goo blog サービス終了のお知らせ 

青草俳句会~命のよろこび

結社「青草」 主宰 草深昌子

『WEP俳句通信』146号  特集〈一句十題の試み――題・雲の峰〉    草深昌子

2025年07月20日 | 俳句
        
 一題十句  雲の峰    草深昌子
 
  江の島や富士とみまがふ雲の峰
  峰雲やビール一缶結び二個

  雲の峰いそぐべき用なにもなき
  なかば町なかば田舎の雲の峰

  峰雲や車掌のこゑのよき小駅
  日輪と電信棒と雲の峰

  九月十九日や雲の峰の聳つ
  雲の峰此処やそつくり水深く

  田端まで行き行く坂東太郎かな
  駄鳴つて露月来たれる雲の峰


   

 春の雲を長閑に仰いでいたら「雲の峰」の依頼がやってきた。
 田中裕明は一か月先の季題を詠うと言われた。
 以来、これを見倣って季題の待ち受けを実践していたが、
近年飛ぶように日が経つのは、季題の先取りのせいだと決め込んで、
忙しく追いかけることにブレーキをかけはじめた矢先だった。さて、困った・・・ 

    そこで、枕頭の書である、岸本尚毅著『高濱虚子の百句』をしっかり読み直した。
 虚子の〈並び立つ松の蕊あり雲の峰〉について、
夏に近い(夏のような)春の景であっても差支えはないとして、さまざまの論点を読み解いたあとで、
「季題がどれで季節がいつかという議論は不要です。
 句はあるがままにその句でしかない。それもまた虚子の真意だったと思います。」とあった。
 これに元気をもらって、手当たり次第に雲の峰を書きとどめた。

季題と人生は切り離せないものである、一回きりの人生に何度雲の峰を仰いだことだろう。
子供の時分を思い起こしつつ、いつしか老いの現況に至ってしまった。
気力が衰えると、意気軒昂の雲の峰によりかかりやすい、まさしく大いなる自然に癒されているのだった。
実作は棚にあげて、頭の中の様々のセオリーが実感をもってほどかれていったのは、〈一題十句〉のおかげであった。

   昔むかし、私に俳句を勧めた母が、
「主観を客観で言うのが俳句ですわ」と言った。
聞き流していた一言がふと蘇ってきたことも、懐かしい。

     











コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

草深昌子を中心とする会・選後に 令和7年6月

2025年07月20日 | 俳句
草深昌子選
      
    
   

         ポロシャツのボタン外して風薫る   佐藤健成
 青葉を吹き抜けてゆく風は匂うようである、それが「薫風」「風薫る」という季題である。
 〈薫風や蚕は吐く糸にまみれつつ  渡辺水巴〉などの名句は例外にして、 どんなフレーズをつけてもそれなりに俳句らしくなるという薫風という季題は好きではなかった。
 薫風はもとより季節風であるから「南風」であり、また相当に強い風は「青嵐」である。
 南風や青嵐の印象は詠いあげたいという意欲にかられる季題であるが、薫風にはすでにして「薫る」という動詞があって、その甘い感覚に作句意欲をそがれてきたのだった。
 ところがこの句に出会って、久々に、ああ薫風だなあ、という感慨に浸らせていただいた、
 そう作者と共によき風を存分に味わったのである。
この何気なさこそが薫風ではなかろうか。
まこと清新なる一句である。

      金魚より値の張る目高店の奥   中原初雪
 「メダカ」って口にしたとたんに、懐かしの小さな目高が浮かんでくる。
 誰もが子どものころに親しんだものである。
 それが、まあ何と金魚より高いというのである。
 本郷の坂を上ると金魚屋があって、鑑賞用の金魚の高価なることにびっくりしたものだが、それより高いとは。
 ともかく選者は一句を読んで直感的に驚かされると◎がつく、
 驚かされることこそが選者の醍醐味である。
 読み直して「値の張る」も巧いが、さらに巧いのが「店の奥」である。
 読者を店の奥まで引き連れて、納得させるのである。

        ひるがほの咲いて都会の駐車場   柴田博祥
 昼顔は好きな花である。
 道ばたの草むらのどこにでも生えていて、ちょっと柵に絡んでいたりすると懐かしい。
 日中は咲いて、夕方には萎むという淡々しい感じもまた惹かれる所以かもしれない。
 この句もまた、そういう選者の概念をひっくりかえしてくれるものである。
 昼顔にしてなかなかに逞しいのではないか。
 「都会」という華やぎのイメージ、「駐車場」という賑わいのイメージが、野草のそれを覆すのである。
 ちなみに私の好きな飯島晴子の句に、
 〈昼顔は誰も来ないでほしく咲く〉、〈昼顔のあれは途方に暮るる色〉がある。
 こちらは主情濃く詠って、昼顔を明らかに見せてくれるものである。

        宮ケ瀬の水のつめたや夏帽子   岩城泰成
 厚木市在住の我らが「宮ケ瀬」である。
 車で行けばすぐそこかもしれないが、距離的なものだけでなく、
 その成り立ちを思うと私などは宮ケ瀬と聞いただけではるかなる思いに誘われもする。
国内最大級のコンクリートダムの建設が完成したのは2000年であったか、今や人造湖の湖畔には遊園地が広がり、遊覧船も発着する観光地でもある。
この地の水のつめたさだけで詠いあげた「夏帽子」の涼しさがたまらない。
宮ケ瀬の日差しは眩しいばかりであろう。

         銀紙の鶴の尾立ちぬ梅雨曇   川井さとみ
 折り紙の鶴であろうか。
 だが折り紙と言わずして「銀紙」とのみ詠いあげた、その銀紙の銀色が出色である。
 そうして、その「尾」もまたピンと張っているのである。
ささやかにも引き締まった印象が折からのはっきりしない曇天のさまを明らかに見せている。
やがて、うっすらと日の差してきそうな梅雨曇ではある。

 時鳥ラジオ体操始まりぬ   高橋 麦
 東京の俳人で時鳥の鳴き声を知らぬ人がいて驚いたことがある。
 ここ厚木では夏を告げる鳥として、日常的によく鳴いてくれて親しまれている。
 掲句も然り、早朝のラジオ体操が始まらんとして、
 「テッペンカケタカ」、「トッキョキョカキョク」などとまるで伴奏よろしく鳴いてくれたのである。
    自然と共にある人生の楽しさ、心身共に健康なる一日のはじまりである。

                         

        鎌倉や行く先々をほととぎす   石堂光子
 こちらは厚木にあらずして鎌倉である。
 古来から文学によく取り上げられてきた時鳥は鎌倉でこそ、その本領を発揮するのかもしれない。
 時鳥の一声一声に何かしらを思い出させてもらえるもののようである。
   中七の「行く先々を」、何気に感慨深い措辞である。

        青嵐枝葉ちぎれて庭一面   市川わこ
 万緑を吹き渡るというような、明るくも荒々しい風が「青嵐」である。
 青嵐のおかげで、我が家の庭の一面に木々の枝葉が飛び散ったのである。
 何という激しさであろうかと思いつつ、その清涼なるさまを愛でているような落ち着きも感じられる。
    ありのままを描写してこその一句のよろしさである。

       立葵ここより道の分かれけり   山森小径
 「葵」は葵でも、「立葵」と言うときの清々しさは格別である。
 そんな立葵の把握がまこと簡潔明瞭に詠いあげられている。
 名の通り、真っすぐにすっくと立った花はまさに分岐点を知らしめて、静かにも戦いているのであろう。
 通りすがりにふと詠いました、とでもいうような飾り気のなさが引き立っている。 

         合歓咲くやひすがら沖の高曇り   二村結季
  下12はひと息に読み上げて、滑らかにもかろやかな余韻をもたらしている。
「高曇り」というのはあまりなじみのない言葉だが、空の高いところに一面に雲がかかっているというのだろう、それも朝から晩まで。
    内容もさることながら、調べのよろしさが利いている。
    合歓の花というと、〈象潟や雨に西施が合歓の花 芭蕉〉がすぐに思われるのだが、この句からも眠ったような、夢のような合歓の花の感じがよく出ている。

   かっぽれの足よく上がる燕子花   結季
 かっぽれと燕子花の対比が楽しくも鮮やかである。



   生え際のかたちのままに汗疹かな   小宮からす
   ひららかな大地どこまで夏の雨      からす
   何鳥か大き一声青嵐          佐藤昌緒
   漂うて雲と浮草あつけらかん        昌緒
   時鳥啼くや金時山の子に       奥山きよ子





コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

青草通信句会 2025年7月

2025年07月19日 | 俳句
草深昌子選 (順不同)
兼題「香水」

     


         ままごとや葉陰に小さき桑苺      渡邉清枝
 桑苺は桑の実のこと。上五で切って、ままごとの背景を描写しました。桑の実もちょっと摘んでままごとを一層楽しくしていることでしょう。

         香水のさざめきにある幕間かな   奥山きよ子
 観劇の幕間の時間には飲食したり語らったり様々ですが、そんないっときのある種の興奮のようなものを「香水」をもって語らせました。とっておきの華やかな香りを思います。

         香水の夜のデッキの姉妹かな   柴田博祥
 例えば船の甲板のデッキでしょうか。夜という時間の静けさが姉妹だけのものとして、香水はいっそう幽かにも香り立つようです。姉妹の仲のよろしさがしのばれます。

         香水を売る一角の佇まひ   小宮からす
 デパートあるいは六本木、銀座など香水ブランドの売場でしょうか、その一角のありようは静かにも独特な雰囲気をもたらします。表現もしんとしています。「香水」を売場で詠うという切り口がすでに斬新。

         引率の教師のオーデコロンかな   奥山きよ子
 よどみなく一続きに詠いあげたことですっきりしています。その爽やかさも香水でなくオーデコロンであるところからもたらされます。教師のよろしさです。


       


         磐石に苔のつきたる夏越かな     昌子
         香水の瓶の背高いとほしむ
         松風の茅の輪くぐりしあとにつく


                   

        令和7年7月・青草通信句会講評   草深昌子

令和7年7月の兼題は「香水」
   香水は四季を問いませんが、俳句では「夏」の季題です。
        香水の香ぞ鉄壁をなせりける   中村草田男
   初学時代、香水といえばもうこの句でした。さぞかし美人でしょう、これほど近寄りがたい香水があるでしょうか、まさに鉄壁です。
       香水やまぬがれがたく老けたまひ   後藤夜半
 こちらも美人であられたのでしょう、香水のたしなみは持ち合わせながら老いは隠しようもないようです。普遍的な老いのかなしみというものを一句は静かにも詠いあげています。

   さて、いつしか年老いますと、俳句観も変わってきます。
「鉄壁」が如き高尚性を求めなくともいいのです。高い調子で書かなくていいのです。じっと見て、じっと聞く、対象のこころと同化して、はじめて自分の言葉がどこからかやってきます。俳句は発見がなければダメです。その場でなければなりません。即物的にやればやるだけ一句はしなやかに強くなります。 
    常識的に敷衍している言葉、他人様に借りた言葉などはすでに陳腐です。写生というのは自分という人生観で見るものです。
    詩はまた読者と共感しあうものです。説明したくなる自分の気持ちを断ちきって、読者と共に素直に楽しみあいたいものです。

    そのためには選句が大事なことを度々申しあげていますが、今もって説明が行き届いて、意味でつながっている句、散文のような常識的な句に点数が入りがちです。これは俳句を作るときも、因果関係でつなげて意味が分かるように作っているからだということになりましょうか。そう、実作の能力と、選句の能力はほぼ等しいものです。どちらも歳月かけて向上してゆくものですから、焦ることはありませんが、ちょっと心して選句するだけでも上達が違ってきます。
    本部句会で取り合せの句をお示ししていますが、名句は表でつながらないで、裏でそれとなくつながっているものですから、分からないというのが本音でしょう。ずば抜けた俳句は、ずば抜けた俳人しかとれないということがしみじみと分かります。

     初心のうちは日常的に目にしているものだけで作っていましたが、今後は古典的な季題も含めて、知らない季題にチャレンジしましよう。そこで、どんどん先人の名句を読んでいるうちに類想も分かってくるのです。類句を作ったらすぐに取り消し、その先は類句を恐れずに作っていきましょう。自分の言葉で自分の顔を出せますように。





コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

青草本部句会 令和7年7月4日(金)

2025年07月17日 | 俳句
草深昌子選 (順不同)
兼題「泉」席題「急」

      


 梅雨晴や色の退せたる正一位   奥山きよ子
 奥つ城の小橋の奥の泉かな    きよ子
 石垣をのりだしてをり竹煮草   きよ子
 ペディキュアは鼻緒の色の浴衣かな   山森小径
 入れかはり何か来てゐる泉かな  佐藤昌緒          
 湧くばかりつひぞ溢れぬ泉かな  小宮からす          
 鰺鮨や豊後なまりのなつかしき  二村結季          


     


 浮いて来い風雲急をつげんとす   昌子   
 蓮の葉を来たるや蝶の急がざる
 簗守の声のあらぶることの急
 竜神の髭撫でてゐる泉かな
 小田急の飛ばしどころや半夏生
 夜濯に急雨至るをいとはざる




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

草深昌子を中心とする会・選後に・令和7年5月

2025年06月20日 | 俳句
    草深昌子選

         

         はらはらと色の散りゆく昼花火  奥山きよ子
 小さくて軽いものが静かに落ちゆくさまが「はらはら」ではあるが、はらはらと散るなどは、擬音としてはいかにも普通である。
 俳句において常識的な擬音は有効ではないことをいつも申し上げているが、俳句には常に例外がある。
 この句に限って「はらはら」は、花火の揚がりよう、終わりようを目の当たりに見せて刻々が何とも美しい、夜の花火とは違う、明らかに昼のそれではないだろろうか。
 はらはらと、散りゆく、の間に挟まった「色」の一字が、さすがに垢抜けしている。

         山近き菓舗の朝や柏餅   きよ子
 端午の節句の時期には、是非とも柏餅が欲しい。
だが、昼ごろに買いに行くと、「売切れ」の張り紙を目にすることたびたび。
 この柏餅は「朝」ならではの新鮮。
 しかも大山であろうか、その山の裾を引いているところに落ち着きがあって、めでたい。

    柏餅見れば買ふぞと言ふ男   葉山 蛍
 一読、この男はどういう男かと思われる。いささか荒くれではないか。
 名告りを聞いて作者を知ると驚いた、物静かにもインテリジェンスではないか。
 だから俳句は面白い。作中主体は、どういういきさつでこうなったか?
 事の次第を聞いてはつまらない。ただただ、この男にとって何が何でもゲットしたい柏餅である。
 前句の「山近き菓舗の柏餅」を、得て欲しいと願うばかり。

       はちきれむばかりの葱の坊主かな   木下野風
 「はちきれむばかりの」、文字どおり勢いをもってうちだした9音、
  続けて「葱の坊主かな」と静かにも締めくくった8音、俳句の破調が楽しい。
春も闌けた葱坊主を言い切って、手を打ちたくなるような面白さ。

  雲白く行くや五月の蝿生る   佐藤昌緒
 こんなにも、美しくもたくましい「蝿生る」があるだろかと思わずいただいた。
 「蝿生る」は厳密に言えば蝿の羽化のことであるが、晩春に生まれたばかりの小さい蝿をいうものでもある。
 これは、大空を白雲の行く五月に、やや遅めに飛び立った蝿であろうか。
夏は蝿どもにとって活発そのもの、人間も同様であるが、元気なさまも時には「五月蠅い」(うるさい)、やがて、そんな蝿のイメージになるのだろうか。

          はとバスのぱつと黄色や木下闇   小宮からす
  「ぱつと黄色や」、まるで子供が言ったような口ぶりが、はとバスを言い得ている。
  確かに、あの黄色は目立っているところが有難くもある。
  しかもそのことによって、鬱蒼たる木立の茂りがもたらす翳りをいっそう深く見せている。
 「見たまま」あるいは「感じたまま」というリアルな描写は、
  読者をもその場に連れて行ってもらえるものである。

   辣韮の薄皮浮きぬ洗ひ桶   からす
  辣韮を甘酢に漬けていただくと、その辛味がたまらなく美味しい。
  大好物にして、「辣韮」が兼題に出た時は手も足も出なかった。
  だが、この句は何とまあ、何気にそのまんまを詠われたことだろう、その通りだと思う。 
  だが、「洗ひ桶」、下五の念押し、これがなかなか詠えないのである。

         四車線道路中央薄暑光   黒田珠水
 漢字ばかりで仕上げた一句は、時にわざとらしくて嫌味に思えるものがあるが、この句はそんなものではない。
 スピード感があり、情景がよく迫ってくる。
 ちょっと疲れたような、ちょっと汗ばむよう、夕薄暑であろうか。眩しさも感じる。


       


         薫風やここは芋坂串団子   渡邉清枝
 谷中から根岸へ向かう芋坂であろう、
 この坂の羽二重団子は夏目漱石の『吾輩は猫である』はじめ何かと文学作品に登場してあまりにも有名である。
    初夏のよき季節に、この坂の、この団子に行き合った喜びが「薫風」そのものとなって大いに薫っている。
     羽二重団子と言わずして「串団子」がウマイ。


  夏来たる帆布の鞄取り出しぬ        田中朝子
  山藤の緞帳下ろしたるごとし    神﨑ひで子
  半分は日陰の畑や桐の花      山森小径
  相撲部屋入口にある靴白し     中原初雪
  若葉してさもなき風に揺れてをり  冨沢詠司
  敷石に影ありにけり若楓      川井さとみ
  子かまきり風に吹かれてちりぢりに 竹内あや
  若楓風を畳んでをりにけり     松尾まつを
  夕牡丹鬼と恵比寿の二面性     漆谷たから
  瓜の葉を落つるかに飛ぶ天道虫   二村結季
  整然とケースにあるや柏餅     鴨脚博光
  生温き水道水や夏来る       河野きなこ
  蜘蛛の糸引いて搖るるや若楓    松井あき子




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする