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青草俳句会~命のよろこび

結社「青草」 主宰 草深昌子

草深昌子を中心とする句会、選後に 令和3年6月            

2021年07月17日 | 俳句

草深昌子選  

  

 

      ぽきと折り揉んでがりがり氷菓かな   石野すみれ

   氷菓とは即ちアイスキャンデーと言いたいところだが、今やソフトクリーム、アイスクリーム、トロピカルなフルーツ等、さまざまに飾り上げたものが夏の涼味を演出してやまない。

 さて、「ぽきと折り」、「揉んで」、「がりがり」とは、いかなる氷菓であろうか、思いめぐらしているうちに氷菓は溶けてしまいそう、「あっ、あれだな」とさっとイメージできるのはキャピキャピギャルであろう。

 もう一度上五、中七と順々に噛み砕いているうちにすっかり楽しくなってしまった、これぞ氷菓の持ち味ではなかろうか。すみれさんは、こんな面白い句や、格調高い句、さり気ない句など、自由自在に写生句をものにされている。 日常身辺から打ち出された、作者独自の視点に詩情が漂うのである。

 

   リフトよりひらりと下りる草刈女    森田ちとせ

 草刈女というと私などは野暮ったい風体でただコツコツと炎天に耐えて作業するという姿を思い浮かべてしまう。だが掲句は、意外や意外、何と文字通り「ひらりと」と颯爽たる草刈女である。眼下には大草原が広がっているのだろうか、読み手の想像力も広がってくるものである。

 

    えご散るやチェンバロの音聞え来て  末澤みわ

 「えご散るや」と打ち出されて、「チエンバロの音」と来ると、もう一瞬にしてその情景に嵌まってしまった。あの清楚なえごの花、そう咲くよりも散りやすい、その散りようのまた何ともいえぬ静かなる佇まい、そんなありようが、チエンバロの穏やかにも繊細なる音色にありありと浮かんでくるのである。ちなみにチエンバロはピアノの祖先、バッハの曲にぴったりのもの。                                              作者自身にとって出会いがしらの一句であろう、その詩的直感には作為も何もない、そこに読者は魅了されるのである。

 

    熟麥のにほひを知るか鳶来たる      伊藤 波

 黄金色に熟した一面の麦畑、麥の収穫期である。さっきから鳶のさっそうたる飛翔がいくたびも見られるのであろう。ダイナミックにも明るい光景を表出するのに、リズムそのものに弾みをつけたところさすがである。

 

    墨汁に筆の馴染まぬ夏書かな     山森小径

 夏書は、夏安居の間に行われる写経のことである。したがって、もともとは僧侶の仏道修行であるが、在野の人々もこれにならって写経を行い、納経をする。硯でもって墨をする静寂のいとまも、ある種の瞑想があるものであろう。だが今や、手際よく墨汁というシロモノがあって惜しみなく使える。

 一字一字に精魂込めながらも、ふと筆の馴染みに違和感を覚えられたのである。                   「夏書」という本来の季語のありようを思い起させて、供養の心がこもっている。

  

      

 

   めまとひを連れて虫除け買ひにゆく   古舘千世

 「めまとひ」は蠛蠓のこと。文字通り、目や口にあたらんばかりしつこく人についてくる夏の夕べの虫である。まったくこの蠛蠓はうるさいわと思うところではあるが、作者はいと軽やかに「めまとひを連れて」と言い表した。そこに一句の軽妙洒脱がかもしだされている。たまたま殺虫剤を買いにいくのだが、蠛蠓にも一吹きしたいところという気分がないはずはないのだが。

 

    梅雨晴や隣の部屋の青畳           佐藤昌緒

 「梅雨晴」がまこと清々しく詠いあげられている。「隣の部屋の青畳」とは、きっと取り替えたばかりの新調の畳、藺草の匂いもするだろう。「隣」というこの一文字が、いかにも予定調和になりそうな雰囲気を打ち捨てて、作者の視線までもが晴れやかである。

 

   甘井や夏の朝の始まりぬ        松井あきこ

 「甘井」というよき井戸の周辺から人々の一日が始まる、わけても「夏」の朝が鮮やかである。「井」なる席題で即刻に仕上げられた句である。席題は身辺のみならず、昔の体験、情景なども総動員して、思わぬ新味をもらすものである。

  

  夏草や唸る刃に討ち取られ       栗田白雲

 芭蕉の〈夏草や兵共が夢の跡〉を彷彿させる句である。                            草刈機の「く」の字も出さずして、現世の夏草の繁茂が見えてくる。

 

    ドローンめく飛翔と着地あめんぼう    宮前ゆき

弱小なるあめんぼうに対して、「飛翔」と「着地」という大層なことばもドローンの見立てならばこそ、そこが面白い。

 

     

 

 

  雨蛙一つ跳んでは考へる        佐藤健成

 「うーん、雨蛙って本当にそうだな」って誰しもが思うことであろう。それは、「一つ跳んでは」の中七の写実が「考へる」に紛れなきリアリティーを付加しているからである。

 

   貧しくも家族揃つて一つ蚊帳        松尾まつを

 今どき、こういう蚊帳をみかけない、という理由でこの句を採らない方がいるかもしれないが、私はそうは思わない。この句は、一つの家族の理想像のようなものを、何ともささやかなる一つの「蚊帳」というものを通して詠いあげられているのである。                                                地球上のこの世のどこかしらに、いつまでも、こんな幸せのありようがあってほしいと願っている。

 

 

   弟は喧嘩に強し葛茂る          木下野風

   夏草の藪の内なる羽音かな        平野 翠

   波の如百足虫の肢の正しけれ      川井さとみ

   水薄き日向に揺れて目高かな       奥山きよ子

   夏服は少し派手目がよろしけれ       関野瑛子

   逃げながら振り向く猫や花擬宝珠      田淵ゆり

   もうすぐに梅雨青梅線青梅駅        中原初雪

   やつちや場の蠅や天井黒づくめ       冨沢詠司

   梅雨晴や深く釘打つ音のして       澤井みなこ

   校庭のキャベツや夏の露しとど       石原虹子

   梅雨晴や始発電車の軋む音      石本りょうこ

   崖下に波の音あり月涼し        河野きなこ 

   石垣や吹き出るやうに夏の草         堀川一枝

   単衣着て緑の風の吹くことよ         渡邉清枝

   図書館のこの席が好き濃紫陽花         川北廣子

 

 

 

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青草本部句会 令和3年7月9日(金)

2021年07月11日 | 俳句

草深昌子選 

兼題「夕立」  席題「坂」

 

   

 

  七月やこの坂越せば日本海      湯川桂香

  わらわらと人の出て来る夕立あと     桂香

  梅雨出水灯す真昼のヘッドライト   山森小径

  頑張れば空を飛べさう水馬        小径

  葛切や大仏殿の薄明り       松井あき子

  百合匂ふ音楽堂へのぼり坂       あき子

  梅雨晴やトマトの挿芽起き上がり   石原虹子

  青柿やぽわんと落ちて川をゆく   川井さとみ

  草深き昔牛馬の汗の坂         泉いづ

  石叩き青田を低く渡りをり     河野きなこ

  裏山の坂の奔流送り梅雨        間草蛙

  片蔭の坂や齢と思ひつつ       伊藤欣次

 

  

 

  裏道は坂のにはかに栗の花      草深昌子

  道に出て笑ふ男女や夏の月

  手拍子の洩れくる梅雨の窓辺かな

  蜘蛛の囲や押売りゆすりお断り

  夜明かしの眼に遠く蓮の花

  夕立の有平棒をけぶらする

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2021年7月 青草通信句会

2021年07月11日 | 俳句

草深昌子選(順不同)

         

           

 

      白靴や紺のスーツに赤ネクタイ     松尾まつを

 「白」と「紺」と「赤」と三つの色が出てきますが、それぞれに目だって清々しいです。夏の装いがバッチリ決まりました。                                                

      空の色半分青し梅雨の昼        長谷川美知江

 空の半分は曇っているのですが、「青し」と明るいところを表現しました。そこで梅雨時の昼のありようが際立っています。                                                

       凌霄花を揺らす雀の飽きもせで         伊藤   波

 凌霄らしい明るさを思います。「雀の飽きもせで」は、雀のみならず作者自身の凌霄に寄せる気持ちの表出です。                                                       

      手のひらに二つは乗らぬなすびかな      泉   いづ

 立派な茄子の大きさを想像しました。その艶々の肌も思われます。作者のよろこび、満足感が伝わってきます。                                                       

      静かなる風に吹かれて糸とんぼ        渡邉清枝

 「静かなる」がここでは素直に実感されます。風のみならず、ほっそりとした糸とんぼの飛び様が静かでもあるのです。                                                       

      白靴やいそいそとして西銀座          長谷川美知江

 「いそいそとして」いいですね、また「西銀座」だからこそのいそいそが「白靴」にはっきり感じられます。これぞ夏の白靴。                                             

       白靴を履いてマンボを踊りけり          中澤翔風

 マンボって昔大いに流行りましたね。なつかしいマンボを通して白靴がいきいきと鮮やかに踊り出します。                                               

      白靴や一歩踏み出すきっかけに       湯川桂香

 「白靴」には、肉体的のみならず精神的効用があるのでした。「一歩踏み出すきっかけに、白靴がある」というのですが、倒置法でもって報告にならず「詩」になりました。   

                                                    

          新調の白靴朝の丸の内              松尾まつを

 丸の内というと即、日本の企業戦士の場を思います、そんな新調の白靴は颯爽たるものです。時代が変わったとは言え、今も丸の内は丸の内、大股の靴の音がカツカツ響きます。    

                                            

         下ろしたての白靴けふを使ひきる       川北廣子

 「けふを使いきる」とは、一日がたっぷり充実してあったのです。下ろし立ての涼しさ、その壮快さが詠われています。   

                   

                     

 

   驟雨来る夏至をきのふの明るさに    草深昌子

   エッフェル塔ゆくや白靴いや白く

   白靴やこの見晴らしの酒匂川

 

令和3年7月青草通信句会・選後に           草深昌子

  「白靴」がなぜ夏の季語かと考えますと、やはりその白という色の打ちだす「涼しさ」にあるのでしょう。現代は白靴というとスニーカーをイメージしますが、本来は「革靴」の白に端を発したもののようです。つまり「お洒落」という感覚も付加されます。もちろん今風の軽やかな白靴も結構ですが。

  白靴の中なる金の文字が見ゆ     波多野爽波

  白靴を踏まれしほどの一些事か    安住敦

  俳句において「発想する」ということを私は好みません。                                                        かつて、「青草」誌に書きましたように、本当の俳句は自己意識からは生まれてこないように思います。詩の言葉というものは私の心が捉えるのではなくて、逆に、何かしら天地の光芒に照らし出されてふと私の心が捉えられたときに生まれるということを体験から実感させられています。

   ひらめくときの脳と、ぼーっとしている時の脳は同じ状況。俳句では何も考えていないときにどこからか言葉がやってくるのがベストです。しかしもともと脳が空っぽでは下りてきません、記憶物質をいっぱい貯めこんであるからこそ、その中の何かが何かとぱっと結びつくかのごとく天から下りてくるのでしょう。でも、私たちは詩人として生きてゐる限り、誰にでも言葉の下りてくる幸せな一瞬に巡り合えると信じています。

   とは言え、なかなかうまくいかないものです、そこが俳句の嘆きであり、面白さではないでしょうか。

    先ごろ私の好きな立花隆が亡くなりました。彼はこう言いました。                                       (「人生は苦戦につぐ苦戦、苦戦ばかりだ、だからこそ苦戦を乗り越えよう、乗り越えようとして生きるのです」と。

 

 

 

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