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青草俳句会~命のよろこび

結社「青草」 主宰 草深昌子

草深昌子を中心とする句会・選後に 令和4年5月

2022年06月16日 | 俳句
草深昌子選

  


     雉鳴くやげんげ田に首浮かしつつ   二村結季
 雉には吉野の吟行で出くわすことが多々あったが、一瞬に飛び立たれて見失ってしまうのが常であった。
 かの美しい尾羽を見てみたいものと思っていたが、何と掲句はげんげ田に鳴いて現れたのだという。
 しかも「首浮かしつつ」と言われると、まさにまのあたりに見せてもらったような気分である。
 雉は留鳥で四季を通して見られるが、その声のあわれさをもって春季に分類されている。
 なるほど掲句は幸運なる出会いをすかさず詠いあげて、春ならではのゆったりとした詩情を醸し出すものである。

     新茶汲む掛川城の奥座敷   平野 翠
 掛川城は、戦国時代には山内一豊が城主であったという、東海の名城である。
 そんなお城の奥座敷にあって新茶をいただかれている清々しさ。
 新茶はかの有名な「掛川茶」に決まっているだろう。
 その味わいや香りのよさがそのまま読者に伝わってくるのは、言葉に無駄がなくぴしっと引き締まっているからである。
 ちなみに「新茶」というと〈新茶汲むや終りの雫汲みわけて 久女〉等を筆頭に日常に焦点を当てたものが多いが、産地そのものをドンと詠いあげた一句はいっそう晴れやかである。

   レースカーテン朝の電車の音強き   日下しょう子
 「レースカーテン」という字余りの出だしに言い知れぬ魅力を感じた。
 しかもそれが「朝の電車の音強き」をひっぱりよせて、「レース」たる夏の季題の本領を明白にしている。
 一体誰がこんな一句をものにするものかと思いきや、さすがにしょう子さん、作者は緊急入院中であった。
 ここには無意識にも快方へ向けて自身に気合をかけておられるような姿勢が滲み出てはいないだろうか。
 レースカーテンの揺れる部屋でのんびりしていては決して詠えないものである。
 早々に全快されたのは言うまでもない。

     十二単庭の芝生に忍び寄る   加藤洋洋
 野草ながら十二単とは何とゆかしい名であろう。
 そして日本だけの草花だと知るといっそう気品があるように思われるのは、平安朝の装束をイメージするからであろう。
 そんな十二単が、おやまあ我が家の庭の芝生にはびこって来そうである。
 そこを穏やかに「忍び寄る」と言い切った洋洋さんの言葉の感覚に驚かされた。
 まるで十二単のお姫さまがしずしずと忍び寄るようではないか。さりげない表現の中にも詩心が充満している。

  


     ながむしに軒を貸したる古農家   町田亮々
 蛇は「くちなわ」と言って、忌み嫌うことは知っていても、「ながむし」という異称はなかなかなじまない、見るからに長い蛇が思われるからかもしれない。
 掲句はそんな長虫をまるで歓迎するかのような詠いぶりである。
「軒を貸して母屋を取られる」ということわざを思わぬわけではないが、蛇の句に限って、
このちょっとした諧謔は頼もしいのではなかろうか。
 作者は世田谷から大田区に引っ越されたばかり東京のど真ん中に居住されるが、出身は群馬県とうかがってガッテンの一句である。

  山女焼く焔の搖るる凱歌かな   伊藤欣次
「凱歌」たる一語に一読閃光が跳ね上がるような印象を受けて、これぞ「山女焼く」火であることよと共鳴しきりであった。
 辞書に当ると凱歌は、戦いに勝って帰る時の歌、勝利を祝う歌とある。
 山女釣りがいかばかり難しいものであるかが知れるというものである。
 逆にいうと凱歌たる言葉を噛み砕くもののようでもある。
 蛇足だが、私にとって山女はすなわち飯田龍太、精悍そのものの印象である。
ある時、井伏鱒二は龍太らと山女釣りに出て一匹も釣れなかった、そこで釣宿に引き返し、凄腕の山女釣りに釣り方を教えてほしいと恐る恐る聞いたところ、釣師の答は「魚の釣り方は、魚が教えてくれるよ」であった。みんなひと言もなかった。
 そこで井伏鱒二はこうエッセイを結んでいる。
 ― 見ると龍太さんは泣き出しそうな顔になっていた。
 「松のことは松に習へ、竹のことは竹に習へ」と言った芭蕉の言葉に思い当ったのかもわからない。

  呼び止めて牡丹見よてふ男かな     関野瑛子
 風流な男がいたものである。
 いや男がいたとしても関野瑛子たる麗しい女がいなければ「呼び止めて」まで、牡丹を見ておくれとは言ってもらえないであろう。
 牡丹そのものを描写しているものではないが、言わずもがな牡丹の絢爛を想像させるに充分の句である。
 聞けばこの男性は幼馴染みとか、なるほど牡丹のもう一面の親しみ深さを思わせるものでもあった。

  かの人の病は癒えて松の花   河野きなこ
  「かの人」とは誰であろうか、どんな人であろうか、ふとそういう雅(みやび)なる感覚から入っていくと、病気の快癒に安堵した気持ちが「松の花」に明らかに見えるものである。
 これが「病は癒えて牡丹かな」では病は全快しなさそう。
 「松の花」であればこその、病抜けしていっそうお元気になられるであろうという願いまでもが感じられる。
 「松の花」に仮託する信念が見えるような句である。

  花四つどこも正面アマリリス   川井さとみ
 アマリリス、そう口遊むだけで甘やかな気分のする花である。
 我が家の向かいのお宅にも鉢植えのアマリリスが五鉢もあって、そのどれもが確かに三つ四つと大きく花を咲かせている。
 毎日のように眺めながら、一句にはならなかった。
 さとみさんの目のかがやきは、ちょっとしたところに楽しみを見つけようとする心掛けがもたらすものだろう。

  鉄線花揃つてこちら向きにけり   松井あき子
  先のアマリリス同様、鉄線花もまた好きな花でよく見ているものだが、なかなかこうは詠えない。
 一句は、「揃って」もよければ、「こちら向く」という確かなる視線もまた的確で、
 テッセンという堅い響きのある花ならではの明瞭なる印象を打ち出している。
 掲句から、私にとってなつかしい鉄線花が思い出された。
 山口青邨の〈窓ひらく鉄線の花咲きわたり〉である。
 あまりにも何気ない詠いぶりに、俳句ってこれでいいのかと驚かされた。
「窓ひらく」という読者を誘いだすような上五、「咲きわたり」と大きく一面に見せる下五など言葉に心がこもっていて、鉄線花という花はこの通りという透明感は今も褪せない。

   


   蜘蛛の囲やきのふの糸とけふの糸  中原初雪
   夕闇に溶け込んでゐる柿若葉    市川わこ
   薫風やスカーフ巻いて寺の犬    奥山きよ子
   水牛の首まで漬かる薄暑かな    佐藤昌緒
   底暗き生簀をのぞく薄暑かな    山森小径
   老鶯の森に迷ひてゐたるかな    間 草蛙
   じんとくる文は悪筆夏つばめ    古舘千世
   トロフィーの如き筍貰ひけり    佐藤健成
   瑠璃色の鳥の目と合ふ五月かな   永瀬なつき
   松島の夕日の色や海鞘を食ふ    末澤みわ
   筍や校舎の裏に子供たち      黒田珠水
   大岩を絡めて咲くは谷空木     森田ちとせ
   薄様を重ね重ねて牡丹かな     小宮からす
   水彩の絵筆に落つる夏の雨     石本りょうこ
   分校生総出で摘まん茶の新芽    神埼ひで子
   騎手落ちて独りで駆くる馬五月   菊地後輪
   薔薇園を巡りてえごの花の下    石堂光子
   夏薊どの草よりも丈高く      石野すみれ
    







 





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青草本部句会 2022年6月

2022年06月12日 | 俳句
草深昌子選
兼題「短夜」席題「泉」

  


雷鳴や本の間に指しをり  山森小径
泉の辺昼の憩ひのテーマ曲   小径  
短夜の寝袋で聞く恋話   松井あき子
短夜やわづかに揺るるテントの灯   あき子
膝丈の葉を固く巻き青芒    あき子  
短夜の思ひ離れぬ一事かな   伊藤欣次
短夜や読み返したき文のあり    欣次         
スコップを斜めに蹴って真竹の子   泉 いづ
緑陰のどこか長寿の泉あり        いづ
短夜や夢の続きの見つからず   湯川桂香
涼風や泉鏡花を読む夕べ   河野きなこ           
雷去るや街から虹の立ちあがる   川井さとみ
下り線先頭車両雲の峰   長谷川美知江  
          

   


のつそりとゆくは毛虫の若さかな   草深昌子
短夜の地べたを打つて毬の音
清正の井とや泉を掬ばんか
うなぎ屋に幟のあがる植田かな
鍋釜の底をきれいに梅雨に入る
丘に見て向かうも丘の茂りかな




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青草通信句会 2022年6月

2022年06月10日 | 俳句
草深昌子選(順不同)
兼題「五月雨」
  
      
     

   捨てし葉に黄金の花や五月雨   森田ちとせ
 剪り捨てたのか廃棄したのか、放り出したものから黄金色の花が咲いたのでしょう。ちよっとした驚きが五月雨をよく引き寄せています。

  校庭の蛇口逆立て日焼の手    ちとせ
 エネルギーに溢れた元気な子供の日焼を思いますが、「日焼の手」とまで言われるとそうでもないのかもしれません。

  びんづるを撫でて五月の町に入る   伊藤 波
 賓頭盧は病気の平癒を祈る撫で仏です。作者も一と撫でして、爽快なる五月の町へ歩まれたのでしょう。

  阿夫利嶺を滑る雲あり五月雨    平野 翠
 「阿夫利嶺を滑る雲」とはどんな雲でしょうか。折からの五月雨に臨場感が生まれました。

  五月雨や雨戸開けずに昼となり   木下野風
 寝坊の私には納得できる実感です。五月雨の情感が戸を開ける気分にならないのです。

  五月雨の朝の花の白きかな   川井さとみ
 一行に詠み下ろして「白きかな」には鮮やかな印象があります。私も詠いましたが、五月雨の中の白さは際立って美しいです。

  麦刈つて何時しか鳥の陸田かな   二村結季
 水田に対しての陸田でしょう。要するに麦を刈ったあとはすっかり鳥どちに占領されたという、スケールの大きな句です。

  神棚に替ふる榊や五月雨    結季
 何ていうことない表出になっていますが、五月雨の中にも清々しい詩情が漂ってきます。濡れながら剪りとった榊が静けさそのもの。

  五月雨やテネシーワルツくちずさむ   中原初雪
 何でテネシーワルツなんでしょうか。作者の思いが五月雨を通して何となく想像させられます。

  山門の葵の御紋さみだるる   松尾まつを
 徳川家ゆかりの山門でしょうか。青葉の中にあって、葵紋が印象的に浮んでくるようです。

  玉砂利を鳴らして帰る五月雨 奥山奥山きよ子
 先日明治神宮へ参りましたが、まさに玉砂利に染み渡ってゆく五月雨に降られ通しでした。

  八重山の島また島や五月雨るる    佐藤昌緒
 八重山は石垣島を中心とする八重山諸島のことでしょう。島また島、美しい海洋に降り込む五月雨が光っています。「五月雨るる」は例句もありますが、「さみだるる」が一般的です。

            

  木に草に咲いて白しやさみだるる    昌子
  今さらに椨は大木南吹く  
  五月雨の大木戸門をくぐりけり
   



令和4年6月・青草通信句会・選後に            草深昌子

  五月雨をあつめてはやし最上川   芭蕉
  さみだれや大河を前に家二軒    蕪村
  五月雨や上野の山も見飽きたり   子規

 「梅雨」は主に時候をいいますが、「五月雨」は雨そのものを指します。どちらも鬱々とした雨には違いありませんが、「五月雨」は田植に恵みをもたらす雨ということもあって、またサミダレという語感もあって、私には「梅雨」よりも明るい印象があります。
 子規庵から上野の山の裏側の木々はよく見えたようです。子規は病床に伏したままになって、さすがに見飽きたというのでしょうか。
―「見飽きたり」と言いながら何か朝夕眺める上野の山への一種の親近感を受け取ることが出来るーと山本健吉に評された通りです。
 子規には〈病人に鯛の見舞や五月雨〉もあります。この晴れやかな「鯛」には五月雨ながらの明るさがあって好きな句です。
 
 さて「青草」の句々も、切字がよく決まっていました。俳句は最短詩型ですから、省略しなければなりません。そのために切字が大事です。今後も意識して切字を使ってみて下さい。また難しい言葉を使わないことです。こんなハウ・ツーを言いますと逆効果かもしれません。本当に皆さまは一直線に上達して下さってびっくりです。
 ただ数年、十数年経ちますと、ちょっと踊り場にさしかかって難しいと感じるときもあるでしょう。それこそが上達した証です。
 さまざまに学ばなければ前には進めませんが、いざ俳句を作る時には一切のセオリーを忘れてほしいです。
 「俳句は直叙」です。本当のことを具体的に、「季語」+素直に見たものを足すだけです。事実だけ、飾らない、素朴単純なものです。
 何度も言いますが、頭で考えている限り、驚きも意外性もありません。一歩でも外へ出て、自然に触れて、何かちょっとでも感じたら、その一点で俳句になるのです。
 梅雨どきこそ雨にもめげず、心身共々、俳句を鍛えたいものです。







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