都市徘徊blog

徒然まちあるき日記

アムール川

1992-10-16 | ロシア  
アムール川   Google Map
Wikipedia > アムール川

 公園を抜けて川に出て水際へ行く。前に来たときと違って天気が良いので、川も穏やかに見える。西日の中に対岸が見えていた。この時は対岸は中国かと思ったのだが、後で調べたところ、中国はもっと上流のほうだった。

 川沿いの砂地になぜかベンチがぽつんとおかれていて、そこで二人の女の子が話し込んでいた。夏には海水浴客で賑わったりもするらしいが、晩秋の川は人影も少なく静かだ。

1992年10月 ロシア日記・記事一覧

#海・川・池
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文化と憩いの公園の階段

1992-10-16 | ロシア  

 アムール川へ向かって、文化と憩いの公園の中の長い階段を下りて行く。木立の中のコンクリートの段々が晩秋の日差しを反射して美しい。

 アムール川の河畔を散歩した後、街へ向かってまた階段を上る。この階段は手摺が立派だった。老人のためなのか、途中の踊り場には手摺に沿ってベンチがしつらえてあった。その場では珍妙に思えたが、後から考えると日本にもこういう階段がもっとあってもいいのにと思う。

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#公園  #階段・坂 海外
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コムソモール広場1

1992-10-16 | ロシア  

 通りを戻ってコムソモール広場へ行く。広場に面した3F建ての建物はイギリスのカレッジかアパートメントのような雰囲気だ。

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#街並み 海外  #広場 
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時計店

1992-10-16 | ロシア  

 とりあえず川と反対の北の方へ行き、途中の時計店に入ってみる。いわゆるロシアで一般的な時計店のようで、このへんはロシアのどこの都市の店でも同じで、売り方や品揃えの雰囲気に大きな差はない。ノーファインダーで店内の写真を撮ってしまう。何気なく堂々としかも素早く撮ってしまえば一瞬で撮影は終わってしまい、たいして気にも留められないようだった。旅行も終盤になって漸くこのようなこつを掴むことができたのだった。

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#商業系 
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ハバロフスク市内散歩1

1992-10-16 | ロシア  

 15:00 昼食後、若干の休憩を各自部屋で取ってからロビーに集合して市内の散歩に出掛ける。18:30にRestaurant Sapporoで夕食ということだけを決めて、とりあえず解散する。まずはゆっくり目抜き通りであるカールマルクス大通り(現ムラヴィヨフ・アムールスキー通り)を歩く。

 道行く人々の髪が逆光の中で白く光り輝く。白ロシア系の人が多いので金髪や栗毛の人が多く、その髪は太陽の光を白く反射する。これは日本人の髪の毛ではなかなか見られない景色だ。

カールマルクス大通り    Google Map

 今日は暖かく、金曜日の午後で大通りは人通りも多かった。前回、車中から見たときは日曜の夕方で人影がほとんどなく、街が信じられないほど寂しかったが、さすがに今日は目抜き通りらしい風情だった。

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#街並み 海外  #道 
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市街への道

1992-10-16 | ロシア  

1992.10.16(Fri) Khabarovsk

 S氏ら再会。3、4日間離れていただけなのだが、ロシアで別れてまた再会するのはなかなか感慨深かった。互いの無事を確認して荷物も受け取り、平和委員会の人々が用意した車に乗る。
 いつもながら車は日本車だ。なんのことはない、シビックやシャレード、それからコロナとかブルーバードである。個人的にはロシア製のヴォルガとかモスクビッチとかにも乗ってみたいのだが、彼等はサービスのつもりで良い車=日本車を用意してくれる。見慣れた車内よりもロシア製の車内を見たかったのでちょっとつまらない。でも途中でエンコされても困るので、まちなかで急いでいないときにちょっと乗りたい。もっとも、私たちが乗せられた日本車もスピードメーターの針は全く動いていなかった。速度規制はあるが、自分が何km/h出しているか判らないのだからどうしようもない。でも気にしてるのは僕等だけで彼等は一向に気にしていなかった。そういうのを見るにつけ、世界は広い!と単純に思ってしまう。

 市街への道はずっと並木道で、葉が落ちた木々に点々とカササギの巣が掛けられていた。今日は本当に良い天気で、数日前とは違って日中は暖かい。

 13:40 再びホテルチャイカに到着。すぐさま昼食。久々に人数が増えて僕等はモスクワ土産の話をして盛り上がる。ウラジオに残っていたY君とH君は、僕等が去った後また寮の女子大生と会ったそうだ。僕等は彼女たちが寮から閉め出しを食ったのが気になっていたが、結局彼女たちはその晩は友達の家などに泊まったのだそうだ。彼女たちから託された誕生日プレゼントの花とカードをY君がK氏に手渡すと、旅行中に誕生日を迎えていた彼は、思わぬプレゼントに満面の笑みをたたえたのだった。

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#道 
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ハバロフスク到着

1992-10-16 | ロシア  

1992.10.16(Fri) Khabarovsk

 ハバロフスクとモスクワの時差は7時間。モスクワへ向かったときは同じ日に着いたが、東に戻るときには半日ほど損をすることになる。モスクワを離陸してから7時間半、ハバロフスク時で正午に快晴のハバロフスク空港に無事着陸する。

ハバロフスク空港   Google Map
Wikipedia > ハバロフスク空港

 飛行機からはすぐさま手荷物を持って外へ出ることができる。外国人がやや優先されるのは、どうもいつものことのようだ。

 タラップを下りて飛行機の前で数人ずつ記念撮影をする。乗ってきたのはIL-62Mで後ろ4発の飛行機だ。水平尾翼が垂直尾翼の上に付いていて格好いい。

 エプロンの上を空港ビルまで歩いて行く。管制塔のある大きな建物もあるが、旅客の手続きは昔風の建物で行われるようだ。

 空港建物に入って、預けた荷物をキャッチするのだが、下りるのが素早かった分ここでは相当待たされることになった。飛行機からの積み荷降ろしが前時代的な手作業になっているため、効率がえらく悪い。そこら辺を屁とも思わないのも問題だ。私の手荷物は若干早く出てきたので、皆より先に表に出て、迎えに来てくれているはずのS氏らを探す。

 最初にロシアに着いたときは慌ただしかったのと緊張していたので、ゆっくり空港建物を眺めなかったが、よくよく見るといろいろ発見がある。建物の玄関部分がギリシャ神殿風なのだが、柱頭がドリス式だったりイオニア式だったり、はたまたコリント式だったりで統一感がない。

 空港建物にあまり期待しても仕方ないのかもしれないが、ホールの柱頭はコリントもどきで、しかもその上に星印がついている。表側の柱頭もホールとは異なるコリントもどきで、松ぼっくり状でもある。ソビエト式擬洋風建築と言うのが適当かも知れない。

1992年10月 ロシア日記・記事一覧

#飛行機
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もういちどアルバート通り、そしてハバロフスクへ

1992-10-15 | ロシア  

1992.10.15(Thu) Moscow → Khabarovsk

土産物屋

 15:00 またしてもバス運転手のコネのある土産物屋に連れて行かれる。

 僕等としては市内の賑やかな場所、例えば前にも行ったアルバート通りのような、商店街、市場とかフリーマーケットで買い物をしたいのだが、どうも運転手はいわゆる土産物屋に僕等を連れていこうとする。I氏を中心として、アルバート通りにもう一度行きたいと交渉するのだが、あちらより良いものがあると言って譲らない。その土産物屋に行かないことには運転手が納得しないので、仕方なくとりあえずその店に行く。

 しかしやはり昨日訪れたようさえない土産物屋で、予想したとおり値段がやたらに高い。ドルで買えるのだが、つまらないボールペンが1ドルもするのには腹が立つというより、もはや呆れる。なにしろ市中に行けば1/10の値で同じものが買えるのだ。不当に高いというか、外国人なのを良いことに詐欺まがいの値で売りつけているといっても良い。当然何も購買意欲をそそるものは見あたらない。運転手氏が自ら、ほらこんなものはどうだ、これはいいものだとか言って妙に熱心になかば押売のように勧める。

 だが、そうされればされるほど、げんなりしてくる。わかったわかった。でもそれは高すぎるから要らない。それは僕の好みじゃないとか言って断る。最初の内は相手の好意をむげに断るのがためらわれたので、少しは興味を持つようなそぶりをしていたが、却って向こうをその気にさせてしまうので馬鹿馬鹿しくなって、はっきりNO Thank Youと言うことにした。そっちが売り込むつもりで断られて当たり前、乗ってきたら儲けものと思っているなら、こっちもドライに断ってしまえということになる。

 とりあえず店に立ち寄って、運転手氏の顔も少しはたてたので早々に切り上げて再度アルバート通りにバスで向かうことにする。運転手氏は「もういいのか、もっとゆっくり見たらどうだ。」と言ったが、アルバート通りへ断固として連れて行けと要求して、漸く向かわせる。

 


アルバート通り

 15:10 アルバート通り着。1時間半程度ここでモスクワ最後の買い物をする。一回目は何となく散歩しただけだったが、今日はモスクワ最終日だったので、みやげ物買い漁りモードになり、街を見るのもそこそこにいろんなものを買いに走ることになった。

アルバート通り   Google Map

 あちこち見て回るうち、F氏と出会ったのでしばらく行動を共にすることにする。

 F氏はウラジオ以来、ずっとバラライカを買いたがっていた。品切れだったり土産物の飾り物だったりで、結局ここまでは買わずに来たのだが、ここへ来て遂に手頃な物を見つけて交渉に入る。相手も慣れており、最初は結構高額な提示をしてくる。英語があまりできない売人で、その様子を見て近くの他の売人が仲立ちをしてくれる。

 ただ、彼等は互いにロシア語でしゃべっているので、「良くわかんないみたいだからふっかけて高く売っちゃおうぜ!」と言ってるのか、「そいつは高いんじゃないの。それじゃ買ってくんないよ。」とたしなめているのかよく判らない。「彼はいくらが希望だと言っている。」というだけの通訳ではないのは、彼等の話の長さから見ても明らかで、仲介者の意見もいろいろと入っているようだった。これだから間接的通訳は厄介なのだが、この通じてるんだかどうだかわかんない状態も、街角でのショッピングでは面白いものだ。

 結局F氏はバラライカ2台を買うことにし、その合計は当初の1台の提示額よりも安くなっていた。ついでに言うなら、このようにしてF氏は旅行中にバラライカ、アコーディオン(バンドネオン)、おもちゃの太鼓と、様々な楽器を買ったのだった。

 さて私は、色とりどりのスカーフが気に入ったのでそれを買い求めることにした。こちらは通りに並ぶ露店ではなく、その背後に控える国営商店で売っている。通りに並ぶ服飾店の中でもやや立派で綺麗な建物に入り、店内を見て回る。ガラスケースの中に入っているスカーフをあれこれ出して貰い、気に入ったものを数枚買うことにする。

 途中で出会ったターニャさんが数詞の言い方を教えてくれる。例によって品名と値段をレジで言って先に会計を済ませる。おそるおそる数詞を言うと、わきからターニャさんが補足して言ってくれる。レジのおばさんはまるで愛想がなく、ただつまらなそうに頷き、レジスターを操作して釣りとレシートをよこす。レシートを持って再度カウンターへ赴くと、売り子のおばさんはニコニコしながら既に包んであったスカーフの袋を渡してくれる。ここらへん、営業成績に関わる人とそうでない人の差なのか、単に個人的性格の差なのかよく判らない。ただ微笑んで貰って店を出られるのはとりあえず気分が良い。サービス過渡期の町中経済の一端を見た気がした。

 通りでは相変わらずいろいろな土産物が売られている。絵はがき、マトリョーシカ、スカーフ、ライターなどの小物などなど・・・。ピロシキなどの食べ物を木箱に入れて持って現れ、売り切ったらすぐに立ち去るおばさんもいる。

 それからおばあちゃんがレース編みを何枚か持って通りの片隅に佇んでいるのを今日もまた見かける。机も椅子もなくただレース編みを胸の前に掲げて立ち、低い声で道行く人に声を掛けている姿は痛々しささえ感じる。軍のバッジや勲章を売っている老人もいる。年金が底をつき、軍事台の勲章を売って生活の足しにしているのだという。ロシアは老人がのんびり暮らせる状態にある国ではないことを痛感する。残念ながら僕たちは軍の勲章の価値を計る価値観を持ち合わせていない。ミリタリーマニアとかなら喜んで買うのかも知れないが、それにしてもいくらぐらいの価値なのだろう。綺麗な金属片と見るか、老人の人生の価値を見るかで勲章の値段は相当に異なるのではないだろうか。

 16:50 2時間弱の買い物を終えバスに戻る。ようやくじっくりと買い物ができ、残金も少なくなり、心残りの事柄もなくなり私たちは満足して帰路に就いたのだった。

 


ハバロフスクへ

 17:30 ホテルに帰着してすぐに夕食。1時間後の18:30にはホテルをcheck outした。ウラジオから一緒に来てくれたAndreさんがここでcheck outの確認に現れ、パスポートを僕等に渡してくれる。彼が同行するのはここまでで、帰りは私たち5人だけでハバロフスクへ向かうことになった。バスで慌ただしく空港へ向かう。行きとは違って天気は悪くなかった。

 19:50 疲れてウトウトしている内にDomodedovo空港に到着。モスクワの案内をしてくれたターニャさん、マキシムさんとここでお別れする。飛行機の便を確認し損なわないようにとターニャさんから注意を受ける。ターニャさんは真面目で親切な人だった。旅行業のサービスの一環とはいえ有り難い。

 荷物を預け搭乗開始を待つ。表示されているサインのほとんどがロシア語で、行き先も便名もロシア語なのでややてこずったが、20:30になんとかSU-025便(飛行機はIL-62M型機)に搭乗する。搭乗してから離陸するまでに結構時間が掛かった。国が大きいせいかここら辺のおおらかさも国際線並みだ。

 21:30 ようやく離陸。「モスクワの夜は更けて」ではないが、夜更けのTake Offだった。街の東はずれからそのまま東方へ飛び去ってしまうので、街の夜景を見ることはできなかった。

 ハバロフスクまでは約8時間のFlightである。帰路は東へ向かうので時間が早く過ぎる。夜が短くあっという間に朝が訪れる。睡眠時間は勢い短くなってしまう。時差ボケのままなら、それが戻るのだから良いのだが、3日間滞在してようやくというか早くもモスクワタイムに慣れ始めてしまったので、東に戻って早起きを迫られるのには、実際この後難儀したのだった。

 23:30 機内食が出る。僕の隣はロシア人のおじさんだった。ただこのおじさん、機内で席に着くなり寝入ってしまった。そして離陸時もシートベルトもせずに寝たままで、更にハバロフスクまで食事もせずにひたすら寝続けていた。あんまり寝たままなので生きているかどうか怪しく思われてしまったが、たまに見ると寝返りを打って向きを変えていたので、それで死んではいないと判るのだった。結局彼は着陸時もシートベルトをせずそのまま寝続けていた。スチュワーデスも彼のシートベルトを別にチェックはしておらず、ここら辺も相変わらず大雑把だった。彼が起きるのを見ることなく僕等は飛行機を降りてしまったが、今頃彼はどうしているのだろうか。そして如何なる理由で彼はあの時寝続けていたのだろうか。

1992年10月 ロシア日記・記事一覧

#街並み 海外  #道  #商業系 
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オスタンキノ・タワー

1992-10-15 | ロシア  

1992.10.15(Thu) Moscow

オスタンキノ・タワー遠望

 モスクワ市街の北部にオスタンキノ・タワーはある。市街のガイド地図にテレビ塔は記載されているが、街中からは霞んでしまいあまり見えない。このテレビ塔の足下にはオスタンキノテレビの放送局がある。

宇宙征服者のオベリスク遠望   Google Map
Wikipedia > 宇宙征服者のオベリスク

 また塔の周辺にはジェルジンスキー公園があり、国民経済博覧会、宇宙飛行士博物館などの施設もある。市街を北へ向かってバスに乗っている内にテレビ塔が見えてくる。先端部までで540mあるという塔の高さに比してその太さはかなり細く見える。遠くから見ると本当に500mもあるようには見えない。しかし近づくにつれ、見上げると首が痛くなりそうなくらいに高い建物であることが判ってくる。

オスタンキノ・タワー   Google Map
Wikipedia > オスタンキノ・タワー
建設年:1963年着工、1967年完成。
高さ :540m

 13:00 オスタンキノ・タワーに上る。塔の構造はRCで、下の方はスカートのように広がっており、全体としては巨大なロケットのような形をしている。これだけの高さのものをかなりの自重があるRCで造ってしまったのはすごいことだ。

オスタンキノ・タワー展望室から

 塔に上るために必要なチケットはマキシムさんという男性が手配してくれていたのだが、その人の到着が遅れたので塔の下のエレベーターホールでしばらく待つ。

 テレビ塔は情報関連の重要な施設なので、出入りの管理はかなり厳しい。東京タワーではセキュリティチェックなどは大してないが、ここでは身体検査と荷物検査が入念に行われる。その後、上海のテレビ塔でも同様の体験をして、テレビ塔とはそういうところなのだと再認識したのだった。オスタンキノテレビはその後、94年のクーデターの際、反乱軍が占拠し、そこへ戦車が突入する様子と、銃撃戦の映像で世界にも報道された。たしかにテレビ局は政治的にも重要な施設なのだ。

展望室から市内

 展望室は地上337mの場所にある。東京タワーの先端部よりまだ高い。当初は世界最高の高さであったこの塔は、1992年時点で自立型のものとしてはトロントのテレビ塔についで世界第2位(RCでは未だに世界一)だった。確かに高い。しかし期待したほどの感慨はない。塔が街の中心部から離れているため周辺に大きな建物や、有名な施設がないため、塔からの景色にはそれほどの特徴はない。それでもせっかく来たのだからと、一応いろいろな方向の写真を撮っておく。市街の中心部は霞んでしまってほとんど見えない。

展望室から市内 直下のビルはオスタンキノテレビ  Google Map

 地上328mにある展望レストランで昼食をとる。レストランは回転式で、座って食事をしている1時間ほどの内に一回転した。高さが高いので風の影響を受け、座っているとゆっくりとした揺れを感じるのだった。ちなみにこのレストランは、8年後の2000年にタワーで火災が発生したため、その後、閉鎖されたままなのだそうだ。

 タワーで同行してくれたマキシムさんはキリッとした人なのだが、何となく表情が暗く、また無口なので今ひとつ何を考えているか判らない。サービス用の笑顔を作るのにロシア人はまだ慣れていないのだろうか。食事の時にもむっつり黙って外を眺めているので、どうもこちらも話しにくく、やや困惑してしまうのだった。

 14:30、タワーを出て市内に戻る。



オスタンキノ・タワー パンフ
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#パノラマ  #眺望  #塔  #モニュメント  #公園  #街並み 海外 
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プーシキン美術館

1992-10-15 | ロシア  

1992.10.15(Thu) Moscow

 10:30 市中のプーシキン美術館に到着。意外に日中は暖かなのでホッとする。

プーシキン美術館   Google Map
Wikipedia > プーシキン美術館
建設年:1898年定礎、1912年開設。

 美術館の建物は玄関部分がギリシャ神殿風で、ガラスの天窓が左右にのびた折衷主義の様式建築だった。

 ロシアと言えばレニングラードのエルミタージュ美術館が有名だ。エルミタージュ美術館は皇帝の収集品を展示したのが始まりだが、モスクワのプーシキン美術館もそれに次ぐコレクションを持っているという。ただプーシキン美術館の方は、市民が芸術に触れる機会を与え、その文化水準を向上させる意図も持っている施設らしく、やや意外なことに古今東西の絵画や彫刻のコピーが多く展示されている。もちろん中には本物も数多くあるのだが、ロシア語の説明書きが分からないので、私たちは本物かコピーかよく分からない。モスクワくんだりまで来てコピーを見せられてしまうのはやや釈然としないが、ここまで来たのでとりあえず館内を見学する。

 エジプトのレリーフ、ギリシャやローマの彫刻、印象派の絵画、近代ではロダンの考える人や、ブールデルの作品など、いずれもコピーで見ることができる。教育目的が重視されているだけあって、小学生や中学生達が集団で見学しているのに出くわす。日本の美術館ではあまり見られない風景なのでちょっととまどってしまう。しかしよくよく考えてみると、精巧なコピーを展示しているのであれば、質の良い作品を安く、身近に見ることができる環境があるのは実は素晴らしいことなのではないかと思えてくる。何も何億もする絵を買うだけが美術鑑賞ではない。コピーでも目の前にそれがあって、体験することができるのは幸せなのかもしれない。

 館内にはロシア正教のイコンも数多く展示されている。学生達は自身のルーツを辿るようにイコンを眺めているのだった。だが教会から取り外されて美術館の綺麗な壁に吊されたイコンには、宗教的な力がやや感じられず、単なる美術品にしか見えなくなっているような気がした。そこらへんは、社会主義、共産主義国家として、宗教の存在自体がいったん消滅してしまったという事実にも遠因を求め得るのかもしれないとも思われる。

 内部中央には3F分程度の高低差のある大階段室があり、建築的にもそれなりに楽しめるものだった。この時点では私はまだ西欧諸国の優れた様式建築を見ていなかったので、この美術館の立派な造りには結構感動した。しかし彼等がなぜ私たちをここへ案内したのかは結局判らずじまいなのだった。

 12:15 美術館を出てオスタンキノテレビ塔へ向かう。ここで昼食らしい。

1992年10月 ロシア日記・記事一覧

#吹き抜け・アトリウム  #屋内階段  #ミュージアム  #新古典主義 
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