草深昌子選
冬囲ふ手足のしばしおぼつかな 伊藤欣次
冬囲というのは即ち「雪囲」で、風雪の強い地ならではの家を守るべき設えであって、旅先ではよく見かけたものの、実地に体験者として詠いあげるというのはお手上げである。
而して、欣次さんの一句にはなるほどこういうものかといたく納得させられた。
それというのも「冬囲ふ」という、じわりとした入り方がよかったのだろう。
やがて本腰を入れて、頼もしい柵囲いを仕上げられたことであろう。
同じ作者に、
針桐の目立つや村の冬構 欣次
「冬構」、これまた雪害から家を守るための風除けや雪囲いの意であるが、この一句はそういうもろもろを総括したところに、ある種の冬の風物をあますところなく言い切っている。
「針桐」という、針を含んだ語意、さらにハリギリという語感があって、この木のありようをよく知らない私にして、一読、これは凄い、こういう村の精悍たるありようがあるものだろうかと感嘆したものである。
辞書にあたると「針桐」はウコギ科の落葉高木、枝は太く鋭い棘が多い、葉柄は非常に長いとか、根皮は去痰薬になるとか。
そんな知識はともかく、要は「針桐」でもっている一句である。
今更に、俳句は最小の窓からかくも最大の光景が荘厳できるものだということを知らされるものである。
縄跳や世田谷線の通る町 中原初雪
「縄跳」のその場に読者をすっと運んでくれる句である。
元気よく仲良く冬の寒さもものかはと縄跳を楽しんでいる。そこは世田谷線が通る町だというのである。
世田谷線という固有名詞からは先ず三軒茶屋という名称が浮かぶ、そして歴史がありながらも、なかなかに瀟洒なものではなかろうかと思う、いやそれは世田谷線をよく知らない私の印象で、全く違うという鑑賞もあろう、そこを読者任せにしたのが一句のミソである。
要は庶民の暮らしの身近に電車が走っている、そのような場所の縄跳のありようがいきいきと弾んであることだけは確かではないだろうか。
マラソンの足を止めたる冬の蝶 平野翠
冬の蝶は弱弱しいと言われるが、果たしてそうであろうか。
先日鎌倉のお寺でみた黄色い冬の蝶はひらひらひらひらと菊から菊へ至って元気であった。だが一匹であった。
この句も一匹ではなかろうか。
堤を走っていたマラソンランナーは思わず蝶々に目を落とし、足をも止めたというのである。
冬と言う厳しい季節の感覚が、自ら蝶々の命へのやさしい思いやりにつながっていることに気付かされるものである。
初冬や展望台にまた登り 鈴木一父
何故に「展望台にまた登る」のだろうか。展望台だから見晴るかすものがあるに決まっている、
どんな景が見えるのであろうか、そう思わせるところが何ともすばらしいところである。
想像するだけで楽しい、つまりは「初冬」が一等効いているのである。
小春日和を含め、初冬のよき日和であろう、初冬の遠くまで澄み切った大気が透き通って見える句である。
部屋ごとに名のある豚舎枇杷の花 川井さとみ
先月の厚木市せせらぎの小道の吟行の折の一句。
歩きだすとすぐに豚舎があった。その一つ一つの小屋に何らかの名前がついていたことに作者の興はそそられた。
それはそのまま豚への愛情があるからであろう。
その傍らには枇杷の大木があって高空に花をいっぱい咲かせていた。
蛇足だが、偶然私もその景に惹かれて〈枇杷の花咲くや豚舎に近々と 昌子〉と等と作っていた。
豚舎と枇杷の花の取合せは妙に合うものだと納得させられたものである。
ソバージュの詩人に会うて一葉忌 奥山きよ子
樋口一葉の生涯を知る人にとっては、この「ソバージュの詩人」ほどそぐわない措辞はないであろう。
まさに、そこのところが一葉忌の句として抽ん出ているのだと思う。
作者の胸中には明らかに一葉が蘇ったのである。
ソバージュの詩人もまた作者にとって興味津々に惹かれる詩人であるに違いない。
マスクして冬田の道の長きこと 佐藤健成
「マスク」は冬の乾燥した寒気を防ぐ、あるいは感冒を防ぐ目的があって「冬」の季語である。
ところがこの数年、マスクはコロナウイルス感染予防対策の必需品となってしまった。冬に限らず、一年365日使用している。
従って、コロナ禍を詠う「マスク」の句は多い。
この句も、冬田という広々とした空間にあっても、マスクを外さずに歩かれたことによる「長きこと」なる嘆息であるかもしれない。
でも、私は素直に、作者は風邪気味であろうか、
寒々しい冬田を歩いていくのに何とまあエンエンと道は続くよという感慨に耽っているものと読みたい。
つまりマスクに嫌味がなく、冬田の空気感を清潔に感じさせるもとして生きていることに感心するものである。
しやつきりともってのほかや一人膳 関野瑛子
「もってのほか」は食用菊の名前、つまり「菊膾」のことである。
山形県特産の紫がかったピンクの菊を茹でて三杯酢であえたもの、そのシャキッとした歯触りの味わいは格別。
「もってのほか」は、思っていたよりずっとおいしいと思わせるような名称であるが、
とんでもない、きわめて不届きというような本来の言葉の意味合いを一瞬にもうっすらとひきゆくところにおかしみがあって、
「一人膳」の印象を濃くしている。
「しゃきりと」もまた、プロの腕前を持つ料理好きの瑛子さんならでは背筋の美しさを思わせて、まこと垂涎の一句である。
小春日や道の向かうの嚏聞き 加藤かづ乃
小春日は冬に入っても穏やかな日より続く頃のことである。
つまり春に似ながら冬の気候なのであるから、嚏の一つも出るわけである。
ちなみに「嚏」は冬の季題でもあるが、この句では「小春日」が明らかに主題である。
道の向うからハクションが大きく聞こえたのだろう、その一瞬の心の揺らぎ、面白いといっては嚏の主に失礼かもしれないが、同じ人間としてふっと笑えるような感じ。
そういう心理もまた小春日和のものなのである。
枯蟷螂芋蔓に尾の絡みつき かづ乃
枯蟷螂の描写に作者のこころがこもっている。
温く温くと蒲団にもぐり夢うつつ 松尾まつを
蒲団の温もりが、一読じかに伝わってきて、誰しもが共鳴するものではないだろうか。
この温もりのおかげで、うつらうつらもまた楽しく、冬の寒い朝を起き上がれないのである。
「蒲団」ってものはそういうものなのよ、そう言ってしまえばオシマイである。
だが、そういうもんだよってところが、こう詠われてみてはじめて実感できるのではないだろうか。
理屈を並べた句より、素直な句の方がはるかに上等である。
「ぬくぬくと」は「温温と」であり、一句は平仮名でもいいかもしれない。
但し、漢字の方がストレートに温みを感じるので、今は作者の表記を重んじている。
里山は時雨れて雑木黄葉かな 石原虹子
俳句は一息に読み流したいものである。
どこかに引っ掛かって、読みにくいものはそれだけでもう興がそがれる。
この句は、575の切れをメリハリとして感じつつも17音となる一句の響きを清々しく奏でている。。
読後にもう一度読みたくなって、今度は雑木黄葉の美しい味わいをしみじみと反芻するのである。
俳句は意味より韻律であることを感じていただきたい一句である。
それぞれに落つる面ある枯葉かな 小宮からす
「面」という席題に、句会3回目にして詠われた、からすさんの感受性。
枯葉のみならず人間もまた、お一人お一人多彩なる面をお持ちであることを再確認させていただいた。
俳句は心して、いよいよ真剣に楽しみたいと願ったものである。
缶コーヒー飲み干す肩に熊手かな 日下しょう子
「缶」という席題の一句。しょう子さんはいつも格別の物を見る目があって、類想を作らない。
缶から「熊手」が出てきたことも出色。
大いなる熊手をゲットして、心意気も上々の男性であろうか。
「熊手」の本情がしっかり詠いあげられている。
裸木に一つ蛹のあらはなり 松井あき子
鳴き交はす鴉隣家の花梨の実 二村結季
落葉踏み流るる落葉見てゐたり 古舘千世
木枯の校門に立つ教師かな 中澤翔風
凩や背ナにリュックの暖かき 湯川桂香
看護師の冷たき指になすらるる 泉 いづ
コスモスの茎の幹めく荒地かな 河野きなこ
自販機の声をあげたる冬の夜 石本りょうこ
ラジコンの音の響ける冬野かな 石野すみれ
けらけらと笑ひ上戸や柿紅葉 末澤みわ
小春日や橋の向かうのレストラン 市川わこ