草深昌子選

雲はもう秋と言ひあふ東口 奥山きよ子
実際の雲の形状を言い表しているわけではないが、この表現によって読者がどんな雲であろうかとそれぞれに想像することができるだろう。 駅であろうか、「東口」という場所の設定がよく効いている。東口でなければならない理由はない、そこが一句の魅力である。これを南口、北口、西口に置き換えてみてもやはり東口がいいと思わせるものがある。
伊勢丹の閉ぢゆく街や秋の雲 きよ子
相模大野にある伊勢丹が閉店したという。そんな街の通りを一抹の淋しさを覚えながら行かれたのであろう。 「秋の雲」と大きく転換したところが爽やか。秋の雲は淋しさを包括した明るさの雲である。
鰯雲十九階の和食膳 中原初雪
秋の大空に鰯雲がさざなみの如く敷きのべられている。何しろ19階という高さ、それも高級なる和食膳をいただいているのであれば、その気分のよろしさは如何ばかりであろうか。作者の気持ちを代弁したかのような鰯雲である。 私も「食は文化だ」とか言い張って、食いしん坊であるが、このように自然の味わいが食のそれとなっているのを実感させていただくと喜ばしい、食欲の秋である。
南瓜には大中小の器量かな 川北廣子
駅頭で当地ご自慢の特大南瓜を見たことも、家庭菜園の小粒南瓜をいただいたこともある。なるほど南瓜には大中小があるのだなと思う。そしてそのどれにもそれなりの器量があるという、作者の見立てには愛情がこもっている。昔、「南瓜に目鼻」などと、不器量を冷やかされたこともあるが、思えばその人はその人なりにという情のこもった言葉であったかもしれない。
白頭鳥とガラス戸越しの会話かな 平野翠
百頭鳥はヒヨドリのこと。あのボサボサの毛の鵯もこう表記されると美しい感じがする。作者はきっと、硝子戸越しに鵯を見つけて、嬉しくなってまるで友達を迎えるように二た三言語りかけられたのであろう。鵯もあのピーヨピーヨを返したことだろう。 何を会話したのか、どんな気持であったかなど、何も付け加えないのがよかった。スッキリとした仕上がりをもって、その爽やかさを共有させてもらえるものである。

飼犬に吠えられてゐるサングラス 宮前ゆき
思わず笑ってしまった。思い切りフアッション性のあるサングラスであろうか。ちょっと気取った主、いや形相の変わってしまった主は飼犬からみても少々うさんくさいものだろう。サングラスの一面を捉えて面白い。
追風や吹け吹け吹けと運動会 石野すみれ
運動会は駆けっこ、いや紅白対抗リレー等切迫した勝負のかかった競技であろう。先ず「追風」を捉えて、「追風や」と切るところがうまい、すぐに続けて「吹け吹け吹け」という反復の勢いがまたいい、スピード感満点の一句。この調子の快さこそが運動会のそれとなって、元気そのものの運動会が思われる。
ころころと笑ふ二タ夜や盂蘭盆会 石本りょうこ
「ころころと」、なんて楽しい笑いであろうか。盆休みの親密なる集いが想像されて読者まで引き込まれて笑ってしまいそう。仲の良い盂蘭盆の夜は、精霊さまへの何よりの供養である。
花茣蓙に見返り美人よかりけり 東小薗まさ一
「花茣蓙」は歳時記によると、「色をつけた藺を横糸に、綿や麻の糸を縦糸にして模様を織り出した茣蓙。彩りが涼しさをもたらす夏の敷物」とある。この日本ならではの夏の風雅をまさ一さんは、ゆうゆうとお楽しみのようである。見返り美人はあの赤い着物のお方であろうか、男性ならではの涼しさ。
秋蝉や抓めば腹に啼く力 末澤みわ
蝉の声も秋になると何やら淋しげに聞こえる、短い蝉の命がいっそう思われるからであろうか。〈秋の蝉鐘にあたりて堕ちにけり 中川宋淵〉、こんな蝉をふと抓まれたのだろう、いとしさにかけよった感じがよく出ている。「腹に」というところまで見届けた、そこに「力」があるというのが凄い。

でで虫は向きたる方が前なのだ 永瀬なつき
熱帯夜ロック氷の溶ける音 なつき
来賓の肩に止まるや赤とんぼ 関野瑛子
魂棚に洋蘭一つ足しにけり 瑛子
稲妻や転居五か月目の玻璃戸 二村結季
空蝉を机の上に風生る 澤井みな子
行合の空低く飛び蝉数多 神﨑ひで子
残暑とはいつもの道の遠くなり 田中朝子
稲妻や空を二つに分け出でし 渡辺清枝
あんパンを二つに割りて夜長かな 中澤翔風
帰るには痩せ細りたる茄子の牛 山崎得真
石積みの奥に何やら虫の声 伊藤 波







