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青草俳句会~命のよろこび

結社「青草」 主宰 草深昌子

草深昌子を中心とする句会・選後に 令和5年8月          

2023年09月20日 | 俳句
草深昌子選

   


  稲光少し面白がつてをり   小宮からす
 文字通り面白い句です。そう、念を押しますが、面白いと言ったから面白いのではありません。
 読んですぐ、面白いと感応するのは、今までに見たことのない俳句だからです。
 常識に非ずして、意外性があるからです。面白い句には、興趣があります。
 さて、稲光という、この怖いような電光によって稲がよく実るのだと信じてきた我らではありますが、あの不思議な閃光には驚きを隠しきれません、思わずおかしいと思うことに頷かされます。
 同時に、掲句は稲光そのものがいかにメチャメチャに発光しようかと面白がっているという風に受け止めることができます。
 まさに、人また稲光の同時一瞬の、「面白さ」です。

  浮輪穿き子の上り来る歩道橋   奥山きよ子
 「泳ぎ」は夏の季題です、クロール、遠泳、立泳ぎ、背泳ぎなどさまざまの泳ぎが季題になります、泳ぎ関連のものも季題になります、その一つが「浮輪」です。
 何と、歩道橋に浮輪を穿いたままの子がのぼってきたのです。
 早く泳ぎたくてウキウキしているのでしょう、ギラギラの日が射していることでしょう。
 「泳ぎ」といえば海やプールを思いますが、作者は常識から外れたところを発見しました、これが俳句です。
 海が近くにあるのでしょうか、泳がないうちから、その泳ぎを想像するのです。
 作者は目を細めて見守っているのでしょう。

  水鉄砲打たんとすれば死んでをり   古舘千世
 「水鉄砲」は、「水遊」の傍題にあらずして、バッチリ季題として立っています。
 それだけ夏の子供の遊びとして魅力的なものです。
 先月、芹が谷公園(町田)の浅い池で、凄まじい水鉄砲合戦を見ましたが、
 やられてばかりの子もいてハラハラしましたが、みんな大はしゃぎでした。
 掲句はまた、何と賢い子でしょう。死んだふりして、見事にすり抜けました。
 作者のやさしい眼差しを思います。
 読者も思わず「みんな、頑張って!」と声援したくなります、そう俳句の世界に遊ばせてもらえているのです。

  戸を閉めて水鉄砲を逃れけり   石井久美
 同じく「水鉄砲」です。これもまた何と面白い場面でしょうか。
 打たれて、打たれてもうどうしようもありません、ついに玄関の戸を閉めて攻撃を逃れたというのです。
 こちらも賢い子です。少々、違法ですが、遊びにも頭の回転をくるくるとよく回さねばなりません。
 この水遊びは庭さきでしょうか、ビニールのプールが満タンに張ってあるのでしょう。

  行きプール帰りビールがお楽しみ   永瀬なつき
こちらは大人の夏の遊びです。
 プールとビール、これさえあったら何も文句は言いません、私の日常を言い当てられたようで、共鳴至極です。
 下五に、「お楽しみ」なんて、こんな俳句あっていいのでしょうか。
 もちろん、あっていいのです、「俳句は何でもあり」です。
 理屈をこねるのが俳句だと思っているムキには、見習ってほしい句です。
 一読、こんな俳句なら私にも出来そう、そう思わせる俳句は案外できないものです。
 この句において、下五は余情があって、笑ってしまいます、同時にちょっと考えさせられもします。
 俳句は生真面目ばかりではできません、「お楽しみ」、このノリが大事です。


  


  ダイバーのこぼせる音の頼もしく   鴨脚博光
「ダイビング」は夏の季題です。ダイビングをする人が「ダイバー」です。
 飛び込みの型や美しさには息を呑みます。
 中原道夫氏の〈飛込の途中たましひ遅れけり〉、この句に出会った衝撃を思い出しました。
以来、何十年もダイビングの句に出会わないで、打ち過ぎました。
 博光さんの句に目が覚めました、しかも「音」の席題で出たものです。
 やはり普段からこの競技のすばらしさに惹かれておられたのでしょう、
 あの鋭く入水する瞬間の音を何とか詠いたい、そういう気持に溢れています。
 表現の仕方には、推敲の余地があるかもしれませんが、常に想像力を幅広く、たくましくしていたいと気づかされました。まさに「頼もしい」です。

  叱られてその夜はひとり蚊帳を出づ   松尾まつを
 「蚊帳」はオーソドックスなる季題ながら、昨今、蚊帳を吊る家など皆無ではないでしょうか。
 子供の頃、何故か蚊帳に入るのが楽しくて、わくわくしたものです。
作者も御多分に洩れず腕白でしたでしょうか。兄弟喧嘩でしょうか、大はしゃぎの末に叱られたのかも知れません。中七の表出に深い闇が迫ってくるようです。
 蚊帳は絶滅寸前季語のようですが、こういう季語に磨かれて俳句も、俳人も育ってきました。
 生あるかぎり、懐かしの季題を詠いあげていきたいものです。

  背のうを背ナに八月十五日   中澤翔風
 「背」の席題で出された一句です。
 「背のう」がはじめわかりませんでしたが、つまりは「背嚢」というものでした。
 昔、軍隊で徒歩部隊の将兵が背負う袋のことだったのです。この中には当然、弾薬なども入っていることでしょう。
 作者は戦中のお生れですが、戦争の悲惨を二度と繰り返さないための学びをさまざに積みあげ、体験者に聞き継いできたことを大事に抱え込んで来られたのでしょう。そういう姿勢でないと詠えない一句ではないでしょうか。
 八月十五日、かの背嚢をズシッと背ナに背負いました、もちろん心象です。
 その重み、使命感の凄みをひしと受け止めたのです。
 敗戦日の自覚を、静かなるままに打ち出しました。


   乗鞍の天の川から下り来たる   中原初雪
   天高し力士の背ナは砂まみれ   初雪
   盆踊り母は輪の中よその顔   葉山 蛍
   終戦日音叉の響き消えるまで   石野すみれ
   鉄板の焦げるにほひや秋の風   泉 いづ
   稲穂垂るきのふとちがふその撓り   河野きなこ
   山霧や晴れて眼下はこがね色   末澤みわ
   滾滾と湧き出す水やつくつくし   石堂光子
   左手が右手いたはる秋の蝉   山森小径
   掃苔や見知らぬ人のなつかしく   小径


  


   まんまんと空へ向かふや百日紅   大村清和
   黒胡椒バルタミコ酢で冷奴   佐藤昌緒
   参道を抜けゆく登山法師蝉   森田ちとせ
   八月や外人墓地の石畳   田中朝子
   アルプスのスクラム組むや雲の峰   佐藤健成
   天の川撮るや宝永火山口   町田亮々
   やはらかき紙をはがして枇杷にほふ   東小薗まさ一
   慶応の打線爆発月見酒   漆谷たから
   山向かう半分見ゆる大花火   木下野風
   救急車音なく発つや天の川   二村結季
   中元に上総の豆の届きけり   結季





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青草通信句会 2023年9月

2023年09月11日 | 俳句
草深昌子選 (順不同)
兼題「霧」

     


   山霧の渦巻く小屋の夕餉かな      川井さとみ
 よどみなく読み下ろせて山小屋の霧の余情が滲み出ています。「渦巻く」がよき描写です。

   へうへうと霧の中なるをみなへし    佐藤昌緒
 確かに霧の中の女郎花の在りようが、色彩感をもって浮かび上がります。

  霧流れ青き頂現るる    昌緒
 私には体験のない素敵な安堵の光景を思い浮かべます。「青き頂き」の色彩感がいっそう鮮やかです。

   山霧やあの橋まるで宙ぶらりん    小宮からす
 怖いような、まさに霧の深い情景です。山霧の立ち込めた様子が遠近感、臨場感をもって大きく描きだされています。

   警官の交通整理朝の霧     古舘千世
 面白い一句です。何げない風景に文字通り霧がかかります。まるで警官は、霧を振り分けているような感じでもあります。

   山嶺は霧噴くのみの岩世界     森田ちとせ
 神秘的にもダイナミックな霧が思われます。奇岩などもありそうな「岩世界」が霧を深くするのでしょう。

  処暑の庭櫨の葉一枚紅葉す     神﨑ひで子
 処暑の節気をもって残暑も収まってくるのですが、庭には櫨の木の葉が早くも一枚紅葉しているというのです。見届けた赤が処暑の点景のようによく効いています。

   川霧の晴れて葭原続きをり     芳賀秀弥
 川霧が晴れて、一面の葭の緑が先々まで見渡せるのでしょう。じっくりと見届けた爽やかな光景です。

   尾瀬ケ原霧の中から歩荷さん    中原初雪
 山小屋へ物資を運ぶ歩荷、見るからにキツそうですが、彼らはさほど苦でもないのでしょう、「霧の中から」が颯爽としています。リスペクトしている「歩荷さん」のさん付けでしょう。

   秋暑し馬の鼻息しぶきたり   伊藤 波
 馬は口で息をしない分、鼻息がすごい、そう「しぶきたり」の表現がリアルです。そこに作者が確かに立っています。馬の嘆きのような「秋暑し」です。


      


  はつ秋や松の林を雲のゆく    昌子
  月明の蟻をのせたる蝉の肚
  揺籃を霧にゆすつてゐたるかな   



令和5年9月・青草通信句会講評   草深昌子

9月の兼題は「霧」。     
  霧しぐれ富士を見ぬ日ぞ面白き   芭蕉
  噴火口近くて霧が霧雨が   藤後左右
  小田原の霧や川崎長太郎   石塚友ニ

  いせみちの朝霧の戸を開けてをり  大峯あきら
 一句目、美しくも雄大なる富士山ですが今日ばかりは深い霧に覆われて身ほとりをしっとりと濡らします。思わぬ出会いの光景もまた面白いという芭蕉の風雅の大きさを思います。
 二句目、山に登って、噴火口にさしかかると霧が出てきました、いや霧ばかりでなく雨も混じっているようです。「霧が霧雨が」という畳み掛けの調子のよろしさが読者をその場に引き寄せます。
 三句目、川崎長太郎は小田原市出身の小説家です。海岸近くの物置小屋でビール箱を逆さにした机で小説を書き続けました。その数奇な生涯のさまざまが霧に包み隠されては浄化されてゆくようです。
 四句目、「いせみちの」「朝霧の」、まこと清浄無垢の霧が流れます。
 どの句も「霧」そのものに染まっているようなやさしさや静けさが感じられます。頭で作らないで、物に直に触れて作っているものです。
もちろんそこには作者の内面に持っている何かしらが我知らず、滲み出しているということもあるでしょう。
 俳句でも文章でも、難しい言葉でもって理屈を述べることは誰にでもできます。難しいことをやさしく言うのが文芸です。

 「青草」第十二号に書きましたように、俳句は読者の想像力によって成り立ちます。俳句は「言わなくても分かってもらえる」文芸です。だからこそ「読者を信頼する」ことが大事です。言い換えれば、読者は、作者の信頼にこたえなければなりません。
常識を述べた句、因果関係のはっきりした句、自分のことを報告しただけの句、固有名詞にもたれた句、季語の中に含まれていることを引き出しただけの句等に、安易に〇を付けていないでしょうか。
 もちろん選句に正解というものはありませんし、感じ方の違いは多々あります。それでも句会に出るたびにハッと気付くことがあります、句会の場数を踏むことによって磨かれてゆくのが選句力です。
 選句のすぐれた人は、将来必ず伸びていきます、そこが楽しみです。



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青草本部句会 令和5年9月1日

2023年09月09日 | 俳句
 草深昌子選 (順不同)

    兼題「夜長」
席題「手」




長き夜の手習ひの朱をなぞりけり   松井あき子
ひと雨に泥を浴ぶるや秋茄子   二村結季           
暮し向き今も変らぬ草の花   結季
いつまでも日のてらてらや林檎食む   結季
山宿にチェンバロ響く夜霧かな   木下野風          
ぎやーぎやーと鳥か獣か夜の長き   湯川桂香        
大笑ひそして噎せ込む夜長かな   小宮からす          
何となく手相見てゐる夏の果   山森小径


 


蓑虫の足も手も目も耳も蓑   草深昌子
つぎつぎとほつてははふる手の踊り
よべの月ありし深空よ九月来る
長き夜の机に染みるインクかな
蚊を打つてそれからの夜の長きこと
首傾ぐたびに首鳴る夜長かな




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「青草」秋季 第14号 令和5年8月 

2023年09月09日 | 俳句
令和5年8月「青草」秋季14号が発刊されました
記録的猛暑日の続く中にもかかわらず
頁数も増えて一層充実した内容になりました

 


青山抄(14)   草深昌子

風にうちたたく小判や小判草 
尺蠖の横ゆく椅子にゐたりけり 
夕焼くる穴に嵌まつて団子虫 
夜の蟻を爪に這はせて老けにけり
枝折戸の風にひらくや棕櫚の花
梅雨の子やふんころがしをたなごころ
画眉鳥をしのぐ孔雀のこゑ涼し
風に立ちなほるときなき真菰かな

夏めくや花か実か穂かわからなく
温室は涼し窓みな開いてあり 
玉葱を吊るや向かうに凧揚がり   
水べりに蛇あらはるる祭かな 
広縁やカンカン帽の人ひとり
蔓にして枝めく梅雨に入りにけり  
幹に食ひ込まんばかりに蔦若葉
桜蘂ふるや浮葉に当たりもし
鳰の子を見たるその夜の月大き
行く春のおできの神の鈴の鳴る
ざり蟹の子の出てきたる水きれい
蝶々に網追ひつかぬ子が走り  
 
水たまりよけつつ花の吹雪きつつ  
桃咲いて婆や峠に侘住まひ  
野遊びや青く光つてサングラス 
蝌蚪の紐突きつけられもして楽し 
剥製のあはれまなこや梅日和 
けいちつや長靴の子の川をゆき
炉塞いで松の高きに雨の降る  
春服や墓にかがんで丈短か 
榛の木のひらひら芽吹くあらしかな 
あたたかに座つて墓石かもしれぬ

(角川「俳句」5月号掲載の一部を含む)


青草往来   草深昌子 
 
 先日ふと、片山由美子対談集『俳句の生まれる場所』に出会って、思わず読み耽ってしまった。大峯あきらとの対談は平成六年だが、「俳句の形式は個人を超えたもの、どんな個性もその普遍的な形式を破ることはできない」と力強く語っている。
 〈大阪に来て夕月夜近松忌〉について、「都会で絶対に俳句はできない」とおっしゃっていますが、大阪の句であっても都会の喧噪はないですねと、ご指摘。「阪大に来てもすぐ帰っちゃうわけ(笑)確かにそれは街の人の句ではない。しかし、片山さんは、本人がわからんことを、よく分析している」と答えている。
 ここで師は相好を崩されたのではなかろうか。大峯あきらは本当のことを語り合うのがお好きだった。
 「晨」のいつの記念大会であったろうか、錚々たる来賓の方々が挨拶にたって、大峯あきら論を繰り広げられたとき、「圧巻やね」と、感無量であった。その中でもIさんは、〈花の日も西に廻りしかと思ふ〉について、私にはまだよくわからないと話された。これを聞いた師は「本当 のことを言われた、分かったような顔をしない、素直がすばらしい」とベタ褒めされた。
 この件を最期まで、私に何度も言われ続けた。つまり、俳句も文章も「かっこ付けたらアカン」、これ一点張りであったが、それはそのまま生き方でもあった。
 若き日に、高浜虚子から「自分が本当に感じたことを正直に言う、それが佳い俳句です」と教えられ、虚子も耄碌したのではと、はじめは疑っていたが、これこそが詩の生れる唯一の源泉であることを知った。虚子の言葉を真に理解するのに五十年かかったと言うが、師の深い洞察を思えば、これも本当だろう。
 大峯あきらは一つの信念を徹底的に貫かれた。その信念を私に実践できるときが来るだろうか。
 「存在しているのは今だけ、永遠の今は完全に自分のもの」、どこからか声が下りてきた。そう、今日という一日を心して生きたいと願うばかり。

                       

     芳草集  草深昌子選

はや炬燵一間いきなり笑ひ声   柴田博祥
冬ざれてひがないちにちモダンジャズ
冬ざれや石段傍の射的場
マフラーのまま単身の部屋灯す
両の手に鯛焼持ちて寒明ける
本日も意気軒昂や目刺焼く
見るほどに進まぬ時計春炬燵

鵙鳴くやサザンビーチは露地の先   奥山きよ子
福引の五等桃色文化の日
月蝕に立つ川岸や冬ざるる
小春日やインド映画の小ホール
病院のスタバ賑はふ松の内
スケート場灯し港は暮れにけり
本堂に立居ありけり梅の花

青草集   草深昌子選

スカートの尻のてかりや春浅し   河野きなこ
春風の鼻の奥まで通りけり
釣糸の動かぬ桜蕊の降る
幼子を抱くが如く寒卵
青竹の爆ぜる朝のどんどかな
ボール蹴る子を見下ろすや樗の実
見番に噺家来たる小六月

アリーナの一万人のマスクかな   小宮からす
木造の官舎ありけり苜蓿
高々とパティシエ帽や松の内
緞帳の奥の賑はひ初芝居
白菜と言うて優しき緑色
春めくや少し茶色の玉子焼き
さつきから雛に夢中やぼんのくぼ


             

大峯あきらのコスモロジー⑩ 草深昌子
                           
 前回に続き、大峯あきら第七句集『牡丹』(平成十七年刊行)の管見を試みたい。

  一瀑のしづかに懸り山始   あきら      
  雷来んとする一峰の静かなり       
  にはとりといふもの静か盆の
 
 一句目、威儀を正した正月の山の静けさが、一つの滝を通してしんしんと響いてくる。
 二句目、まだ雷は来ていない、今しも雷が落ちるであろうと感受している、そんな気配を放っている一峰の静けさの凄み。気合いの籠った対峙こそが詩人にしか感受できない真の静けさというものではなかろうか。
 三句目、「盆の家」を詠いあげるのに、「にはとりといふもの静か」という。その掴みどころの鋭さに驚かされるが、表現そのものは何とも平明である。だが、「いふもの静か」という言葉の空間の引き伸ばしかたは真似ができない。
 大峯あきら俳句は総じてシーンとしている。もとより、静かと言わずして静けさの行き渡っているものであるが、時には「静か」と言い切って、静かとしか言いようのない詩情を際立たせている。

  邸内に藪うつくしき余寒かな   あきら    
  鞦韆や雲うつくしくそこを行く
「うつくし」もまた、大峯あきらならではの措辞である。「うつくし」は風景に取り込まれて、移りゆく時の詩情をたっぷりと湛えている。
 既刊の句集からも次のような句が忘れられない。

  崩れ簗観音日々にうつくしく   あきら     
  餅配大和の畝のうつくしく
  美しき涅槃の雪に女ゆく
  くらがりに女美し親鸞忌
 「うつくしく」は、韻律の上でも美しく作用しながら、季語との平仄が見事に決まっている。大峯あきらならではの力技ながら、読者にはごく自然に感受されるであろう。
 四句目は吉野の報恩講。自解に「―煩悩に迷う凡夫のわれわれを必ず救い取るという阿弥陀如来の本願を無心に聴いている女人。美しき煩悩の花だ―」とある。
 毎年十二月一日に大峯先生の寺の報恩講にお参りさせていただいた。そのご法話の迫力は俳句の先生にあらずして、まさしく親鸞聖人のお声そのものであった。阿弥陀如来に導かれつつ、恍惚とした心持ちに浸るほかなかった時間の尊さ。親鸞の心と一体となった、美の使者ともいうべき存在を見届けられた「くらがり」である。
 「静か」また「美し」の余韻に浸っていると、吉野吟行の折の大峯先生の教えがしかと蘇ってくる。

  春の山思ひ思ひに径通ふ  あきら
 平成二十五年であったか、吉野吟行の折に出された句である。(「春の山おもひおもひに径通ふ」『短夜』所収) 
 この夜の句会で、たまたま同行の方の句に上五は失念したが「思ひ思ひに子が通る」という句があった。すかさず、「私の句の思ひ思ひは、それとは違う」ということを真摯にも熱っぽく語られた。確か、こうであった。
 ――言葉とは生き物である。言葉は死んだり生きたりするもの。「思ひ思ひ」は、「春の山思ひ思ひに径通ふ」、この一句の文脈の中にのみ生きている。言葉が生きていることによって言霊となっている――
 つまり、ほかのものと取り替えのきかない「思ひ思ひ」だというのである。このことは大峯あきら著『命ひとつ』(平成二十五年発刊)の中で、芭蕉の句をもって実証的に述べられている。大峯あきら俳句観として大事なところなので少し長いが引用したい。

  さまざまの事おもひ出す桜かな   芭蕉
 ――芭蕉のこの秀句が言う「さまざま」は、「人生さまざま」とか「さまざまなことがありました」とかいうときの「さまざま」とはまるで違います。「さまざま」は俗語にも「詩語」にもなりうるのです。若いときに仕えた伊賀城主の蝉吟公が亡くなった後に伊賀へ帰り、お城の満開の花を見ながら昔を思い出した句です。(中略)実生活で使う「さまざま」には実物は何も入っていませんが、この句の「さまざま」には実物が入っています。この言葉は空語ではなく、ハイデッカーの表現を借りて言うと、実物をその内に宿している「存在の家」です。この芭蕉の句は、実に俗語を正したのです。(中略)芭蕉は三百年前に亡くなりましたが、この句の中に桜は今も咲いているのです。時空を貫いて爛漫と咲く永遠の桜です(後略)――
 なるほど、名句というものはまさに本当の心から発せられたものにほかならない。読めばすぐ桜の世界に引き込まれて、「私の句ではないかしら」と思うほどしみじみと同化されてしまう。誰にでも詠えそうな気がするのは、自身のことが見事に客観視されて、大いなる普遍性を獲得しているからである。
 「さまざま」も「思ひ思ひ」も、誰がどのように使ってもいいが、俗語を正すということは至難の業である。
 
  石叩き激量ここに折れ曲り   あきら     
 「激流」「ここに」「折れ曲り」、どの一字一句も「石叩き」の羽を鮮やかにも広げて見せて愛おしい。この激しさの水しぶきこそが大峯あきら俳句の核心ではないだろうか。
 大峯あきらは生涯吉野に住んで、身近な吉野の自然風土を詠い続けた。この句の自註にはこうある。
 ――大台ケ原に発する吉野川は、高見川と合流してから、何度も湾曲して北流や南流をくり返す。吉野離宮があった宮滝あたりは、万葉歌人たちにしばしば「たぎつ河内」と歌われた、とどろくような激流となっている。ときどき石叩きが来ては、巨岩の上を歩いたり、碧い瀬の上を飛んだりする――自解は、あくまで眼前の物を言うだけで何ということもなく書かれている。だが、私にはこの大きな宇宙と一つになった小さな命が、いかにも切なく輝かしく、大峯あきらによって表出された宇宙から抜け出せない。
 「滾つ瀬」は、はるかなる時空を超えて、今ここに在るもの。それは又、作者の内包する激しさに外ならないのではないか。あるがままの光景を打ち出して、隠し切れない詩情を放出している。
 第二句集『鳥道』にある、〈檜山出る屈強の月西行忌〉なども同様の趣があって忘れられない。
 大峯あきらの作品は、静かなる勁さを秘めている。
 
     悼 田中裕明 二句
  そのあとは鳥さへ鳴かず日短か   あきら     
  初雪の日に訪ひくれし思ひ出も

 『牡丹』の巻末近くに、平成十六年十二月三十日に早世した俳人田中裕明に寄せる追悼句がある。田中裕明先生は私にとっても、俳句初学以来ずっと憧れ続けた俳人であり、いつお会いしても微笑みをたたえたキラキラの眼差しがなつかしくてならなかった。ガックリと落ち込んでいる私に大峯先生はとくと言い聞かせてくださった。
 ――多くの俳人が、もっと生きてくれたら、今後どのような作品が生まれたか、惜しい、残念などというようなことを言われますが、それはちょっと違うのではないか。田中裕明はもう見事に、立派に、十分の仕事をしましたよ。高橋睦郎氏はそのことを一番よく分かっておられる―― 
 田中裕明の遺句集となった『夜の客人』(平成十七年一月刊行)の「あとがき」にこう書かれている。
 ――大峯あきらさんにいただいた「いのちが生きることを肯定しているから、あなたはなにもしなくていいよ」という言葉に、入院中、どれだけ励まされたことか。いくら感謝しても足りません。――

   
          
                   

 
秀句集     草深昌子

  見るほどに進まぬ時計春炬燵   柴田博祥   
 春になってもしまいかねている炬燵です。暖かくはなってきましたが、寒の戻りもあって炬燵を惜しんでいるのです。さっきから何度も時計に首を回しますが、あまり時間が経っていません。何かに夢中のときはあっという間に時間が経ちますが、のほほんとしていますと時は進まないものです。長閑さが醸し出されています。

  スカートの尻のてかりや春浅し   河野きなこ   
 スカートの「尻のてかり」とは驚きです、作者独自の発見です。かの古き世の女生徒のサージのスカートがすぐ思い浮かびますが、これは今の世のどんなスカートでしょうか、読者の想像におまかせです。
 「春浅し」の季題が麗しくも光ります。俗世の穢れを季題の品性でもって包み込んだのです。

  病院のスタバ賑はふ松の内   奥山きよ子    
 門松を立てておく期間が松の内ですが、近年はなべて正月飾りもが少なくなってきました。それでも病院には立派な門松が据えられ、病院内にあるスタバにも新年独得の明るさの雰囲気が立ち込めています。町中のそれとは違いますが、なじみのスタバが目出度さをもって束の間の癒しになっているに違いありません。

  アリーナの一万人のマスクかな   小宮からす    
 あの広やかな全周のアリーナ。作者はどこのどんな催しに興奮をもって楽しまれたのでしょうか。 事実はさておき圧倒されるのは「一万人のマスク」です。コロナ禍にあって、やっと実現した一万人の観客のマスクの迫力はどうでしょう。大いなるハーモニーあるいは大音響でありながら、シーンという静けさの音がここには漂っています。 
 冬の季題「マスク」の本情からかけ離れた感慨があります。

  横断歩道急いで渡る秋の蝶   加藤洋洋      
 横断歩道の青信号が点滅しています。さあ、急いで渡りきらねばなりません。それは作者自身のことで、秋の蝶にとっては赤も青もありません。でもこの一句はまるで蝶々が意志をもって急いでいるように感じられます。そう、秋深む季節にあって、けなげに飛んでいる蝶々と一心同体になっているのです。
 同じ洋洋さんの、〈落ちさうで落ちぬ白露朝まだき〉も、白露の透き通った心になりきっています。今という時をいきいきと生きてかがやきます。

  ひもすがら日は土にあり鶯菜   二村結季   
「ひもすがら日は土にあり」は、あまねく鶯菜そのものに集約しています。鶯は春到来の美しい声をひびかせてくれますが、その名を冠した菜っ葉もまた、なんと初々しく瑞々しいものでありましょうか。
 実は、鶯菜をよく知らないで感嘆していたのですが、後日結季さんに、その丹精のものをいただいて旬の日の香りをたっぷり味わいました。

  生ぬるき雨に蟷螂ぬつと出て   伊藤 波     
 通りすがりではなく、蟷螂の出そうなところにいつも待機していたからこそ見届けられた句のように思われます。「ぬっと」出たところに、降る雨の生ぬるさが実感されたのです。いや、降る雨にいのちの温度をもたらしたのは、蟷螂であったということでしょう。

  一限目田んぼ貸切り雪遊び   冨沢詠司       
 なつかしの小学校時代の思い出でしょうか。もちろん、現在の雪国の光景でもありましょう。何とも伸びやかな「雪遊び」です。雪投げ、雪合戦はもとより、雪兎、雪達磨などもろもろの雪礫が飛び交います。
 雪月花という日本の四季の、日本人の心の風雅の根幹がこんな光景から形成されていくのでしょう。

  春めくや街に新色スニーカー   伊藤欣次    
 この句に出会った瞬間に、わっと我が身が春めいたといいますか、あまりにも鮮やかな「春めく」に快哉を叫ぶばかりでした。作者にとっても一瞬の仕上りであったことでしょう。それが「新色」の鮮度に現れています。
さあ、外へ出かけましょう。

  先生はいつも真ん中チューリップ  佐藤健成   
 先生と言えばまず学校の先生でしようか。一読して、記念撮影など、いつの時も先生を取り囲んでいたことに思い当たります。真ん中を肯定している喜びの笑顔などチューリップが代弁してあまりあります。

  風に揺れ横に傾ぎて茎立ちぬ   市川わこ       
 先ず「風に揺れ」、続いて「横に傾ぎて」、さて何かしらと思いつつ「茎立ちぬ」と締めくくられますと、ああそうであったかと読み手は納得いたします。自ら茎立の映像が浮かび上がってくるのです。「横に傾ぎて」、何気ない描写に茎立のいのちが通います。
 俳句は言葉を飾らずに詠いあげるのが一番です。

  降りつもる雪に顔出す雪達磨   佐藤昌緒     
 雪達磨の句をさまざまに見てきましたが、「雪に顏出す」とは、思わず膝を打ちました。東京あたりでは雪達磨を作ったとしても翌日には溶け出して、このような景色にはならないのです。雪国の雪達磨でしょうか。
 降りはじめると、降ってやまない雪の中にあって、いよいよ腰を据えているかのような雪達磨、その顔らしき部分に触ってもみたくなります。

  短日や同じ字をまた辞書に引き  田中朝子     
 短日の句では、高濱虚子の〈来るとはや帰り支度や日短〉、〈物指で背かくことも日短〉等がすぐに思い浮かびます。無意味な仕草のなかにふと短日を意識させられてしまったのです。掲句も夕闇の迫ってくる時の思いを自身の実感をもって引き出しました。

  一点を見つめて啼くや寒鴉   渡邉清枝      
 鴉は私達の近辺にいつもいますが、厳寒になりますと、餌を求めるからでしょうか、いよいよ人家に近づいてきます。一点を見つめる寒鴉は、どこか人間の物思いのような雰囲気をもっています。作者もまた愛隣の情をもって寒鴉を見つめています。
 
  山一つ越えてまた会ふ春の雪   森田ちとせ    
 作者は登山愛好家ですから、険しい山を越えて来られたのでしょう。吹き晴れた空が思われます。ほっとするいとまを雪が降りかかります。さっきも出会った雪ですが、「また」というところに春の雪の淡さがいっそう鮮やかに印象されます。

  初富士や地を這ふやうな浜の松   日下しょう子 
 初富士の美しさ、目出度さが十二分に詠いあげられました。駿河方面から眺められた富士山でしょうか。
 松の古木には淑気が漲っています。

  ひよつこりと僧の来訪梅の花   松尾まつを      
 ベルが鳴って戸口に出てみますと、思いがけず顔見知りの僧侶が立っているではありませんか。ようこそという驚きと親しみの表情をもって、迎え入れられたことでしょう。果たして何の     ご用でしょうか。ふと温かな交流の場面が浮き上がりますのも「梅の花」が清楚にも美しく薫っているからです。

  俳句誌の表紙新たや麦を踏む   加藤かづ乃 
 わが結社誌「青草」の表紙が一新されました。その喜びと感謝をこめて麦を踏んでいます。まだ寒さの厳しい早春の日々に、麦の芽を何処までも踏み固めます。その心は明日の収穫を祈っているのです。俳句もまた上達を祈って、地道な努力を一歩一歩続けていきます。

その他、注目句。

茶の花の垣根たどれば蔵のあり   松井あき子  
ショーウインドー一夜で春になりにけり   中澤翔風
両腕に予防接種や今日おでん   古舘千世 
妹と加賀の地酒を年忘れ   山森小径     
寒晴や鳥除けの缶よく鳴つて   石堂光子   
露寒の小鳩をつつく鴉かな   中原初雪     
木の葉落つ子らの駆けたるその後に   平野翠
極彩の色の仏画や冬ぬくし   間 草蛙     
菜箸を離さぬ夫や鋤焼す   川北廣子  
幾たびか雲より出でし後の月   石原虹子    
柿貰ふこの顔多分禅寺丸   湯川桂香      
任されて下枝一枝松手入   川井さとみ     
鉄柵に猪の突つ込む寒波かな   泉 いづ
  
冬晴や午後の三時に月が見え  黒田珠水    
虎杖の煮染いただく旅籠かな   東小薗まさ一  
襟巻やショーウインドーに映る父   松原白士  
小寒や氏子総出の金種分け   神﨑ひで子    
多喜二祭逗留宿の褞袍かな   木下野風     
慎重に表紙外すは初暦   長谷川美知江    
新酒手に天体ショーを観てゐたり   漆谷たから 
すべり台一人すべるや春しぐれ   芳賀秀弥   
春の夜や酒の肴の妻の味   大村清和      
補聴器や咳の雑音もの凄く   町田亮々     
春風や竿一列に干す産着   海内七海

「芳草集」の巻頭・次席、「青草集」の上位の作品の他は、句稿到着順に掲載しています。 




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