天然痘は日本では何度も大流行を重ね、江戸時代には定着し、誰もが罹る病気となっていた。幕末の頃、長州でも天然痘が流行し、吉田松蔭や高杉晋作が罹病したと言われている。1823年に長崎出島の商館医としてオランダ政府に派遣されたシーボルトは『江戸参府紀行』の中で、当時の農村部において、この天然痘に、人々がどのように対処したかを、次のように記録している。場所は長崎の大村藩(現在大村市)である。
フィリップ・フランツ・バルタザール・フォン・シーボルト(Philipp Franz Balthasar von Siebold、1796年- 1866年)
「天然痘は八世紀半ばに日本に伝わり、まもなく全国に広がった。天然痘患者の出た町や村ではしめ縄を張って厄よけとし、そのような家では帚を戸口に立てて知らせる。天然痘が周辺の地域に蔓延すると、ここでは厳しい隔離処理がとられる。この伝染病が部落に発生すると病気にかかっているものは、皆山岳地帯に連れていかれ、完全に治癒するまで看護を受ける。こういった回復期の病人が再び生気のない顔で故郷に行列をなして帰るのを見たことがある。五島列島では長い間、この伝染病からのがれていたが、一度これが侵入すると少数の老人を除いて多くの住民が死亡した。」磯田道史氏(「感染症の日本史」)によると、当時藩によっては患者を棄民のようにして山に放置するところもあったようだ。
天然痘が出た村の入り口に張ったしめ縄は一種のロックダウンの印だったのであろう。オランダからやって来たシーボルトは1823年8月11日に出島に上陸したが、その24日には種痘を日本人に試みた記録がある。江戸参府でも江戸に着いてから子供5人に種痘を行っている(ただ薬が古かったのでやり方を見せるのが目的)。その後、高良斎、伊藤圭介、伊東玄朴などシーボルトの弟子によって種痘の研究と普及はうけつがれた。
参考文献
法政大学フォン・シーボルト研究会 『PH.FR. VON. SIEBOLD研究論集』法政大学 1985.
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