草深昌子選

雉鳴くやげんげ田に首浮かしつつ 二村結季
雉には吉野の吟行で出くわすことが多々あったが、一瞬に飛び立たれて見失ってしまうのが常であった。
かの美しい尾羽を見てみたいものと思っていたが、何と掲句はげんげ田に鳴いて現れたのだという。
しかも「首浮かしつつ」と言われると、まさにまのあたりに見せてもらったような気分である。
雉は留鳥で四季を通して見られるが、その声のあわれさをもって春季に分類されている。
なるほど掲句は幸運なる出会いをすかさず詠いあげて、春ならではのゆったりとした詩情を醸し出すものである。
雉には吉野の吟行で出くわすことが多々あったが、一瞬に飛び立たれて見失ってしまうのが常であった。
かの美しい尾羽を見てみたいものと思っていたが、何と掲句はげんげ田に鳴いて現れたのだという。
しかも「首浮かしつつ」と言われると、まさにまのあたりに見せてもらったような気分である。
雉は留鳥で四季を通して見られるが、その声のあわれさをもって春季に分類されている。
なるほど掲句は幸運なる出会いをすかさず詠いあげて、春ならではのゆったりとした詩情を醸し出すものである。
新茶汲む掛川城の奥座敷 平野 翠
掛川城は、戦国時代には山内一豊が城主であったという、東海の名城である。
そんなお城の奥座敷にあって新茶をいただかれている清々しさ。
新茶はかの有名な「掛川茶」に決まっているだろう。
その味わいや香りのよさがそのまま読者に伝わってくるのは、言葉に無駄がなくぴしっと引き締まっているからである。
ちなみに「新茶」というと〈新茶汲むや終りの雫汲みわけて 久女〉等を筆頭に日常に焦点を当てたものが多いが、産地そのものをドンと詠いあげた一句はいっそう晴れやかである。
レースカーテン朝の電車の音強き 日下しょう子
「レースカーテン」という字余りの出だしに言い知れぬ魅力を感じた。
しかもそれが「朝の電車の音強き」をひっぱりよせて、「レース」たる夏の季題の本領を明白にしている。
一体誰がこんな一句をものにするものかと思いきや、さすがにしょう子さん、作者は緊急入院中であった。
ここには無意識にも快方へ向けて自身に気合をかけておられるような姿勢が滲み出てはいないだろうか。
レースカーテンの揺れる部屋でのんびりしていては決して詠えないものである。
早々に全快されたのは言うまでもない。
十二単庭の芝生に忍び寄る 加藤洋洋
野草ながら十二単とは何とゆかしい名であろう。
そして日本だけの草花だと知るといっそう気品があるように思われるのは、平安朝の装束をイメージするからであろう。
そんな十二単が、おやまあ我が家の庭の芝生にはびこって来そうである。
そこを穏やかに「忍び寄る」と言い切った洋洋さんの言葉の感覚に驚かされた。
まるで十二単のお姫さまがしずしずと忍び寄るようではないか。さりげない表現の中にも詩心が充満している。

ながむしに軒を貸したる古農家 町田亮々
蛇は「くちなわ」と言って、忌み嫌うことは知っていても、「ながむし」という異称はなかなかなじまない、見るからに長い蛇が思われるからかもしれない。
掲句はそんな長虫をまるで歓迎するかのような詠いぶりである。
「軒を貸して母屋を取られる」ということわざを思わぬわけではないが、蛇の句に限って、
このちょっとした諧謔は頼もしいのではなかろうか。
作者は世田谷から大田区に引っ越されたばかり東京のど真ん中に居住されるが、出身は群馬県とうかがってガッテンの一句である。
山女焼く焔の搖るる凱歌かな 伊藤欣次
「凱歌」たる一語に一読閃光が跳ね上がるような印象を受けて、これぞ「山女焼く」火であることよと共鳴しきりであった。
辞書に当ると凱歌は、戦いに勝って帰る時の歌、勝利を祝う歌とある。
山女釣りがいかばかり難しいものであるかが知れるというものである。
逆にいうと凱歌たる言葉を噛み砕くもののようでもある。
蛇足だが、私にとって山女はすなわち飯田龍太、精悍そのものの印象である。
ある時、井伏鱒二は龍太らと山女釣りに出て一匹も釣れなかった、そこで釣宿に引き返し、凄腕の山女釣りに釣り方を教えてほしいと恐る恐る聞いたところ、釣師の答は「魚の釣り方は、魚が教えてくれるよ」であった。みんなひと言もなかった。
そこで井伏鱒二はこうエッセイを結んでいる。
― 見ると龍太さんは泣き出しそうな顔になっていた。
「松のことは松に習へ、竹のことは竹に習へ」と言った芭蕉の言葉に思い当ったのかもわからない。
呼び止めて牡丹見よてふ男かな 関野瑛子
風流な男がいたものである。
いや男がいたとしても関野瑛子たる麗しい女がいなければ「呼び止めて」まで、牡丹を見ておくれとは言ってもらえないであろう。
牡丹そのものを描写しているものではないが、言わずもがな牡丹の絢爛を想像させるに充分の句である。
聞けばこの男性は幼馴染みとか、なるほど牡丹のもう一面の親しみ深さを思わせるものでもあった。
かの人の病は癒えて松の花 河野きなこ
「かの人」とは誰であろうか、どんな人であろうか、ふとそういう雅(みやび)なる感覚から入っていくと、病気の快癒に安堵した気持ちが「松の花」に明らかに見えるものである。
これが「病は癒えて牡丹かな」では病は全快しなさそう。
「松の花」であればこその、病抜けしていっそうお元気になられるであろうという願いまでもが感じられる。
「松の花」に仮託する信念が見えるような句である。
花四つどこも正面アマリリス 川井さとみ
アマリリス、そう口遊むだけで甘やかな気分のする花である。
我が家の向かいのお宅にも鉢植えのアマリリスが五鉢もあって、そのどれもが確かに三つ四つと大きく花を咲かせている。
毎日のように眺めながら、一句にはならなかった。
さとみさんの目のかがやきは、ちょっとしたところに楽しみを見つけようとする心掛けがもたらすものだろう。
鉄線花揃つてこちら向きにけり 松井あき子
先のアマリリス同様、鉄線花もまた好きな花でよく見ているものだが、なかなかこうは詠えない。
一句は、「揃って」もよければ、「こちら向く」という確かなる視線もまた的確で、
テッセンという堅い響きのある花ならではの明瞭なる印象を打ち出している。
掲句から、私にとってなつかしい鉄線花が思い出された。
山口青邨の〈窓ひらく鉄線の花咲きわたり〉である。
あまりにも何気ない詠いぶりに、俳句ってこれでいいのかと驚かされた。
「窓ひらく」という読者を誘いだすような上五、「咲きわたり」と大きく一面に見せる下五など言葉に心がこもっていて、鉄線花という花はこの通りという透明感は今も褪せない。

蜘蛛の囲やきのふの糸とけふの糸 中原初雪
夕闇に溶け込んでゐる柿若葉 市川わこ
薫風やスカーフ巻いて寺の犬 奥山きよ子
水牛の首まで漬かる薄暑かな 佐藤昌緒
底暗き生簀をのぞく薄暑かな 山森小径
老鶯の森に迷ひてゐたるかな 間 草蛙
じんとくる文は悪筆夏つばめ 古舘千世
トロフィーの如き筍貰ひけり 佐藤健成
瑠璃色の鳥の目と合ふ五月かな 永瀬なつき
松島の夕日の色や海鞘を食ふ 末澤みわ
筍や校舎の裏に子供たち 黒田珠水
大岩を絡めて咲くは谷空木 森田ちとせ
薄様を重ね重ねて牡丹かな 小宮からす
水彩の絵筆に落つる夏の雨 石本りょうこ
分校生総出で摘まん茶の新芽 神埼ひで子
騎手落ちて独りで駆くる馬五月 菊地後輪
薔薇園を巡りてえごの花の下 石堂光子
夏薊どの草よりも丈高く 石野すみれ









