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青草俳句会~命のよろこび

結社「青草」 主宰 草深昌子

青草通信句会 2024年5月

2024年05月18日 | 俳句
草深昌子選 (順不同)

 

  つつじ咲き満ちて連休始まりぬ      佐藤健成
 躑躅の多彩な強力な咲きようは桜と違ってあまり好まれない感じが無きにしも非ずですが、こう詠われますと全くその通り、前向きになります。

  落ちてなほ萌黄こんもり楠若葉    木下野風
 出だし(上五)勢いがあっていいです、むくむくと湧きあがる樟若葉です。落ちても萌黄というのは納得です、目にも鮮やかに映ります。

  松落葉木戸に掛かりて落ちなんと    佐藤昌緒
 「落ちにけり」でなく「落ちなんと」というやや遠回しと言いますか、婉曲が効いています。読者はしばし明らかに松落葉を見せてもらえます。

  蒲公英の絮は網戸にくつつきて    芳賀秀弥
 蒲公英の絮は風に乗って飛んで行くとう概念だけではすまされません、地道ながら蒲公英が確かに見えます。リアルな一句、見事です。 

  松落葉ベンチに一人ハーモニカ    冨沢詠司
 いいところでハーモニカを吹いています、しかも一人がいいですね。松の落葉を散らすような静かにも元気な音色が聞こえてきます。

  代掻きや蛙の声の聞えもし    平野 翠
 「代掻き」は田植に備えて、田を泥状にする仕事、牛馬に替わって今はトラクターです。エンジン音の中から小さく蛙の鳴く声が聞こえたのですね、よくぞ聞きとめました。「聞こえもし」なんて風流です。


  常磐木門行き帰り落つ散松葉    伊藤 波
 常磐木門というからには常磐木(常緑)の松が聳えているのでしょう、堅固な門を思います、小田原城でしょうか。「行き帰り」が秀逸です。しきりに降っている様子が想像されます。

  葉桜やカナルカフエあるお堀沿ひ    田中朝子
 葉桜という季題には、桜の終ったさびしさと待望の鮮やかさと両方ありますが、そんな微妙な明るさがカナルカフエの語感、お堀という水の印象に快く詠いあげられています。

  夕風や蜂と揺れたる鴨足草    奥山きよ子
 蜂はさまざまの草花に寄ってきますが、この鴨足草という地味な印象の花と共にあるのは意外です。夕方に吹く風の無聊に誘われたのでしょうか、とても詩的です。「夕風に」でなく「夕風や」という味わいを皆さまに知ってほしいです。

  見えてゐて径は通はぬ朴の花    森田ちとせ
 上五中七、ゆっくり読み下ろして、そういう経験あるなあと思い出されてきます。手に届かないところに朴の花は歴然と咲いていたのです。今更に朴の花の芳香がしのばれます。

  


  老いてなほ人力車夫や風薫る   草深昌子
  手にしたるものに蟻来る立夏かな  
  日の中に雨降る松の落葉かな

  


令和6年5月・青草通信句会講評   草深昌子

 令和6年5月の兼題は「松落葉」。
  清滝や波に散り込む青松葉   芭蕉
 清滝は京都の西郊にある名所です。京都嵐山の保津川の支流となります。岸辺にある松の木から松葉が吹かれて、波の立つ流れのなかに散り込んでいるのです。松落葉は「散り松葉」とも詠いあげます。

 青草吟行で相模原公園に着きますと、大きな松の木がありました。「若緑」「緑立つ」「松の芯」などという新芽を盛んに伸ばしていました。ふと眼を根方に落としますと、「松落葉」が散っていました。少しずつ古い葉を落とし始めていたのです。松の木は常緑樹ですが、晩春から初夏へ季節の移行を明らかに見せてくれました。

  はくれんは生まれる前に咲いてゐし   山本洋子
 はくれんは吉野の蔵王堂の先を左に折れたところで出会いました。あまりに大木の花の見事さにびっくりしました。近くの杣小屋の親爺さんを見つけますと、洋子先生は「あの木は何年ぐらいのものですかあ」と大きな声で呼びかけました。彼は「さあねえ、物心ついたときはもう立っていたからね、生まれる前からあったろうね」という返事です。そう「生まれる前」は賜った言葉でした。この措辞によって木蓮の純粋無垢なる白さがありありと見えるのです。
 吟行しますと思いがけないものに出会います。花からも鳥からもそして何よりも人間から、思いがけないコトバをいただきます。

 「驚き」!と「発見」!これこそが秀句のみなもとです。
 この度の吟行は、春雨であったり、春時雨であったり、降りみ降らずみでしたが、会場に着くやいなやぱっと明るい日がさしました。
 雨というこの季節独得の味わいをもって、皆さまと共に、去り行く春を惜しめましたこと、本当に楽しかったです。
 机の前で考えていても俳句は出来ません。大峯先生に何度も聞かせていただいた、高浜虚子の言葉をあらためて反芻しました。
 「自分が本当に感じたことを、言葉で巧みに飾り立てないで、正直に述べたのがいい俳句です」


  
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青草本部句会 令和6年5月3日

2024年05月04日 | 俳句
草深昌子選 (順不同)
 
   


 川縁の博物館や若葉風   小宮からす
 何処からか蟹の一列湧き出でる  からす
 干し物を払ふ二階や花くぬぎ   奥山きよ子
 白き物咥へ歩くや鴉の子   松井あき子
 わからぬこと何かあるらし雀の子  あき子
 出納帳閉ぢて卯の花腐しかな    あき子             
 夏雲や大桟橋を出航す    山森小径
 日めくりの日にちの合はぬ葱坊主   小径        
 風に窓よく鳴る日なり更衣      小径
            
 生真面目な人でありけり松の花   河野きなこ          
 卯の花に肩を濡らして行かんかな   二村結季         

 
   


 正門や出ては入つては鴉の子    昌子
 噴水の向かう噴水更衣
 セーターを脱ぎたるこれが更衣
 図書室かスタバかここは風薫る
 更衣してはるかなりけり塔一つ
 軽暖や釘の頭が壁を出て




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草深昌子を中心とする句会・選後に・令和6年4月          

2024年05月04日 | 俳句
草深昌子選 



  新緑やメタセコイアの大並木   黒田珠水
 きっぱりと簡潔明瞭に言い切った、もうそれだけで「新緑」を表現して余りある。
 新緑はもとより見た目の新緑であり、作者の見ているメタセコイアの並木は読者にも鮮やかに見えるものであるが、 「大並木」には作者その人の驚きや感激が紛うことなく籠っているものである。
 ちょっと見の、ちょっとカッコ付けというような俳句では大並木とは詠えないだろう。 
 選者の選句はいつも直感、直観であって、採るか採らぬか、ただそれだけである。
 作者の名告りを聞いたにあとに、もう一度味わってみると、しみじみといただけて良かったと思う。
 選者冥利に尽きる喜びである。
 珠水さんは青草春の吟行会の役にして、下見に行かれたことだろう。
 まだ寒い日の中にあっては枯木のさまであった並木が、今日は何と美しい緑であることよ、
シンリョク!とびっくりする他なかったに違いない。

  春雨やメタセコイアは空を突き   木下野風
 野風さんもまた青草吟行の役として、さまざまに配慮して下さったと聞いている。
 掲句は「春雨」を詠って、およそ類想のないものになっている。
 小止みなく降ってやまない春雨を残念がっているのではない、がっかりしているのではない。
 「空を突き」である。メタセコイアの堂々たるさまが、春雨の風情にとけこんでいることに感応している。
ここにも、作者自身の前向きの気持ちがこもっている。

  春昼や馬は静かに毛を剥かれ   日下しょう子
 大きな公園の端の方に、小動物とふれあうコーナーがあった。
 平日にして雨であったから、あまり子供をみかけなかったが、
 これから夏に向かって一段と活気に満ちる場であろうことは容易に想像できた。
 ポニー舎の前では、数頭の背の高くない馬の胴体や脚をせっせと洗い流しては擦っていた。
馬は時折、肢を踏み替える程度で、心地よさそうであった。
 「馬は静かに」は、作者自身が馬に親しくこころを寄せている風情がかもし出されている。
 春の昼というと、即ちのどけさというようなものを感じとる人が多いであろうが、 「昼」という空間を捉えるのは春独得のものである。

  ときに吹く風に顔上ぐ潮干かな   佐藤昌緒
 4月から5月にかけて潮干狩の季節である。
 一年中で干満の差がもっとも大きく、砂浜や磯浜が遠くまで干上がる、これが潮干潟である。
 潮干といって潮干狩をさしもする。
 貝類を採る楽しさに加えて、気温が上昇すると海水に濡れる気持ちよさもあるだろう。
掲句は一読して、何て清々しい潮干であろうかと、その爽快に思わず顔を上げたくなったものである。
 上五の「ときに吹く」という感覚が絶妙である。
 潮風の吹きようと共に、潮干狩の動作や心情のありようまでも想像されるのである。

  知らぬ間に裾重くなり潮干狩   石野すみれ
 まるで私自身が潮干狩に夢中になっているような錯覚を覚えるほど、臨場感たっぷりである。
 夢中といったのは上五のよろしさ、海水に濡れた中七の実感にはなつかしさがこみあげてくる。




  燕来る遊覧船の券売所   松井あき子
 桜の咲くのも待たれるが、燕がやってくるのも待ち焦がれるものである。
 今年は桜が遅くてそれに気を揉んでしまって、燕は見落としがちだったが、 桜の開花のころにやっと見届けた、そのスピード感がたまらない。
 さて一句は、面白いところにやってきたものだ。
 作者自身の喜びを発露したものだが、まるで燕が一緒に遊覧しようとでもいうような雰囲気。
 ここには、既にして人間社会に馴染んだような燕の飛翔が描かれている。

  描くうちに開きかけたるチューリップ   石井久美
 説明のいらないストレートな句だが、「開きかけたる」という微妙が何とも生き生きとしている。
 チューリップの花を写生しようとして、くっきりと目を見開いている様子が伝わってくる。
 筆致も軽妙に仕上がっただろう。
 写生の句で、鮮やかに思いだされるのは波多野爽波の〈チューリップ花びら外れかけてをり〉。
 この句から、チューリップに魅せられて何度も、何時間も、見て、見て、見てという、写生の態度を教えられるものである。

  春の夜や万年筆にインク窓   奥山きよ子
 万年筆を使わなくなって久しい。
インク窓というもの、昔の頂き物のモンブランを見直したが果たして窓はなかった。
新式であろうか、いや私が知らなっただけかもしれない。
そう言えばボールペンには窓があって、インクの色や残量が透けて見えるようになっている。
 ただ事実をさらっと言っただけだが、書くことにいそしむ作者にとって春の夜という艶やかな趣きがたまらない。
 マンネンヒツニインクマドという、ンが三つ続く韻律の響きも春の夜の余韻を引くものとなっている。

  いい風と呟いてゐる柳かな   石堂光子
 柳と言えば緑が鮮やか、そして、水のほとりにゆったり枝垂れたるままに風に吹かれているというイメージがわいてくる。
 それだけに季題「柳」は常套的になって詠いにくいように思いこんでいた。
 風は風でも掲句の視点は新しい。作者はもう柳そのものになり代わったようである。
 そよ風になびくさまが、そのまま柳の気分になりきっている。
 呟くという揺れようは、ゆったりと、いかにもやさしい。

  燃えさしに土被せたる暮春かな   二村結季
 「暮春」には今日という春の一日の夕暮れと、春の季節の終りという感覚の両方があるだろうが、この句の情景にしみじみと感じ入っているうちに、どちらの気分も打ち出されているように思える。
 農作物を手塩にかけて育てておられる作者であるから、日々のことでありながら、ある日ふと春の終りを感受されたのかもしれない。
 燃え切ったのではない「燃えさし」という措辞に、くすぶった火の色を思わせ、そこに土を被せて、余燼のありようが思われる。
 この、くすぶるというありようが作者の暮春に寄せる感情そのものなのである。

  着流しや杏の花を見に来たる   河野きなこ
 着流しというと石田波郷が思われる、こんな私の勝手な想像もこの句は打ち消さないだろう。何と言っても杏の花がいい。
 花杏は桃の花より先んじて咲く、では梅の花かというと形は似ているがちょっと違う、もう少し華やかであろうか。
 梅、桃、桜ほどポピュラーでなく、知る人ぞ知るという花のありようが、
 まさしく着流しの感覚に通うようなところがあって想像するだけで気分がよくなる。
 そう、「見に来たる」がいいのである。




  わが町の山高からず桜狩   森田ちとせ
 あっさりと言い放った句の心地よさに何度も読み上げたくなる。
 「わが町の」という打ち出しには親しみがあるものの、
 俗気な感じの花見にあらずして「桜狩」と高雅に抑えたところ、まこと適格である。
 「山高からず」、情を秘めながら、何気に距離を置いたところもいい。

  跳び箱の前に並ぶや新入生    鴨脚博光
 新入生は小学一年生であろう。
 跳び箱は体育館の端っこに片寄せて積んであるものであろうか。
 その前に新入生が並んだというのだが、何でもなさそうだが跳び箱を前に、新入の子の目はきらきらとがかがやいている。
 今に、五段でも六段でも跳び越せるまでに成長するのであろう。
 「入学」を、いかにも晴れがましく詠い上げずして、誰もが見逃してしまいそうなところに眼を据えた作者の精神も新しい。


 暗がりに卵あたため矮鶏や春   山森小径
 二十三各駅停車花の旅      小径
 哀しさの桜吹雪の真中に     湯川桂香
 籤引きの半券を手に花祭     柴田博祥
 自分から瓶に入りくる蛙の子   小宮からす
 チューリップ二本手折りて祝事  関野瑛子
 反り返る屋根の高みを春の虹   村岡穂高
 理科室にバケツ三つや蝌蚪の水  渡邉清枝
 孵化をして水なき蝌蚪の悲運かな   町田亮々
 雪柳白といふ色そのままの    葉山ほたる
 竪穴に山気ありけり花の雨    伊藤 波





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