草深昌子選

ひもすがら日は土にあり鶯菜 二村結季
一読して、すぐに鶯菜とはこれなのだと我が眼前に鶯菜が戦ぐようであった。
春到来を告げるべく美しい声をひびかせる鶯をその名前にもっている菜っ葉、さぞかし初々しくも鮮やかな緑であろう。
「ひもすがら日は土にあり」は、あまねく鶯菜そのものに集約している。
実は、実際の鶯菜をよく知らないで句会で感嘆するばかりであったが、後日作者は丹精の鶯菜をお持ちくださった。小松菜のような油菜のような、天日をたっぷり浴びた若菜の美味もまた格別であった。
ひよつこりと僧の来訪梅の花 松尾まつを
一読して、すぐに鶯菜とはこれなのだと我が眼前に鶯菜が戦ぐようであった。
春到来を告げるべく美しい声をひびかせる鶯をその名前にもっている菜っ葉、さぞかし初々しくも鮮やかな緑であろう。
「ひもすがら日は土にあり」は、あまねく鶯菜そのものに集約している。
実は、実際の鶯菜をよく知らないで句会で感嘆するばかりであったが、後日作者は丹精の鶯菜をお持ちくださった。小松菜のような油菜のような、天日をたっぷり浴びた若菜の美味もまた格別であった。
ひよつこりと僧の来訪梅の花 松尾まつを
我が家のベルがなって戸口に出てみると、おやまあそこには顔見知りの僧侶が立っているではないか、微かなる驚きとよろこびの表情をもって、まっすぐに背筋を伸ばして迎え入れられたことであろう。
果たして何のご用かしら。
こんな想像ができるのはひとえに「梅の花」が際だって鮮やかに詠いあげられているからである。
薔薇の花や牡丹の花ではありえない一句の引き締まり方である。
日常のふとした刹那にも「梅の花」たる季題を我が物にすることができるのである。
先生はいつも真ん中チューリップ 佐藤健成
この日の句会の席上、青草新春句会の写真が配られた。
一瞬、一読、先生こと私は何とまあ厚かましくも、大きな花束を抱えて真ん中に座っているではないか。
恥じながら二読して、違う、違う、この先生は学校の先生ですよねと、心中盛んに相づちを打っていた。
つまり「チューリップ」が何とも明るく若々しいのである。
「いつも真ん中」は揶揄でなく、肯定しているものであった。
本当に真ん中が似合っていて、それがみんなの喜びになっているというものであった。
俳句誌の表紙新たや麦を踏む 加藤かづ乃
麦踏は早春のまだ寒い日々に、文字通り地道に麦の芽を足で踏み固める作業である。
もくもくと麦を踏みながら、折から我が結社誌の表紙が鮮やかにも美しく一新されたことに思いを返している。
そう、明日への収穫にむけて地道な努力は俳句も然りである、踏みしめる一歩一歩もだんだん楽しくなってこられたのではなかろうか。
結社誌「青草」の表紙が、珠水さんのお心こもりの水彩画でもって生まれ変わったことに対する挨拶句である。
感謝があってこそ明日がひらけることを喜びたい。
もう少し身幅の欲しき春コート 日下しょう子
今日は昨日より格段にあたたかくなった。
厚ぼったい冬のコートを脱ぎ捨てて、さあ春のコートの出番である。
袖を通して、背筋を伸ばしてみると、いささかどこかしら窮屈である。
それをそのまま正直に「もう少し身幅の欲しき」と詠いあげられた。
作者は見るからに痩身にしてスマートである。
それでも、もっと悠々と晴れやかな感覚が欲しいということは、即ち春到来の自由闊達へのあこがれを打ち出されたものともいえよう。
果たして何のご用かしら。
こんな想像ができるのはひとえに「梅の花」が際だって鮮やかに詠いあげられているからである。
薔薇の花や牡丹の花ではありえない一句の引き締まり方である。
日常のふとした刹那にも「梅の花」たる季題を我が物にすることができるのである。
先生はいつも真ん中チューリップ 佐藤健成
この日の句会の席上、青草新春句会の写真が配られた。
一瞬、一読、先生こと私は何とまあ厚かましくも、大きな花束を抱えて真ん中に座っているではないか。
恥じながら二読して、違う、違う、この先生は学校の先生ですよねと、心中盛んに相づちを打っていた。
つまり「チューリップ」が何とも明るく若々しいのである。
「いつも真ん中」は揶揄でなく、肯定しているものであった。
本当に真ん中が似合っていて、それがみんなの喜びになっているというものであった。
俳句誌の表紙新たや麦を踏む 加藤かづ乃
麦踏は早春のまだ寒い日々に、文字通り地道に麦の芽を足で踏み固める作業である。
もくもくと麦を踏みながら、折から我が結社誌の表紙が鮮やかにも美しく一新されたことに思いを返している。
そう、明日への収穫にむけて地道な努力は俳句も然りである、踏みしめる一歩一歩もだんだん楽しくなってこられたのではなかろうか。
結社誌「青草」の表紙が、珠水さんのお心こもりの水彩画でもって生まれ変わったことに対する挨拶句である。
感謝があってこそ明日がひらけることを喜びたい。
もう少し身幅の欲しき春コート 日下しょう子
今日は昨日より格段にあたたかくなった。
厚ぼったい冬のコートを脱ぎ捨てて、さあ春のコートの出番である。
袖を通して、背筋を伸ばしてみると、いささかどこかしら窮屈である。
それをそのまま正直に「もう少し身幅の欲しき」と詠いあげられた。
作者は見るからに痩身にしてスマートである。
それでも、もっと悠々と晴れやかな感覚が欲しいということは、即ち春到来の自由闊達へのあこがれを打ち出されたものともいえよう。

花魁の恋は薄紅梅の花 葉山ほたる
梅の花で花魁が出てくるとは異色である。
どこでどういう美意識で生まれたかは知る由もないが、花魁、しかも花魁の恋という私の中のイメージするものと「薄紅梅」は微妙かつ清冽に一致している。
句またがりの表現が、ぎこちなくもゆったりとした印象をもってよく働いていることも見逃せない。
韻律からしてかの花魁の風姿が、うっすらと紅を帯びるように仕上がっている。
ちなみに梅の花は、「梅」の季題とは別個に「紅梅」の季題を立てて、その濃艶の趣きをたたえているが、紅梅よりうっすらとした紅色が「薄紅梅」である。
分校の大きな日向木の芽張る 末澤みわ
見るからに気持ちのいい、広やかな早春の風景である。
こういう風景の描写は、誰の脳裏にもくっきりと蘇ってくるものではないだろうか。
私も勝手に、小野川の流れに沿った玉川小学校を思い浮かべた。
もとより分校ではなく小規模校というところだが、山の裾野がそのまま校庭につながっていて、いつ見ても日当り満点である。
分校は本校を思わせるところもあって奥のある措辞となっている。
こんなところの様々の木々の芽立の生命力は強いだろう、子供たちの成長もいかにも伸びやかであろうと思われる。
うららかや庭師は枝に腰掛けて 渡辺清枝
春は万象ことごとく麗らかであって、季題「麗か」は何を詠ってもよさそうなだけに、
あだやおろそかに麗かの俳句は作らないようにしている。「春うらら」なんて、絶対採らないという俳人も多い。
ところが掲句のフレーズは作者の偽りなき「うららかや」ではないだろうか。
庭師は「枝に腰掛けて」一服しているのではない、だが一句の描き表しようは枝という高みにあって、まるでのんびりしているように見て取った風である、そこが面白い。
庭師に聞けばのんびりどころか、枝に立ったり座ったり、その細やかな剪定に余念がない、今はたまたまここに集中して作業しているのだと言うだろう。
三椏の花や壊れし門のまま 菊地後輪
三椏の花は葉に先立って小花を球状に咲かせ、枝は必ず三つに岐れている。
私など三椏の花に出くわすと、稲畑汀子の〈三椏の花三三が九三三が九〉が口を衝いて出て、以上終りということになってしまう。
こんな三椏の花を掲句は壊れたままの門を取り合わせて、辺りの空気感もろともに、なるほどとばかりに三椏の花を美しく咲かせている。
意識的に取り合わせたというより、たまたまそういうところに咲いていたのだろう、そういう自然体がいっそう素朴の風趣をかもしだすのである。
ヒマラヤの塩のピンクや棚の春 小宮からす
ヒマラヤの岩塩は見るほどに美しいピンクである。
「棚の春」というからには、棚に置くというより、棚に飾っているのではなかろうか。
瓶に透き通ってみえるピンクの色彩はまさに春そのもののようである。
岩塩とは海底が地殻変動のために隆起して海水が陸上に封じ込められて、塩分が凝縮して結晶化したものだと知ると、ヒマラヤ山脈も何億年も昔むかしは海だったのであろうか、何ともロマンチックな一句である。
俳人のアンテナはいたるところに立っているものだと感心させられる。

本堂に立居ありけり梅の花 奥山きよ子
下萌やどこを歩けばいいのやら 松井あき子
ショーウインドー一夜で春になりにけり 中澤翔風
極寒の斜光やダイア手のひらに 町田亮々
賽銭の跳ね上がりたる受験生 古舘千世
膏薬をはがすがごとし春一番 泉 いづ
猟師小屋ありしはここら下萌ゆる 森田ちとせ
春一番道路に紐の長々と 大村清和
一本の抜け道のあり竹の秋 石野すみれ
出し抜けに法被駆け出す山火かな 川井さとみ
立ち話まだ続きをり梅の花 田中朝子
春風や竿一列に産着干し 海内七海
春浅き御堂や平家琵琶流れ 山崎得真
春光や赤子にじつと見つめられ 冨沢詠司
仕上りは上上干鱈星三つ 黒田珠水
春光や近頃爪の伸びやすく 中原初雪
滑舌の悪きを嘆き春浅し 関野瑛子
雨水けふ五段飾りを納戸から 漆谷たから
外堀は鏡のごとき春入日 石本りょうこ
こちかぜを受くは雀のかうべかな 佐藤昌緒








