Remembrance 2006/09/06-2020/06/08  2020/07/01-

   ある日のできごと、心の呟き、よしなしごとetc

老い(その4)

2009年01月30日 | 人生・幸せ・老い・お付き合い
特に多忙という日を過ごしているわけでもないのに、時々新聞を何日分もまとめて読む日というのがある。

今日は(かなり前の)5日分の新聞を読んだが、その中でちょっと目が留まった記事をいくつか。
テーマは、「老い」。


○朝日新聞「声」欄 20090114
 「最後の賀状に恩師の心思う」

「今年は二人合わせて百六十歳を迎え、版画も一言もむずかしくなり、年賀状も今年をもって終わりとさせていただきます」と記された、恩師からの一葉を受け取った73歳の筆者。

文章の最後は「先生の年賀状が途絶えても私は欠かさずお送りしたい。」で結ばれていた。



私の母は、数え年80歳になった年、「年賀状はもう終わりにしようと思う。親戚や近くの友人への賀状はもう書かないことに決めた!!でも、賀状をもらって、こちらからも出さないと申し訳ない気がする人にだけは後から送るから、年賀状は10枚だけ印刷をしてほしい。」と言い出した。

父がいるころ、母の年賀状はすべて父任せだった。
父は字を書くことが好きだったようで、何日もかかって、バランスのよい、きっちりとした字で宛名を書いていた。
書き上げた宛名にミスがないかを点検するのが母の役目で、二人は仲良くコタツに座って取り組んでいたのを思い出す。

父が亡くなってから母が送る年賀状は、新年の祝詞と住所等の面は私が印刷をしているが、宛名だけは母の自筆である。
宛名を自分で書けなくなったら賀状をお送りする意味がないというところで母と私の意見は一致している。

母の老いを近くで見ているからなのだが、私自身も年賀状の文面を考えることや、宛名を書くことがいつまでできるだろう‥と、毎年漠然と思う。
加齢等で、賀状を出すことが難しくなっても、届いた賀状は読んでくださっているだろうと思い、私も高齢の方から賀状がいただけなくなっても、その人のことが心にある限りお送りしようと決めている。




○朝日新聞「男のひといき」欄 20090114
 「友達と歩く」

持っている礼服に体を合わせるためにウォーキングを始めた61歳の筆者。

最後の方で、
「『することがある』『行くところがある』『友達がいる』
これが、ささやかだが本物の幸せと実感した。」
とある。


何でもない日常の中にこそ本物の幸せと呼ぶものがあると私も常々思っているのだが、最近考えるのはその先のこと。

これもまた母の老い(幸いなことに母は今も「ささやかだが本物の幸せ」の中にいる)を近くで見ているからなのだが、「することがなくなる」「行くところがなくなる」「友達が亡くなる」という状況になれば、どう希望を持てばいいのだろう。

昔から「生きざま」という言葉を聞くとき、必ず「死にざま」を想像する思考回路を持っている私は、「ささやかだが本物の幸せ」を思うときいつも「その先」を思い、生き急いでしまおうと考えてしまう。



○朝日新聞「声」欄 20090118
「100歳と96歳の先輩から勇気」

100歳と96歳の先輩から今年も賀状が届き、「感動と生きる勇気をもらった」85歳の筆者は「2人に比べると、私が年寄り意識を持つのはまだ10年早いような気がする」と書いている。


人間はその環境から大きな影響を受けるものだとするなら、どの年齢の時も「明天会更好(明日はもっと良い日)」「天無絶人之路(どんな時にも希望はある)」という生き方をしている人が自分の周りにたくさんいてくれたら、自分もポジティブでいられえるような気がする。
”付き合うべき人は澄んだ心の持ち主”とずっと思ってきたが、「明天会更好」という思いを持っているかどうかもポイントだと思うようになってきた。

母といっしょに数日暮らしていると、快活なお喋りをしているときは良いのだが、母が安定しない体調のことや将来の不安を話し始め、それが繰り返されると、こちらまでそのモードに引きずり込まれ、ちょっとしんどくなってくる。

年寄り同士で、できないことや体力のないことを披露し合うのは、ストレスが発散できるのかもしれないし、「自分だけではないんだ」という安堵感を得られてよいのかもしれない。

老いはどうしようもないことだと私も頭では理解しているし、だんだん気力も失いがちな母に酷なことは言えない。

しかし、それらを聞きながら私は心の中で呟いている時がある。

「それはもうわかった。そんなことを愚痴っぽく言っても、何も始まらない。
仮に『自分だけが老いているのではない。』とわかっても、逆に『自分が人よりも老いている。』とわかっても、結局はそんな『自分』を受け入れなくてはいけないのだから、他人との比較は全く意味がない。」

誰かに聞いてもらうだけでも気持ちが軽くなるという思いで話しているのだろうから、相槌を打って、ただ頷けばよいのだろう。それはわかっている。
が、耐性の弱い私はやはり冷たい人間なのだろうと思わざるを得ない。








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