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青草俳句会~命のよろこび

結社「青草」 主宰 草深昌子

草深昌子を中心とする句会・選後に・令和6年6月  

2024年07月18日 | 俳句
草深昌子選

  



  あぢさゐや揺すつて軽き貯金箱   二村結季
 貯金箱に日々小銭を溜めている、時々手にとって揺すってみるのも楽しみの一つ。
 そろそろ大分溜まったころあいを察して揺すってみたところ、さほどのこともなかった。
 これは子供の仕草ではない、美しく年老いた女性の一句である。
作者の立ち位置はそう、手入の行き届いた庭に紫陽花の青紫がゆったりと揺れているところだろう。
 紫陽花を愛でる涼しげな心映えが、文字通り軽妙に詠い上げられている。
 あじさいの七変化のうちに貯金箱も手応えのある重みになってゆくのではなかろうか。

  六月の川に溶けたる夕日かな   佐藤昌緒
 六月という月のイメージはやはり梅雨、鬱陶しいということであろうか。
 私には植田が一面にひらけて、しみじみ瑞穂の国の美しさ有難さを思う季である。
 そんな六月の植田のほとり、夕べの川べりを歩いていると大山に落ちかかった陽ざしが、まさに「川に溶けたる」状況となって、あかあかと明るさに満たされてゆく。
 川の流れるともなく流れゆくままに、明日へつながってゆく夕日をいつまでも惜しんでいる。

  黒竹を呉れと卯の花持て来たる   伊藤欣次
黒竹というものがどんなものか知らない。それでも読めば字の通り黒い竹であろうと察する。
 卯の花を持ってきて黒竹を欲しいという、白と黒の物々交換は何とも清々しいではないか、
 人の心の交歓をもって黒竹と卯の花がともに引き立ってくる。 
 掲句からすぐ一句が浮かんだ。〈薔薇呉れて聖書貸したる女かな〉、
 虚子の若き日の句である。薔薇を剪ってくれた女性が、これ読んでと聖書を貸してくれたというのだろう。
 私の中で女と薔薇と聖書が妙につながって離れない。
 さて、卯の花を置いていったのは女にあらず、男に違いない。いい男だ、心中勝手にそう決めている。

  疎開せし虚子の小諸の夏木かな   欣次
 虚子は太平洋戦争のさ中、昭和19年から長野県小諸市に疎開した。
 小諸の自然や風土や人情をもって「小諸時代」という新しい俳句世界を打ち出した。
 掲句はその事実を言っただけではない、それ以上にぞっとするほど脳裏に、なお眼前に夏木の存在を思わないではおれない。
 〈爛々と昼の星見え菌生え   虚子〉、虚子は昭和22年小諸を去った。


  


  老鶯や大楼門は雨に濡れ   柴田博祥
 老鶯の玲瓏たる声を聞くたびに、老鶯とは齢取った鶯のことと決めてかかっていた初学時代がなつかしく蘇ってくる。
春よりも尚美しい声で鳴きながら、晩鶯、残鶯とも言われる鶯はやはり「老い」の意を免れがたくまとっているのではないだろうか。
 高野山であろうか、雨の日の大楼門あたりでひとしきり鳴いてくれた鶯はなんといじらしいことであろうか。
 老鶯たる季語の趣きが一句全体に染みわたってゆく。

  夏めくや米沢牛はミディアムに   葉山 蛍
 垂涎の一句。和牛と言えば近江牛、神戸牛、松阪牛など近畿圏のそれらが思われれる、俳句にも読みこまれたことも多々ある。だが何と米沢牛の御出座しである、この新鮮なる出会いにまずは驚いた。
 「ミディアムに」、焼き加減をもってきただけの簡潔さがウマイ。
 ジューシーな肉汁、わけても米沢というからには赤い中心部がなまなましく見えてくるようである。
 ああ、夏がやってきたなあという、まこと腹に応えた実感が読者のそれとなって伝わってくる。

  梅雨寒や今日のおやつはハトサブレ   漆谷たから
 梅雨の頃は思いがけず寒気団が押し寄せて油断ならない。寒がりの私はセーターを着こんだりするほど。
 そんな梅雨寒の今日、おやつにいただいたのは、鎌倉の銘菓鳩サブレ―だという。
 ハトという平和のシンボル、サブレというサクサク感、その語感やニュアンスがおのずからほのぼのとした一服感を伝えてくれる。
 ハトサブレはいついただいてもおいしいが、梅雨寒にこそふさわしいと思わせる力がこもっている。
 作者に聞けばたまたま食べただけと笑うであろうが、「梅雨寒」を上五に据えるというのが俳人のたしなみである。


  読みつづく奥地紀行や冷し酒   奥山きよ子
  蠅叩き握る押つ取り刀かな   きよ子
  畳屋の庭の仕事場立葵   山森小径
  フラメンコ空に響くや夏燕   永瀬なつき
  手刀を切る所作千代の田植かな  泉 いづ
  鳥取の砂丘育ちのらつきよかな  小宮からす
  瓦屋根青鷺一羽のつてをり   平野 翠
  子燕の空にとどまり餌を受くる   日下しょう子
  せかせかと鳴く時鳥四時五分   石野すみれ
  ハンカチの花のぐるりや夏木立  東小薗まさ一


  


  短夜や夜勤看護師挨拶に   中原初雪
  文字摺草一つ蝶々のまとはりて   石堂光子
  源泉を掻きまぜてをり藍浴衣   河野きなこ
  笑ひ声とカレーの匂ひ網戸より   松井あき子
  青山椒少し若きを好みけり  関野瑛子
  日盛や鉱物めきて椿の葉   加藤かづ乃
  職人のあぐらかきをり夏木立   木下野風
  立葵列車過ぐたび揺れてをり   大村清和
  白鷺のぬつと飛び立ち畑に消ゆ   石井久美
  夜の秋の振り向く父の笑顔かな   中澤翔風
  蕗を摘む母と見紛ふ義理の姉   村岡穂高
  遠き日よ西瓜の皮に蠅止まり   滝澤さくら
  夏野原ヘリコプターの影走る   佐藤健成




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青草通信句会 2024年7月

2024年07月18日 | 俳句
兼題「心太」

   


   ゲート入り前のいななき青嵐     中原初雪
 この馬の嘶きはやる気満々のそれなのか、嫌がっているのか、競走馬のゲート入は緊張します。折柄、万緑を吹き渡ってくる風が爽快。馬の走りを後押ししそうな「青嵐」です。

  茎伸びて高き一本蓮の花   渡邉清枝
 見たことあるあるって感じ入ります。蓮池の中でも、寺にある水甕の中でも、この一本、高き蓮の花は美しく想像できます。「茎伸びて」も言い得ています。

  時かけて青大将の横切れり   森田ちとせ
 青大将は名前からして大きな長い蛇を思わせます。
 青大将が、ゆっくりと目の前を通っていったのです。ただそれだけにして、これほど蛇の実在感を示した一句はないでしょう。「時かけて」も「横切れり」もゆるぎない措辞です。青大将に対する心入れとともに、切なき時が流れていきます。

  深大寺仏めでたる心太   川井さとみ
 深大寺には白鳳仏が安置されています。貴重なる仏さまを拝んで、門前で心太をいただかれたのです。釈迦如来の御利益のような心太です。ジンダイジボトケとつながる感じも分かりますが、深大寺が重たいので〈心太白鳳仏をめできたる〉でしょうか、これでも深大寺だと分かります。

  登山帽九十九折して今はるか   森田ちとせ
 登山帽は「夏帽子」です。「つづらおり」は九十九折とも葛折とも書き、幾重にも曲がりくねった坂路のことです。こんな難儀なこの路あの路を次々と踏み越えて、今はもうはるかに見えるばかりです。何とも頼もしい登山帽です。ここにもゆっくり時が流れています。

  寺町の婆の商ふ心太   古舘千世
 明快な一句です。寺町では心太屋さんがままありますね、私も九品仏の裏手でいただいたことがあります。
 この句のいいところは寺町の上になおも、「婆の商ふ」という実際のありように踏み込んだところです。年季の入った心太です。
  
  


  松籟におもてあげたるところてん    昌子
  松が枝の湖へはりだす夏越かな
  六月やあはれ螇蚸の鼻大き


令和6年7月・青草通信句会講評    草深昌子

 令和6年7月の兼題は「心太」。
 子供の頃、ところてんの黒蜜の甘さが好きだった。関東に引っ越して浅草の店でいただいた心太が酸っぱくてびっくり。地方によって味付けの違うところが心太のなつかしさに通じるのかもしれない。
  
  ところてん煙の如く沈みをり     日野草城
  高波の夜目にも見ゆる心太      川崎展宏
  くみおきて水に木の香や心太     高田正子

 一句目、草城は大正十年、京大生にしてホトトギス雑詠の巻頭を占め、清新の句風をもたらした。翌年の夏、鈴鹿野風呂(すずか・のぶろ)が、心太を見たことがないという草城のために家人に作らせて、食べさせた。立ちどころに二十句ばかりを速吟した、その中の一句。
 いきなり心太の本質をつかむところ、才気というほかない。
二句目、夏の夜の涼やかさ、心太にして何だか高尚のよう。
食べ物の句は先ずはおいしそうでありたいが、一物仕立ては既に詠まれていることが多い。そこで人事句(食べ物・生活・行事などの季語)に対しては、自然のありよう(山川・草木・海など)を照応させるとすっきりする、一つの手法ではある。
 三句目、杉か檜か木の桶の中の水に心太は沈めてあったのだろう、この水に木の香りがしたというのである。まこと清らかな心太、同時にあたりの空気感も想像させてもらえる。「水」、「木」という素材のよろしさが心太の透明感をしみじみと引き出している。


  炎天へ打つて出るべく茶漬飯      川崎展宏
  川を見るバナナの皮は手より落ち    高浜虚子
  水揚げの鯖が走れり鯖の上       石田勝彦
  白玉の器の下が濡れにけり       綾部仁喜

 一句目、炎天へ出るのはまるで戦場へ出るかのように命がけだと言わんばかりに引き付けておいて、何とお茶漬けをかけこんだという、この落差の面白さ。作者はもはや若くはなかったのであろう。
 どの句も写生であるが、そこには作者の内面が静かにも込められていて、只の写生とは違うものが打ち出されている。
 俳句は発見がなければダメ、それは自分でなければならず、その場でなければならず、そのものでなければならない、と思う。




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青草本部句会 令和6年7月5日

2024年07月17日 | 俳句
草深昌子選
兼題「天道虫」 席題「引」

 
  
   
 奥つ城に引く湧水や半夏生  奥山きよ子 
 あかあかと山の暮れゆく網戸かな   きよ子
 石階の清く掃かるる蟻の道   きよ子
 袖口に来て何処かへ天道虫   きよ子          
 称名に華鬘のゆるる施餓鬼かな  山森小径 
 地引網跣足に砂のこそばゆき   小径         
 玫瑰や大波引くをただ見つめ   松井あき子           
 土塊の先行くみみず半夏生   二村結季            
 朝ぐもり水に掬ふて絹豆腐   結季


 


 箱庭に波なし流れ引きたれど   昌子
 白南風や蛇の卵をてのひらに
 出目金が好きで引つ込み思案なる
 すゑつ子の這ひつくばうて天道虫
 駅頭や百のメロンを引売りに
 夏花摘ここにまた踏む松の影




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