
下駄履きに通ふ坂道卒業す 佐藤健成
卒業にあたって思うのは、校門までの坂道の急であったこと、それも下駄の音をカランコロンと鳴らしながら通ったことだったなあ、という回想の一句。 だ大地を踏みしめて、たかだかと鳴り響かせる下駄の音は、刻苦勉励の日々の郷愁のようでもある。さしずめ厚木市には名門厚木高校があって、今もなお坂道を寡黙に通う学生の列が続いているもとより下駄履きは見かけないが。
講堂に凧を吊りたる門出かな 奥山きよ子
蕪村の〈凧きのふの空のありどころ〉のごとく、凧(いかのぼり、たこ)は凧揚げとして詠われることが多い。だが掲句の凧は卒業式に登場したものである。凧の背後にあるのは決まって大空である、大いなる凧を門出の雄姿の象徴として講堂に祝意をもって掲げられたのであろう。 い意外性のある凧を見届けたところ、加えて「門出」が出色。
墓原に供花の飛び散る春嵐 漆谷たから
「春嵐」は、「春疾風」という春の強風の傍題であるが、風ばかりでなく、時に暴風雨となるもので、この現象なくしては春の季節は終らないようである。私も先日の吟行で、鎌倉の春嵐に会ってずぶ濡れになった。〈鎌倉の草庵春の嵐かな 虚子〉のような穏やかな叙し方では、物足らないと思えるほどのものであった。その点、掲句の春嵐はまこと目の当たりにするような映像を伴って、詠いあげられている。それもその筈、作者は曹洞宗寺院のご住職である。檀家の方々の心のこもった供花である、嵐よ早く止んでおくれという心持であろう。
引き際の波のつぶやき水温む 宮前ゆき
細工をしないで見た通りに詠いあげた句は、一読読者の胸にゆるぎなく入ってくるものである。掲句も「水温む」という季題、つまり氷が解けて寒さがゆるみはじめると、真っ先に水のありようから季節が移ってゆくという本情が、当たり前のように詠われながら、当たり前ならざる趣をもってしみじみと反芻されるものである。 つ「つぶやき」にふとした主観があるようだが、これも感じた通りに書くとこうなるのであろう。
春鴨や胸つき上げて昼の月 伊藤波
鴨は春から夏にかけて、ふたたび北へ帰ってゆく。春深くなってもまだ帰らないで残っているものを「残り鴨」という、つまり「春の鴨」である。 け掲句は上五「春鴨や」で一旦切れているが、小休止を入れてその春鴨が「胸つき上げて」いるのである。空にはうすぼんやりと昼の月が出ている。上五で一旦切ったことにより、何とはなしの哀切感をリズムをもって生み出すことになり、同時に「胸つき上げて」佇んでいるのは作者その人でもあるように印象させるものである。春の鴨と作者はここに心一つになっている。
リコーダー吹き吹き帰る春田かな 石野すみれ
中七の「吹き吹き帰る」が何とも楽しい。何人か一緒の下校であろう、リコーダーの音色がそれぞれまちまちに聞こえるようである。だが、下五の「春田かな」でもって、一気にこの音色はかがやかしいものになって、春田も一面に広がって見える。
盛装の姉妹にぎやか彼岸入り 川北廣子
入り彼岸と言えば、子規の〈毎年よ彼岸の入に寒いのは〉が思われる。 ここの句、前書きに「母の詞自ら句となりて」とある、子規の母堂のセリフをそのまま一句にしたという口語調は、明治26年の時代においてはまこと画期的であっただろう。以来、この句に合わせたように彼岸の入りには冷え込むことが多い。 け掲句もそんな寒い彼岸入りの日であっただろうか、老いた姉と妹は、うちそろって美しく装って追善供養の法会を修されたのである。久々の出会いに華やいでいる様子を「にぎやか」という気取らない言葉で、その声々までもが聞こえるように詠われている。

ジビエ食ふ雨の銀座の春の宵 石本りょうこ
すーっと読み下ろして、「春の宵」にとどめをさしたその季題が見事に決まっている。春宵をたっぷり堪能するものである。 じジビエとは天然の野性鳥獣の食肉を意味するフランス語とか、そのジビエを使った料理であろうから、高貴、高級なるイメージをもたらすものであるが、ただ豪奢な銀座ではなく「雨の銀座」として、その風趣を少しばかり抑えているところが春の宵の味わいになっているのである。
ころげゐる鉢をたんぽぽひらきけり 古舘千世
鉢植えのものを枯らした後には、そのまま庭先に捨てておいたりするものだが、そんな用なき植木鉢にある日ぽっと蒲公英の花が咲いていたのである。ああ、何と可愛い、嬉しいと思った瞬間に一句仕上がった。 ど土手や野原に群生する蒲公英とはまた違う、しみじみと見入る黄色であったことだろう。日常身辺のものをよく見る、これが俳句である。
欠伸して弥生の風にふらつきぬ 平野翠
「弥生」は陰暦三月の異称。草木がいよいよ生い茂るという意義であろうが、その語感はやわらかにもあたたかい。そのやわらかさが「風にふらつきぬ」によく言い表されている。また、陽暦でいえば四月にあたるから、なるほど春爛漫の眠たさをともなうものであろうから、おかしみを誘うものとなっている。
雪柳枝先風にさからはず 田中朝子
雪柳は漢字の通り、雪のように真っ白で、柳のような葉っぱである。風に揺れているさまも川のたもとの柳に似ていて、どことなく鷹揚である。その枝先までもが、ゆったりとしている。 な中七下五とさらっと言いのけた感じがそのまま「風にさからはず」の風情である。観察すること、またそれをその通りに表現すること、掲句の素直さにひかれる。
春風や跳びはねて待つ昇降機 末澤みわ
昇降機、つまりエレベーターの止まるのを待っている子供の姿を描写した。その、「跳びはねて待つ」子供の明るさが、春風の明るさなのである。言い換えれば春風が子供を跳びはねさせてもいるのである。

国道にひらけて雪の富士の春 菊地後輪
安曇野の山に囲まれ山葵かな 中原初雪
祝卒業丸筒少し汚しけり 鈴木一父
水引きの飾り結びや桃の花 松井あき子
水温む見張り小屋にはラジオ鳴り 坂田金太郎
ケチャップのハートや春のオムライス 木下野風
玄界の海滴らす呼子烏賊 米林ひろ
馴染みたる家居の椅子や桃の花 濱松さくら
亡き人の時計脈搏つ彼岸かな 関野瑛子
行春や「愛してくれてありがとう」 永瀬なつき


厚木神社前で








