


棕櫚縄の黒引き締まり冬構 あき子
冬ざれや亀虫入る戸の隙間 桂香
看護師の冷たき指になすらるる いづ
求人の札やふやけて冬に入り いづ
床暖の広き板の間ひとりをり きなこ
温く温くと蒲団にもぐり夢うつつ 松尾まつを
初冬や展望台にまた登り 鈴木一父

草深昌子選 (順不同)

銀杏散る六百年の石神社 二村結季
銀杏が散る中にあって、「六百年の石神社」は簡潔にして要領を得てます。ゆるぎない趣きの静けさを伝えます。
毬栗を受くや男の帆前掛 結季
「帆前掛」という聞きなれない言葉が、この句にひなびた味わいをもたらしています。時代がかった前掛けは商売人、労働者の粋を見せるものでしょう、毬栗のイガイガさえも、すこぶる逞しく思われます。
回らない床屋のポール銀杏散る 黑田珠水
床屋のらせん模様の「有平棒」、古くて故障したのか、廃業か。少々うら寂しい状況に、銀杏が慰めのように散りかかります。
銀杏散るかながわけんの形して 湯川桂香
思わず、そうなのかなって? そう言えば、あの扇のかたち、納得です。「金色のちひさき鳥のかたちして銀杏散るなり夕日の岡に」、あの感じの「かたち」です。
銀杏散る工業団地は十字路に 間 草蛙
工業用地として整備された工業団地は、道路も美観よく整っているのでしょう。整然として活気あるところに銀杏が降りしきります。「十字路に」の下五の抑えがよく効いています。
棗の実鳩と雀は奪ひ合い 田中朝子
棗の実の熟したものを厚木市の岸邸でいただいたことを思い出します。鳩も雀も大好物なのでしょう、明るく懐かしい光景です。
銀杏散る在所の坂に稲荷様 日下しょう子
在所は田舎、故郷というような意味合いです。在所の「坂」まで見届けたところがよき情景を誘います。稲荷神社の赤い幟とは詠っていませんが、それとなく赤色がちらちらします。
銀杏散る渦の真中にただひとり 松井あき子
銀杏散るその中に一人でいるというのは誰でも詠いますが、「渦の真中」まで言ったところで詩情があふれました。
ビル街にのこる八百屋や秋夕焼 古舘千世
八百屋がビル街にあって、そこに秋の夕焼けが差し込んでいます。タイムスリップしたようにゆかしいものです。「のこる」は説明です、「ビル街に八百屋ありけり秋夕焼」など考えてみてください。
銀杏散る人は俯き歩きをり 冨沢詠司
銀杏散るおもむきを人の姿に捉えて的確です。銀杏落葉を見つつ歩むというのでしょうが、それだけではなくて、むしろ、この時期の人々の思索の深さなどを印象させるものがあります。「銀杏散る」句として、秀逸です。

幹につぐ幹見て通るやや寒う 昌子
雁がねや真ん中反つて石の橋
銀杏散るところに跼む夫妻かな
令和3年11月青草通信句会・選後に
草深昌子
私が最も信頼している高浜虚子編「新歳時記」を調べますと、「銀杏散る」という季題は見つかりません。秋の季題「銀杏黄葉」、冬の季題「銀杏落葉」が掲載されています。
次に家でよく使う、講談社「日本大歳時記」を調べますと、秋に「銀杏散る」、冬に「銀杏落葉」の季題をたてています。
「銀杏散る」の解説です。
―銀杏黄葉の黄一色となったものは黄葉のなかでも際立って美しい。夕日に輝けばなおさらである。その中から一葉ずつ早く遅く金色に輝いて落ちてくるさまもいい。―
銀杏散るまつただ中に法科あり 山口青邨
次に、「銀杏落葉」の解説です。
―銀杏黄葉は秋すでに散り始めるが、冬の霜降期に入るとその数を増やし、やがてすっかり葉をふるい落し、街路や境内は黄金色の絨毯でも敷きつめたようになる―
蹴ちらしてまばゆき銀杏落葉かな 鈴木花蓑
銀杏は散っても、落葉しても、晩秋から初冬にかけての印象的な光景に違いありません。要は、その場その時に応じて率直に詠いあげたいものです。
兼題が出ますと、何冊もの歳時記を調べます。長年俳句をやっていましても、その都度何らかの発見があって、俳句を読む楽しさがまた一つ増えてくるように思われます。
青邨の句は東京大学構内を詠んだもの。「法科あり」からは東大の伝統といいますか、ゆるぎない建物、その存在感が銀杏並木の散りようを通して鮮やかに伝わってきます。
さて、実作にかかります。吟行が無理なら過去の体験のさまざまを思い出してみます。一昨年の十一月、二階建てオープンバスに乗って、まさに銀杏黄葉の中を、神宮外苑、迎賓館などの名所を巡回しました。この時の、はらはらと散りかかる眩しいばかりの華やぎをどうしても表現できませんでした。やはり、自分の足で歩かなかったことが一因のようです。
そこで、ああもう出来ないわと諦めて、あまり考えないで投句したものが入選するという体験をお持ちではないでしょうか。こういう無意識に出来た句を高浜虚子もよく採ったそうです。虚子は、上手に作ろうという私心がないものを見抜いたのです。平凡に見えても、どこかに新しさがあるものを見逃さないようにしたいものです。
草深昌子選

青天は一つ色なり冷やかに 間 草蛙
一読して、真っ青な冷やかさが目にも身にもそってくるようです。
「青天は一つ色なり」と、上五中七が切れずに続きます、そして一息を入れて、「冷やかに」と念をいれたような下五につながっていきます。このように整った形式があって、はじめて一句の内容が際だってくるのです。
「冷やかに」という季題が青天に溶け込むように、我等が肌身に沁みるように、嘘偽りのない感覚として気持ちよく伝わってくるのも、この言葉の連係プレーあってこそのものです。
余韻に浸っていますと、ふとこの表出は、どこかで見たことがある、聞いたことがあるようだという思いが過らないわけではありません。私の体験上ですが、俳句のデジャビュというものは、佳き句には、つきもののように現れてくるようです。
大島の右に雨雲秋の暮 松井あき子
この句も12音で切れて、下五に季題が坐るという形式が決まっています。
「大島の右に雨雲」は作者が見届けたそのままの情景でしょう。それがどうしたというのでしょう、そう、何でもないようなことですが、そのさりげないフレーズは、ふと読者を一句の現場に誘い出してくれます。私には、突き放されたような、言い知れぬ暗がりが、我が身の秋の暮そのもののように迫ってきます。俳句は作者が感想を述べないで、読者に想像してもらうものです、この句にはそういう余白があります。
親よりもでっかい靴や竹の春 関野瑛子
この句も中七が「や」で切れて、下五に季語が坐るという、形式のよろしさがあって、そのメリハリの利いたリズム感に、読者は先ずスカッとします。
そこへ「親よりもでっかい靴」という颯爽たる内容があって、驚かされます。
それがどうしたんだいって、思う間もなく「竹の春」に落着きます。そこでしみじみと、なるほどと大いに納得させられるものになっています。理屈でつながっているものではないのですが、一句の奥の方で「竹の春」という季題の本情がそれとなく通っていることに読者はほのぼのと感じ入ることでしょう。身近な暮らしの中にも、自然の移り変りを感受することが出来るのです。それにしても「でっかい」とはいいですね、思わず口から出たてきた言葉でしょう、その弾みがいきいきとしています。
葉隠れに雨の蜻蛉身じろがず 石堂光子
この句はじっくりと物を見るということに徹しています。
「身じろがず」は蜻蛉であるのですが、作者その人も蜻蛉になりきった「身じろがず」でなくては詠い得ない一句です。句意は説明するまでもなく、表現された通りです。
地味な句ですが、鑑賞する方もじっくりと鑑賞して、雨の中の蜻蛉の命の呼吸を聞き取りたいものです。俳句は派手なことを言って人を驚かすものではないということを教えられます。
池濁り木橋に落葉張り付ける 佐藤昌緒
蜻蛉の句同様、この句も地味な句ですが、こういう見届けをするには作者の心が落ち着いて、季節の移り変わりをしんみりと味わっていないと詠えないものです。上五の「池濁り」で少し切れがあります、これが眼目です。この措辞があってこそ「木橋に落葉張り付ける」が臨場感満点に、しかも少々寒々とした印象を伴って、見えてくるものになっています。
やや寒の丘の上から見てゐたり 市川わこ
「やや寒」は、「漸寒」と書きますように、秋になって漸く感じ始める寒さです。
先ず、この「やや寒の」の打出し方が見事です、というか、「やや寒」という季題のありようを詠いあげているものです。
「丘」という言葉には、山より低く、地面より高いという居心地の良いイメージがあります。 そんなよろしき丘から一体何を見ているのでしょうか、作者は何も言いませんでした。
丘ですから向かうには山か海か、眼下には人々の暮らしの様々が見えたことでしょう、それらは全て読者の想像に任せてくれました。それゆえに「やや寒」の晴れやかな実感が、透き通るように想像させられます。
ちなみに、秋の寒さにはいろいろあって、そのものずばりの「秋寒し」、何となくの「そぞろ寒」、肌に実感される「肌寒」、うっすらと感じられる「うそ寒」等、それぞれその場の季節感にそって、語感でもって詠い分けていくのがよいでしょう。
菊の香や五百羅漢の百面相 川井さとみ
五百羅漢は俳句の素材としてよく詠われます、やれ酒を飲んでいる、やれ昼寝しているなどと形態を述べて、そこに蚊や蝶や小鳥が来る、あるいは暖か、長閑などの気分をつけるのです。これは私の初学時代の失敗談です。
失敗を積み重ねて、五百羅漢のみならず道祖神や地蔵などは、俳句の対象としてはだんだん面白くなくなっていきます。でもこの句はそんなこと気にしていません。「菊の香や」という季題のよろしさでもって、さわやかに仕上げました。
菊の香に包まれた空間が、ここには大きく開かれています。五百羅漢のさまざまの表情までもが清楚に感じられてきます。
湯殿から爺の詠や豊の秋 冨澤詠司
湯舟に非ずして「湯殿」ということばの語感が引きだすのでしょうか、この爺はまるでお殿さまのようです。そんな爺さまのお謡いはさぞかし朗朗たるものでしょう。この爺さまの余裕たっぷりはどうでしょう、気分よさそうです。さて次に何が来るのだろうと、期待していますと、「豊の秋」ときました、まさにガッテンです。今年の稲の出来具合は満点だったのでしょう、否応なく五穀豊穣の実感が伝わってきます。
俳句は一読するものですが、こまかくスローモーションに切り取っていきますと、このような手順で読んでいるものです。
上五を読んで、中七を読んで、さて下五でピタッと読者の腑に落ちますでしょうか、そこのところが俳句の成否の分かれ目になるようです。
今回は「俳句の読み」について、わかりやすく述べてみました。
他に注目句をあげます。

牧場ゆ一路夕波の芒原 伊藤欣次
あてもなく外に出て暮るる刈田かな 欣次
青天を小網で掬ふ子らの秋 栗田白雲
鈴川の流れ間近に野菊かな 奥山きよ子
ゆつくりと落穂を食めよ雀どち 河野きなこ
柿の木の天辺越えて葛ゆらぐ 加藤かづ乃
その雛を連れて鶉の横切れる 東小薗まさ一
松葉かと拾ふ指から飛蝗跳ぶ 神埼ひで子
無花果の熟れてはがゆき高さかな 川北廣子
鳶凧一休みして刈田かな 鈴木一父
庭石の根方や小さき竹の春 石本りょうこ
フアイティングポーズで生きよ竹の春 永瀬なつき
古箪笥釣瓶落しの模様替へ 伊藤 波
草庵と印す門あり時鳥草 湯川桂香
山々の真中を沿うて霧薄き 日下しょう子
まん丸の桂色づく館かな 菊地後輪
コスモスに風の動かぬ真昼かな 澤井みなこ
潔く腹に包丁鮭捌く 長谷川美知江
お洒落してデイサービスや竹の春 石野すみれ
迷ひ込む二頭のくぢら雲や秋 黒田珠水
竹の春子供が撞きしあそび鐘 宮前ゆき
名を変へて大河は海へ鱗雲 佐藤健成
野菊咲くおしゃべり好きの一年生 中澤翔風
東へ昼の風過ぐ臭木の実 二村結季
蚯蚓とは砂にまみれて乾くのか 小宮からす
後円墳跡の広さよ木の実降る 森田ちとせ
いてふもみぢ賽銭箱に積もるまま 末澤みわ
天高しどこの人やら妻に似て 中原初雪






