草深昌子選 (順不同)
兼題「石蕗の花」

黄落の庭にサーフィンボードかな 中澤翔風
江ノ電の海岸べりの駅を降りて歩きますと、まさにこういう景色に出会います。そこをすかさず詠いあげるところ見事です。「黄落」が明るく効いています。
江ノ電の海岸べりの駅を降りて歩きますと、まさにこういう景色に出会います。そこをすかさず詠いあげるところ見事です。「黄落」が明るく効いています。
石蕗の花その葉やなめし革のごと 小宮からす
花でなく「葉」で詠いあげて、それも実感のある比喩で、石蕗の花のよろしさが浮き出てきます。地味ながら力強い石蕗が思われます。
獲物食む口まざまざと蜘蛛や秋日 日下しょう子
俳句はよく観察することが一番です、一物仕立ての俳句の魅力ここにありです。「蜘蛛秋日」は窮屈なので、「獲物食む口まざまざと蜘蛛や秋」
盆の上の熟柿一つに裂け目かな しょう子
よく熟した柿は、ひとりでに裂けてさらに熟していくのでしょうか。盆の上ですから、静かにもくっきりと見えるようです。
よく熟した柿は、ひとりでに裂けてさらに熟していくのでしょうか。盆の上ですから、静かにもくっきりと見えるようです。
畑仕事そろそろ仕舞ふ十三夜 二村結季
日もすがらねんごろに畑仕事をされているのでしょう。でも今宵は十三夜、「そろそろ」によき情感が籠っています。
腹見せて窓に張り付く虫の秋 平野翠
なまなましくリアルな描写が効いています。虫にとっては精一杯生きねばならない「秋」の時分なのです。
なまなましくリアルな描写が効いています。虫にとっては精一杯生きねばならない「秋」の時分なのです。
川縁の石蕗の黄高くありにけり 松井あき子
かわっぷちに咲いている石蕗の花は丈が高いのですね、それを「石蕗の黄高く」とめでたく賛辞して詠いあげました。文字通り、姿の美しい一句です。
門一つ表札二つ石蕗の花 伊藤 波
二世帯住居か、それとも妻は旧姓で通しているのか、時々見かけます。きっと仲良くお住まいのことでしょう。石蕗の花はささやかな幸せのありようです。

潮鳴りのけふただならぬ石蕗の花 草深昌子
竹の脚見せて案山子の末枯るる
蜻蛉の顎つきだす秋の風
蜻蛉の顎つきだす秋の風
令和5年11月・青草通信句会講評 草深昌子
十一月の兼題は「石蕗の花」。
左記は、かつて鑑賞した原石鼎の「石蕗の花」の再掲である。
大いなる海の力や石蕗咲ける
地軸より咲きし色なり石蕗の花
うすうすと大地の苔や石蕗の花
地軸よりぬき出て咲けり石蕗の花
雨に照り日に濡れ石蕗の花崇し
花終へて安らけき石蕗の葉なるかな
一句目は、間違えて「石蕗の花」と書き写したのであったが、「石蕗咲ける」であったと知って、この違いの大きさを感じ入った。「石蕗の花」では「大いなる海の力」はよそ事である。「石蕗咲ける」でもってはじめて石蕗の咲く、ここまでその力が及んでいることを喜ぶのである。まるで海の力でもって石蕗の花が開いたかのような輝きをもたらしている。大いなる海の力は石鼎の一身にも及んでいるのであろう、気が張っていなければ「石蕗の花」で片づけてしまったかもしれない。「石蕗咲ける」にしてはじめて、海の力に力負けしていない石蕗の花が立ちあがる。だからこそ「地軸より咲きし色なり」が引き出されもするのである。
石蕗の花の黄色は目の覚めるような鮮やかさである。かといって石蕗の花の咲いているあたりはどことなくひっそりしていてそれほど華やかさはない。「うすうすと大地の苔」には、そんな感覚がうかがわれる。小春の頃の季節感そのものが石蕗の花のありようのようである。花が咲き終わっても、なお艶やかにある葉の緑、ここにはお疲れさまでしたとでもいうような微笑みがただよっている。
今、読み直してみても、石鼎の石蕗の花に寄せる熱い思いがよく伝わってくる。「見渡す」、「眺める」だけでなく、時間をかけて「じっと見入る」、これが写生の要点であろう。
虚子はこう言うーー客観写生といっても決して客観写生に終るものではない。客観写生というのは写生の技を磨くものである。客観写生の技を磨くことはやがて、その作者そのものを充分に描き得ることになるのである。――







