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  <title>青草俳句会～命のよろこび</title>
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  <dc:creator>aokusa8g</dc:creator>
  <dc:date>2025-07-21T12:25:51+09:00</dc:date>
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  <description>結社「青草」　主宰 草深昌子</description>
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   <title>『WEP俳句通信』146号　　特集〈一句十題の試み――題・雲の峰〉　　　　草深昌子</title>
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<![CDATA[
　　　　　　　<img src="https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/10/78/31913af7174c8a1c025ba9e4b5d48d8a.jpg" alt="" class="fr-fic fr-dii">　　一題十句　　雲の峰　　　　草深昌子<br>　　　江の島や富士とみまがふ雲の峰<br>　　峰雲やビール一缶結び二個<br>　　雲の峰いそぐべき用なにもなき<br>　　なかば町なかば田舎の雲の峰<br>　　峰雲や車掌のこゑのよき小駅<br>　　日輪と電信棒と雲の峰<br>　　九月十九日や雲の峰の聳つ<br>　　雲の峰此処やそつくり水深く<br>　　田端まで行き行く坂東太郎かな<br>　　駄鳴つて露月来たれる雲の峰<br><br>　　　<img src="https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4c/4e/ddf1254aa094cd838f4ffabf120175f5.jpg" alt="" class="fr-fic fr-dii"><br><br>　春の雲を長閑に仰いでいたら「雲の峰」の依頼がやってきた。<br>　田中裕明は一か月先の季題を詠うと言われた。<br>　以来、これを見倣って季題の待ち受けを実践していたが、<br>近年飛ぶように日が経つのは、季題の先取りのせいだと決め込んで、<br>忙しく追いかけることにブレーキをかけはじめた矢先だった。さて、困った・・・　<br>    そこで、枕頭の書である、岸本尚毅著『高濱虚子の百句』をしっかり読み直した。<br>　虚子の〈並び立つ松の蕊あり雲の峰〉について、<br>夏に近い（夏のような）春の景であっても差支えはないとして、さまざまの論点を読み解いたあとで、<br>「季題がどれで季節がいつかという議論は不要です。<br>　句はあるがままにその句でしかない。それもまた虚子の真意だったと思います。」とあった。<br>　これに元気をもらって、手当たり次第に雲の峰を書きとどめた。<br>   季題と人生は切り離せないものである、一回きりの人生に何度雲の峰を仰いだことだろう。<br>子供の時分を思い起こしつつ、いつしか老いの現況に至ってしまった。<br>気力が衰えると、意気軒昂の雲の峰によりかかりやすい、まさしく大いなる自然に癒されているのだった。<br>実作は棚にあげて、頭の中の様々のセオリーが実感をもってほどかれていったのは、〈一題十句〉のおかげであった。<br>   昔むかし、私に俳句を勧めた母が、<br>「主観を客観で言うのが俳句ですわ」と言った。<br>聞き流していた一言がふと蘇ってきたことも、懐かしい。<br>　　　　　<img src="https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/62/23/4c3c25030ffbd18c28caa7c31eacdba0.jpg" alt="" class="fr-fic fr-dii"><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br><br>
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   <category>俳句</category>
   <dc:date>2025-07-20T06:20:36+09:00</dc:date>
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   <title>草深昌子を中心とする会・選後に　令和7年6月</title>
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草深昌子選          <img src="https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/58/f4/ce29fae3a5b6c716b20aec1efc9fcee0.jpg" alt="" class="fr-fic fr-dii">   <br>         ポロシャツのボタン外して風薫る　　　佐藤健成<br>　青葉を吹き抜けてゆく風は匂うようである、それが「薫風」「風薫る」という季題である。<br>　〈薫風や蚕は吐く糸にまみれつつ　　渡辺水巴〉などの名句は例外にして、　どんなフレーズをつけてもそれなりに俳句らしくなるという薫風という季題は好きではなかった。<br>　薫風はもとより季節風であるから「南風」であり、また相当に強い風は「青嵐」である。<br>　南風や青嵐の印象は詠いあげたいという意欲にかられる季題であるが、薫風にはすでにして「薫る」という動詞があって、その甘い感覚に作句意欲をそがれてきたのだった。<br>　ところがこの句に出会って、久々に、ああ薫風だなあ、という感慨に浸らせていただいた、<br>　そう作者と共によき風を存分に味わったのである。<br>    この何気なさこそが薫風ではなかろうか。<br> まこと清新なる一句である。<br><br>      金魚より値の張る目高店の奥　　　中原初雪<br>　「メダカ」って口にしたとたんに、懐かしの小さな目高が浮かんでくる。<br>　誰もが子どものころに親しんだものである。<br>　それが、まあ何と金魚より高いというのである。<br>　本郷の坂を上ると金魚屋があって、鑑賞用の金魚の高価なることにびっくりしたものだが、それより高いとは。<br>　ともかく選者は一句を読んで直感的に驚かされると◎がつく、<br>　驚かされることこそが選者の醍醐味である。<br>　読み直して「値の張る」も巧いが、さらに巧いのが「店の奥」である。<br>　読者を店の奥まで引き連れて、納得させるのである。<br><br>        ひるがほの咲いて都会の駐車場　　　柴田博祥<br>　昼顔は好きな花である。<br>　道ばたの草むらのどこにでも生えていて、ちょっと柵に絡んでいたりすると懐かしい。<br>　日中は咲いて、夕方には萎むという淡々しい感じもまた惹かれる所以かもしれない。<br>　この句もまた、そういう選者の概念をひっくりかえしてくれるものである。<br>　昼顔にしてなかなかに逞しいのではないか。<br>　「都会」という華やぎのイメージ、「駐車場」という賑わいのイメージが、野草のそれを覆すのである。<br>　ちなみに私の好きな飯島晴子の句に、<br>　〈昼顔は誰も来ないでほしく咲く〉、〈昼顔のあれは途方に暮るる色〉がある。<br>　こちらは主情濃く詠って、昼顔を明らかに見せてくれるものである。<br><br>        宮ケ瀬の水のつめたや夏帽子　　　岩城泰成<br>　厚木市在住の我らが「宮ケ瀬」である。<br>　車で行けばすぐそこかもしれないが、距離的なものだけでなく、<br>　その成り立ちを思うと私などは宮ケ瀬と聞いただけではるかなる思いに誘われもする。<br>    国内最大級のコンクリートダムの建設が完成したのは２０００年であったか、今や人造湖の湖畔には遊園地が広がり、遊覧船も発着する観光地でもある。<br>    この地の水のつめたさだけで詠いあげた「夏帽子」の涼しさがたまらない。<br>    宮ケ瀬の日差しは眩しいばかりであろう。<br><br>         銀紙の鶴の尾立ちぬ梅雨曇　　　川井さとみ<br>　折り紙の鶴であろうか。<br>　だが折り紙と言わずして「銀紙」とのみ詠いあげた、その銀紙の銀色が出色である。<br>　そうして、その「尾」もまたピンと張っているのである。<br> ささやかにも引き締まった印象が折からのはっきりしない曇天のさまを明らかに見せている。<br> やがて、うっすらと日の差してきそうな梅雨曇ではある。<br><br>　時鳥ラジオ体操始まりぬ　　　高橋　麦<br>　東京の俳人で時鳥の鳴き声を知らぬ人がいて驚いたことがある。<br>　ここ厚木では夏を告げる鳥として、日常的によく鳴いてくれて親しまれている。<br>　掲句も然り、早朝のラジオ体操が始まらんとして、<br>　「テッペンカケタカ」、「トッキョキョカキョク」などとまるで伴奏よろしく鳴いてくれたのである。<br>    自然と共にある人生の楽しさ、心身共に健康なる一日のはじまりである。<br>                                        <img src="https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/50/e3/b796d436989f957c51dfc8ebe34539d1.jpg" alt="" class="fr-fic fr-dii"><br>        鎌倉や行く先々をほととぎす　　　石堂光子<br>　こちらは厚木にあらずして鎌倉である。<br>　古来から文学によく取り上げられてきた時鳥は鎌倉でこそ、その本領を発揮するのかもしれない。<br>　時鳥の一声一声に何かしらを思い出させてもらえるもののようである。<br>   中七の「行く先々を」、何気に感慨深い措辞である。<br><br>        青嵐枝葉ちぎれて庭一面　　　市川わこ<br>　万緑を吹き渡るというような、明るくも荒々しい風が「青嵐」である。<br>　青嵐のおかげで、我が家の庭の一面に木々の枝葉が飛び散ったのである。<br>　何という激しさであろうかと思いつつ、その清涼なるさまを愛でているような落ち着きも感じられる。<br>    ありのままを描写してこその一句のよろしさである。<br><br>       立葵ここより道の分かれけり　　　山森小径<br>　「葵」は葵でも、「立葵」と言うときの清々しさは格別である。<br>　そんな立葵の把握がまこと簡潔明瞭に詠いあげられている。<br>　名の通り、真っすぐにすっくと立った花はまさに分岐点を知らしめて、静かにも戦いているのであろう。<br>　通りすがりにふと詠いました、とでもいうような飾り気のなさが引き立っている。　<br><br>         合歓咲くやひすがら沖の高曇り　　　二村結季<br>　　下１２はひと息に読み上げて、滑らかにもかろやかな余韻をもたらしている。<br>「高曇り」というのはあまりなじみのない言葉だが、空の高いところに一面に雲がかかっているというのだろう、それも朝から晩まで。<br>    内容もさることながら、調べのよろしさが利いている。<br>    合歓の花というと、〈象潟や雨に西施が合歓の花　芭蕉〉がすぐに思われるのだが、この句からも眠ったような、夢のような合歓の花の感じがよく出ている。<br><br>　　　かっぽれの足よく上がる燕子花　　　結季<br>　かっぽれと燕子花の対比が楽しくも鮮やかである。<br><br><br><br>　　　生え際のかたちのままに汗疹かな　　　小宮からす<br>　　　ひららかな大地どこまで夏の雨　　　　　　からす<br>　　　何鳥か大き一声青嵐　　　　　　　　　　佐藤昌緒<br>　　　漂うて雲と浮草あつけらかん　　　　　　　　昌緒<br>　　　時鳥啼くや金時山の子に　　　　　　　奥山きよ子<br><br><br><br><br>
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   <category>俳句</category>
   <dc:date>2025-07-20T06:07:13+09:00</dc:date>
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   <title>青草通信句会　2025年７月</title>
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<![CDATA[
草深昌子選　（順不同）兼題「香水」<br>     <img src="https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/05/b3/ff57785c029835e05eaa1fbd9b25df93.jpg" alt="" class="fr-fic fr-dii"><br><br>         ままごとや葉陰に小さき桑苺    　　渡邉清枝<br>　桑苺は桑の実のこと。上五で切って、ままごとの背景を描写しました。桑の実もちょっと摘んでままごとを一層楽しくしていることでしょう。<br>         香水のさざめきにある幕間かな 　　奥山きよ子<br>　観劇の幕間の時間には飲食したり語らったり様々ですが、そんないっときのある種の興奮のようなものを「香水」をもって語らせました。とっておきの華やかな香りを思います。<br>         香水の夜のデッキの姉妹かな 　　柴田博祥<br>　例えば船の甲板のデッキでしょうか。夜という時間の静けさが姉妹だけのものとして、香水はいっそう幽かにも香り立つようです。姉妹の仲のよろしさがしのばれます。<br>         香水を売る一角の佇まひ 　　小宮からす<br>　デパートあるいは六本木、銀座など香水ブランドの売場でしょうか、その一角のありようは静かにも独特な雰囲気をもたらします。表現もしんとしています。「香水」を売場で詠うという切り口がすでに斬新。<br>         引率の教師のオーデコロンかな 　　奥山きよ子<br>　よどみなく一続きに詠いあげたことですっきりしています。その爽やかさも香水でなくオーデコロンであるところからもたらされます。教師のよろしさです。<br><br><br>       <img src="https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/22/ce/9e3245cb42d9294e31834dbf70b4c356.jpg" alt="" class="fr-fic fr-dii"><br><br>         磐石に苔のつきたる夏越かな　    昌子<br>         香水の瓶の背高いとほしむ<br>         松風の茅の輪くぐりしあとにつく<br><br>                   <img src="https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5b/3f/1ef26f4f4b06de9e18c66738b7830519.png" alt="" class="fr-fic fr-dii"><br>        令和７年７月・青草通信句会講評　　　草深昌子<br><br>令和７年７月の兼題は「香水」<br>   香水は四季を問いませんが、俳句では「夏」の季題です。<br>        香水の香ぞ鉄壁をなせりける　　　中村草田男<br>   初学時代、香水といえばもうこの句でした。さぞかし美人でしょう、これほど近寄りがたい香水があるでしょうか、まさに鉄壁です。<br>       香水やまぬがれがたく老けたまひ　　　後藤夜半<br>　こちらも美人であられたのでしょう、香水のたしなみは持ち合わせながら老いは隠しようもないようです。普遍的な老いのかなしみというものを一句は静かにも詠いあげています。<br><br>   さて、いつしか年老いますと、俳句観も変わってきます。<br>「鉄壁」が如き高尚性を求めなくともいいのです。高い調子で書かなくていいのです。じっと見て、じっと聞く、対象のこころと同化して、はじめて自分の言葉がどこからかやってきます。俳句は発見がなければダメです。その場でなければなりません。即物的にやればやるだけ一句はしなやかに強くなります。　<br>    常識的に敷衍している言葉、他人様に借りた言葉などはすでに陳腐です。写生というのは自分という人生観で見るものです。<br>    詩はまた読者と共感しあうものです。説明したくなる自分の気持ちを断ちきって、読者と共に素直に楽しみあいたいものです。<br><br>    そのためには選句が大事なことを度々申しあげていますが、今もって説明が行き届いて、意味でつながっている句、散文のような常識的な句に点数が入りがちです。これは俳句を作るときも、因果関係でつなげて意味が分かるように作っているからだということになりましょうか。そう、実作の能力と、選句の能力はほぼ等しいものです。どちらも歳月かけて向上してゆくものですから、焦ることはありませんが、ちょっと心して選句するだけでも上達が違ってきます。<br>    本部句会で取り合せの句をお示ししていますが、名句は表でつながらないで、裏でそれとなくつながっているものですから、分からないというのが本音でしょう。ずば抜けた俳句は、ずば抜けた俳人しかとれないということがしみじみと分かります。<br><br>     初心のうちは日常的に目にしているものだけで作っていましたが、今後は古典的な季題も含めて、知らない季題にチャレンジしましよう。そこで、どんどん先人の名句を読んでいるうちに類想も分かってくるのです。類句を作ったらすぐに取り消し、その先は類句を恐れずに作っていきましょう。自分の言葉で自分の顔を出せますように。<br><br><br><br><br><br>
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   <category>俳句</category>
   <dc:date>2025-07-19T05:50:02+09:00</dc:date>
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   <title>青草本部句会 令和７年７月４日(金）</title>
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<![CDATA[
草深昌子選　（順不同）兼題「泉」席題「急」<br>      <img src="https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5f/ce/85c9d648a5418d06b324004ecbd8f96a.jpg" alt="" class="fr-fic fr-dii"><br><br><br>　梅雨晴や色の退せたる正一位　　　奥山きよ子<br>　奥つ城の小橋の奥の泉かな　　　　きよ子　石垣をのりだしてをり竹煮草　　　きよ子<br>　ペディキュアは鼻緒の色の浴衣かな　　　山森小径<br>　入れかはり何か来てゐる泉かな　　佐藤昌緒　　　　　　　　　　<br>　湧くばかりつひぞ溢れぬ泉かな　　小宮からす　　　　　　　　　　<br>　鰺鮨や豊後なまりのなつかしき　　二村結季　　　　　　　　　　<br><br><br>     <img src="https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6d/ef/469a0ec073dc4262327da26d31341d93.jpg" alt="" class="fr-fic fr-dii"><br><br><br>　浮いて来い風雲急をつげんとす　　　昌子　　　<br>　蓮の葉を来たるや蝶の急がざる<br>　簗守の声のあらぶることの急<br>　竜神の髭撫でてゐる泉かな<br>　小田急の飛ばしどころや半夏生<br>　夜濯に急雨至るをいとはざる<br><br><br><br>
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   <category>俳句</category>
   <dc:date>2025-07-17T05:39:15+09:00</dc:date>
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   <title>草深昌子を中心とする会・選後に・令和7年5月</title>
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    草深昌子選<br>         <img src="https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/47/11/47b7a371f98032135684f831fd03f8f0.jpg" alt="" class="fr-fic fr-dii"><br><br>         はらはらと色の散りゆく昼花火　　奥山きよ子<br>　小さくて軽いものが静かに落ちゆくさまが「はらはら」ではあるが、はらはらと散るなどは、擬音としてはいかにも普通である。<br>　俳句において常識的な擬音は有効ではないことをいつも申し上げているが、俳句には常に例外がある。<br>　この句に限って「はらはら」は、花火の揚がりよう、終わりようを目の当たりに見せて刻々が何とも美しい、夜の花火とは違う、明らかに昼のそれではないだろろうか。<br>　はらはらと、散りゆく、の間に挟まった「色」の一字が、さすがに垢抜けしている。<br><br>         山近き菓舗の朝や柏餅　　　きよ子<br>　端午の節句の時期には、是非とも柏餅が欲しい。<br>だが、昼ごろに買いに行くと、「売切れ」の張り紙を目にすることたびたび。<br>　この柏餅は「朝」ならではの新鮮。<br>　しかも大山であろうか、その山の裾を引いているところに落ち着きがあって、めでたい。<br><br>　   柏餅見れば買ふぞと言ふ男　　　葉山　蛍<br>　一読、この男はどういう男かと思われる。いささか荒くれではないか。<br>　名告りを聞いて作者を知ると驚いた、物静かにもインテリジェンスではないか。<br>　だから俳句は面白い。作中主体は、どういういきさつでこうなったか？<br>　事の次第を聞いてはつまらない。ただただ、この男にとって何が何でもゲットしたい柏餅である。<br>　前句の「山近き菓舗の柏餅」を、得て欲しいと願うばかり。<br><br>       はちきれむばかりの葱の坊主かな　　　木下野風<br>　「はちきれむばかりの」、文字どおり勢いをもってうちだした９音、<br>　　続けて「葱の坊主かな」と静かにも締めくくった８音、俳句の破調が楽しい。<br>春も闌けた葱坊主を言い切って、手を打ちたくなるような面白さ。<br><br>　　雲白く行くや五月の蝿生る　　　佐藤昌緒<br>　こんなにも、美しくもたくましい「蝿生る」があるだろかと思わずいただいた。<br>　「蝿生る」は厳密に言えば蝿の羽化のことであるが、晩春に生まれたばかりの小さい蝿をいうものでもある。<br>　これは、大空を白雲の行く五月に、やや遅めに飛び立った蝿であろうか。<br>夏は蝿どもにとって活発そのもの、人間も同様であるが、元気なさまも時には「五月蠅い」（うるさい）、やがて、そんな蝿のイメージになるのだろうか。<br><br>          はとバスのぱつと黄色や木下闇　　　小宮からす<br>　 「ぱつと黄色や」、まるで子供が言ったような口ぶりが、はとバスを言い得ている。<br>　　確かに、あの黄色は目立っているところが有難くもある。<br>　　しかもそのことによって、鬱蒼たる木立の茂りがもたらす翳りをいっそう深く見せている。<br>　「見たまま」あるいは「感じたまま」というリアルな描写は、<br>　　読者をもその場に連れて行ってもらえるものである。<br><br>　　　辣韮の薄皮浮きぬ洗ひ桶　　　からす<br>　　辣韮を甘酢に漬けていただくと、その辛味がたまらなく美味しい。<br>　　大好物にして、「辣韮」が兼題に出た時は手も足も出なかった。<br>　　だが、この句は何とまあ、何気にそのまんまを詠われたことだろう、その通りだと思う。　<br>　　だが、「洗ひ桶」、下五の念押し、これがなかなか詠えないのである。<br><br>         四車線道路中央薄暑光　　　黒田珠水<br>　漢字ばかりで仕上げた一句は、時にわざとらしくて嫌味に思えるものがあるが、この句はそんなものではない。<br>　スピード感があり、情景がよく迫ってくる。<br>　ちょっと疲れたような、ちょっと汗ばむよう、夕薄暑であろうか。眩しさも感じる。<br><br>       <img src="https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/08/d7/545e318b4f6f133a998db47172dacf56.jpg" alt="" class="fr-fic fr-dii"><br><br>         薫風やここは芋坂串団子　　　渡邉清枝<br>　谷中から根岸へ向かう芋坂であろう、<br>　この坂の羽二重団子は夏目漱石の『吾輩は猫である』はじめ何かと文学作品に登場してあまりにも有名である。<br>    初夏のよき季節に、この坂の、この団子に行き合った喜びが「薫風」そのものとなって大いに薫っている。<br>     羽二重団子と言わずして「串団子」がウマイ。<br><br><br>　　夏来たる帆布の鞄取り出しぬ　　　     田中朝子<br>　　山藤の緞帳下ろしたるごとし　　　　神﨑ひで子<br>　　半分は日陰の畑や桐の花　　　　　　山森小径<br>　　相撲部屋入口にある靴白し　　　　　中原初雪<br>　　若葉してさもなき風に揺れてをり　　冨沢詠司<br>　　敷石に影ありにけり若楓　　　　　　川井さとみ<br>　　子かまきり風に吹かれてちりぢりに　竹内あや<br>　　若楓風を畳んでをりにけり　　　　　松尾まつを<br>　　夕牡丹鬼と恵比寿の二面性　　　　　漆谷たから<br>　　瓜の葉を落つるかに飛ぶ天道虫　　　二村結季<br>　　整然とケースにあるや柏餅　　　　　鴨脚博光<br>　　生温き水道水や夏来る　　　　　　　河野きなこ<br>　　蜘蛛の糸引いて搖るるや若楓　　　　松井あき子<br><br><br><br><br>
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   <category>俳句</category>
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   <title>青草通信句会　2025年６月</title>
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草深昌子選　（順不同）兼題「夏の川」<br>　　<img src="https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/52/ee/a6388c9c26bd877862f83a9ff994832a.jpg" alt="" class="fr-fic fr-dii"><br>　　塀白く平屋造りやほととぎす   　 二村結季<br>　古来から文学によく取り上げられる時鳥、さあどこにどう鳴かすか、難儀な季題でもあります。この句は淡々としかも的確に詠いあげました。思わずその声を聞き留めたように思います。〈時鳥鳴き移りゆく雨の中〉、大峯あきら代表句のうちの一句です。 <br>　　夏の川朽ち木流れて来ることも 　　芳賀秀弥<br>　「来ることも」と言う下五はまた上五へかえります。朽木を出して、冬の川では成り立ちませんが、夏の川がよく利いています。上流がしのばれます。 <br>　　玄関を開けて山梔子よく匂ふ 　　田中朝子<br>　「玄関を開けて」、さりげない表出がいいです、その場に立ったかのように、白い花の香気がぐっと読者に届きます。案外、身近にも親しい花なのだと気付かされました。 <br>　　仙人掌の花の名孔雀まさにかな 　　加藤かづ乃<br>　表現が巧いです。私の中でもう一度クジャクサボテンを咲かせてみました、するとその勢いが、私も「まさに」と思いなおされました。 <br>　　夏川やいざ水切りの石合戦　　　 柴田博祥<br>　水切りは俳句によく出ますので、いつも又かと読み流しますが、今回は違いました。中七下五でもって、夏の川の活気が嬉しく表現されています。「いざ」に弾みがつくのでしょう。<br>　　　<img src="https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2d/43/15706593b12d0ec4dc608308752c8bcc.jpg" alt="" class="fr-fic fr-dii"> 　<br>　　夏川や岸辺の木々のみつしりと  　　  昌子　　空を飛ぶものの小さや夏の川　　酒匂とふ名前の夏の川ゆたか<br>　　　　　　　　<img src="https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5b/3f/1ef26f4f4b06de9e18c66738b7830519.png" alt="" class="fr-fic fr-dii">　　<br> 令和７年６月・青草通信句会講評　　　草深昌子<br>　令和７年６月の兼題は「夏の川」<br>   我らが相模川そしてその支流に、四季折々楽しませてもらっています。富士山の伏流水を水源とする相模川はやがて馬入川と呼ばれて相模湾に注がれます。「夏の川」は三夏（夏季の３カ月）にわたる季題ですから様相は様々ですが、私としては盛夏で詠いあげたいものです。<br><br>　　夏川や一つ瀬やがて二た流れ　　　原　石鼎<br>　　鮎の背に一抹の朱のありしごとし　　　〃<br>    原石鼎は明治１９年島根県生まれ。２６歳の時に次兄にしたがって吉野に入り、兄の診療所を手伝いました。そこで俳句に開眼して、「深吉野の石鼎」の名を高らしめました。「ホトトギス」誌上で、高浜虚子が「大正二年の俳句界に二の新人を得たり。曰く普羅、曰く石鼎」と記したほどの天才でした。その後、紆余曲折を経て、句集『花影』を刊行しましたのは昭和１２年、５１歳でした。巻頭は、次の一句です。<br>　　頂上や殊に野菊の吹かれ居り　　石鼎<br>　『花影』には掲載されていませんが、『原石鼎全句集』には、「鮎」の句の前に、〈よべのまま夜明けし窓や夏の川〉、〈夏川のかみに本家しもに分家かな〉、〈夏川のこの上(かみ)に父いましけり〉、等があります。<br>　石鼎は、病の多き生涯でしたが、５５歳の時に、神奈川県中郡二の宮町に隠棲、療養生活に入り、昭和２６年６５歳で逝去しました。<br>　その最晩年の一句、<br>　　蜘蛛消えて只大空の相模灘　　石鼎<br>　蜘蛛は大空に、大海原に吸い込まれていったのでしょうか。相模灘は伊豆半島と房総半島の間の海です。真鶴岬と三浦半島先端の城ケ島とを結ぶ線以北を相模湾と言いますが、この句は相模灘と詠ったことで、スケールがいっそう大きくなりました。又、サガミワンと言うよりサガミナダの調べには余韻があって、はるかに詩情を誘います。　<br>　　<br>　俳句は一字一音が大事です。流行りのテレビや新聞を見るのもいいですが、もっと古い時代、明治、大正、昭和の頃に活躍した俳人の名句を沢山読んで、書き写して、憶える、それが俳句の楽しみです。<br>　<br>   ちなみに、「草深昌子のページ」に原石鼎俳句鑑賞のカテゴリーがあります。先の「鮎」の句も鑑賞しています。実作者として私自身の学びの為に書いたものですが、青草会員の皆さまに分かってほしいという願いがありました。石鼎から多くを学んでいただきたいものです。<br><br>　　<br><br><br><br><br><br>
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   <category>俳句</category>
   <dc:date>2025-06-13T05:33:04+09:00</dc:date>
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   <title>青草本部句会　令和７年６月６日（金）</title>
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草深昌子選　（順不同）兼題「萍」席題「無」<br> 　　<img src="https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/33/53/4fa3be696d7dad13cc1b2799d532a715.png" alt="" class="fr-fic fr-dii"><br><br>　ひららかな大地どこまで夏の雨　　 小宮からす　　　　　　　　　<br>　立葵ここより道の分かれをり　　　　山森小径　　　　　　　　　　<br>　銀紙の鶴の尾立ちぬ梅雨曇　　　　川井さとみ　　　　　　　　　　　<br>　漂うて雲と浮草あつけらかん　　　　佐藤昌緒　　　　　　　　　　<br>　かつぽれの足よく上がる燕子花　　　二村結季<br><br>　<img src="https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1f/90/4279742485ae5a0262eeb6da23f7bac7.jpg" alt="" class="fr-fic fr-dii"><br><br><br>　雨降つて音無かりけり蝉丸忌　　　　草深昌子　　　<br>　このあたりものの音無き青すだれ<br>　くちなはの直ぐになりたることの無し<br>　萍やそこなる鴨の身じろがぬ<br>　萍の雲にのりたる揺れもせで<br><br><br>
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   <category>俳句</category>
   <dc:date>2025-06-13T05:26:52+09:00</dc:date>
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   <title>「俳壇」2025年６月号・俳壇ワイド作品集　　　草深昌子</title>
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　　　　　　                         <img src="https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7c/0e/189604e3b74b092b84399f7b663b45cc.jpg" alt="" class="fr-fic fr-dii"><br><br>　春禽　　　草深昌子　「青草」主宰<br><br>　蟇穴を出づるメガフオン転がつて<br>　春泥の団地のバスの着くところ<br>　きれ破れて彼岸の布団干されあり　<br>　浜風の吹き来る春の涼しさよ<br>　春禽の枝をたがへて対き合へる<br>　花冷の花屋はみどり美しく　<br>    囀のどの松の木も老いにけり　<br><br><br>　　　私の作句信条<br><br>　季節の移り変わりの中で、さまざまの花鳥に巡り合います。<br>　自然は力強く元気です。<br>　思わず一句をもって「不思議と思われませんか」と問いかけたくなります。<br>　これからも出会いの喜びを、いっそう生き生きと詠いあげていきたいものです。<br><br>                            <img src="https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2a/f6/19ef98e50e61ccf4c746431236c869e7.jpg" alt="" class="fr-fic fr-dii"><br><br>　　　簡単な俳歴<br> １９４３年　大阪市生まれ<br> １９７７年　飯田龍太主宰「雲母」入会<br> その後、原裕主宰「鹿火屋」同人を経て、<br> ２０００年　大峯あきら代表「晨」同人<br> ２０１７年　「青草」創刊・主宰<br> 句集に　『青葡萄』　『邂逅』　『金剛』<br><br><br><br><br><br><br><br>
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   <category>俳句</category>
   <dc:date>2025-05-25T09:21:35+09:00</dc:date>
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   <title>草深昌子を中心とする句会・選後に・令和７年４月</title>
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 草深昌子選<br>　　　　　　　　<img src="https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/18/25/4bb1e1198859ef5625d29ec575b93552.jpg" alt="" class="fr-fic fr-dii"><br><br><br>　　前後ろおぼつかなきや春の服　　  東小薗まさ一<br>　「春服」と言いますと、気分はいっぺんに春らしくなります。<br>そう、若々しくも軽やかな、おしゃれな女性を思い浮かべてしまうのです。<br>そんな明るいイメージが、おっとどっこい、一転しそうになった句です。<br>何と、前なのか後ろなのか、はっきりしない服であることよっていうのですから。<br>ああ、そうか、これは嘆きにあらずして、今どきのハイセンスの前後不明のデザインに戸惑っているのかもしれない。<br>　思わず楽しくなって、文句なく◎。<br>　「まさ一！」句会で名告りを聞いて二度ビックリ、眉目うるわしきお方さまではなく、堂々たる御老体さま、まさ一さまである。<br>　聞けば、どっちが前だか後ろだかが分からなくなって、着るのに手間取ったというのです。<br>　本当のことを言っただけです、という作者。それだからこそ読者は自由に想像を広げさせてもらえたのです。<br>　俳句ってやっぱり面白いです。<br><br>　　天守閣見えて菖蒲の根分けかな　　　奥山きよ子<br>　「青草」春の吟行会は小田原城界隈でした。<br>　お濠をゆき、いくつもの城門を出たり入ったり、あるいは海岸まで足を延ばしたり、方々に逍遥して去りゆく春をたっぷり惜しんだのでした。<br>　そんな中で、地道なる「根分け」に出会ったとは、これまたビックリ。<br>　菖蒲の萌えだした芽を分けて植え直していたというのです。<br>　「天守閣見えて」、この見届けが見事です。<br>　やがて菖蒲はさぞかし鮮やかな花を咲かせることでしょう、<br>　立ち姿の美しい花菖蒲がはるか天守閣の距離感をもって、早々と目に見えてくるようです。<br>　吟行は下見をしないで一発勝負の出会いがいいと思います。<br>　ただし、事前に、この季節、この場所ならと思いを巡らして、いくつかの季題を予測して書き留めておくのがいいでしょう。<br>　波多野爽波門下の「季題を待ち受ける」という態度を私も見習っています。<br>　それでも私にとっての吟行の醍醐味はやっぱり予想外の出会いです。<br><br>　　取つときの皿や艶めく黒めばる　　　きよ子<br>　「黒めばる」という季題もまたなかなかのものです。<br>　早春の魚で名の通り、目が大きい。<br>　そりゃあ、取っときの皿でなくてはと思わせる、目張は目張でも「黒」は高級なのです。　<br>　俳句に修飾語は要らない、というもののこの句の「艶めく」は実感でしょう。<br>　昔はよく、釣り好きの彼にくっついて旅をしました。<br>　ことに加太港で、朝もまだ暗いうちから舟を出して、宿の褞袍を着こんだまま（当時はダウン　などなかった）目張を釣ったこと等なつかしく思い出されます。<br>　何より目張の煮つけにビールは美味しかったのです。<br><br>　　山鳥や天守石垣苔むして　　　黒田珠水<br>　この「天守石垣苔むして」も、紛うことなく小田原城下の句でしょう。<br>いたるところに歴史的城垣があって、分厚くも苔むすさまは見るほどに深い歳月がしのばれたものです。<br>　作者はその感銘を、つべこべ言いません、ただ一言、「山鳥」なる季題に代弁させたのです。<br>　山鳥といいますと、たちまち〈あしびきの山鳥の尾のしだりおのながながし夜をひとりかもねむ〉が浮かびあがってきますが、<br>　この歌とは別にしても、ただただ尾が長い、もうそれだけで、山鳥以下のフレーズをいきいきと引き立てています。<br>　「鶯や」ではもたないでしょう、「山」の一字も重厚に効いているように思われます。<br><br><br>　　　　　　<img src="https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/30/a7/8fc8c198ae04bac67fb189b26c4b3e6e.jpg" alt="" class="fr-fic fr-dii"><br><br>　　海風の轟くほどや竹の秋　　　大村清和<br>　春になってもの皆が芽吹きはじめ青々と色づくころになって、<br>　竹の古葉はすっかり黄色くなっていきます。これが「竹の秋」です。<br>　吟行のこの日、作者は城下町を抜けて、御幸の浜へ出られたのでしょう。<br>　伊豆半島や三浦も見渡せるようなよきスポットです。<br>　でもこの海の風は大風であったようです。<br>　大きな音に響きわたるというのが「轟く」ですが、轟くと言い切ってはいささか強すぎます、<br>そこで、「轟くほどや」という中七の措辞はさすがに巧いです。<br>このよろしきリズム感は竹の秋に及んで、はるかの竹藪をゆっさりと傾がせるような趣をもたらします。　<br>　この句は季題が決まるまで、じっくり時をかけられたのではないでしょうか、<br>　よく心がこもっています。<br><br>　　植込みに絡んでゐるや花通草　　　石堂光子<br>〈鳥飛んでそこに通草のありにけり〉という虚子の句がありますが、この通草は甘くて美味しい秋の味覚です。<br>ところで通草の花は四月ごろ咲くのですが、その葉に紛れてうっかり見過ごしてしまいそうな花です。<br>　私も先日、鎌倉の切通しでやっと手の届くところの花を引き寄せて見ましたが、<br>雌花と雄花が房のようにかたまって、濃くも薄くも紫が可憐で見飽きない花でした。<br>　そんな花を作者は「植込みに絡んでゐるや」、ただそれだけのことに見届けたのです。<br>　そのありのままが通草の花のありようをよく伝えています。<br>　このように詠いあげたからこそ、通草の花、その命がここに存在しているのです。<br><br>　　新橋の新入社員機関車前　　　中原初雪<br>　JR新橋駅にはいつ行っても大きな機関車がデンと居座っています。<br>　サラリーマンの聖地として、かの機関車は輝き続けているように思います。<br>　大手町とはまたちょっと違った新橋のビジネスオフイス群は、鉄道発祥の地とてしての誇りとともに親しみ深いものがただよっています。<br>　この独特の場所に「新入社員」の季題をすっとはめ込みました。<br>　堅牢にも、この上なき祝福がこもっています。<br>　新社員は、いよいよ着実に凛々しく前進されていくことでしょう。<br><br>　　初蝶やまづは小庭をひとまはり　　　関野瑛子<br>　初蝶を我が庭で見つけた喜びがひそやかにもたっぷり詠いあげられています。<br>　大きいお庭であっても「小庭」と言ったところで初蝶の初々しさが目に見えるようです。<br>　「まづは」も「ひとまはり」も、ようこそ初蝶さんというやさしさのぬくもりが伝わってきます。<br><br>　　前をゆくうすももいろの春日傘　　　田中朝子<br>　この句も「前をゆく」のよろしさ、「うすももいろの」よろしさ、<br>　どの一語一句もさりげなく気持ちのいい仕上がりになっています。<br>　夏の日傘とは一線を画した、春の日傘ならではのおもむきが詠われているのです。<br>　作者の心惹かれたさまがそのまま読者のものになっていきます。<br><br>　　桜貝ささやくやうな母の歌　　　松井あき子<br>　何という明るくもやさしい母の歌でありましょうか。<br>　「ささやくやうな」その微妙な感覚のうるわしさがたまりません。<br>　かの桜色した桜貝のなつかしさ美しさは、<br>　譬えていうなら「ささやくやうな母の歌」だと言えましょう。<br>　そして静かに耳をすましていますと、「ささやくやうな母の歌」を譬えていうなら「桜貝」だと言えましょう。<br>　桜貝の「さ音」が、ささやく「さ音」を引き寄せてやみません。<br><br>                                          <img src="https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/04/78/d78a1ec9577bc1440e97064fe7810f0e.jpg" alt="" class="fr-fic fr-dii"><br><br>　　　地下鉄の二番出口や新茶の香　　　　石野すみれ<br>　　　亀の鳴く砂丘を風の吹きわたる　　　　佐藤昌緒<br>　　　老いてなほ俳句は夢よ竹の秋　　　　　葉山　蛍<br>　　　あやしくも小糠雨かな花衣　　　　　　柴田博祥<br>　　　湖に落つる夕日や蜆汁　　　　　　　　村岡穂高<br>　　　桜散る手裏剣道場屋根低し　　　　　　平野　翠<br>　　　天守閣左廻りに春惜しむ　　　　　　　冨沢詠司<br>　　　行春やいづれも小さき城の窓　　　　森田ちとせ<br>　　　藤の花くぐればインド料理店　　　　　高橋　麦<br>　　　伸びやかや川原育ちの諸葛菜　　　　　木下野風<br>　　　浜を行く一本下駄や桜貝　　　　　　漆谷たから<br>　　　亀鳴くや鉄幹の碑の一碧湖　　　　　　二村結季<br><br><br><br><br><br>
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   <category>俳句</category>
   <dc:date>2025-05-15T05:56:29+09:00</dc:date>
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   <title>青草通信句会　2025年5月</title>
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草深昌子選　（順不同 ）兼題「薔薇」 <br>        <img src="https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/04/b4/ee8ff46edfc7c0b7c449d3fc176cc5a0.jpg" alt="" class="fr-fic fr-dii"><br>　　ばらの香や鉄平石の壁模様    　　二村結季<br>　薔薇の花々は、鉄平石の織り成す落ち着きのある壁を背景にそこはかとなく香ります。鉄平石は天然のものにして、テッペイセキという語感の響きも、その字面の堅さ冷たさも、薔薇の美しを静かにも引き立たせてます。<br>　　画眉鳥のこゑの降りくる穂麦かな 　　石堂光子<br>　画眉鳥は美しくも大きな声でこれでもかというほどに鳴き続けます。人の世の憂さをはねのけるような音色を私は好みますが、人によってはうるさいとか。そんな画眉鳥はどこで鳴いてもいいのですが、「穂麦」が決まっています。黄金に熟した麦の穂もまた揺れて応えているでしょう。<br>　　 竹秋の奥より黒き蝶の翅 　　奥山きよ子<br>　万象すっかり春になって芽吹の頃、竹はだんだん黄ばんできます。そんな竹藪を行きますと奥の方から何かやってきました。黒揚羽だと認識するまえに、見えた順に、「黒」「蝶」「翅」と言ったところ、飛んでいるものの描写がリアルです。竹も蝶も、さまざまに生きている命を思います。<br>　　白薔薇やかめむし二匹潜り込む 　　竹内あや<br>　かめむしなんてびっくり。でも、かめむしだって薔薇に魅了されてやまないのです。俳句で様々の花を詠う場合、その色を特定しない方が成功率高いですが、この薔薇の白はリアルです。俳句は初めから終わりまで、じっくりと物を見ることが第一義だと、あらためて教えられます。<br><br><br>          <img src="https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/68/ce/5ef525cbb867247f26c13e76202acaf8.jpg" alt="" class="fr-fic fr-dii"><br><br>        薔薇咲いて向かうの丘は家の建つ             昌子<br>        蟻どちの杖におどろくそのそぶり<br>        陋屋や一と間灯して春は逝く<br><br>        <br>                          <img src="https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5b/3f/1ef26f4f4b06de9e18c66738b7830519.png" alt="" class="fr-fic fr-dii"><br>令和７年５月・青草通信句会講評　　草深昌子<br><br>　令和７年５月の兼題は「薔薇」<br>洋風バラが庶民に愛され広まっていったのは明治中期ごろからだそうです。そういえば、蕪村の〈愁ひつつ岡にのぼれば花いばら〉は山野に自生している野薔薇でした。<br>　　ビール苦く葡萄酒渋し薔薇の花　　正岡子規<br>明治２５年の作です。ビールやワインなど洋酒もまだ一般的でない頃のことでしょうか。この感覚を洋風の「薔薇の花」にとどめ得る進取の意気には唸るしかありません。近代短詩の礎を築いた子規はさすがにモダンであったようです。<br>　　夕風や白薔薇の花皆動く　　　　　　　　　子規<br>　　椅子を置くや薔薇(そうび)に膝の触るる処　　　　　　　<br>　　薔薇の画のかきさしてある画室哉<br>　　薔薇を剪る鋏刀の音や五月晴<br>　絶叫せんばかりの痛み、命旦夕に迫るというような重病人子規にあって、その俳句はいきいきと生きています。もとより境涯を思うとどこかしら切なくなってくる句もありますが、それはそのまま輝かしき生命力を描写しているのだと気付かされます。<br>俳句に「写生論」を唱えた子規は絵が好きで、「病牀六尺」の世界にあって、果実や草花を写生し続けました。そしてこう述べています。<br>　○草花の一枝を枕元に置いて、それを正直に写生して居ると、造化の秘密が段々分かって来るような気がする。<br>　○或る絵具と或る絵具とを合せて草花を画く、それでもまだ思ふやうな色が出ないとまた他の絵具をなすってみる。同じ赤い色でも少しづつ色の違ひで趣が違ってくる。いろいろに工夫してすこしくすんだ赤とか、少し黄味色を帯びた赤とかいふものを出すのが写生の一つの楽しみである。神様が草花を染める時もやはりこんなに工夫して楽しんで居るのであろうか。　<br>　　<br>　子規はもう本当に神がかっています。「造化」というのは宇宙、自然のことです。造化の秘密が分かった等と大それたことは言いません、「分かって来るような気がする」と、まことに謙虚です。子規の言葉をかみ砕いて感じますと、目の前の些事の一つ一つが、それこそだんだん雄大にまた深遠につながっていくのだというような気がします。<br>　「俳句」もこの通りです。絵における絵具は、俳句における「言葉」です、一字一音の大切さです。絵も俳句もなかなか思うようには仕上がりませんが、それこそが「写生の一つの楽しみ」と言われますと深くうなずくほかありません。<br><br><br><br>
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   <category>俳句</category>
   <dc:date>2025-05-12T05:20:22+09:00</dc:date>
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