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青草俳句会~命のよろこび

結社「青草」 主宰 草深昌子

青草通信句会 2023年7月7日

2023年07月12日 | 俳句
草深昌子選 (順不同)
兼題「日傘」

 


  梅雨晴の朝の空行く烏かな       間 草蛙
 別段変わった鳥でなく「烏」であるところに穏やかな梅雨晴の気分が出ています。また「朝」という時の爽やかさが効いています。

  あやす子のつかもうとする日傘かな   川井さとみ
 日傘でこのような場面を詠いあげるのはなかなか面白いです。日傘のゆらゆらと自由奔放の手が見えます。

  線香の煙をあとに日傘かな   さとみ
 墓参りで線香を供えたのでしょう。亡き人に思いを寄せているような余韻がよき日傘に漂っています。

  パラソルを開くやアクアリウム出て   奥山きよ子
 アクアリウムは水族館でいいのではないかと一瞬思いましたが、事実アクアリウムで詠われたのでしょう。その軽い語感がパラソルをお洒落に見せています。

  冷酒や有線で聞く藤圭子   中澤翔風
 一世を風靡した藤圭子、ハスキーボイスがたまらない、それも有線で。光陰矢の如しを思う冷酒でしょうか。

  ジーパンの男手ぶらの日傘かな   冨沢詠司
 どこにでもいそうなラフな男。ヤツにして日傘とは、釣り合うような釣り合わないようなよろしさ。

  パラソルの泡立つやうなフリルかな   小宮からす
 フリル付のパラソルですが、この句は中七でもって太陽光線が見えるようで、単なる報告を抜けています。


 


  流鏑馬のありし道ゆく日傘かな   松井あき子
 八幡宮の流鏑馬でしょうか、その儀式の尊さや馬の疾走への思いが日傘の内にこもっていることでしょう。

  羽抜鶏下校の子等に抱かれをり   伊藤 波
 羽抜鶏という蔑まされるような見劣り感はここにはありません。しばしの安らぎに癒されます。「下校の子」がキーポイントです。

  木天蓼の花や古道の途切れたり   森田ちとせ
 木天蓼の花は吉野も奥の渓谷でよく見かけましたが、この句も古道の途切れたところです。そういう情趣のある花ということになりましょうか。

  ハーモニカ吹いて卒寿や夏の空   芳賀秀弥
 九十歳にして力強いハーモニカです。その音色のよろしさは夏空が保証しています。

  絶景にたたむ日傘や渡月橋   二村結季
 一句を読み下ろす調べが、まさに絶景、すっきりしています。下五の渡月橋にきて、また反復したくなるような響きが、よき日傘を思わせるに充分です。

  立ち話日傘一つがくるくると   中原初雪
 立ち話の日傘は他にもありましたが、この句は下五の「くるくると」という描写があって、何気に楽しい様子がうかがわれます。

  出航を桟橋に待つ日傘かな      石堂光子
 同じ着想の句がありましたが、この句がいちばん的確でシンプルです。ワクワク感のある日射しが思われます。

 


  伊吹山横に見てゆく白日傘   草深昌子
  風に散る雨を軒端の団扇かな
  鶺鴒の水をはなれぬ朝ぐもり
   



令和5年7月・青草通信句会講評    草深昌子

 七月の兼題は「日傘」。
 「日傘」と言えば、フランスの画家モネの描いた「日傘をさす女性」が思い浮かびます。又、小倉遊亀の描いた「径」、その小径を行く母と子の日傘も好きです。まこと日傘は絵になる季題のようです。

  草山をまた一人越す日傘かな   渡辺水巴
水巴は花鳥画の大家渡辺省亭(せいてい)の長男です。「草山をまた一人越す」は、水巴ならではの動的な捉えかたですが、私はやはり、モネの絵に重ね合わせてその風景を広げたくなります。

 降りしきる松葉に日傘かざしけり   星野立子
 大峯先生と伊勢の海女の地へ旅しました折、どこのお寺でありましたか、境内の大木の松から落葉が音もなくはらはらと降りかかってきました。句友はみな日傘をさしておられ、思わず立子の一句が口を衝いて出ました。全く、眼前の光景の通りであったのです。
 俳句は出合いがしらを、そのまんま詠いあげる、作為のないのが一番だと気付かされたことで、印象深いものです。
 ただ、「松落葉」(散松葉)も夏の季題ですので、主題は五分五分というところでしょうか。

  墓に来て日傘の太く巻かれけり   岸本尚毅
 第一句集『鶏頭』所収。以下は岩田由美氏の鑑賞です。
 ―暑い折の墓参りだ。強い日差しの中を墓にたどりつき、一通りのことをするためにまず日傘をたたむ。折り畳んでくるくると巻かれた日傘の、その太さに眼を留めた。雨傘と違って、麻や木綿でできた日傘はたたむと以外と太くなるものだ。それに気づいたのが墓であったことも句に情趣を添える。せわしなく流れていく日常生活をふと離れた場所で、周りにあまり大勢の人がいることもないだろう。そんなとき普段は意識されないような些細なことが目に留まるものだ。―
 この鑑賞の「雨傘と違って」に、はっとします。まさに日傘らしい在りようの発見、日傘そのものの描写になっています。

 俳句が好きで、吟行が好きで、自然のさまざまに触れることが何より楽しい、このような姿勢で俳句を学んでいきたいものです。






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青草本部句会 令和5年7月7日

2023年07月12日 | 俳句
連日の猛暑 頭の中が沸騰しそうだ
涼を求めて 俳句の世界へ

草深昌子選     (順不同)
兼題「海月」 席題「窓」


 

    
  石塊か蚯蚓の糞か小暑なる    二村結季 
  潮騒の窓全開や籐寝椅子   松井あき子   
  遊船や底に窓ある珊瑚礁   佐藤昌緒


  


  夏の炉の君にひかへてゐたりけり   草深昌子
  ごきぶりの退治も妻の夜の仕事
  卓袱の梅雨の畳に置かれあり
  激流に窓をめぐらす鮎の宿
  巡視船たゆたふ海月たかりつつ
  蝦夷の地を旅してきたる日焼かな

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角川『俳句』2023年7月号・合評鼎談

2023年07月12日 | 俳句
角川『俳句』2023年7月号・合評鼎談
合評鼎談 ・『俳句』五月号を読む  

  
 

 奥坂まや(昭和25年生 師系 藤田湘子 「鷹」同人)
 津高里永子(昭和31年生 師系 鍵和田・佐藤鬼房 「墨BOKU」代表、「小熊座」同人)
 堀本裕樹(昭和49年生 「蒼海」主宰)


 作品8句    草深昌子(青草・晨)

 津高
  あたたかに座つて墓石かもしれぬ   昌子
 山歩きなどで日なたの石を見つけて一休みすることがあります。
 よく見たら古くて、行き倒れになった人のお墓かかもと思った。
 「あたたか」に歳月を経た石の座り心地の有難さを感じました。

 堀本
  榛の木のひらひら芽吹くあらしかな   昌子
 「ら」音の重なりも気持ちよく、まずリズムに惹かれました。
 榛の木が〈あらし〉に吹かれている様子も見えてきました。
 そして〈芽吹く〉です。芽吹いたものが嵐に吹かれているとも取れるし、嵐の中で芽吹いているとも取れる。
 逞しくもしなやかな榛の木の佇まいが見えてきました。

  蝌蚪の紐突きつけられもして楽し   昌子
 この句は、〈突きつけられもして〉というリズムのギクシャクした感じが楽しさになっている。
 「蝌蚪の紐」はちょっとヌメっとして気持ちの悪い感じもありますが、それを突きつけられると、驚きもするけど何やらおかしいですね。

 津高
  春服や墓にかがんで丈短か   昌子
 立ち寄った寺などで見つけた、名のある方の墓を拝もうとしての一瞬の出来事。
 膝があらわに見えたりして、シマッタ、と思う。「春服」らしい句です。






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草深昌子を中心とする句会・選後に 令和5年6月

2023年07月12日 | 俳句
草深昌子選

 


    五月雨の河を見てゐる背広かな   山森小径
 なぜ背広なのだろうと思う、すでに一句に引き込まれているのである。
 やがて、降り続いてやまない五月雨を前に、もの思うこころが立ち現われてくるように感じられる。
 河の表記は、運河かもしれない。
 背広に作者の発見があり、その発見が五月雨を引き寄せるという俳句の骨法ここにありという句であるが、発見とは作者自身の感慨でもある。

  奥山の木挽きの音や梅雨の晴   泉 いづ
 遠く離れた山から樵が木を挽き出している音が切れ切れに聞こえてくるという。
何とも清々しい梅雨晴である。音の入った句は、平面的にあらずして立体的になるものである、
ここにも文字通り奥行がある。
 東京の公園で、「木挽きの会」があって、よき音を耳にする機会も多々あったが、
 この句からホンモノの木挽きを聞かせていただいた。

  一列に黙つて歩く夏野かな   日下しょう子
 ある程度の人数が一列になって夏草の生い茂った野原を黙々と行くのである。
「夏野」そのものを詠いあげてあまりある句である。
 ここには草いきれも立ち込めていることだろう。
 私の愛誦句に子規の〈絶えず人いこふ夏野の石一つ〉がある。
 この句の一列も石に出会ったらさっと解けるに違いない。

  神棚に柏手打てばごきかぶり   佐藤健成
 御器かぶり(ごきかぶり)はゴキブリのこと。
 虫という虫は全て苦手だが、わけてもゴキブリは大敵である。
 だが、掲句のごきぶりはなんだか剽軽(ひょうきん)ではないか、神々しさのなれの果てのようで面白い。思わず、親しみの目を向けてしまった。
 作者がまさに出会った、驚きのごきぶりであろう。
 「本当のことを詠う」、その力強さに勝る俳句はないのだと実感させられたものである。

  十薬や唸り強まる室外機   奥山きよ子
 室外機というと室内機ありで、さしずめエアコンであろうか。
 この句ではエアコンが最強にしてなかなか冷えない感じ。
 室外機の周辺にはガラクタを積み上げているが、せめて空気の噴き出し口は開けているつもり。
 だが掲句は何だか詰まっていそう。そう、実は十薬がはびこっているというのである。
 誇張ではあるが十薬の繁殖に、時また処を得ているといえるだろう。


 
        


  海霧はれて国後羅臼向き合へる   森田ちとせ
 海霧(じり)は海に発生する霧で、北海道では夏に立ちやすい。
 掲句のような風景に立ち会ったことはないが、まさにそうであろうとそこに居合わせたかのように実感させられるものがある。
 根室海峡を挟んだ、国後(くなしり)、また羅臼(らうす)という固有名詞がここではどっしりと効いていて、海霧の晴れゆくさまがいかにもダイナミックである。

  梅の雨山逞しくなりにけり   末澤みわ
 「梅の雨」は梅雨、ばいう、さみだれのこと。
 きっぱりと一行で言い切った一句は、梅雨の中に立ち上がる山を見せて美しい。
 「逞しくなり」は作者の主観であるが、この句の表現では客観になりおおせて、
 堂々たる梅雨さなかの山を見せているのである。

  参道の段に匂ふや百合の花   川井さとみ
百合の花の芳香がいやおうなく漂って来るような、歳月に磨かれた石段である。
 参詣のこころが清められもするであろう。
 「参道の段に匂ふや」と一拍おいてあるところが巧い。
 一歩一歩の足元が静かにもうかがわれるのである。

  梅雨晴間孔雀は羽を震はせて   石堂光子
 孔雀が羽を開いたり閉じたりはだれでも詠うが、「震はせて」は言えない。
 小刻みに揺すっているような羽の感じを詠いあげて、生きとし生けるものの梅雨の晴れ間のよろこびを表出している。

  油虫這ひゆく先や薄荷壺   松原白士
 薄荷壺とは耳慣れない言葉だが、薄荷を原料とした薄荷油を壺詰にでもしているのだろうか。
 油虫の方向を見ていると、おお、向こうには薄荷壺があるではないか。
 私のようにキャーではなく、冷静に見届けられている。
 はてさて油虫の行く末は、薄荷を避けて通りそうでもあり、その芳香にコロリとまいりそうでもある。
 中七を「や」で切ったところ巧み。

  小刻みに揺れて網戸に子蟷螂   石野すみれ
 すみれさんの観察眼にはいつも感嘆させられるが、この句の子蟷螂(こかまきり)も目の当たりにするようである。
 蟷螂は越冬したあと夏に孵化し、卵嚢から無数の蟷螂の子が出て来る。
 いつか紫陽花の花びらの上に見つけたことがあるが、その姿は小さくも蟷螂そのものであった。
 掲句は網戸に発見したところがいい、いじらしさが滲み出ている。

  朝日射す姿見に蜘蛛映りけり   中澤翔風
 姿見というと、さしずめ美女あたりが映ってくれないものかと思われるが、期待に外れて、この句は蜘蛛を映しているというのである。
 そこには朝日がきらきらと煌めいている。一句における救いは、この朝日の美しさであろう。
作者の驚きがそのまま句の勢いとなっている。

 


  粗塩の吸ひ取る鮎のぬめりかな   小宮からす
  山陰の宿や畳に籐の椅子   からす
  何かゐる蓮の浮葉の重なりに   佐藤昌緒
  禅寺の石灯籠や五月闇   松尾まつを
  灯を放つままのだいどこ油虫   大村清和
  払へども居すわる蠅や膝の上   平野 翠
  早苗田の水嵩高くなりにけり   伊藤 波
  丸々と蛭の吸ひ付く田植かな   東小薗まさ一
  代田いま電車の明かり走りゆく   松井あき子
  空海の山滴りを手に受けぬ   柴田博祥
  黴の香の名人芸のテープかな   関野瑛子
  ため息を膝に落として六月来   川北廣子
  梅雨空や鴉の声の猛々し   湯川桂香  
  議事堂の八十五年大夕焼   中原初雪




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