goo blog サービス終了のお知らせ 

青草俳句会~命のよろこび

結社「青草」 主宰 草深昌子

俳壇 2023年2月

2023年01月27日 | 俳句
『俳壇』・連載「結社の声―わが主張」―「青草」 ●地域発 神奈川県
青草」 主宰草深昌子

 



                      
結社の成り立ち
 「青草の会」は今から十四前、平成二十一年に草深昌子によって、厚木市で発足しました。結社誌「青草」の創刊は平成二十九年二月です。
 「青草の会」は、厚木市の生涯学習の一環として催された俳句講師を草深が引き受けたことに端を発しています。講座終了後も受講生が自主的に俳句会を発足し、次々と句会が増えましたので、これらを一つにまとめました。
 平成二十八年、松尾まつをが青草新年合同句会を実施、合同句会記念句集『青草』を発刊しました。年が明けて、草深昌子句集『金剛』の出版記念祝賀会が霞が関ビルで開催されました。岸本尚毅氏、岩淵喜代子氏はじめ錚々たる俳人のご臨席を賜り、有意義にも楽しかった会員の感激が結社誌「青草」創刊の熱意となって実を結んだのでした。切磋琢磨の情熱を絶やさなかった会員のおかげで、果実が熟すように自然に成り立ちましたのが「青草」です。
 じっくりと時間をかけて熟成された、濃密なる俳句の仲間であることが私達の誇りです。
 「青草」は、まさに草莽の中から土筆のように萌え出てきたもので、地域に根差した力強い「座の文学」誌です。

わが主張
 青草はあをあをとしています。
 青草はいきいきとしています。
 春は芳しく、夏は茂って、秋は紅葉し、冬は枯れ、
 やがてまた萌えはじめます。
 四季折々の変化こそがもののあわれです。
 二度と還らない私たちの命は、変わることなく巡ってくる永遠の命の中にあるのです。
 さあ、今を生きる「命のよろこび」を詠いましょう

「青草創刊のことば」ですが、この言葉は今もって変わることなく、私たち会員の目標です。     いきいきと笑いの絶えない句会が継続している証が、ここにあるのです。
 春夏秋冬の移り変わりは時間です、四季の風物は空間です。時間と空間、この交点こそが、現在ただ今の「季題」にほかなりません。
 花の命も、鳥の命も、人間の命も、自然の中にあって、「命ひとつ」に生かされています。ひとつの命が花になり鳥になり人間になって生きているという、大峯あきら先生に教えていただいた鮮やかな真理の幸せを嚙みしめたいものです。自然の中にどっぷりと浸って季節の移り変わりを感じる、何の計らいもなく、正直に詠う、それが「青草」の俳句です。それが「命のよろこび」です。

 この稿を書くに当たって心を新たにする思いがあります。
ある年、奥様を亡くされたばかりの九十歳の方が入会され、初めての句会で主宰特選を得ました。
  あの人は焼藷好きな人だつた   吉田良銈
 彼が入会の問い合わせを私にされた時、「どうぞどうぞ」と猫撫で声で勧誘されるかと思いきや、「歳時記はお持ちですか」ときっぱり問われた、高齢者を敬して遠ざけるのでなく、毅然たる態度に、「御主(おぬし)できるな」と思ったという。以来、この事を繰り返し聞かせてくださった。その度に、主宰も会員もどれだけ励まされ、背筋を正される思いをしたことでしょう。最期まで真摯に学ばれた姿勢を通して、教えることは学びの途中であることに心から気付かせて下さった、そのご恩を忘れることはありません。

主な活動
 「青草」の公式ホームページ「青草俳句会~命のよろこび」を開設しています。また主宰のブログ「草深昌子のページ」は、平成十八年に立ち上げて以来十八年間、日々更新中です。
 「青草」の年間行事は二月の新春句会に始まります。
 春と秋には、青草中央吟行会があります。吟行地は芭蕉記念館、小田原城址、相模川界隈など、遠近さまざまです。
 「青草」創刊の前年、厚木市ことぶき大学開催にあたって草深昌子が「俳句の話」を講演しました。この経験があって、「青草」主催で講演会を持ちたいと願いました。
 平成二十九年「俳句のお話とハープを聴く会」では、「松尾芭蕉の俳句と文学」と題して松尾まつをが講演、令和元年には「俳句と仏教」講演などが人気を呼びました。
 令和四年、「青草創刊五周年記念俳句会」を開催、これを機に編集長は松尾まつをから佐藤健成にバトンタッチしました。
 対面句会中止に対応した通信句会、ネット句会は月例句会として定着、また毎日俳句大会ほか、各方面で入賞者も多く、新進気鋭の会員の努力は着実に実っています。   
 この上は句集刊行など、更なる前進を目指して、会員各々が楽しみを増やしてほしいとものと願っています。

同人作品
 石蕗の花さかまく波をよそに咲く    草深昌子
 剥き出しの根のあらあらと冬紅葉    石堂光子
 年用意畑から松を切り出しぬ      石原虹子
 手を合はせ開きしほどの日記買ふ    泉 いづ
 国道の時雨るる先は街の景       市川わこ
 短日の開けてまた閉づ雨戸かな     伊藤欣次
 胸に抱く児の手が先に破魔矢受く    伊藤 波
 大鍋におでん仕込んで煤払ひ     漆谷たから
 三更や嚏大きく二度三度        大村清和
 ずぶ濡れに走る小犬や露葎      岡本きさえ
 干し物を取り込む西に山眠る     奥山きよ子
 黒豆や一つ抓めば山崩れ       加藤かづ乃
 江戸城の石の鑿跡冬に入る       加藤洋洋
 アルミ鍋ふくらんでくるおでんかな  川井さとみ
 一升瓶抱へ来る子の御慶かな      川北廣子
 凍てし朝竿拭く布はじやりじやりと  神﨑ひで子
 豆腐屋の甘き空気や冬の朝       木下野風
 大家族ゐるかのやうに葱刻む    日下しょう子
 夜もすがら降つて裏山雪合戦      黒田珠水
 良い歳をとつたと言はれ初鏡     河野きなこ
 そそそそと前座の足袋や品のよき   小宮からす
 父が読み弟が泣く歌留多取       古舘千世
 手袋を投げ捨てここが勝負所      佐藤健成
 日輪や元朝の身をうち曝し       佐藤昌緒
 思ふことつぎつぎとあり初氷      柴田博祥
 奥までも届く日差しの淑気かな     田中朝子
 セーターの胸の膨らみマリアかな    冨沢詠司
 多喜二忌や不在札立つ駐在所      中澤翔風
 小なりと言へども初荷電子辞書     中原初雪      
 入口に泥付き葱は立ててあり      芳賀秀弥
 初春や能装束は錦なる         間 草蛙
 母の手の布団作りや真綿張る    長谷川美知江
 群がつて餌のおこぼれ寒すずめ   東小薗まさ一
 大年の大三角を仰ぎけり        平野 翠
 寒の水汲むやすぐさま牛の声      二村結季
 渓谷の狭間を星の流れけり       町田亮々
 ふつくらと包み千両もたさるる    松井あき子
 空港の展望デッキ小春かな      松尾まつを
 アイゼンの一歩一歩に風真向き    森田ちとせ
 建国日ゴミ収集車来たりけり      山森小径
 冬ざれや亀虫入る戸の隙間       湯川桂香
 大晦日この日こそはと一番湯      渡邉清枝





コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

草深昌子を中心とする句会(令和4年12月)

2023年01月24日 | 俳句
 草深昌子選

   

       妹と加賀の地酒を年忘れ    山森小径
 一年の労苦を忘れんがための忘年会。
 サラリーマンの賑やかな盛り上がりとは程遠い、姉と妹の二人の年忘である。
 どんな忘年会か、何も言っていないが、「加賀の地酒」、ただそれだけをもって物語るよろしさが切なきまでに満ちている。
    二人という、しかも女だけの淋しさながら、加賀という風光、加賀ならではの地酒の味わい、そんな奥行のある下地がほのぼのと一句を染め上げているのである。

       アリーナの一万人のマスクかな  小宮からす
 アリーナというと私のなかではそれなりの興行ホールあるいは競技場のようなものが浮かび上がるが、作者は果たしてどこのどんなアリーナで見届けられたものであろうか。
 そんな事実はさておき圧倒されるのは「一万人のマスク」である。
 このコロナ禍にあって実現した一万人の観客のマスクの迫力はどうだろう。
 大いなるものでありながら、大音響がシーンという静けさの音に聞こえてきそうな「マスク」が切ない。
 かつての乾燥や寒気を防ぐための冬の季題「マスク」はもうここには掻き消えてしまっている。

       母と子と冬あたたかに丸眼鏡   石本りょうこ
 母と子が同じ丸眼鏡をかけていると言うだけの一句である。
 それでいて何と「冬あたたか」を心底感じさせられるものになっていることだろうか。
 こういう俳句を読むと「俳句は季題を詠うもの」だということがつくづく実感される。
 ところで丸眼鏡とはどんなものだろうか。懐かしき気分とともに、ただ「丸」という一字を冠した眼鏡、何となく縁が黒っぽく、いかにも仲のよい母子に似合いそうなものを勝手に想像するものである。
 しかも二人はどこに、どういう風にとも説明はしていないが、揃って笑顔をこちらに向けてくれていそうである。
 俳句という詩は何の理屈もないところに感銘をいただくものである。

       親玉の都々逸聴くや年忘れ  長谷川美知江
 親玉とは親分と同義であろう、だが〈親分の都々逸〉と言うよりは〈親玉の都々逸〉の方がその声調は数段上のように思われる、それは何故だろう。親玉とは作者にとってのボスであろうが、「玉」の一語に一目置いている心が窺われるからかもしれない。
 何気ない文字そのものの語感や文字面(もじづら)というものが一句全体に
そこはか響くものがあるのは短い詩型の特徴である。
 いずれにしても、思いがけない都々逸に驚いたり楽しんだりの忘年会が面白い。

   

    短日や同じ字をまた辞書に引き  田中朝子
 「短日」は「日短(ひみじか)」ともいう、冬の日が短いことである。
 日短の句といえば、高濱虚子の二句が思われる。 
 〈来るとはや帰り支度や日短  虚子〉
 日が暗くならないうち早くおいとましなければならないという客の心理や様子がバッチリよくわかる。
 〈物指で脊かくことも日短  虚子〉
 日が短いから、物指で背中をかいたという意味ではない。
 この二つの関係に何の因果もないのだが、そうした無意味な仕草からふと短日を意識させられてしまったのだろうか、人間だなあって、一読笑ってしまった。
 こういう句にゾッコン惚れこんでしまうと、短日という季題に手も足も出なくなってしまう。
 だが、掲句は虚子同様、本当に自身が感じ入った日短をそのまま詠ったもので、すぐにも納得させられるものである。
 一見たどたどしくて何でもなさそうに見える句、そういう句にこそ真実があることを見落としてはならない。

     襟巻を編まんロシアの恋人に  松尾まつを
 作者は妙齢のお嬢さん、と言いたいところだが、高齢のタフガイである。
 過去にロシアに居て彼女から贈られた体験を思い出したか、目下の戦渦に心痛めてのものか、読者にはわからないが作者の中にはそれなりのものがあって想像を働かせたのであろう。
 この句は「襟巻」たる兼題で仕上がった一句。ときに、俳句は兼題で遊ぶという楽しみがあってもいい。
 ついでながら、襟巻と言えばまた高浜虚子である。
 〈襟巻の狐の顔は別に在り〉、いやはや面白い。

     ちと欠けし月を眺むる年の暮  菊地後輪
 「月を眺むる年の暮」とは、いかにも平穏無事の余裕あるよき年の暮である。
 だがそう単純に思えないのは、上五の「ちと欠けし」である。
 作者はここに作者自身を客観的に見てとっているのではなかろうか。
 欠けた月ではありながら「ちと」という措辞には軽みというか達観したものが漂っている。
 こちらは虚子にあらずして、「一茶」風のように思われる。
 「年の暮」と同じ一年の終りながら、やや主観のこもった「行く年」という季題がある。
 〈行く年や庇の上におく薪(たきぎ)  一茶〉、しみじみとする一茶の年末である。
一茶同様、掲句の作者もよき年を迎えらえたことであろう。

       大阪のネギラーメンの九条葱  葉山蛍
 初めてカルチャー俳句教室に入ってこられて、兼題「葱」で仕上がった一句。
 作者は厚木の方だから、出張か旅行であろうか、大阪でネギラーメンを注文したら九条葱が山盛りのっかってきたというのである。
 関西に代表される葉葱の九条葱はうわさに聞いておられたからこその出会いではあろうが、
その驚きがそのまま一続きの叙述になっている。脚色のなさが、おいしかったを思わせるに充分である。
 私など葱が大好きで毎日葱をいただかない日はないのであるが、365日毎日食べているから出来るというものでもない。
 俳句というものは、出会いがしらにあっと驚かないことには出来ないものである。



富士近き町に釜揚うどんかな  奥山きよ子
スケート場灯し港は暮れにけり  きよ子
悴んで菩薩の笑みの前にをり   佐藤昌緒
マフラーのまま単身の部屋灯す  柴田博祥
寒晴や甕に守宮の丸く浮き  二村結季
鯛焼を買うて一駅歩きけり  石堂光子
義経の首洗ひとや冬ざるる  湯川桂香
短日やベンチに杖の忘れもの  中原初雪
短日の夕日隠れの子鹿かな   伊藤 波
今は見ぬ灯台守や冬至の夜   町田亮々
吹雪く海父の匂ひの襟巻す   内海七海
餅搗くや第二日曜十五キロ  漆谷たから
数へ日やこの一冊を読み切らん  佐藤健成
始まりて終はりが見えぬ冬花火  永瀬なつき
菜箸を離さぬ夫や鋤焼す  川北廣子
襟巻やショーウインドウに映る父  松原白士
咲き初めしかに咲ききって冬桜   森田ちとせ

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

青草通信句会 2023年1月

2023年01月18日 | 俳句
謹賀新年
青草通信句会は今年で4年目を迎えた
今この時代に生きることを強いられている私達にこそ
句会の楽しさは何ほどにも代えがたい
通信句会はその一つの手段として大事にしたいものだ

草深昌子選  (順不同)
兼題「初雀」
 



      へうきんな出囃子に乗る嚏かな     小宮からす
  出囃子の面白さにつられて思わず嚏でしょうか、ハクションも出囃子の一つのようになりました。

     たをやかな水の流れや初日の出   古舘千世
 「たをやかな水の流れ」は大らかな掴み方で、初日の出という厳粛なありようによく響きあっています。

     誰か呼ぶ声空にあり初雀   千世
 「誰か呼ぶ声」は初雀どうしの声ではありましょうが、そうでなくても何かしらの声が響き合っているという、ひろやかな初空の感覚が光っています。

      ぶらんこの下に群るるよ初雀   田中朝子
幼な子の大好きなぶらんこの下の初雀。具体的に在り処を示して自ら愛らしさに溢れています。

       初雀風受けぷつとふくらみぬ   松井あき子
 初雀は寒さの折から全身の羽毛をふくらませています。風が来ると、「ぷつと」、その感覚の表現が美事です。

       大判の座布団ここに日向ぼこ   あき子
 「大判の」がふっくらと分厚きさまを見せて、それはそのまま冬日のあたたかさにかよっています。どっしりと落着きのある日向ぼこです。

       みづうみは鉛光や笹子鳴く   二村結季
 湖は青みを帯びて鉛色なのでしょう。鶯の確かな地鳴きがひそかにも明らかに聞こえてくるようです。

       初雀枝へ庇へ庭石へ   佐藤昌緒
 流線のような動きのある初雀にすっかり魅了されます。雀の動きに目が追いつかないような新年のめでたさ、ダイナミックにも即物具象が生きています。

       今ここに見知らぬ吾や初鏡   昌緒
 鏡は日々、新しい自分を映しだします、ましてや新年初めての鏡です、あっと驚く我が顔にしばし立ちすくみますが、これからを生きてゆく心構えが整ってゆくようです。

       参拝の空青々と鵟かな   奥山きよ子
 鵟(のすり)は鷹の一種です。何と目出度い初詣でしょうか。私は雀に出会っただけで喜びましたのに、鵟とは羨ましいです。「参拝の」上五が巧い。

       御籤引く列の長さよ初雀   きよ子
 これも初詣の景色でしょう。神妙な人々の列にあって、初雀もまたあちこちしていそうです。

       元朝や気嵐の発つ相模川   長谷川美知江
 気嵐(きあらし)が相模川に立ったのでしょうか、しかも元朝に。なかなかに見届けられない自然現象のように思いますが、また教えてください。

       初手水静かに立ちて夫婦の木   市川わこ
 夫婦の木がオリーブの木とは知りませんでした。オリーブの木と言えばいいようなものですが、人間として夫婦のありようも静かにもそこにダブらせたかったのでしょう。

       初雀庭の小石に遊びをり   わこ
 庭にはさまざまのものがありますが、他でもない小さな石を楽しんでいる初雀を見つけました。ささやかなところに新年の瑞々しさが表れています。

       校庭の塵ひとつなき淑気かな   冨沢詠司
 昔はお正月の静謐、つまり目出度さの淑気というものがどこにもたちこめていました。ことにしんとした校庭の美しさはなつかしく感じられます。

       若水やごくんごくんと富士の水   木下野風
 ごくんごくんとはいかにもありきたりのオノマトペのようですが、富士の水ならばこそと思わせて、元気の源のような若水が表出されました。

       初雀足はぴよんぴよん口ちゆんちゆん   中原初雪
 こちらもごく平凡な擬音ですが、初雀ですから、奇を衒ったところがないのが好ましいです。足と口を分けたところがなかなかです。

       青き川青き空なり初雀   平野
厚木市の山河を思います。自然をざっくりと掴んだ初雀、これもまためでたいものです。
 
      迷ひなくこの道行かん年新た   翠
新年に当たって、俳句の道を突き進んでいくのだという決意に受け取って大いに嬉しくなりました、見習いたいものです。

      先生のビールのすすむ年忘れ   中澤翔風
 困った先生ですが、温かく見守っている目線ここにあり、という感じです。まるで青草の会のようです。何気に会の楽しさを伝えてもいます。

 


  令和5年1月青草通信句会講評     草深昌子

 明けましておめでとうございます。
今年も季節の移り変りに感応して俳句の日々を楽しみましょう。
 俳句の愉しみは、「俳句を詠む」、そして何より「俳句を読む」ことにあります。「詠む」という実作、「読む」という鑑賞、俳句にとって欠かす事の出来ない車の両輪のようなものです。

  鵯のそれきり啼かず雪の暮  臼田亜浪
 臼田亜浪は「石楠(しゃくなげ)」主宰。主に、大正と昭和期に活躍しました。この句は、青草中央句会で吟行しました龍福寺に句碑として立っています。旧臘、発刊されました西池冬扇『臼田亜浪の百句』に掲載されていますので、引用させていただきます。
 ――最もよく知られた句の一つ。神奈川県厚木県下厚木在中津での新年句会のおりの作。自解に「と、ピーピーと四辺の寂莫を破って鋭い鳥叫び、雪がはらはらと散った。はて、何鳥だろう、鵯らしかったが・・・としばらく耳を澄ましましたが、唯それきりである。夕暮のとばりいよいよ濃くなりまさって、しづけさの底深く我を忘れた。(中略)「それきり啼かない、鵯、雪の暮」と心に沈めて繰り返す瞬間に、この句が成った」のちに亜浪は、二声三声と鳴いたらこの句は出来なかったかもしれぬ、と言ったという。現在句碑が龍福寺門前にあるが、もとは河畔にあったものがキティ颱風で谷底に落ちたのを移築したという。――

 大峯あきら先生の仰せの通り、我知らず「言葉として授かった」のでしょう。私たちにもきっとそんなチャンスは巡ってくると信じています。さて、一月の兼題は「初雀」でした。
  初雀ひとつあそべる青木かな  長谷川春草
    亜浪の一度きり同様、この句もまた二羽三羽にあらずして一羽が一句のかなめとなっています。「ひとつ」に引き寄せられたところに作者の静けさや喜び、そしてやさしさが滲み出ているのです。












コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

青草本部句会 令和5年1月6日(金)

2023年01月17日 | 俳句
昨年の年末から新年にかけて、日本海側は豪雪に見舞われ、太平洋側は青天が続いた。
 
草深昌子選  (順不同)
兼題「松の内」 席題「来」

    
   
 ごろ寝して浅きゆめみし床暖房   間 草蛙
 初空や一つ雲浮く奥の峰   草蛙
 パンプスのつやつやとして初句会   小宮からす
 遠目にも鳥の白さや冬の川   からす
 高々とパティシエ帽や松の内   からす
 緞帳の奥の賑はひ初芝居   からす
 とりあへず米といでゐる三日かな   山森小径
 我影を初日が長く映しけり   黒田珠水
 小学校裏の畑の大根かな   珠水 
 飯山の畑より来たる初日かな   珠水           
 病院のスタバ賑はふ松の内   奥山きよ子
 初鷺や太き橋脚回り来て  きよ子
 しんしんと裏通り行く二日かな   きよ子
 初春や張子の兎まゆのあり   松井あき子
          
 降りつもる雪に顔出す雪達磨   佐藤昌緒
 初荷船島を巡りて来たりけり   昌緒
 広縁に積む座布団や松の内   二村結季                                                                                                                            
 榾燻し虫を落とせる藁屋かな   結季
 初空や透き通りたる風のあり   芳賀秀弥         
 初句会橙色の短冊来   秀弥
 女体群すりぬけて来し夢祝ひ   伊藤欣次

  

 富士見てはあれよあれよと松の内   草深昌子
 鶺鴒の堰にとどまる去年今年
 時雨来ておもひおもひに薮の振れ
 裏白や祖母が笑へば母が泣き
 土くれに春は来たるか草が生え
 大鳥の影をかぶるや松の内



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする