蜩や飯盒飯の焦げ臭き 石野すみれ
カナカナカナという哀愁に満ちた蜩の声は風景に染み入るように響いてくる。そして、広やかにも清々しい河原での飯盒炊爨は誰の記憶にも楽しいものである。もうそれだけで、蜩の音をたっぷり聞かせてもらえるが、何より炊きあがった飯の焦げ臭いところに心奪われた作者の感性がすばらしい。「焦げ臭き」でもって、ひぐらしの声がひとしお懐かしい。
秋風や骸と見えて蝉動く 永瀬なつき
蝉が短い命を終えて、むなしく地べたに落ちている姿を見かけることがある。仰向けのそれを思わず拾いあげると激しくもがかれて、びっくりという体験は誰にもあるだろう。その落蝉を「骸」という言葉で言い切った作者の詩心が、十二分に秋風の中に滲み出ている。「俳句は季題で決まり」だと常々思うところであるが、この句はまさに秋風が決まっている。俳句初心のなつきさんにその秘訣をうかがうと、「見た通りです」と答えられた。
秋風や父の命日近くなり 関野瑛子
命日、つまり忌日そのものを詠った句は多々あるが、この句の命日に寄せる心映えは秋風に乗っていかにも爽やかである。秋風はイコール哀れというばかりではない。空気の澄みが感じれる中にあって、父君は作者の胸にいっそう明らかによみがえってきたのである。素敵な父上であられたのだろう。この感懐は何も作者だけのものでなく、読者の誰彼にとっても肌身に感じられるように詠いあげられている。
軒下や小蟹がひとり雨宿り 泉いづ
「軒下や」と打ち出して、まず読者に軒下というもののありようを想像させるところが巧い。何だろうと思わせておいて、ただ小蟹がいるというだけなのである。だが「雨宿り」と言われてみると、 そこには作者の存在がまるで小蟹の気分になり替わったように鮮やかに見えてくるものである。小さなる生きものに心を寄せて、我知らず擬人法をとられたのであろう。
妻の踏むミシンの音の秋暑かな 冨沢詠司
昔の女性なら誰でもミシンを踏んだのではかなろうか。私もたまにシンガーミシンを廊下に出して雑巾程度は縫ったことがある。いや、こんなことを思い出すのは作者に迷惑かもしれない。この句は如何にも現実的である。ミシンの音がうるさいとまでは言わないが、どうも暑苦しいのである。ただ夏の暑さでなく、秋の暑さであるところがゆかしい。懐かしさを誘われるのも秋暑ならばこそであろう。夫が妻を詠み、妻が夫を詠むという俳句は多々あるが、単なる「ご馳走さま」に終わってはもったいない、俳句に載せた甲斐がない。この句の距離感こそが俳句である。妻に寄せる憐憫の情が具体的なミシンの音にのってひそかにひびいてくるものである。
黒きもの庭走りゆく秋の雷 伊藤波
先だっての厚木市界隈に降りかかった稲妻の雷光はすさまじかった。身の竦(すく)む思いでいると、ふと庭を過ぎってゆく黒いものがあるではないか。何ものであったろうか。たとえば、黒猫であったとしても、黒猫と言ってしまえばおしまい、ここは「黒きもの」と不明にしたことによって閃光を際立てているのである。雷は夏の季語であるが、稲妻は秋の季語である。稲妻と言わずして、「秋の雷」とおさめられるとやはり秋の一字がゆるぎなく淋しさをもって感じられるものである。
蔓強く軒まで覆ふ葉月かな 市川わこ
「蔓強く軒まで覆ふ」という描写が先ず見事である。そして一転「葉月かな」という下五の感慨がいかにも納得させられるものになっている。葉月は陰暦八月のことで、陽暦では九月ごろである。仲秋にあたるものではあるが漠然とした時候だけに観念的になりやすいものである。巡り来る季節はこのように具体的に感受すればいいのだと教えられる。
立秋のこれほどくねる胡瓜かな 菊竹典祥
「これほどくねる」とはよくぞ言い得たとなと思わせる。もしかしたら他の方々から、私でもそう思いますよと言われるかもしれない。だが「立秋」という季題があってこその「これほどくねる」が決まっているのである。極暑の気分を一転させるような立秋、その季節の節目を曲がりくねった胡瓜に捉えたところ、自ら菜園されている典祥ならではのものとなっている。
秋立つや庭に下り立つ痩せ雀 加藤洋洋
この立秋もまたすばらしい。中七下五とするすると読み下ろして、なんと気持ちいいものであろうか。 これこそが立秋の心の涼しさである。「庭に下り立つ」が巧い、また「痩せ雀」が巧い。つまりことごとくものをよく観ておられるということである。即物具象にまさる俳句はないことをあらためて感じ入るものである。
稲妻の窓やしきりに米を研ぐ 加藤かづ乃
稲妻の閃光の中にあって、かづ乃さんは日常のこころがけそのものにお米を研いでおられる。いや、平然なんてものではない、光の凄みに洗米にも思わず力が入るのではなかろうか。ピカッピカッ、その度に米粒が浮きたつようである。不意に割り込んでくる自然の現象に対してもこのように詠いあげることができるのは、俳句が日常に取り込まれているという証である。
金風の封じ手夜を跨ぎけり 菊地後輪
異色の句である。かの藤井聡太八段はなんて強い人であろうか、前代未聞のすばらしさである。将棋は何も知らないが、颯爽たる登場のおかげで興味津々である。さてこの句は私のように藤井サンに浮かれているものではない。対局の際の封じ手が一晩そのまま封じてありましたというところを「金風」でもって堂々と一句に仕立てられたのである。真似の出来ない金風、つまり秋風である。作者は手堅い写生派であるが、たまに頭脳派ぶりを発揮されるというあたりも将棋的でおもしろい。
膝小僧抱へて庭の花火かな 鈴木一父
先づ谷中生姜肴の宵の酒 中澤翔風
秋風にしばし木鋏動かしぬ 奥山きよ子
落雷や五十五分のサスペンス 山崎とくしん
靡くものなべて靡きて秋暑し 石堂光子
写真集ばかりの書棚秋灯し 中原初雪
エアコンを少し離れて虫のこゑ 佐藤健成
魂棚や言葉少なに兄妹 森川三花
新涼や高速船の波しぶき 松井あき子
すつぱつと西瓜二つに失恋す 川井さとみ
箒目の石の周りや秋涼し 二村結季
銀漢や溶岩の台地に波模様 佐藤昌緒
新涼や花瓶に水を溢れさす 米林ひろ
大虹の空は紫紺に暮れにけり 平野 翠
盆供養仏の好きな太巻寿司 河野きなこ
盆過ぎの風吹き抜ける厨かな 古舘千世










