草深昌子選

妹と加賀の地酒を年忘れ 山森小径
一年の労苦を忘れんがための忘年会。
サラリーマンの賑やかな盛り上がりとは程遠い、姉と妹の二人の年忘である。
どんな忘年会か、何も言っていないが、「加賀の地酒」、ただそれだけをもって物語るよろしさが切なきまでに満ちている。
二人という、しかも女だけの淋しさながら、加賀という風光、加賀ならではの地酒の味わい、そんな奥行のある下地がほのぼのと一句を染め上げているのである。
アリーナの一万人のマスクかな 小宮からす
アリーナというと私のなかではそれなりの興行ホールあるいは競技場のようなものが浮かび上がるが、作者は果たしてどこのどんなアリーナで見届けられたものであろうか。
そんな事実はさておき圧倒されるのは「一万人のマスク」である。
このコロナ禍にあって実現した一万人の観客のマスクの迫力はどうだろう。
大いなるものでありながら、大音響がシーンという静けさの音に聞こえてきそうな「マスク」が切ない。
かつての乾燥や寒気を防ぐための冬の季題「マスク」はもうここには掻き消えてしまっている。
母と子と冬あたたかに丸眼鏡 石本りょうこ
母と子が同じ丸眼鏡をかけていると言うだけの一句である。
それでいて何と「冬あたたか」を心底感じさせられるものになっていることだろうか。
こういう俳句を読むと「俳句は季題を詠うもの」だということがつくづく実感される。
ところで丸眼鏡とはどんなものだろうか。懐かしき気分とともに、ただ「丸」という一字を冠した眼鏡、何となく縁が黒っぽく、いかにも仲のよい母子に似合いそうなものを勝手に想像するものである。
しかも二人はどこに、どういう風にとも説明はしていないが、揃って笑顔をこちらに向けてくれていそうである。
俳句という詩は何の理屈もないところに感銘をいただくものである。
親玉の都々逸聴くや年忘れ 長谷川美知江
親玉とは親分と同義であろう、だが〈親分の都々逸〉と言うよりは〈親玉の都々逸〉の方がその声調は数段上のように思われる、それは何故だろう。親玉とは作者にとってのボスであろうが、「玉」の一語に一目置いている心が窺われるからかもしれない。
何気ない文字そのものの語感や文字面(もじづら)というものが一句全体にそこはか響くものがあるのは短い詩型の特徴である。
いずれにしても、思いがけない都々逸に驚いたり楽しんだりの忘年会が面白い。

短日や同じ字をまた辞書に引き 田中朝子
「短日」は「日短(ひみじか)」ともいう、冬の日が短いことである。
日短の句といえば、高濱虚子の二句が思われる。
〈来るとはや帰り支度や日短 虚子〉
日が暗くならないうち早くおいとましなければならないという客の心理や様子がバッチリよくわかる。
〈物指で脊かくことも日短 虚子〉
日が短いから、物指で背中をかいたという意味ではない。
この二つの関係に何の因果もないのだが、そうした無意味な仕草からふと短日を意識させられてしまったのだろうか、人間だなあって、一読笑ってしまった。
こういう句にゾッコン惚れこんでしまうと、短日という季題に手も足も出なくなってしまう。
だが、掲句は虚子同様、本当に自身が感じ入った日短をそのまま詠ったもので、すぐにも納得させられるものである。
一見たどたどしくて何でもなさそうに見える句、そういう句にこそ真実があることを見落としてはならない。
襟巻を編まんロシアの恋人に 松尾まつを
作者は妙齢のお嬢さん、と言いたいところだが、高齢のタフガイである。
過去にロシアに居て彼女から贈られた体験を思い出したか、目下の戦渦に心痛めてのものか、読者にはわからないが作者の中にはそれなりのものがあって想像を働かせたのであろう。
この句は「襟巻」たる兼題で仕上がった一句。ときに、俳句は兼題で遊ぶという楽しみがあってもいい。
ついでながら、襟巻と言えばまた高浜虚子である。
〈襟巻の狐の顔は別に在り〉、いやはや面白い。
ちと欠けし月を眺むる年の暮 菊地後輪
「月を眺むる年の暮」とは、いかにも平穏無事の余裕あるよき年の暮である。
だがそう単純に思えないのは、上五の「ちと欠けし」である。
作者はここに作者自身を客観的に見てとっているのではなかろうか。
欠けた月ではありながら「ちと」という措辞には軽みというか達観したものが漂っている。
こちらは虚子にあらずして、「一茶」風のように思われる。
「年の暮」と同じ一年の終りながら、やや主観のこもった「行く年」という季題がある。
〈行く年や庇の上におく薪(たきぎ) 一茶〉、しみじみとする一茶の年末である。
一茶同様、掲句の作者もよき年を迎えらえたことであろう。
大阪のネギラーメンの九条葱 葉山蛍
初めてカルチャー俳句教室に入ってこられて、兼題「葱」で仕上がった一句。
作者は厚木の方だから、出張か旅行であろうか、大阪でネギラーメンを注文したら九条葱が山盛りのっかってきたというのである。
関西に代表される葉葱の九条葱はうわさに聞いておられたからこその出会いではあろうが、
その驚きがそのまま一続きの叙述になっている。脚色のなさが、おいしかったを思わせるに充分である。
私など葱が大好きで毎日葱をいただかない日はないのであるが、365日毎日食べているから出来るというものでもない。
俳句というものは、出会いがしらにあっと驚かないことには出来ないものである。

富士近き町に釜揚うどんかな 奥山きよ子
スケート場灯し港は暮れにけり きよ子
悴んで菩薩の笑みの前にをり 佐藤昌緒
マフラーのまま単身の部屋灯す 柴田博祥
寒晴や甕に守宮の丸く浮き 二村結季
鯛焼を買うて一駅歩きけり 石堂光子
義経の首洗ひとや冬ざるる 湯川桂香
短日やベンチに杖の忘れもの 中原初雪
短日の夕日隠れの子鹿かな 伊藤 波
今は見ぬ灯台守や冬至の夜 町田亮々
吹雪く海父の匂ひの襟巻す 内海七海
餅搗くや第二日曜十五キロ 漆谷たから
数へ日やこの一冊を読み切らん 佐藤健成
始まりて終はりが見えぬ冬花火 永瀬なつき
菜箸を離さぬ夫や鋤焼す 川北廣子
襟巻やショーウインドウに映る父 松原白士
咲き初めしかに咲ききって冬桜 森田ちとせ
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