京都楽蜂庵日記

ミニ里山の観察記録

悪口の解剖学: 三国志にみる悪口の活用

2020年08月17日 | 悪口学

   歴史的に最も有名な悪口文書の代表は、中国の「文選」に載っている陳琳の「袁紹のために豫州に檄す」であろう。

操は贅閹の遺醜にして、本より懿徳無し。剽狡は鋒のごとく協い、乱を好み禍を楽しむ........

袁紹の下にいた陳琳は「曹操打倒の檄文」を書いた。これには曹操の悪口だけでなく、祖父が宦官であったことや、父がその養子であったことにまでふれている。まさに罵詈雑言。曹操はそれを読んで激怒したが、後に、陳琳が捕虜になったとき、その文才を認めて命を助け文書官にしている。期待に応じて陳琳は、「呉の将校部曲に激す」を書き、「孫権は豆と麦の区別も出来ない若造で、こいつの名前は刑書に書き込む価値も無いアホンダラだ」などと激しく罵倒した。これらの檄文は「文選」という中国の古典に収録されているので、創作ではなく歴史的な事実のようである。

 三国志演義では諸葛孔明は魏の老臣である曹真に罵詈雑言の満ちた手紙を送り、憤死させている。これは演義のフィクションで史実ではないが、当時は、相手の士気を阻喪させ、味方を活気づける文書をばらまくのが、重要な宣伝戦であった。演義には、また孔明と魏の王朗が大軍を前に舌戦を展開し、ここでも孔明の罵倒により、王朗が憤死している。これも、史実ではないが、古代や中世の戦争では会戦の前に、一種のアジテーションをすることが多かったようだ。ギリシャの神々も戦いの前に、お互いに口上を述べ合い、相手を罵倒する掛け合いをすることが古典に書かれている(山本幸司参照)。

 日本の軍記物語にも、開戦前の口合戦が記録されている。源平合戦における屋島の戦いで、平家の中治郎兵衛盛嗣と義経の家来伊勢三郎義盛とのやりとりが残っている。盛嗣が「義経ちゅうのは、ガキのころ、あわれな姿で東北をさまよっていた舎那王のことだろう」とバカにしていうと、義盛も「てめえこそ、北陸で義仲にさんざん叩かれ、ほうほうのていで京に逃げ帰ってきた乞食野郎だ」と言い返している。頭が良くなくては、こんな悪口もすらすら言えない。戦闘前の口上は、兵士の士気を左右したのではないだろか?

鎌倉時代の御成敗式目には「悪口の咎の事」という禁令があって、武士の悪口は処罰されていた。名誉を重んじる武士が悪口によって闘殺にいたることが度々あったので、幕府は厳しきこれを禁じ、犯す者を処罰した。「悪態の科学」(エマ・バーン:原書房)という本にも日本では西洋に比較してFuckとかShitといういうな罵倒語が少ないのはこの歴史的な事柄によるとしている。

 

参考図書

山本幸司 『<悪口>という文化』 平凡社 2006

井波律子 『三国志名言集』岩波現代文庫 296 (2018)

陳瞬臣 諸葛孔明(中国ライブラリー15)集英社1999


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