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青草俳句会~命のよろこび

結社「青草」 主宰 草深昌子

「青草俳句会」選後に・令和2年11月 草深昌子選

2020年11月28日 | 俳句

                               

 

      冬花火エプロンのまま見てをりぬ        松井あき子

 花火といえば夏。もともとは盂蘭盆会の送火や亡くなった方への供養というものであったが、いつしか納涼の行事となっている。ところが今年の花火大会はほぼ中止、コロナ禍の密集をさけるため突然の花火打ち上げも多くあったようである。

   さてこの花火は冬のさ中。夕餉の支度か晩餐の後の片づけがエプロン掛のまま、勝手口をあけて仰がれたのであろう。日常の中のふとした驚きをそのまま詠いあげて、夏の花火とはあきらかに一線を画している。   もの静かなる叙述の余韻に、澄み切った夜空に揚がる花火はさぞかし美しいことであろうと、読者もまた冬の風物に心を寄せるのである。

 

       縄跳びに入る掛け声小春かな             あき子

 縄跳びを見届けただけでなく、子供の気合の声を聞きとめた。小春のリズムの楽しさ。

 

       枯蟷螂翅かじられてありにけり           湯川桂香

 作者のお孫さんは蟷螂を籠に飼って、日々その状態を観察されているという。それというのも桂香さんの旺盛なる好奇心の遺伝子のたまものかもしれない。  格好の教材を身近にしての一句はまさに迫力満点。「ありにけり」と言い切って、無駄な感想を付け足さないところが光っている。

 

      いとをかしおろぬきなれどはや蕪                桂香

 「おろぬき」というのは「おろ抜き」、つまり間引菜のこと。間引菜ながらに、その先っぽには一丁前に蕪のかたちをしたものがついていた、それが「いとをかし」なのである。表出の仕方そのものがすでにおかしい。

 

      耳遠くなりて二人や木守柿            奥山きよ子 

   来年もよく生りますようにという、一種のおまじないというか、祈りをこめて、柿の一つを木に取り残しておくのが「きもりがき」、「きまもり」である。

 先祖代々そうして育ててきた柿の木であろう。そこには耳の遠くなった二人がよりそうように立っている。いや立っているというより暮らしているのだろうか、これが夫婦なのか親子なのか二人の関係もわからない。 表向き何の因果もないフレーズと木守柿が、離れがたく結びついて共鳴してやまないものとなっている。   目には見えても音のない世界の静けさ、穏やかさが、ひろやかな時空を見せるのである。赤々とある木守柿には二人の心情もこもっていそう。

 

      講演のしばし立見の小春かな                  きよ子

   小春日という季題の素材はどこにもころがっていて、何を詠ってもそれらしい小春となる。そこで「いかにも小春ですね」という詠い方には驚かない。この句は意外性があって、「ほお、そんな小春もいいものですね」と思わせてくれるところが面白い。「しばし」がいい。

 

      空港の展望デッキ小春かな            松尾まつを

 何も言わないのが俳句である。この句も場所を提示しただけ。だが「空港の展望デッキ」とは何と大きな打ち出しであろうか。人それぞれにこの光景を想像し、小春日和のよろしさを満喫するのである。 心を遠くに遊ばせて、小春の明るさにいつまでも佇んでいたいと思う。

 

     百歳のお方と歌ふ小春かな                  木下野風

  何ともやさしい心根の一句。百歳という高齢の健やかさに頭の下がる思いが「お方」にこもっている。シワシワの笑顔と若々しい笑顔が共にきらきらするような幸せの小春である。

 

    寒日和歴史講座の最終日               川井さとみ

 歴史講座と聞いただけで何やら堅いイメージがあるが、さまざまの時代を考えさせられたことであろう。心に重たく響く日もあったが、最終日の今日は見事に晴れ上がった。「寒日和」には、厳しい寒さの中にも、あれやこれやをくっきりと浮かび上がらせるような空気感がただよっている。

 

      小春日や冬物干して半袖に             漆谷たから

 小春といえば温暖なイメージがあるが、そればかりではないだろう。まさしく冬の寒さもあれば、夏かと思うほどの暑さもあるというのがこの頃の気温の上下の激しさである。そんな日和の一面を見事にキャッチされた一句である。それにしてもたからさん、半袖とはお若いですね、そういう羨ましさの眩しさもまた小春日の趣かもしれない。

 

      短日や一駅ごとに暮れてゆく                  佐藤健成

 冬至を最短にして冬の日暮れはたちまちやってくる。掲句はそんな短日を実に実直に実感をもって詠いあげた。 単線列車とか各駅停車の趣もあって、身のほとりにそくそくとしてわびしさが迫ってくるようである。

 

                                          

 

大石の苔に滑るや神の留守          日下しょう子

冬初め食卓の位置少し替へ          中原初雪

潮風に揺らがぬ石蕗の蕾かな         田中朝子

大菊の並ぶ廊下や参観日           神﨑ひで子

爺さまの小春の位置のたしかなる       冨沢詠司

暗がりに大きく見ゆる朴落葉         市川わこ

芭蕉忌や虚子著「芭蕉」をひもときて     鈴木一父

散りやまぬ紅葉のガラス美術館        平野翠

棕櫚剥ぐや外階段に錆噴きて         加藤かづ乃

柿たわわポンプ井戸ある畑の道        河野きなこ

冬立つや鞄の底に五円玉           森田ちとせ

人肌の白湯をふふむや今朝の冬        川北廣子

小春日の土嚢の堰や小鮎川          黒田珠水

藤の実や畑に燻る煙あり           加藤洋洋

御朱印の掠れ筆なる冬紅葉          伊藤波

芭蕉忌や川の名変はるこの辺り        佐藤昌緒

冬ぬくし石屋に二つ布袋像          東小薗まさ一

芭蕉忌や膝を押したり伸ばしたり       泉いづ

白波の連なりくるや石蕗の花         坂田金太郎

なほざりの茄子の畑や冬に入る        二村結季

茶の花の蕊の豊かにひらきけり        山森小径

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俳句総合誌 「WEP俳句通信」118号

2020年11月18日 | 俳句

特集〈結社誌・同人誌編集長20句競詠〉Ⅱ

    

   

  

 ソフィア        松尾まつを

明易や樟樹庵てふ祖父の家 

雲を衝く八丈富士やあごの飛ぶ

盛り上がる山また山や樟若葉

金魚売るソフィアの町の魚屋は

ベルゲンの白夜に月の上がりけり

赴任してあらぬ彼方に遠花火

御堂筋人の流れも涼新た

放課後の女性コーラス秋涼し

蝉時雨石灯籠は二列なり

墨染の町の中行く秋暑かな

空蝉や木立の中の光堂

戸を叩く音の激しき稲光

三川の交はる仕掛け花火かな

雷鳴や赤子泣きやむ鄙の家

雷鳴の遠く去りつつ山暮るる

アマリリスピサの斜塔の足下に

靖国の母なる祖母や百日草

歌舞伎町ネオンの陰や釣

虫干や草田男不死男竜之介

縁側の網戸外すや涼新た

 

松尾まつを 略歴

昭和13年(1938)10月1日・東京都生まれ

草深昌子に師事 「青草」創刊同人・編集長

 

(「WEP俳句通信」118号所収・202010月発刊) 

      

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2020年11月 第8回青草通信句会

2020年11月14日 | 俳句

草深昌子選                                                                              

                                         

                                     

   日の丸を見上げて通る文化の日     渡邉清枝

 日の丸の掲揚を見て「ああ、そうか今日は文化の日だったな・・」とふと文化の日に気付き、思いを馳せられたのではないでしょうか。何でもないようですが、見て通るでなく「見上げて通る」に文化の日への尊厳がうかがわれます。昔を懐古するだけでなく、今を生きる、今の文化の日のありようが新しい感慨をもって詠われています。 

 

  初冬や富士の頂き現るる          佐藤昌緒

 簡潔明瞭にて、一読、眼前に立ち現れた富士山の頂上にはっとさせられます。 これからがいよいよ美しくも壮大なる富士のながめとなるのでしょう。

 

   噴煙の斜めに立つや神の旅            昌緒

 噴煙は風の無いときはまっすぐに立ちのぼるものですが、今日は斜めです、そこに神の旅が見事に嵌まりました。「神渡し」という風のせいかもしれません。

 

  大豆打つこぼれ逃さぬ荒莚東        東小薗まさ一

 大豆を打つという光景は、旅先で見かけたことはあるのですが、なかなか詠いあげることはできません。この句には実体験の手際が目に見えるようです。「荒筵」には情景のみならずよき気概がこもっています。

 

  小書する地図になき道枯尾花        森田ちとせ

「小書する」とは見事な言い出しです。枯尾花のありよう、茫々たる地のありようなど想像されます。

 

  ひもすがら植ゑて球根文化の日     川井さとみ

 たまたま文化の日に球根を植えられたのでしょう、これから先の日数が楽しみというところで「文化」が生きています。

 

  昼までの葱の土寄せ文化の日        二村結季

 先の球根の句と同じ、たまたまの作業に文化の日のささやかな祝いごころが醸し出されています。「昼まで」がいい。

 

  山間の二軒を前や稲を干す       日下しょう子

 こじんまりとしたところに濃き日射しがあたっていることでしょう。渋い風景に目を止められました。

 

  珈琲とニューミュージック文化の日   木下野風

珈琲という昔からずっと愛されてきた味わいとニューミュージックのひびき。ただのミュージックでなく「ニュー」が利いています。理屈ではなく文化の日の伝統を匂わせます。

 

  登り来て薬師如来や薄紅葉         野風

 無駄な言葉がなく、紅葉のうっすらとした明るさが美しいです。

 

         

 

       冬晴や金のビルまた銀のビル      草深昌子

       石敷に砂の吹かるる海桐の実        

  菩提子をしづしづとほりゆきしかな     

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「青草俳句会」選後に・令和2年10月 草深昌子選

2020年11月05日 | 俳句

                               

                                       

     穭田の今が春なる青さかな          栗田白雲

 厚木市郊外のこのあたりでは穭田の勢いがとまらない。青田ではないかと見紛うほどに丈が伸び真っ青である。そんな穭田を作者は「今が春なる青さかな」と大いなる賛辞の声をあげたのである。

 春は四季の春ではなく、「わが世の春」つまり今を盛りの春だというのである。よくぞ言い当てたと思うばかり。豊穣の実りを果たしたあとのこの余力は、老境にある我々にもほしいもの。さしずめ、俳句に命をかける白雲さんその人の春のようではなかろうか。

 

       数珠玉や右ポケットに飴ひとつ       松井あき子

 川べりによく見かける数珠玉は地味な植物ではあるが、何とはなしに懐かしい思いにさそわれるものである。

 数珠玉に行き当たった作者もまたハッとされたのだろう。思わずポケットをまさぐったところ飴玉が一つ指に触れた、ただそれだけのことである。数珠玉を採ろうとした右手であろうか、子供の頃数珠に連ねて遊んだように手を伸ばしかけたのであろうか、飴玉とはちょっと違う、その粒々の感触をふと確かめてみたくなったのではなかろうか、子供に還ったような瞬時の心の動きが感じられた。

    俳句は黙って何も言わないものである。言わなくてもわかってもらえるのが俳句である。私が直感的に感じたことと、作者の思いは違うところにあるのかもしれない。俳句は作者の手を離れたらひとり立ちするもの、読者にどう鑑賞されても仕方ない、むしろさまざまに想像してもらえることを喜びとしたいものである。

 

        朝日子や刈田の横は穭なる        佐藤昌緒

    稲を刈り取ったばかりの刈田の横には、先に刈り取って切株から再び青い芽がはえた穭田もある。あまりにも当たり前の光景である。だが、「朝日子や」の上五でもって、かくも鮮やかにかけがえのない光景として目に見えるように打ち出してもらえると、はかなさも明るさもたっぷり感じられる。

   「朝日子」は大峯あきらの俳句に教えられた措辞で、私も真似をして使ったことで青草俳句会ではよく見受けるようになったが、このようによくこなれた使い方をしてもらえると嬉しい。

 

        日に干して瓢丸顔細面                 伊藤波

    瓢はひょうたんのこと。瓢はまた「千生り」と言われるほど多量の実をつけるもので、熟したあと中味の果肉をくりぬいて乾燥させて酒や花生けの器になる。

    日に乾きゆく瓢をながめていると、瓢の顔には丸いのもあれば細長いのもあるという、まるで人のようである。瓢箪のもっている面白さを、そのまま俳句の俳諧味に仕上げられた。

 

        蛇穴に入るやそろそろ夕餉時        神﨑ひで子

  「蛇穴に入る」は「穴惑ひ」ともいって、冬眠のために穴に入る蛇のことである。去年、奥吉野のお屋敷の庭で消えては現れる蛇を見かけたことがあるが、穴に入ろうとしていたのかどうかはよくわからなかった。

 そんな蛇に、「そろそろ夕餉時」とは絶妙である。時間的に「そろそろ」という措辞がまるで蛇の姿態のようにも呼応してそこに蛇がいるように感じられるものである。

 

       すだちの香行く末見えぬ疫病かな    松尾まつを

   コロナ禍の時勢、まさに「行く末見えぬ疫病かな」である。誰もがいいそうな、言わば用意されたようなフレーズではあるが、「すだちの香」とくると、このつらい疫病の蔓延が一と祓いされたような印象を覚える。快然に向かってほしいという願いを清々しくも叶えてくれるような気さえする。

    ひとえに「すだちの香」の効果である。   実は、酢橘は徳島を故郷とする方が句会に沢山お持ちくださったもの、そこで「酢橘」を席題にしたところ、すかさず一句にされたのである。 挨拶性のある即吟の楽しさ、よろしさをあらためて感じ入ったことである。

 

老木を祝ふがごとし彼岸花              平野翠

山裾に一径失せて狐花              加藤かづ乃

秋の夜や畳に長き我の影          日下しょう子

きのふけふ父の夜なべのさんだはら          二村結季

石塊と見まちがふかな柿一つ          鈴木一父

柿届く姉の手紙の右上がり           加藤洋洋

近づけば香り遠のく金木犀           冨沢詠司

括りてもなほ傾ぎたる黄菊かな           森田ちとせ

カップ麺デスクにありて夜業かな           中澤翔風

秋の日のポルカに靴を鳴らしけり        奥山きよ子

一村は深山にありて菊の花           河野きなこ

石蕗の花海のしぶきが真正面         東小薗まさ一

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