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青草俳句会~命のよろこび

結社「青草」 主宰 草深昌子

草深昌子中心とする句会、選後に 令和3年3月

2021年04月27日 | 俳句

              

  下駄履きに通ふ坂道卒業す               佐藤健成

 卒業にあたって思うのは、校門までの坂道の急であったこと、それも下駄の音をカランコロンと鳴らしながら通ったことだったなあ、という回想の一句。                                                                       大地を踏みしめて、たかだかと鳴り響かせる下駄の音は、刻苦勉励の日々の郷愁のようでもある。さしずめ厚木市には名門厚木高校があって、今もなお坂道を寡黙に通う学生の列が続いているもとより下駄履きは見かけないが。

 

  講堂に凧を吊りたる門出かな              奥山きよ子

 蕪村の〈凧きのふの空のありどころ〉のごとく、凧(いかのぼり、たこ)は凧揚げとして詠われることが多い。だが掲句の凧は卒業式に登場したものである。凧の背後にあるのは決まって大空である、大いなる凧を門出の雄姿の象徴として講堂に祝意をもって掲げられたのであろう。 意外性のある凧を見届けたところ、加えて「門出」が出色。

 

  墓原に供花の飛び散る春嵐             漆谷たから

 「春嵐」は、「春疾風」という春の強風の傍題であるが、風ばかりでなく、時に暴風雨となるもので、この現象なくしては春の季節は終らないようである。私も先日の吟行で、鎌倉の春嵐に会ってずぶ濡れになった。〈鎌倉の草庵春の嵐かな 虚子〉のような穏やかな叙し方では、物足らないと思えるほどのものであった。その点、掲句の春嵐はまこと目の当たりにするような映像を伴って、詠いあげられている。それもその筈、作者は曹洞宗寺院のご住職である。檀家の方々の心のこもった供花である、嵐よ早く止んでおくれという心持であろう。

  

  引き際の波のつぶやき水温む             宮前ゆき

 細工をしないで見た通りに詠いあげた句は、一読読者の胸にゆるぎなく入ってくるものである。掲句も「水温む」という季題、つまり氷が解けて寒さがゆるみはじめると、真っ先に水のありようから季節が移ってゆくという本情が、当たり前のように詠われながら、当たり前ならざる趣をもってしみじみと反芻されるものである。                                          「つぶやき」にふとした主観があるようだが、これも感じた通りに書くとこうなるのであろう。

  

  春鴨や胸つき上げて昼の月               伊藤波

 鴨は春から夏にかけて、ふたたび北へ帰ってゆく。春深くなってもまだ帰らないで残っているものを「残り鴨」という、つまり「春の鴨」である。                                                             掲句は上五「春鴨や」で一旦切れているが、小休止を入れてその春鴨が「胸つき上げて」いるのである。空にはうすぼんやりと昼の月が出ている。上五で一旦切ったことにより、何とはなしの哀切感をリズムをもって生み出すことになり、同時に「胸つき上げて」佇んでいるのは作者その人でもあるように印象させるものである。春の鴨と作者はここに心一つになっている。

 

  リコーダー吹き吹き帰る春田かな          石野すみれ

 中七の「吹き吹き帰る」が何とも楽しい。何人か一緒の下校であろう、リコーダーの音色がそれぞれまちまちに聞こえるようである。だが、下五の「春田かな」でもって、一気にこの音色はかがやかしいものになって、春田も一面に広がって見える。

  

  盛装の姉妹にぎやか彼岸入り             川北廣子

 入り彼岸と言えば、子規の〈毎年よ彼岸の入に寒いのは〉が思われる。                                この句、前書きに「母の詞自ら句となりて」とある、子規の母堂のセリフをそのまま一句にしたという口語調は、明治26年の時代においてはまこと画期的であっただろう。以来、この句に合わせたように彼岸の入りには冷え込むことが多い。                                           掲句もそんな寒い彼岸入りの日であっただろうか、老いた姉と妹は、うちそろって美しく装って追善供養の法会を修されたのである。久々の出会いに華やいでいる様子を「にぎやか」という気取らない言葉で、その声々までもが聞こえるように詠われている。

 

                

   ジビエ食ふ雨の銀座の春の宵            石本りょうこ

 すーっと読み下ろして、「春の宵」にとどめをさしたその季題が見事に決まっている。春宵をたっぷり堪能するものである。                                                      ジビエとは天然の野性鳥獣の食肉を意味するフランス語とか、そのジビエを使った料理であろうから、高貴、高級なるイメージをもたらすものであるが、ただ豪奢な銀座ではなく「雨の銀座」として、その風趣を少しばかり抑えているところが春の宵の味わいになっているのである。

 

   ころげゐる鉢をたんぽぽひらきけり           古舘千世

 鉢植えのものを枯らした後には、そのまま庭先に捨てておいたりするものだが、そんな用なき植木鉢にある日ぽっと蒲公英の花が咲いていたのである。ああ、何と可愛い、嬉しいと思った瞬間に一句仕上がった。                                    土手や野原に群生する蒲公英とはまた違う、しみじみと見入る黄色であったことだろう。日常身辺のものをよく見る、これが俳句である。

 

   欠伸して弥生の風にふらつきぬ              平野翠

 「弥生」は陰暦三月の異称。草木がいよいよ生い茂るという意義であろうが、その語感はやわらかにもあたたかい。そのやわらかさが「風にふらつきぬ」によく言い表されている。また、陽暦でいえば四月にあたるから、なるほど春爛漫の眠たさをともなうものであろうから、おかしみを誘うものとなっている。

 

  雪柳枝先風にさからはず                 田中朝子

 雪柳は漢字の通り、雪のように真っ白で、柳のような葉っぱである。風に揺れているさまも川のたもとの柳に似ていて、どことなく鷹揚である。その枝先までもが、ゆったりとしている。    中七下五とさらっと言いのけた感じがそのまま「風にさからはず」の風情である。観察すること、またそれをその通りに表現すること、掲句の素直さにひかれる。



  春風や跳びはねて待つ昇降機            末澤みわ

 昇降機、つまりエレベーターの止まるのを待っている子供の姿を描写した。その、「跳びはねて待つ」子供の明るさが、春風の明るさなのである。言い換えれば春風が子供を跳びはねさせてもいるのである。

 

                                     

          

   国道にひらけて雪の富士の春             菊地後輪

  安曇野の山に囲まれ山葵かな             中原初雪

  祝卒業丸筒少し汚しけり               鈴木一父

  水引きの飾り結びや桃の花             松井あき子

  水温む見張り小屋にはラジオ鳴り          坂田金太郎

  ケチャップのハートや春のオムライス         木下野風

  玄界の海滴らす呼子烏賊               米林ひろ

  馴染みたる家居の椅子や桃の花           濱松さくら

  亡き人の時計脈搏つ彼岸かな             関野瑛子

  行春や「愛してくれてありがとう」         永瀬なつき

 

 

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青草中央句会 春の吟行 令和3年4月

2021年04月21日 | 俳句

青草中央句会・春の吟行              令和3年4月 9 日(金曜日)

吟行地  厚木神社ならびに相模川周辺                                         句会場  アミ ュー厚木601・602室    出席者 23名

コロナ禍のために二回の吟行の中止を余儀なくされ、一年振りの吟行の開催でした。                     当日、朝方は肌寒く曇り空から青空へ、次第に心地良き春爛漫の日和となりました。         主宰の厳しくも楽しい選評に頷き、また活発な会員の意見に耳を傾け、しみじみ吟行句会の面白さを堪能いたしました。

    

     厚木神社前で

 

高得点句 

6点  あたたかやテトラポットに鳥の羽             二村結季

5点  すかんぽや大きく曲がる相模川              山森小径

     春昼のわが町異国観るごとく               伊藤欣次

     靴擦れは嬉しきものよ花疲 れ              渡邉清枝

            蒲公英を踏んでグランドゴルフかな          鈴木一父

            川べりの音符の如く豆の花                  奥山きよ子

            六勝の南画涼しき相模川             東小薗まさ一    


4点  踏青のただ水上へ水上へ                    草深昌子

     茎折って指を濡らせる暮春かな                    〃

     盤石に凭れば寄り来る春の鳩                   〃  

     散る花の蕊を離さず紅の色               伊藤波

 

 

草深昌子選  (順不同)

囀や厚木神社の樟大樹               二村結季

花水木屋根の高さにそよぎけり                    〃

あたたかやテトラポットに鳥の羽                 〃

流木に新芽の噴くや風のなか                     平野翠

川岸の菜の花畑テント見ゆ               神﨑ひで子

十字路やひと固まりの新社員               渡邉清枝

靴擦れは嬉しきものよ花疲れ                     〃   

桜しべ降る球場の明るみて                奥山きよ子

川底の黒きテトラや春の昼                 中原初雪

春昼のわが町異国観るごとく                伊藤欣次

満天星の花のこぼるるサドルかな         佐藤昌緒

春の水掬ヘば底に石静か                    〃     

石段の隅といふ隅桜蕊                     〃     

桜蘂降る球場の応援席                     川井さとみ

花守の長き竿持ち現るる                     湯川桂香

蒲公英を踏んでグランドゴルフかな           鈴木一父

春の波川面の雲を揺らしけり                   中澤翔風

すかんぽや大きく曲がる相模川             山森小径

橋桁に落書き大書うららけし               〃 

行春や渡舟場の碑のくろぐろと              〃 

 

  

 

踏青のただ水上へ水上へ              草深昌子

茎折って指を濡らせる暮春かな

川の幅川原の幅の長閑なり

盤石に凭れば寄り来る春の鳩

鳥雲に入るや岸辺に人の立ち

 

  

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2021年4月 青草通信句会

2021年04月15日 | 俳句

草深昌子選

兼題「清明」      

   

 

  清明の垣の葉散らす羽音かな        奥山きよ子

 何鳥か春の鳥がやってきて生垣をこそついています。そのひそやかな羽音を聞きとめたのも清明という節季のよろしさではないでしょうか。ゆったりとかつ神経のゆきとどいた句です。

  ほくほくと土を起こして蝶の昼         きよ子

 蝶々のよく飛ぶあたたかな昼の実感が臨場感をもって詠いあげられています。擬音も効果的です。

 

  清明や鳶の一羽の急降下             佐藤健成

 清明の日のある刹那を詠いあげました。ただひろびろとした空に輪を描いている鳶では清明を感受することはできないでしょう。

  清明の大地これより地鎮祭          二村結季

 「清明の大地」などと大きく見えをきったからには、「これより」という勿体ぶった言い方が効いています。さも厳かな立派な地鎮祭が開かれるのでしょう。これも清明ならではのもの。

 

  清明や横たふ牛の岩の如            伊藤波

 これぞまた清明の大地ともいえる大らかさ頑丈さが感じられます。まこと明快なる一句。清明に余情が生まれました。

 

  清明や折り鶴置かる朝の膳         神﨑ひで子

 折り鶴という措辞から、ぴしっと引き締まった作者の心持までもが偲ばれます。旅先でしょうか、清明たるものの印象をまこと明らかに詠いあげています。

 

  清明や聖火リレーのアスリート       松尾まつを

 オリンピックというまさに時宜を得た清明のありようです。

時事的なものは俳句に向きませんが、この句は説明でなく、すかさず掬い上げられたところ、力強さが伝わってきます。

  菜の花や晩鐘遠く又近く            まつを

 手練れのようですが、やはり「晩鐘遠く又近く」は実感なくしては詠えないものでしょう。菜の花も暮れ方のおちこちに咲いている、その広がりが見えます。

  清明や父の忌日の大吟醸          松井あき子

 清明の日はまたよき父の忌日でもあったのでしょう。父を偲ぶにふさわしいぴか一の大吟醸が清明によく呼応しています。

  マウンドで天辺指すや風光る          あき子

 選抜高校野球の画面を見るようです。球児など、無駄な言葉がないところがすっきりしています。

  清明やはだしであるく山頭火         鈴木一父

 清明の「清く明るく気が満ちる」という意を思うと、こころはやはり山頭火に飛ぶのでしょう。山頭火に「雨ふるふるさとははだしであるく」があります。

 

  清明やうつらうつらの昼下がり        田中朝子

 清明は又、春眠暁を覚えずという時期でもあります。自身に寄り添う清明の昼下がりを長閑さの中に詠いあげました。

 

  清明の寺の裏山みてゐたり          堀川一枝

 裏山を背負っている寺は鎌倉などによく見かけます。そういう寺にあって、春の闌けてゆく様子に魅入られたのでしょう。

 

  清明や寺門に揃ふ箒の目           米林ひろ

 清明という時候の気持ちよさを、単純明快にいいとどめています。

 

  雄鶏は羽根の手入れや花の昼        川井さとみ  

 「雄鶏」が見事に決まっています。なぜか「にはとりは」では花の昼の情趣が生まれないものです。一歩踏み込んだ描写です。

  初蝶や馬食む草の傍らに            さとみ

 今年初めての蝶をどこに見つけたか、見つけたその場所がそのまま一句になります。「馬の傍ら」でなく、その馬が食べている「草の傍ら」が生き生きとした蝶の描写になっています。

 

  手を振つて別るる際や春の虹         石堂光子

 さよならと手を振ったその時に春の虹が立ちました。ともどもよろこびに見上げられた虹であったことでしょう。人の世の隙間にこのように美しい色彩が浮かぶのです。

 

  山頂の四方も山頂木の芽晴         森田ちとせ    

 山頂からみはるかす山頂とは素晴らしい光景です。私もこの光景に出会ったことがありますが、その時は紅葉の頃でした。作者が立ち会ったのは木の芽晴だったのでしょう。季題の「取合せ」に正解というものはありません、先ずは「有り合せ」でよしとしましょう。

 

  灌仏や尻うつくしくつきだされ        草深昌子

  桔梗屋は薬屋にして種物屋

  清明や波高ければ松傾ぎ

 

         

 

青草通信句会 選後に

 今回の兼題「清明」は、これまで、俳人仲間では禁忌のごとく詠わない季題でした、もとより私も句集に一句もありません。さぞかし悩まれるのではなかろうかと案じておりましたが、何とまあ、皆さまはいきいきと詠われていてびっくりしました。

 昨年、大峯あきらの全句集から春の俳句を抜き書きしましたものを、いま再確認しましたら、〈清明や木樵の庭の鶏白し〉、〈清明や枝さし交す城の松〉を見つけました。大峯先生も清明にふさわしい自然のありようを感受されていたのでした。

 清明から逃げ腰であったことを反省しました。何時如何なる季題であっても挑戦する、この心構えが大事でありました。

 「清明」に続き「穀雨」という節季がやってまいります。いよいよ晩春、これが終りますともう夏です。穀雨は雨が降って百穀を潤すという意味合いです。この日にたまたま雨が降ることもあるでしょうが、実際に雨が降っている季語ではありません。

 つまり穀雨は「時候」の分類に入る季語なのですが、どういうわけか、春雨の如く「天文」の季語の要素を感じさせるような句が多いものです。これはやむを得ないことかもしれません。

 私も、「コクウ」という韻律のはたらきもあって、どこかしらしっとりと濡れているような感覚を覚えます、要は表現の仕方によって穀雨の時節が鮮やかに立ち現れるかどうかでしょう。

 かにかくに、通信句会の清明、ネット句会の穀雨から、難しいなかにも多くを学びとられたのではないでしょうか。季題はどこまでも奥深くて学ぶことがいっぱいです。またどんな兼題に巡り合えますでしょうか、いよいよ楽しみになってきました。

 

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結社誌「風の道」4月号に掲載

2021年04月01日 | 俳句

「風の道」 現代俳句 月評  羽鳥つねを

                                     

  アマリリスピサの斜塔の足元に     松尾まつを

 「Wep俳句通信」(Vol118)結社誌・同人誌編集長競詠。
 今年はコロナ禍で世界中が大騒ぎになり発生から一年になりつつある。未だ欧米では感染者が増加中とのこと。イタリアもご多分に洩れず観光産業のダメージが大きいらしい。なのでこの作品はコロナ禍以前に詠まれたものと思われる。
 作者は聖堂脇の鐘楼(ピサの斜塔)の傾きを見て、さらに建物の基礎となる土台に眼をやり大丈夫なのかと心配するが、塔の足元に健気に咲いているアマリリスを見てひと安心し、塔内階段を上り屋上からの街の景色を満したものと想像する。塔を下りて少し考えると、ふつう建物が傾いたら柵囲いするか毀すか、または大改修を施すと思うがそのまま観光に利用している。この発想がイタリア人気質かと妙に納得しているおかしみも感じられる。上七文字をカタカナ表記にしているのも歌劇の序のリズムに繋がるようで、その国の特徴を巧みに捉え写実し、さらに軽妙と滑稽さを含ませイタリアらしい作品のように見受けられる。

「風の道」第37巻第4第号(通巻430号)所収

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