Remembrance 2006/09/06-2020/06/08  2020/07/01-

   ある日のできごと、心の呟き、よしなしごとetc

祇園祭(前祭)F    11 郭巨山    12 四条傘鉾     20240717 

2024年07月26日 | 
四条通を西に向かって歩いて、郭巨山へ行きました。

11 郭巨山(かっきょやま)



    

郭巨山は人形の設置、飾り付けをしていました。

       

近くで見ようと思って、四条通を北から南へ横断しました。

四条通(西から東山方面を撮影)

8時10分  


郭巨山のTシャツ 
   鍬と天から授けられた黄金一釜  

 


   


胴掛け  





   



        

         


郭巨山には「日覆い障子」の屋根が あります。
八坂神社の五窠紋と巴紋が朱で大きく描かれています。

人形の顔はまだ白い布で覆われています。

   


ついに覆っていた布が取り外されました。

    

山屋台上の御神体 (人形)は、郭巨と童子です。
 
身長160cm の郭巨は、生活苦と驚き(黄金出現)の混じった表情だそうな。
身長105㎝ の童子(三歳)は、右手に唐団扇、左手に牡丹の大輪を持ち、笑顔を浮かべています。
     
        



見送り『昇り龍図染彩』

車輪は小さいです  


--------------------------------------------------------------
http://www.gionmatsuri.or.jp/yamahoko/kakkyoyama.htmlより引用

中国の史話二十四孝の一人郭巨釜掘りの故事にちなんで造られ「釜掘り山」ともいわれる。
山に飾る御神体(人形)の郭巨と童子は寛政元年(1789)金勝亭九右衛門利恭の作で前懸は天明5年(1785)製の唐美人遊楽図の絽刺、胴懸は石田幽汀(1721~86)の下絵による呉道子描龍図と陳平飼虎図の刺繍で天明5年松屋源兵衛の作、見送は文化12年(1815)製で円山応震(1790~1838)の下絵による山水仙人図であったが、昭和58年から新しく上村松篁原画による秋草図前懸、花の汀図および春雪図胴懸、都の春図見送の綴織を順次新調した。後懸は阿国歌舞伎図綴織と古後懸に天明5年改修の黒ビロード地福禄寿図刺繍がある。この山に限って桐桜菊の欄縁の下に金地彩色宝相華文様の乳隠しが用いられ、また屋根覆いをかけている。

--------------------------------------------------------------
https://kyotolove.kyoto/I0000629より引用

郭巨山釜堀りの故事は中国二十四孝という親孝行の話のひとつで、後漢の人、郭巨は貧困のため老母と3歳になる男子を養えなくなり、悩んだ郭巨は「子を育てようとすれば老親への孝の妨げとなり、老母を養おうとしても老母はその少ない食物を孫に与えるのでこれも老親への孝の妨げとなる。よって、子を棄て、母を養おう。子は再び得られるが母は再び得られない」と決心し、子を棄てることにする。
穴を掘ろうとしたら、地中から「天賜孝子郭巨 官不得奪 人不得取=天が孝子郭巨に与える。官が奪ってはいけない。人も取ってはいけない」の1札とともに黄金1釜(約6斗升)が出て、老母に孝養を尽くせたという。

--------------------------------------------------------------

https://kakkyo-yama.org/

https://kakkyo-yama.org/gionmatsuri/photo
--------------------------------------------------------------

四条通を少し西へ歩きました。

12 四条傘鉾

8時25分頃  

子どもたちとその親たちがたくさんいます。
どうやら子どもたちが主役の傘鉾のようです。



四条傘鉾の垂りは、染色作家鈴鹿雄次郎が製作した絹織物『麗光鳳舞之図』。
魔除けといわれる七色の雲を背景に、鳥が飛ぶ姿を表したものだそうな。
 
傘の上には赤い御幣と若松が飾られています。

    
    
組ごとに写真を撮っていました。

一組が棒振り・鉦・太鼓・ササラの8人。
二組計16人の小学生で構成されているそうです。

   


棒振りを担当する踊子は、頭に赤熊(しゃぐま)をかぶり、振袖袴姿です。

       


このブログをまとめるまで、棒振り踊りというものがあることさえ知らなかった私。
見逃したのは残念ですが、また次の機会の楽しみにします。



8時半頃の四条通 


--------------------------------------------
http://www.gionmatsuri.or.jp/yamahoko/shijokasahoko.htmlより引用

四条傘鉾は、織物の垂りなどをつけた傘と棒ふりばやしが巡行する古い鉾の形態である傘鉾の一つ
--------------------------------------------------------------------------
https://kyoto-k.sakura.ne.jp/gion125.htmlより引用

 四条傘鉾は、織物の垂りなどをつけた傘と棒ふりばやしが巡行する古い鉾の形態である傘鉾の一つで、応仁の乱(一四六七~一四七七)以前に起源をもち、傘の上には赤幣(あかへい)と花瓶、若松を飾る。
 大火焼失、復興を繰返していた四条傘鉾も、明治四年まで巡行に加わって以降途絶えていたが、昭和六十年、町内の人々の努力が実り傘鉾の本体が再興され、昭和六十三年から巡行に欠かせない踊りとはやしが復元され、三十二番目の山鉾として巡行することになった。実に百十七年ぶりのことであった。
 なお、踊りとはやしは、室町時代に京都から広まった風流踊(ふりゅうおどり)で、今も滋賀県の瀧樹(たぎ)神社に伝わる「ケンケト踊」を参考に復元したものである。 
--------------------------------------------------------------------------

https://www.city.kyoto.lg.jp/shimogyo/page/0000011951.htmlより引用

山鉾の魅力細見 -四条傘鉾-
棒振りの子供が舞う昭和最後に復興した傘鉾

 古く応仁の乱以前に起源を持っていますが、明治4年以降途絶えていた傘鉾です。昭和60年に本体が再興され、路上に飾るだけの「居祭(いまつり)」を続けていましたが、3年後に踊りと囃子が再現され完全復興しました。棒振り踊の構成は、棒振り2人と鉦(かね)・太鼓・ササラ各2人の計8人の子供からなります。囃子に合わせて踊る様子は、綾傘鉾のそれとは印象が違っていて、実に味わい深いものです。

四条傘鉾の由来は、山鉾の魅力細見・山鉾由来記のページをご覧ください。


明治4年の巡行に加わって以降途絶えていたこの傘鉾も、昭和60年にはこのような路上に飾るだけの「居祭」の形ながら114年ぶりに祇園祭に参加した

奏でられるお囃子は、新たに作られたもので、ゆったりとした特徴を持つもの

『洛中洛外図屏風』や古い文献を参考に作られ山上に赤幣と若松を飾る



-------------------------------------------------------------
https://www.city.kyoto.lg.jp/shimogyo/page/0000011341.htmlより引用

 綾傘鉾と同じく鉾の最も古い形態を残す傘鉾である。しかし以前は台車は付いておらず、人が持って巡行していた。傘鉾というのは、儀杖(ぎじょう)用の矛(ほこ)に傘を付けたもので、神事では神様の仮のお姿として祀られたという。

 四条傘鉾も傘鉾と棒振り囃子の行列で巡行に参加するが、これは素戔鳴尊(すさのおのみこと)が大蛇(おろち)を退治したとき、鬼たちが主人を捨てて尊に従って北天竺まで送ったさまを表したものだといわれている。


-------------------------------------------------------------

1 長刀鉾
2 函谷鉾
3 月鉾
4 船鉾
5 岩戸山
6 白楽天山
7 鶏鉾
8 綾傘鉾
9 船鉾(再度)
10 放下鉾
11 郭巨山
12 四条傘鉾
13 蟷螂山
14 放下鉾(再度)
15 菊水鉾

巡行の様子
16 鶏鉾 
17 月鉾
18 太子山
19 綾傘鉾
20 菊水鉾
21 蟷螂山
22 木賊山   
23 放下鉾
24 占出山

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする