草深昌子選

透かしては黄土のまじる露の玉 泉 いづ
作者は畑をお持ちですから、ある朝、何かの葉っぱの上に乗っかった露でしょうか、
露の玉をしげしげとご覧になったことでしょう。かすかながらにも黄土といえるようなものが付いていたというのです。
読者はおやまあ、そういう露の玉もあるのですかと、びっくりです。何か今にも弾けそうな、消えそうな露の命の覚束なさです。
露と言えば、全くの無疵で、徹底的に透き通っている水滴であると決めてかかって、さあそこから「露」をいかに詠おうかという姿勢では、こんな俳句は生まれません。
作者の本当を詠いあげられた、そこが尊いと思います。
秋の夜に母は一人で歌ひをり 市川わこ
母が一人で歌を歌い出したのは、淋しいからでしょうか、嬉しいことがあったのでしょうか、それは分かりませんが、間違いなく秋の夜の情趣が母をして歌を歌わせしめたという感じが一読広がります。
まこと「秋の夜」だなと思うばかりです。
子供の頃、私の母も秋の夜ともなりますと、
「静かな静かな 里の秋 お背戸に木の実の 落ちる夜は ああかあさんと ただ二人~」と私を引き寄せながら、しみじみと歌ってくれました。一句のおかげで思い出がにわかに立ちのぼってきました。
鳥威し風止むたびに穂に触るる 日下しょう子
「鳥威し」は文字通り、稲や穀物から鳥を威すのですから、威銃(おどしじゅう)を発砲することが多かったですが、今はさまざまに仕掛けの工夫があって、ピカピカ光る紐であったり鳴子であったり目玉のようなものであったりします。
掲句の鳥威しは鷹のような猛禽類をかたどったものでしょうか。
大きな翼は日もすがら風に揺れてやまないのですが、ふと止んだときには稲穂に触れるというのです。
稲はもとより鳥威しにさえも命を吹き込んだように思われます。
鋭くもやさしい観察眼が効いています。
作者は畑をお持ちですから、ある朝、何かの葉っぱの上に乗っかった露でしょうか、
露の玉をしげしげとご覧になったことでしょう。かすかながらにも黄土といえるようなものが付いていたというのです。
読者はおやまあ、そういう露の玉もあるのですかと、びっくりです。何か今にも弾けそうな、消えそうな露の命の覚束なさです。
露と言えば、全くの無疵で、徹底的に透き通っている水滴であると決めてかかって、さあそこから「露」をいかに詠おうかという姿勢では、こんな俳句は生まれません。
作者の本当を詠いあげられた、そこが尊いと思います。
秋の夜に母は一人で歌ひをり 市川わこ
母が一人で歌を歌い出したのは、淋しいからでしょうか、嬉しいことがあったのでしょうか、それは分かりませんが、間違いなく秋の夜の情趣が母をして歌を歌わせしめたという感じが一読広がります。
まこと「秋の夜」だなと思うばかりです。
子供の頃、私の母も秋の夜ともなりますと、
「静かな静かな 里の秋 お背戸に木の実の 落ちる夜は ああかあさんと ただ二人~」と私を引き寄せながら、しみじみと歌ってくれました。一句のおかげで思い出がにわかに立ちのぼってきました。
鳥威し風止むたびに穂に触るる 日下しょう子
「鳥威し」は文字通り、稲や穀物から鳥を威すのですから、威銃(おどしじゅう)を発砲することが多かったですが、今はさまざまに仕掛けの工夫があって、ピカピカ光る紐であったり鳴子であったり目玉のようなものであったりします。
掲句の鳥威しは鷹のような猛禽類をかたどったものでしょうか。
大きな翼は日もすがら風に揺れてやまないのですが、ふと止んだときには稲穂に触れるというのです。
稲はもとより鳥威しにさえも命を吹き込んだように思われます。
鋭くもやさしい観察眼が効いています。

隙間から何の蔓やら秋簾 松井あき子
簾は夏の暑い日差しをさけるためのもので夏の季語ですが、秋になってもそのまま垂れ下がっているのは秋簾となります。
その簾の隙間から「何の蔓やら」、旺盛にも這い上がっていく蔓の先っぽがちょろちょろと突き出しているのでしょう。
写実力の確かさが、秋簾の哀れを見せています。
哀れもさることながら、現実的には秋の日射しの方が夏のそれより我慢できない、そういう日常の逞しい簾でもあります。
待宵や厨は餡のにほひして 石野すみれ
仲秋の名月の前夜を待宵といいます。満月に一日満たないので小望月ともいいます。
明日が満月なら待宵も間違いなく美しい月がのぼってくれることでしょう。
すみれさんはいそいそと餡こをねっています。明日に供えて月見団子の仕度でしょうか。
たっぷりの熱々の甘い匂いがしっくりと待宵の気分に溶けこんでいます。
忙しい日常にあって、季節を感受するよろこび、それも古来の風流にのっとっているのです。
俳句をたしなまれる姿勢の美しさを見せていただきました。
立待の月の在り処の滲みけり 奥山きよ子
十五夜、即ち満月の次の日の月は十六夜、その次の日の月が十七夜、立待月です。
作者は十五夜も十六夜もきっと仰ぎ見られたことでしょう。
そして今日、月の出は少し遅くなっているのですが、いまかいまかと立待の気持のままに仰ぎ見られたのです。
あいにく、その月の出ているところが滲んでいたというのです。
何の色付けもなく、むしろそっけないような描写がそのまま月の名残を惜しんであまりあります。
雲間にあって定かに見えないのですが「滲み」の措辞にかすかながらも見届けた心情がこもります。
放屁虫扇子に乗せて放しけり 平野 翠
放屁虫は敵に襲われますと、悪臭のガスを出します。
いつぞや、吉野も奥の宿に泊まった時、畳の間に放屁虫が大勢参入して参りました。
扱いになれた女性が、割り箸で器用につまんで次から次へと庭の外へ追い出してくれました。
でもこの状況をそのまま一句にすれば俗っぽく、品がありません。
作者はさすがに雅です。扇子に乗せてから放したというのです。
放屁虫の命がいささか高貴なものに感じられます。
命を惜しむ気持ちもまた扇子に乗せているのです。

奥つ城へ芒の坂を吹かれゆく 古舘千世
奥つ城は墓のことです。少し高みにある墓所へ坂を上ってお参りにいかれるのでしょう。
折からの秋風に、芒の穂が静かにも揺れています。
我もまた芒と共に吹かれていく、寂寥の思いも、墓に眠る人への思いも何も言ってないですが、よく分かります。
作者の気持ちのすべては芒が引き受けてくれているのですから。
この句に限らず、俳句は気持ちを説明しません、季題に仮託します。
季題が語ってくれますから、何も言わなくても分かる人には分かります、それが俳句です。
新生姜刻む香りに酔ひにけり 関野瑛子
生姜は秋に収穫しますので秋の季語ですが、新生姜は夏の終り頃に掘った、まだ若い根生姜のことをいいます。
昔の歳時記では新生姜は「夏」でしたが、最近刊行の角川大歳時記によりますと生姜と同じ秋に掲載されています。
収穫期が主に秋であることによるのでしょう。
この新生姜はことに香りが高くて、生食も香辛料も結構ですが、瑛子さんの甘酢漬けは最高です。
今年も句会の仲間はおすそ分けを頂戴しました。
どれほどの量を刻まれたことでしよう、まさにリズミカルな包丁の音も香りも一句に詰っています。
隈取りの赤の一点臭木の実 河野きなこ
臭木は山野によく見かけ、白い花が群がり咲いたあと、晩秋には光沢のある小さい実を沢山付けます。
その臭木の実の深紅をじっと見ていますと、かの隈取りの赤の一点のようにはっと印象されたのでしょう。
隈取りは歌舞伎に使われる化粧ですが、赤という色は、勇敢な血の通ったよろしさが思われます。
臭木の花も実も、その名からして、臭そうなにおいがしてあまり好まれない地味なものですが、このように詠いあげられますと、臭木の実に命がかよって、いきいきとした肉声が聞こえてくるようです。

この川のひしめく鮭の目は虚ろ 湯川桂香
「鮭」の兼題では皆お手上げでしたが、桂香さんはさすがに新潟県ご出身、具体的に見たものがどこかしら象徴的なものに仕上がっています。
「ひしめく」鮭も見ものですが、なお、「目は虚ろ」と言はれますと、ひしめくことの哀れがしのばれもします。
鮭は川に生れて海へ出て、数年かけて成長し、また川にのぼって産卵して死にます。
「虚ろ」はそんなすべてをイメージするもののようです。
雲ゆきて中天にあり今日の月 石原虹子
コスモスの赤一片をなくしけり 大村清和
爽やかや猫もぶらぶら文士村 中澤翔風
離陸するJALの三機や猫じやらし 川北廣子
名月や犬のお座り畏まる 小宮からす
三日月や俺そこで音外したの 永瀬なつき
露葎今し朝日の上りたる 石堂光子
畑守の鍬研ぐ秋の夕焼かな 二村結季
その野分雲やグレコの雲に似て 伊藤 波
竹伐って竹の始末の匂ひのかな 佐藤昌緒
生身魂額の痣の赤きこと 山森小径
大雲のいま大河なり今日の月 山崎得真
手を出せばすぐに捕れさう赤蜻蛉 中原初雪









