際の動きを、見ていきましょう。



画像03 第七師団偕行社(大正8年・「旭川市街の今昔 街は生きている」より)



<宣戦布告・師団動員の反応>



画像04 明治時代の旭川中心部(「開基100年記念誌 目で見る旭川の歩み」より)


まずはロシアへの宣戦布告、そして開戦から半年後に下った第七師団への動員命令に対する町民の反応です(日露戦争時の旭川は町制がしかれていました)。

このうち宣戦布告は、明治37年2月11日に伝えられたと新聞に書かれています。



画像05 宣戦布告の旭川の反応を伝える記事(明治37年2月13日・北海タイムス)


それによりますと、東京発の公報が旭川に伝えられたのは11日早朝。
この日は紀元節(今の建国記念日)の祝日でしたが、各公共機関ではすぐに職員が登庁して、関係方面に連絡します。
そして午前10時から、拝賀式が市内各小学校を会場に行われ、第七師団でも正午から101発の祝砲を打ったそうです。

一方、第七師団への動員命令については、当時、町長だった奥田千春がこう書き残しています。


「動員の声と共に忽にして動揺し商工の別なく今更の如く東西に疾駆し宛然鼎の沸くか如く人馬は東西に来往して利を得んとするもの自己骨肉の将来を案して訪問するもの(中略)其状半ば狂ふものの如き始末を演し活気全部に漲る」(奥田千春「事実考」より)


動員命令は軍の機密事項ですから、町民にはなんらの前触れもなかったのでしょう。
出征兵士の関係者はもちろんですが、町全体でかなりの混乱があったことが伺えます。



画像06 奥田千春初代旭川町長(「開基100年記念誌 目で見る旭川の歩み」より)


<「報公会」の結成>


一方、この時期の大きな動きとしては、町民有志による「旭川報公会」の結成があります。
「報公会」は、軍や出征兵士の家族の慰問、歓送迎などの実施を目的とした組織です。
会長には上川支庁長、副会長には町長の奥田が就きました。

この「報公会」、運営は有志の寄付金で賄われたそうです。
ただワタクシには師団の移駐から間もないとは言え、この時期までこうした師団や将兵の支援組織が旭川になかったことが意外に思えます。



画像07 明治30年代の旭川中心部(「旭川市街の今昔 街は生きている」より)


<旅順陥落の反応>



画像08 二〇三高地を占拠した第七師団の将兵(「歩兵第二十五連隊史」より)


さて動員命令を受け、第七師団の将兵が10月末に旭川を出発し、戦場に向かったのは前編、中編で見たとおりです。

その第七師団がまず加わった旅順攻略戦。
その苦戦ぶりは旭川にも伝えられ、街は重苦しさに覆われます。
その暗い雰囲気を一変させたのが、年明けの1月2日に伝えられた旅順陥落の一報でした。
当時の様子を、新聞はこのように伝えています。


「旅順の要塞戦に於て師団の損害多大なりとの悲報に接したる上川市民は兎角悲観に傾き各方面に於て不景気の影響を受けたる新年の市況は自然鎮静の姿ななりしが二日午後一時頃旅順陥落の報伝わると同時に各新聞の号外は勇しき呼声を以てステツセル将軍の開城を報せしより市民の元氣頓に一変し歓喜恰も狂するが如く」(明治38年1月6日・小樽新聞)


旅順の攻防は、当時、日本の命運を左右すると言われていました。
それだけに町民の喜びようが伝わってきます。

この日は「報公会」が中心となって午後七時から提灯行列が企画され、約1000人が楽隊を先頭に街を練り歩きました。
こうした提灯行列は、企業や学校、さらには芸者連などさまざまな団体によっても行われ、官民をあげての祝勝会が開かれた5日まで連日行われたそうです。

ただその一方で、戦死傷者の続出に伴い、旭川からは補充兵が次々と出征したほか、戦死者の遺骨や傷病兵の帰還も始まっていました。
こうした状況について「奥田町長は複雑な心境で見ていた」と新旭川市史は書いています。



画像09 旭川市民の旅順陥落の反応を伝える小樽新聞


<補充兵の出征>


新旭川市史は、その補充兵の規模や動きについてもまとめています。
それによりますと、七師団の本隊が大連に上陸した2日後の11月22日には、早くも各歩兵連隊200人ずつの補充兵の要求があったそうです。
そして39年9月の最後の補充兵の出征まで、合わせて18回、少なくとも8400人余りが戦地に送られました。

このように頻繁に補充兵の出征を見送った町民は、「旅順に向かうのは死に臨むようなものだ」という思いを持ったそうです。



画像10 明治時代の旭川駅(「旭川市街の今昔 街は生きている」より)


<戦死者の葬儀>



画像11 日露戦争の野戦病院(「図説日露戦争」より)


一方、戦死者ですが、旭川には、早くも明治37年11月に一人目の遺骨が帰還しています。
これを受け、葬儀を町葬とするか個人葬とするか、「報公会」で検討した結果、町は関与せずとの方針が決まりました。
その理由について、新旭川市史も、奥田町長が書き残した「事実考」も触れていませんが、本州各地では戦死者の葬儀は市町村葬として行うのが一般的だったそうです。
こうした点も、この時期、師団と町の間にまだ一定の距離があったことを伺わせています。
ただ葬儀にはできるだけ多くの町民が参列することなどを申し合わせ、この旭川最初の戦死者の葬儀には2000人もの町民が参会したそうです。


<凱旋と旭川>



画像12 大迫師団長の凱旋を伝える記事(明治39年3月8日・北海タイムス)


続いて戦争終了後の動きです。
明治38(1905)年10月、日露両国による講和条約が発効したことを受け、出征部隊の本格的な凱旋帰国が始まります。
ただ帰国は一斉ではなく、師団や連隊などの単位で順次行われました。

このうち第七師団に凱旋命令があったのは、翌明治39年2月です(韓国派遣の一部部隊は、それ以前に帰国していました)。
まず24日、大迫尚敏師団長が大連港を出発して東京に向かい、3月1日に参謀本部に出頭します(4日には旭川に向けて出発)。
次いで28日には第七師団司令部、3月に入ると奉天以北にいた各部隊の帰国も始まります。

このように第七師団の主力が旭川に戻ったのは39年2月から4月にかけてです。



画像13 旭川に到着した凱旋部隊(「ふるさとの思い出写真帖 明治大正昭和 旭川」より)


町では凱旋部隊を迎えるために、5回に渡り歓迎会が開かれました。
いずれも町民の歓迎は熱烈だったと伝えられていますが、今回、当時の新聞を当たっていて気になる記事を見つけました。
「歓迎者漸く減ず(旭川市民の冷淡)」という見出しの記事です。


「旭川町は師団所在地なるを以て今回の凱旋部隊には最も関係深く従て之が歓迎に全力を尽くすべきは当然の事なるが凱旋門及歓迎会場の設備の如きは善尽くし美尽くして室蘭札幌等の夫(それ)に比して遜色なかるべきは吾も人も信じる所なるが然るに昨今に至り町民の歓迎漸く冷淡ならんとするの風あり現に毎回部隊の来着する時当初は熱心に出迎へ停車場前千人以上約一万に達する程の歓迎者を見たりしに昨日来より漸く其人数を減じ昨朝の如き町会議員婦人会員の外有志者の出迎人なるものは殆ど皆無の如き有様なりしは頗(すこぶる)る憤慨すべき事実にあらずや」(明治39年3月9日・小樽新聞)


このあと、記事は、当時旭川で布教活動をしていたアメリカ人宣教師のピアソン夫妻が、毎回、駅での凱旋部隊の歓迎に当たっていることを紹介し、「外国人にして既に然り況(いわん)や吾同胞の冷淡に至つては実に慨(がい)すべきものありと云へり旭川町民の三省を望む」と結んでいます。



画像14 旭川町民を批判する小樽新聞の記事


当時の新聞には、どの部隊がいつ、どの列車で駅に着くかの予定も載っています。
それを見ますと、多い日では、早朝から午後にかけて凱旋部隊を乗せた5本の列車が到着しています。
そうした頻繁な凱旋に、毎回数千人規模の町民が立ち会うのは、かなり難しかったとは思います。
ただこのような批判の記事まで出た事を考えますと、これも当時の町民の師団との距離感の現れだったのではと思います。


<臨時招魂祭の実施>



画像15 第七師団招魂社(明治39年・「旭川市史」より)


この他、日露戦争関係の旭川での大きな動きですと、出征部隊の凱旋がほぼ終わった明治39年4月11日、臨時招魂祭が近文の練兵場内にあった招魂社(今の北海道護国神社の前身)で行われています。
祭祀の対象は日露戦争中に戦病死した七師団関係の将兵です。
師団関係者や遺族のほか、各自治体の首長や議員、警察署長、中学以上の学校長などが参列しました。

招魂祭は毎年5月に行われますが、この年、さらに臨時という形で行われたことについて、新旭川市史では、銃後を支え、多くの兵士を盛大に送り出したにもかかわらず、多くの犠牲者を出したことに対する道民や旭川町民のやるせない思いを癒やす必要があったためではないかとしています。

なお日露戦争後の日本では、軍や政府に対する国民の不満が高まりました。
多くの戦死者を出したこと、そして重い税負担を強いられたにも関わらず、賠償金など民衆が期待した成果を得ることができなかったからです。
この傾向は大正時代に入っても続きましたが、時代が昭和に移りますと再び軍の発言力が増し、日中戦争、太平洋戦争につながっていったわけです。



画像16 満州に建てられた第七師団の忠魂碑(「札幌歩兵第二十五連隊誌」より)


<改めて日露戦争に思う>


ここからシリーズを通したまとめです。
少々、理屈っぽい話になります。
苦手という方は、ここで終わりにしちゃってください。



画像17 応戦中の日本軍(「図説日露戦争」より)


今回、ワタクシは日本の近代化のなかで大きな意味を持つ日露戦争について調べ、第七師団や従軍した祖父との関わりを中心にまとめました。

作業を通して最も強く感じたのは、やはり戦争の持つ非情さ、無慈悲さです。
日露戦争では、それまでの世界の戦争とは比べ物にならないほどの膨大な数の銃弾、砲弾が使われたそうです。
そしてそうした銃弾、砲弾と同じように、万単位の兵士たちが最前線に送られました。
それはまさに「人間の消費」という言葉を使いたくなるほどの扱いです。



画像18 旅順攻略線で結成された白襷隊(「図説日露戦争」より)


ワタクシは、国家や政府というものは、必然的に個人を抑圧するものだと考えています。
それは、その社会が不条理に直面した場合、常に大多数のために少数が犠牲にならざるをえないからです。
もちろん、今もなくなっていない独裁国家のように、少人数の特権的な人のために大多数の人が犠牲になる、ということもあります。
ただそうでなくても、この世界に不条理なことがある以上、大多数の人のために一部の人が犠牲を強いられるというのは、ごく日常的に見られることです。

最近で言いますと、コロナウイルス感染防止のワクチンは、接種に伴う副反応で人が亡くなるリスクがあります。
でもそのために社会全体がワクチンを接種しないという選択は取りません。
ワクチンを使用しない時の死者の発生リスクの方が、圧倒的に大きいからです。
ただ一人の個人として見れば、ウイルスの感染による死も、接種の副反応による死も、同じように不条理です。

戦場というのは、限られた人たちに一つしかない命を差し出すことを強要する現場です。
ですから、お話ししたような国家、社会による個人への抑圧がもっとも鋭角的に現れる場所と言えるかもしれません(もちろん、志願兵と徴兵された兵では事情は異なりますが)。



画像19 戦死者の遺体が散乱する戦場(「図説日露戦争」より)


さらに日露戦争では、前編でも書きましたが、稚拙極まりない作戦や戦略上ほぼ意味のない戦闘で膨大な数の将兵の命が失われました。
その背景に、軍中枢の現状認識や情報共有の決定的な欠如があったのは書いたとおりです。



画像20 大山巌と山縣有朋(「図説日露戦争」より)


ただこの戦いでの救いは、日本のトップの戦争指導者たちが、有利に戦いを進めているときでも、冷静に自国が置かれている状況を把握し、判断していたことです。
陸戦の最大の戦いだった奉天会戦の後、満州軍総司令官だった大山巌(いわお)は、東京にいる参謀総長の山縣有朋(やまがた・ありとも)に意見書を送ります。
この機を捉え、講和に向けた交渉を進めるべきとする内容です。
山県も「貴見に同じなり」と大山に返信しています。
この時点での日本は、兵力、武器、戦費などあらゆる面で限界に近づいていました。
2人はそれを十分に分かっていたのです。

さらに言えば、時の政府は、戦争開始の時点から、常にどう戦いを終結させるかを念頭に置いていました。
そのための大きな手段である講和を実現させるため、ルーズベルト米大統領への働きかけを継続的に行うなど、水面下で努力を続けていました。
結果、日本海海戦の勝利に加え、ロシア国内での革命機運の高まりなどで皇帝ニコライの態度が変化し、講和に至ったのは中編で見たとおりです。



画像21 ポーツマスでの講和会議(「図説日露戦争」より)


しかし、こうした前例があったにも関わらず、その後の日本では、大国ロシアに勝った(実際は負けなかったというのが正解と思います)ということだけが受け継がれます。
その結果、日中戦争、太平洋戦争の泥沼に入り込んでいったことは周知の事実です。
その中で、旭川第七師団も、ノモンハンやアッツ島、ガダルカナル、沖縄、樺太など多くの戦場でさらなる将兵を失うこととなりました。



画像22 戦勝の祝賀に湧く東京の様子(「図説日露戦争」より)


<ウクライナ侵攻について>


さて、前回の冒頭でも書きましたが、このブログの執筆中、ロシア軍によるウクライナ侵攻が始まりました。
今(2022年3月11日)も攻撃は続いていて、一般市民の死傷者もかなりな数が出ていると伝えられています。
またポーランドなど隣国へ逃れた人たちは、200万人を超えたと報道されています。
ここでも戦争は圧倒的に非情であり、無慈悲な本質を現しています。

今回、ワタクシが調べた日露戦争は、世界の近代史上、初の軍事大国同士の武力衝突と言われています。
このため、この戦争を、その後の第1次世界大戦、第2次世界大戦に先立つ第0次世界大戦と位置づける考え方もあるようです。

この考えに従えば、世界は、0、1、2と繰り返してきた大戦の大きな誤りとその後の冷戦を踏まえ、少なくとも侵略戦争については防ぐことができる手立てを持つに至ったのではと、ワタクシは思っていました。
ただ今回の事態は、それが幻想だったことを示しているようです。
またそれは、同様に世界がかなりな程度、被害を少なくできるであろうと考えられていたパンデミックにより、死者が実に600万人に迫ろうとしている現実とも重なります。

そして今回の、時を戻したかのような主権国家への侵略行為。
その背景には、世界各地でここ10年、20年ほど見られる様々な格差の拡大や、分断の深刻化があるように思えてなりません。

その一つが、偏狭なナショナリズムの台頭です。
プーチン大統領は、20年以上に渡って権力の座にある人物です。
その背景には、言論の自由を抑圧する強権的な政治姿勢があると言われています。
その一方で、「強いロシアを取り戻す」という主張や、西側諸国への頑なな対抗姿勢が、これまで多くの国民の支持を集めてきた事実があります。
こうしたナショナリズムの高まりは、ロシア以外の国にも広がっています。

もちろん今回の問題では、侵略を主導したプーチン大統領がもっとも非難されるべきです。
ただその背景にある世界の現状にも目を向けることが必要と思います。

さらにワタクシが気になるのが、世界のあちこちでロシア国民への非難、中傷が高まっていることです。
憎悪や分断を背景にした戦争が、また新たな憎悪と分断を世界に広めることは避けなければなりません。

そのロシア国内では、政府の押さえ付けが日に日に増していく中で、多くの人が反戦の声を上げているようです。
すでに見てきたように、日露戦争では、頑なだったニコライ2世の態度を変えさせた最も大きな要因が、国内で高まった革命機運の盛り上がりと言われています。

かつての皇帝のように権力を一身に集めたプーチン大統領。
その暴走を止めるには、ロシア国内の反戦の動きが圧倒的に盛り上がることことが必要と多くの識者が指摘しています。
侵略を受けているウクライナの人々と同様、ロシア国内で反戦を訴えている人たちとの連帯こそ、今一番求められていると考えます。





日露戦争と旭川・中編

2022-02-27 13:31:37 | 郷土史エピソード



「日露戦争と旭川」。
このことについて調べ、書いているうちに、ロシアによるウクライナ侵攻が始まりました。
今(2022年2月27日13時)の時点で、ロシア軍の侵攻は続いています。
これは、明らかな他国への侵略です。
理不尽な武力の行使によって、日々の平穏な暮らしを突然奪われたウクライナの方々のことを思うと、いたたまれない気持ちになります。

そのロシア、領土を含む勢力拡大の野心という意味では、100年以上前の帝政時代と変わらないようです。
軍事侵攻を主導しているプーチンは、実に20年以上も権力の座にあります。
その傲慢な姿は、帝政ロシアに君臨した皇帝と重なって見えます(日露戦争時の皇帝、ニコライ2世は、気の弱い、優柔不断な人物だったと伝えられていますが…)。

日露戦争と旭川について調べたワタクシの感想については、このロシアのウクライナ侵攻のことも合わせ、改めて次回の後編の締めくくりに書くつもりです。

ということで、前回は乃木第三軍による二〇三高地奪取までの動きを、旭川第七師団との関わりを中心に書きました。
今回は、その第七師団の一兵士として従軍したワタクシの祖父について。
そして旅順攻略を果たした第三軍が加わって行われた日露陸戦の最大の戦い、奉天会戦について見ていきます。





                   **********



(祖父、秋山吉次郎)


前編でも触れましたが、日露戦争に動員された第七師団の兵士の中に、ワタクシの母方の祖父がいました。
名前は、秋山吉次郎(きちじろう)。
ただ彼はワタクシが生まれた1年半後に亡くなっています。
ですので、祖父の記憶はありません。
以下は、残された戸籍などの記録や伝え聞いている話をまとめたものです。



画像01 秋山吉次郎(1879ー1959)


吉次郎は、明治12(1879)年、岡山県岡山区(今の岡山市)で、元岡山藩下級藩士、秋山喜十郎(きじゅうろう)の次男として生まれました。
彼が生まれた時、喜十郎が何をしていたかは不明です。
藩で刀鍛冶をしていたという話があるので、そうした仕事を続けていたのかもしれません。
ただ喜十郎は、吉次郎が14歳の時に亡くなってしまいます。

その吉次郎が北海道にやってきたのは、明治32(1899)年7月。
19歳の時でした。
場所は、旭川の北およそ35キロにある剣淵村です。
今は絵本の里、剣淵町として知られていますよね。

この年、まだ未開の原野が広がっていた剣淵には、となりの士別村とともに屯田兵村が置かれます。
屯田兵村は、明治8(1875)年、札幌琴似に初めて設置され、この剣淵と士別まで合わせて37村が置かれました。
入植した屯田兵の数は7337人。
吉次郎は、そのうちの最後の屯田兵の一人でした。

剣淵への入植の時、吉次郎には、母と姉、兄と弟の4人が同行していました。
北海道への当時の移住者の多くがそうだったように、おそらくは喜十郎の死後、一家は故郷での暮らしに目処が立たず、新天地に活路を求めたのだと思います。



画像02 晩年の吉次郎


他の兵村と同じく、剣淵兵村にも、入植までの詳しい行程の記録が残っています。
剣淵に向かう屯田兵337人とその家族は、士別兵村の仲間(屯田兵100人とその家族)とともに、西回りと東回りの2隻の船で北海道を目指します。

吉次郎一家が乗ったのは西回りの東都丸。
岡山から神戸に出て、船に乗り込んだのが、明治32(1899)年6月18日です。
東都丸は、途中、瀬戸内海や日本海で各地の志願者を乗せながら北海道に向かい、29日、小樽の手宮港に入ります。
その日は、小樽に一泊し、翌日から2班に分かれ鉄道に乗り換えます。
そして旭川を経由し、剣淵に到着したのは7月1日と2日です。



画像03 吉次郎らが泊まった三浦屋旅館(大正4年・「旭川市街の今昔 街は生きている」より)


「剣淵町史」に載っている元屯田兵の回想録には、以下のように書かれています。


「6月30日 これより兵員家族は2日間に分かれて輸送されることに決まり、自分等は第1日に炭鉱貨車に乗り込む。無蓋台車に天幕を張り茣蓙(ござ)を敷き跪座(きざ)する。
午後4時旭川駅に到着し下車する。その夜は駅前の三浦屋旅館に宿する。1軒で500人を収容することはできず、鮨詰の様な一夜を明かした。
7月1日 前日の様に無蓋台車に乗せられ剣淵に向う。当時、列車は蘭留までしか開通していなかったが、士別まで工事中なため和寒までは建設列車が往復していたので、屯田兵と家族たちは特別に建設列車を利用して和寒まで輸送してくれた。
和寒よりは只一筋の刈分道(現国道40号線)を家族と共に歩んだのである。和寒の東の山すそ伝いに進む道は、両側は未だ斧鉞(おのまさかり)の入らない原始林で、あたかも林のトンネルを通るようで昼なお暗く気のめいる道が続き、雑草は背丈をこえて生い茂り、人影などは全く見えない。此の中を意気揚々として進む屯田兵もあれば、下駄ばき、ぞうりばきもあり、モンペ姿の母親、長袖におたいこ姿の娘、菅笠(すげがさ)を冠ったもの、こうもり傘をさすもの、かすりの着物や縞の筒袖、それぞれのお国の風俗そのままの姿の列が続いた。」(「剣淵町史」より)




画像04 開設間もない頃の剣淵兵村(「剣淵町史」より)


こうして剣淵に着いた一行は、先着していた将校や下士官がイタドリで作った歓迎のアーチと、今も剣淵の中心部に残るヤチダモの大木の前に集合し、最初の訓示を受けました。

詳しい話は省きますが、当時の剣淵は水の便が悪く、入植した屯田兵と家族は苦労に苦労を重ねたそうです。



画像05 剣淵・士別両兵村の合同演習(明治34年・「剣淵町史」より)


画像06 剣淵兵村の屯田兵(年代不詳・「目で見る旭川・上川の100年」より)


画像07 剣淵に残るヤチダモの大木



続いては、吉次郎ら剣淵の屯田兵が出征した明治37(1904)年の様子です。
この当時、屯田兵の現役期間は5年間でした。
このため剣淵兵村の屯田兵は、この年3月末で満期除隊となりました。
ところが前編で書いたように、日本はその直前の2月にロシアに宣戦を布告します。
もちろん現役が終了したとしても、兵役の義務は残っています。
このため吉次郎たちには、息をつく間もなく招集がかかり、8月にはそれぞれの部隊に編入されます。



画像08 吉次郎の屯田兵手帳


こちらは吉次郎の屯田兵手帳です。
長男である叔父のもとに保管されていたものです。

ここには生まれた場所や親きょうだいの情報、給付された被服や装備、扶助米の支給状況などに加え、日露戦争の出征から帰還までの動きが細かく書かれています。
まずは戦地に赴くまでの動きです。



画像09 屯田兵手帳に記入された記録(1)


画像10 屯田兵手帳に記入された記録(2)



招集を受けた吉次郎は、まず8月7日に旭川の第七師団歩兵第二十八連隊補充大隊第三中隊に編入され、すぐ18日に同第十二中隊に再編入されています。
以後、戦地ではこの十二中隊の所属が続きます。

入営した吉次郎が、旭川の屯営を出発したのは10月28日。
前編で書いたように、第七師団の将兵は鉄道と船で大阪に向かいました。
戦地に向けて吉次郎が大阪港を出発したのは16日。
そして旅順に近い遼東半島の大連に着いたのが21日です。



画像11 旅順近郊の第七師団の幕営(「第二十八連隊概史」より)


大陸での第七師団が、乃木第三軍に加わって旅順攻略、そして作戦変更後に総力を上げた二〇三高地奪取戦を戦ったのは、前編で見たとおりです。
その戦いに吉次郎はどう関わったのでしょうか。


「自十一月参拾日至十二月五日旅順西北方標高二〇三高地ニ於テ戦闘」
「仝十七十八日二百三高地西南方甲丁山ニ於テ戦闘」



この時期の行動について、屯田兵手帳にはこのように記載されています。

1つ目の記述は、11月30日から12月5日にかけてとなっていますが、この間に行われた戦闘は2回だけです。
第七師団が初めて主力となった11月30日の二〇三高地奪取戦。
そしてその失敗を踏まえ、児玉源太郎満州軍総参謀長がテコ入れした12月5日の二〇三高地戦です。

どの様な形かはわかりませんが、この2つの戦闘に吉次郎が関わったのは間違いありません。



画像12 二〇三高地占領後の第七師団の将兵(「歩兵第二十五連隊史」より)


すでに書いているように、このうち5日の戦いで、第七師団はついに二〇三高地の占領に成功します。
占拠地での記念写真におさまる第七師団の兵士たちは、こころもち放心したような表情に見えます。
吉次郎も、七師団が任務を達成した喜びより、多くの戦友を失った悲しみや、命を取り留めた安堵感のほうが強かったのかもしれません。



画像13 「師団歴史」(「新旭川市史」より)


一方、2つ目の記述では、「12月17日と18日に甲丁山で戦闘」となっています。

第三軍は、二〇三高地の奪取の後も、旅順要塞への攻撃を続けました。
第七師団司令部が編んだ「師団歴史」には、12月17日と18日の動きについて、以下のように書いています。


「十七日 高丁山攻撃を行う午前九時全く之を占領す(中略)
 十八日 (中略)本夜敵の歩兵約五百高丁山に逆襲し来たりしも巧みに之を撃退し敵に多大の損害を与え捕虜一名あり」(「師団歴史」より)



手帳にある甲丁山と、「師団歴史」の高丁山は同じです。
高丁山は二〇三高地に近いロシアの堡塁の一つです。
吉次郎もこの高丁山堡塁の占領と奪還阻止に関わったと思われます。



画像14 東鶏冠山北砲台の大爆発(半藤一利「日露戦争史」より)


そして第七師団が高丁山で敵の逆襲を撃退したという12月18日、東鶏冠山(けいかんざん)砲台が、大音響とともに崩壊します。
この砲台は多くの日本の将兵の突撃を阻んできたロシアの大要塞です。
日本の工兵が粘り強く掘削した2本の坑道に大量の爆薬を仕掛け、これに点火した結果でした。

この後、他の要塞でも日本側が仕掛けた爆破が相次ぎます。
これを受け、旅順を守るロシア軍司令官、ステッセル中将はついに降伏を決意します。
この後行われたのが、教科書などによく写真が掲載される二〇三高地近くの村、水師営(すいしえい)での両将軍の会見です。



画像15 水師営の会見(「図説 日露戦争」より)


旅順攻略を達成した乃木軍に対し、満州軍総司令部は、遼東半島の北でロシア軍と対峙している本軍への合流を命じます。
北進までの間、旅順には多くの慰霊碑、忠魂碑が建てられ、第三軍が主催する慰霊祭が行われました。



画像15 旅順に建てられた第七師団の忠魂碑(「札幌歩兵第二十五連隊史」より)


(奉天会戦へ)



画像16 遼陽会戦での満州軍(半藤一利「日露戦争史」より)


さて、乃木第三軍が旅順攻略戦に臨んでいた頃、満州軍主力は、ロシアの野戦軍主力との戦いを繰り広げていました。
野戦におけるロシアの戦いは、あえて余力を残して後退することを繰り返し、敵を懐に引き込みつつ、相手の疲弊を待って攻勢をかけるのが常道でした(あのナポレオンも、ロシア遠征ではこの作戦により大敗を喫します)。
8月の遼陽(りょうよう)会戦、10月の沙河(さか)会戦でもロシア側は戦略的後退をくり返し、満州の拠点都市、奉天の南で日露両軍は膠着状態に入っていました。



画像17 第七師団の北進行軍計画表(「歩兵第二十五連隊史」より)


この事実上休戦状態の本軍に合流するため、第三軍の友軍とともに第七師団の将兵が北進を始めたのは、明治38年(1905)年1月22日のことです。

画像17は「歩兵第二十五連隊史」に掲載された行軍表です。
第七師団が集合場所である遼陽の北の街、黄泥窪に到着したのは、開戦から1年が経ったばかりの2月9日。
19日間で90里、約360キロの強行軍でした。



画像18 遼東半島と遼陽、奉天周辺図(半藤一利「日露戦争史」より)


2月20日、満州軍総司令官の大山巌大将は、各軍の首脳を集め、新たな作戦を指示します。
この戦いで、大山と児玉源太郎総参謀長は、ロシア軍の後退を許さず、殲滅を図ることを期していました。
国力の劣る日本は、戦力の面でも戦費の面でもほぼ限界に達し、戦いの継続が難しくなってきていたためです。
大山は訓示の中で、この会戦は「日露戦争の関ヶ原」であり、「全戦役の決勝」となることを心得よと全将兵に呼びかけました。



画像20 大山巌満州軍総司令官(「図説 日露戦争」より)


画像21は、奉天会戦の直前の両軍の配置図です。
沙河をほぼ挟むように、東西約200キロに渡って対峙しています。
その数、ロシア側31万、日本側25万と言われています(ロシア側は後衛にさらに10万、日本側は後衛なし)。

数に勝る敵にどう殲滅戦を仕掛けるか。
世界史的にも過去に例のない大会戦。
2人が採用したのは奇策とも言える包囲作戦でした。



画像21 奉天会戦直前の配置(半藤一利「日露戦争史」より)


図で分かるように、日本軍の最右翼には、鴨緑江(おうりょくこう)軍、最左翼には第三軍がいます。
鴨緑江軍は、第三軍から引き抜いた第十一師団を中心に新たに組織された軍です。

作戦では、まずこの両軍を進撃させて敵の陽動を誘います。
慌てたロシア軍が中央の兵力を削いで両翼の守りを固めます。
そのタイミングを逃さず、今度は第二、第四、第一の日本軍主力が、中央から猛攻をかけるというものです。
鴨緑江軍と第三軍には、戦線の両翼から大きく円を描くようにロシア軍の背後に回り込み、敵の退路を断つ役割も与えられました。

画像22は、作戦で想定された各軍の動きです。



画像22 奉天会戦の進撃概図(半藤一利「日露戦争史」より)


(奉天会戦始まる)


会戦は、2月24日、最右翼を突く鴨緑江軍の進撃によって始まりました。
第三軍が宿営地を発ったのはその3日後。
想定通り、西回りに大きく迂回しながら北進を始めます。
その第三軍に先行するように、最左翼では、機動力のある秋山支隊も北に進みます。
秋山支隊は、「坂の上の雲」で中心的に描かれた松山出身の海軍参謀、秋山真之(さねゆき)の兄、好古(よしふる)が率いる騎兵の精鋭部隊です。



画像23 クロパトキン大将(「図説 日露戦争」より)


ロシア満州軍の総司令官は、日露戦争の直前までロシア陸軍大臣を勤めていたクロパトキン将軍です。
クロパトキンは、進撃を始めた鴨緑江軍が乃木第三軍であると思い込み、予備兵力の大半をその対応に向かわせます。
鴨緑江軍の主力が、旅順戦で第三軍にいた第十一師団の将兵だったことが、判断を誤らせたと言われています。

ロシア側の対応を知った大山と児玉は、陽動は成功と判断。
3月1日、残る第一、第二、第四の各軍にも進撃を命じ、戦線の全域で双方が激突します。



画像24 北進する第三軍(「図説 日露戦争」より)


一方、第三軍は当初順調に北進を続けますが、奉天に近づくにつれ、そのスピードは緩みます。
特に5日以降は、敵の激しい反撃のためなかなか前進を図れない状況となりました。
我が祖父、吉次郎の屯田兵手帳には、この間の動きとして、「沙麗堡、後民屯、大石橋、高家屯、三台子で戦闘」と記されています。
いずれも第三軍の進撃路の途中にある街の名前です。
進むに連れ、吉次郎ら兵の消耗も日に日に増していったと思われます。

しかしこの時期、クロパトキンは、戦線中央の主力部隊を後退させることを決意します。
奉天に迫っているのが、乃木第三軍であることを知ったためです。
将軍は、旅順戦という困難な戦いに勝利した乃木軍を日本の最強軍と考えていました。
その乃木軍が奉天の北の鉄道路を抑え、自軍の退路を断つことを恐れたのです。
さらに足の速い秋山支隊がすでに鉄道路に迫っているのを、第三軍が驚異的な速さで進軍していると勘違いしたとも伝えられています。



画像25 撤退するロシア主力軍(「図説 日露戦争」より)


このクロパトキンの指示を受け、7日には一部部隊の後退が始まり、9日には全軍への撤退命令が出されます。
同時に、クロパトキンは、自軍の退路を確保し、後退を円滑に進めるため、特別部隊を編成して乃木軍の進行を全力で阻止するよう厳命します。

クロパトキンが察することはありませんでしたが、このとき第三軍の各部隊は第七師団同様、いずれも疲労の限界に近づいていました。
このためロシアの特別部隊の攻撃は、第三軍にとってさらなる打撃となりました。



画像26 奉天の市街(「図説 日露戦争」より)


(北稜の戦い)



画像27 奉天近くで小休止する第七師団の将兵(「図説 日露戦争」より)


こうした中、戦場は3月9日の朝を迎えます。
この日は激しい砂嵐が吹き荒れる一日でした。
それはさまざまな記録、手記、そして文学作品で触れられています。


「この日は未明から南風が強く、文字通りの黄塵万丈、太陽の光も被われて漏れず、天地暗澹として三、四間先の物さえ見えないほどであった。(中略)傷ついて力尽きた将兵たちは黄塵を浴びて随所に群がり横たわっており、死屍もまた黄塵に半ば埋もれて識別困難であった」(石光真清「望郷の歌」より)


この荒天の中、敵の撤退を知った満州軍総司令部は、全軍に追撃命令を出します。
これを受け、第七師団もなんとか前進を図り、奉天郊外の北陵(ほくりょう)の森に陣取るロシア軍への攻撃を開始します。



画像28 現在の北稜(「歴史群像シリーズ59 激闘 旅順・奉天」より)


北陵は奉天の北にある清の二代目皇帝、太宗の陵墓で、昭陵(しょうりょう)とも呼ばれています。
師団は突破を図りますが、ロシア軍の抵抗は激しく、砂嵐による視界不良もあって膠着状態に至ります。



画像29 村上正路大佐(「第七師団写真帖」より)


これを打開しようと、大迫師団長は、夜戦による奇襲作戦を立て、突撃隊を編成します。
隊長を命じられたのは、歩兵第二十八連隊の村上正路(まさみち)大佐。
先鋒として二〇三高地の奪取に成功したあの村上連隊長です。

村上は二十八連隊と二十六連隊の一部、工兵などを率い、10日未明、攻撃を開始します。
実は吉次郎の屯田兵手帳には、この北陵の戦闘で、彼が敵弾を受け、重傷を追ったことが書かれています。

調べたところ、参謀本部が編集した公式の日露戦史である「明治三十七八年日露戦史」に、北陵での第七師団の戦闘の詳しい図解が載っていることが分かりました。
それが画像30と、それを拡大した画像31です。



画像30 北陵の戦いの図解(「明治三十七八年日露戦史」より)


図の下の方にある四角で囲ったように描かれているのが北陵です。
「青」で描かれた特別隊は、最初、北陵の北西の位置(図の左上)にいます。
そして真っ直ぐに北陵に向かい、森林の前にいる「赤」のロシア軍(図の中央部分。ミユルレル大佐と書かれています)と交戦状態に入ります。
そして北陵の北東脇の位置まで敵を押し込み、最終的には北陵の占拠に成功します。



画像31 画像30の拡大(「明治三十七八年日露戦史」より)


「28」と書かれているのが歩兵第二十八連隊、「26」は二十六連隊です。
小さな数字は中隊の番号です。
これを見ると、吉次郎の第十二中隊は、最前列でミユルレル大佐の軍と戦闘しています。
そしてその後は、二手に分かれ、半分の部隊はそのまま前進を続け、敵を押し込んだ後、北陵の北門のあたりに進んだことが分かります。
また残りの半分の部隊は南に進行し、北陵の西門に達したことが分かります。



画像32 「明治三十七八年日露戦史」の記述


「明治三十七八年日露戦史」では、この戦闘の推移についても、7ページに渡って詳述しています。
それによりますと、本格的な戦闘が行われたのは北陵を囲う森林の中で、しかもこの日は朝6時半を過ぎてもまだ暗い状態でした。
このため各部隊は仲間がどこにどのようにいるのかさえ分からない状態で、林に潜む敵に狙撃され、死傷者が続出しました。

一部ですが、記述を抜いてみます。


「歩兵第二十八連隊第十中隊及同第十一第十二中隊の約半部は森林北縁に突入の後更に追撃中互に連携を缺(か)き各個に敵に衝突して死傷頗(すこぶ)る多く此間歩兵第二十八連隊第十一中隊の半部は其指揮官を失い・・・」(「明治三十七八年日露戦史」より)


実は、この戦闘では、指揮官の村上大佐も少数の部下とともに孤立したうえ、銃撃を浴びて重傷を負い、捕虜となってしまいます。
日露戦争では、約2000人の日本の将兵が捕虜となりましたが、村上は最も階級が上でした。

新旭川市史は次のように書いています。


「村上大佐は旅順攻略の最高殊勲者であったが、今回の失態で、旅順での殊勲と相殺され、帰国後は休職となり、そのまま大佐の定限年齢に至って後備役に編入されたという」(「新旭川市史」より)



画像33 屯田兵手帳の記載


一方、吉次郎も同じ様な状況の中で銃弾を浴びたようです。
屯田兵手帳の「公傷及び公病」の欄には、次のように書かれています。


「北陵の戦闘の際負傷(左肩上部より右肩部に至る貫通銃創兼左下腿貫通銃創(骨折)右側外踝(くるぶし)部貫通銃創)」


上半身と下半身に合わせて3発の銃弾を受けたようです。
このうち上半身は、左肩から右肩への貫通銃創。
少しでもずれていれば、頭を撃たれていました。

結局、3月9日と10日の戦闘で、日本軍はロシア軍の後退を阻止することはできませんでした。
暴風による視界不良に加え、長期の行軍を続けてきた両翼の2つの軍の足が止まったこと、中央の主力軍の弾薬も尽きかかったことなどが要因です。

「奉天会戦の目的は陣を進めることではなく、敵の殲滅だ」としていた大山総司令官が、ロシア兵の去ったあとの奉天に入城したのは、15日のことでした。



画像34 大山総司令官の奉天入城(「図説 日露戦争」より)


(講和成る)



画像35 血の日曜日事件(「図説 日露戦争」より)


この奉天会戦での撤退後も、ロシアは戦況の巻き返しは十分に可能だと自信を見せていました。
しかし国内では、相次ぐ陸海の敗戦に加え、物価の上昇や労働環境の悪化などで、労働者や農民の不満が募っていました。
1月には首都サンクトペテルブルクでデモ隊に軍が発砲する「血の日曜日事件」が発生。
これを機に革命の気運が高まっていきます。



画像36 決戦に向かうバルチック艦隊(「図説 日露戦争」より)


戦局の打開を期待されたバルチック艦隊も、5月の日本海海戦で、世界の海戦史上例のない大敗北を喫します、
皇帝ニコライも、ここに至りルーズベルト米大統領の講和の斡旋を受け入れます。

9月にアメリカ東海岸のポーツマスで両国は講和条約に調印。
10月に公布され、日露戦争は終わります。



画像37 ニコライ2世(「図説 日露戦争」より)


(吉次郎の帰還)



画像38 日露戦争の傷病兵(「図説 日露戦争」より)


さて吉次郎の屯田兵手帳には、負傷後の足取りについても書かれています。

大山総司令官が奉天に入城した翌日の3月16日、吉次郎は奉天に近い荘家屯の野戦病院に入り、手当てを受けます。
4月4日には、日本への帰還のために遼東半島の大連兵站病院に転院。
おそらく、行きには乗ることのなかった鉄道で運ばれたものと思われます。
翌5日に大連港を出港。
9日に宇品港(現在の広島港)に上陸し、戦傷者のために設置された広島予備病院に入院します。
さらに東京予備病院に転院した吉次郎は、5月23日、旭川に生還します。



画像39 「歩兵二十八連隊 征露記念帖」
 

こちらは、今回、日露戦争について調べる中で知った資料の一つ「歩兵二十八連隊 征露記念帖」です。
この中に二十八連隊の出征将兵の名簿がありました。



画像40 「歩兵二十八連隊 征露記念帖」記載の名簿


その中の第十二中隊の部分です。
中央下段に、秋山吉次郎の名前が見えます、

十二中隊の同じ剣淵兵村からの出征者は4人で、全員が一等兵。
うち一人は北陵の戦いで戦死したことが記されています。
他の地域からの出征者の中にも、何人かに「於二〇三戦死」の文字が見えます。

祖父、秋山吉次郎は、晩年になっても戦場で受けた傷が完全には癒えることがなかったようです。
特に足の傷は最後まで痛みが残っていたと聞いています。
ワタクシが直かに祖父と話をすることはありませんでした。
しかし生と死が紙一重だった戦場のことを忘れることは、終生なかったのではないかと思います。



画像41 吉次郎と家族(妻のとし、長女の直枝、次女の蔦子=ワタクシの母)