草深昌子選
兼題「刈田」
ばさばさと鴉降り立つ刈田かな 佐藤昌緒
鴉の悠々たる羽遣いに広々とした刈田が浮かびます。静のなかなる動がなつかしいです。
広々と月の刈田となりにけり 昌緒
稲を刈りとりますと一面広々とします。〈広々と〉は常套のようですが、〈月の〉ひと言で俄然美しくなりました。月光もまた広々とよく行きわたります。
近道の刈田突つ切る遅刻の子 佐藤健成
あわや遅刻、子供は刈田を勢いよく走り抜けます。対角線を行けば早いです、稲田の頃にはこんなこと出来ませんでした。言葉通り、勢いをもって刈田を詠いあげました。
月曜の校舎の四方刈田なる 川井さとみ
月曜に特別な意味を読み取る必要はありません、でも、日曜日に家族総出の稲刈りが終わったことを想像してもいいでしょう。近郊の刈田の点景のような校舎が目に見えるようです。
糠雨にしばし濡れゆく刈田かな 石堂光子
糠雨は霧のような細かさの雨です。傘はさしてもささなくてもいいでしょう。少々濡れることでもって、刈田の落着きが我が身のそれのように馴染んできます。
傘無くて子の走りゆく刈田道 中原初雪
傘を持ち合わさなかった、急な雨でしょう。身軽に子どもは刈田を駆け抜けていきます。誰しもが見たことのあるような刈田らしさを動きをもって描き切りました。
新藁を積んで軽トラ快走す 松井あき子
一句は文字通り、内容にふさわしい表現をとっています。すっきり読み上げて、新藁の感覚が響きます。「快走」というような熟語を使うと俳句は駄目になるものですが、この句はそれを逆手にとりました。
ことごとく木の実嵌まるは蝉の穴 昌子
その隅の轍ぞ深き刈田かな
笑ひ声あげて下校の刈田道
令和6年10月・青草通信句会講評 草深昌子
令和6年10月の兼題は「刈田」。
いちまいの刈田となりてただ日向 長谷川素逝
昨日まで、稲穂が豊かに揺れていた輝かしい風景が、急にがらんとして視界がひらけました、そう、稲は刈り取られたのです。
「ただ」にちょっとした脱力感のような淋しさが感じられますが、「日向」のぬくもりはかけがえのないものです。
榧の実は人なつかしく径に降る 素逝
素逝は叙情的戦争俳句で名高いですが、昭和二十一年、三十九歳で没しました。
さて、575は頭で考えて「こう書こう」、「これが言いたい」、というようなものが先にありましたら、それはもう俳句ではありません。俳句に意味はありません。俳句は無意味です。無意味というのはメーッセージがないのです。なんで感動するのか自分でもよくわからないというようなものです。
俳句は頭で作りません、俳句は足で作ります。私はさまざまの句会に出ていますが、すべて吟行です。午前中、連衆の皆さまと同じところを歩いて、午後から吟行句を披露するのが句会です。
俳句は物に出会って、丁寧に写生します。何度も申しますが「即物具象」です。物に即いて、具体的に言い表すものです。
季語の現場に立って、季語に出会ったときの感動、つまり驚きや発見こそが俳句の原型です。
吟行の心得としては、吟行地へ行く前に、先ず何を写生しに行くのかをはっきりさせておいた方がいいでしょう。いくつかの「季題」を胸中にあたためておけばいいのです。
私の場合は打坐即刻、ものに出会った瞬間に無意識に言葉が一句の形になって出てくることが多いですが、眼前の物をただ写すのでなく、じっくりと時間をかけて、物そのものの中に入る、 物それ自身に応じるという態度を忘れてはなりません。
さあ出句締切です、自選(自分の句を自分で選び出す)の段階で、「真善美」を確認します。
自然というものは明るく力強く元気なものです。作品として提出する俳句も、「明るいなあ」「面白いなあ」「美しいなあ」と、読者を元気に前向きにするものであってほしいです。