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青草俳句会~命のよろこび

結社「青草」 主宰 草深昌子

青草吟行句会 令和6年4月24日(水)

2024年04月29日 | 俳句
この日の天気予報は一日中雨、しかも気温が上がらず肌寒い。
誰もが荒れ模様の日を覚悟したが、予想に反して雨は優しく
句会が始まる頃までは降ったり止んだりであった。
雨に洗われた様々な緑に様々な花がそれぞれの場で光を放っていた。
主宰の一言「俳句は季語の現場に立つ」


    

吟行地 神奈川県立相模原公園  
句会場 相模原市立市民文化センター



草深昌子選 (順不同) 

 温室に降り込む雨や武具飾る   奥山きよ子           
 暗がりに卵あたためチャボの春  山森小径
 春昼や馬は静かに毛を剥かれ   日下しょうこ          
 新緑やメタセコイアの大並木   黒田珠水           
 春雨やメタセコイヤは天を突き  木下野風
 園丁のレインコートや菊根分   奥山きよ子

 


 行春のぱんと馬体の張りにけり  草深昌子
 チューリップ向かうの丘は女子美大
 青草の雨のきれいにあがりけり
 相模野もここは台地の種物屋
 山羊鳴けば山羊のこたふる暮春かな







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青草通信句会 2024年4月

2024年04月11日 | 俳句
草深昌子選  (順不同)
兼題「凧」

 


  雨粒の木々に鈴なり庭朧     加藤かづ乃
 雨粒が鈴なり、という捉え方情景が見えます。そこで庭朧も語感がやさしく美しいです。

  連凧のいちじゆうひやくと放たれり    間 草蛙
 中七の表現が、なかなかの量感をもって迫ってきます。「放たれり」も行き届いています。
十の旧仮名は(ジフ)ですが、ここはこれでもいいでしょう。

  蝶飛んで堤は風のなかりけり    草蛙
 引き伸ばした表現ですが、その分、蝶々の飛びようがやさしくもあたたかに見えてきます。いつか句会で申しましたように、土手と堤は同じ場所を指しますが、「ドテ」と「ツツミ」では語感が違います。この句では堤の措辞が一句の品性になっています。
 

  大空を武者も逆さま凧が揺れ    芳賀秀弥
 上十二を言い切って、念押しのように「凧が揺れ」は実態を目の当たりに見せます。凧が揺れて逆さまになりましたという手順では単なる報告になりますから、語順が大事です。

  大凧の風を待つ間やポップコーン    伊藤 波
 ウマイもんですね。ポップコーンという軽さの明るさがよく効いています。映画を見るように大凧を待つ空が見えてきます。中七の切れが素晴らしい。

  大凧や掛け声風に乗り来たる    奥山きよ子
 「大凧や」と上五で切って、一息入れて、風に乗って来る声は喜びが感じられます、情景を広げて見せます。

  凧抱へ土手駆けおりる親子かな    松井あき子
 空を飛ぶ凧ばかりでなく「凧抱へ」という視点にびっくりしました。実景に実感があります。

  親の顔凧いつぱいに描きにける    小宮からす
 これも常識的は奴凧でなく、手描きという、意外性のある凧にびっくりしました。「凧いつばいに」喜びの勢いが伝わってきます。

  凧作る指に竹ひご撓りけり    からす
 手作りの凧を詠われたところびっくりです。籤(ひご)で作るなんて、「指に」には難しい技のリアリティがあります。「凧」は早春の空のイメージそのものですが、「凧作る」も独自の楽しみとしてあっていいでしょう。

  大凧を見上げてゐるやいぬふぐり   平野 翠
 大凧を詠うのに、距離感を持って、足元の犬ふぐりを配合しました。咲いているところで見上げているというのですが、同時に犬ふぐりが見上げているかのように、細かな犬ふぐりが効いています。

  凧揚げや泣く子を背負ひ走りだす    竹内あや
 凧揚げの必死が面白くも切なく伝わってきます。上五もいいですが、下五「走りけり」でなく「走りだす」も臨場感があります。

   大凧や二度目の風を待つ河原 さとみ
 さっきのような凧が上がるに十分の風が欲しいところ、「二度目の風」が巧いです。


 


  いつの間に凧揚がらなくなりしかな     昌子
  大き日のぐるりに雲やいかのぼり
  鼻と呼ぶこの半島や春大根 




令和6年4月・青草通信句会講評    草深昌子

令和6年4月の兼題は「凧」。

  凧きのふの空のありどころ   与謝蕪村
 今、見上げた空に浮かんでいる凧は、昨日の空に浮かんでいたのとおなじところにあります、と言っているだけのようでありますが、凧のありようはもとより、時間や空間のありようまでも誰の眼にもわかるように言いとどめています。凧を通して、空漠たる空の春らしい質感があり、悠久のさまも感じさせられます。
 俳句は、「今」「ここに」「私が見ました」、という一瞬の感動を通して、宇宙のはるけさまでをも表出することができるようです。

  大いなる春日の翼垂れてあり   鈴木花蓑
  川底に蝌蚪の大国ありにけり   村上鬼城
  春潮の彼処に怒り此処に笑む   松本たかし
  花を見し面を闇に打たせけり   前田普羅
  風吹いて蝶々迅く飛びにけり   高野素十
  近づけば大きな木瓜の花となる  星野立子
  くちづけの動かぬ男女おぼろ月  池内友次郎   
  都踊はヨーイヤサほゝゑまし   京極杞陽

  
 「ホトトギス雑詠選集」(春の部)から、季題の核心をつくような発見のある句を上げました。これらの句は驚くと同時に、ふっと笑うところもあります。季語に対する感受性の深さを思います。

 青草俳句会におきましても、選句の大切さを縷々申し上げてきました。これは何故かと言いますと、選句力と作句力はほぼ一致するからです。初心のうちから良い選句はできません。初心の方は、初心の方の俳句を選びます。まだ俳句にはなっていない、散文の切れはしのようなものです。つまり説明や報告になっていて、常識的にわかるという575なのです。さまざまの句会に出て、修練を積むうちに次第に主宰や先輩の選句が理解できるようになります。
 選句力がありますのは、作句力があるという証拠です。多くの句会に出て、よき句に出会うこと、よき句を選び採る力をつけること、これが俳句上達の何よりの秘訣です。



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青草本部句会 令和6年4月5日

2024年04月11日 | 俳句
草深昌子選  (順不同)
兼題「蜂」 席題「券」

 


 握り締む入場券や風光る   小宮からす
 葺きたての銅のてかりや暮遅し   からす
 籤引きの半券を手に花祭   柴田博祥
 濡れそぼつ芝に卵やイースター   奥山きよ子
 行く春や木橋と名づけ石の橋    きよ子
 棟梁と呼ばれ入りたる花蓆   二村結季
 春愁や父と娘の控室   結季
 燕来る遊覧船の券売所   松井あき子
 馬車道に正午の鐘や春の風    あき子
 着流しや杏の花を見に来たる   河野きなこ


 
 

 スヌーピー胸に横向く春のシャツ   草深昌子
 蝶高く蜂低くゆく林かな
 海苔あぶる向かうに見えて母艦など
 発券を春夕焼に待つてをり
 券をもて券に引き換ふ万愚節




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草深昌子を中心とする句会・選後に・令和6年3月          

2024年04月11日 | 俳句
草深昌子選

 

  枯蔓に取り巻かれたる芽吹きかな   石堂光子

 高浜虚子歳時記によると春の木の芽の総称として「木の芽」があり、傍題に「芽立ち」「木の芽時」「木の芽風」「木の芽吹く」がある。
 現代では角川歳時記が「木の芽時」を別仕立てにして、気候の中に分類している。
 初学時代、芽吹きの時節となると、決まって雨が降ることを認識したのも、俳句のおかげである。
 木の芽どきの雨を「芽起こしの雨」「芽起こし」などと詠われたのであった。
 さて、掲句はそんな芽吹き時の、芽吹きのさまをじっくりと見て、見たことを逸らさないでそのまま詠いあげられたものである。
 何の木、何の草の芽吹きか、それはさておいて、総じて芽吹きというものはこのような状況の中に芽吹くものである。
 よろよろと枯れ果てながら蔓は蔓としての形態を失わず、なお新しい生命力はここから燦然と噴き出してくる。

  一列に並んで進む春の雲   佐藤健成
 まっすぐに詠いあげた句、すっかり童心に返った春の雲である。
 「一列に」は誰にもでも詠えそうだが、その感じこそが、子供ごころに見てとった雲のすがたである。
 そして何よりこれに続いて、「並んで進む」とくる。「並んでゐたり」や「並んで浮くや」ではない。
 「並んで」なお「進む」という、この「進む」に春の雲の本当が表出されているのではないだろうか。
 長閑さの動きが、愛らしくも前向きなのである。
 作者に伺えば、入院中で病窓から観察したものだという。まさに非日常がもたらした純真である。
 病床にあっては、頭で考えるという日常的所作は消えているだろう。
 明日に向かって、心は春の雲のそれになりきっているようである。

  文机の眼鏡に薄く春の塵   冨沢詠司
 関東に移り住んで一番先に、大阪との違いを感じたのは風がよく吹くこと、霜柱が立つことであったが、これが関東ローム層の特色であるらしい。
 春の突風がもたらす砂ぼこりも相当のものである。
 春塵の句というと、先づは高野素十の〈春塵や観世音時の観世音〉を見本にしたいところだが、掲句はそんな大それたものではない。
 文机に置いた眼鏡にも、うっすらと春の塵が浮いている、というのである。
 このささやかな気付きは、昔の文士のそれのように、ゆったりとした趣きを醸しだしている。
 「薄く」の描写が効いている。

  老農夫足を定規に芋植うる   漆谷たから
 里芋や八頭などは、前年にとれた種芋を保存しておいて、三月から四月になると、それを植える、これが「芋植う」という季題である。
 大峯あきら先生とご一緒した花の吉野山吟行では、上千本当たりの山家にお邪魔するのが通例であったが、ある年、山本洋子先生が、〈種芋をころがしてある子供部屋〉と詠われて、そこで初めて種芋というものを知った。
 さて、その種芋を植えるのに、その幅を計るのに、足を定規にするというのだ。なるほど、手際いや足際がよさそうだ。
 年季の入った仕事であろうことは、「老」の一字が物語っている。

 


  陽炎の中や始まる川浚ひ   湯川桂香
 陽炎は、雨降りのあとなど、水蒸気が地面から蒸発して上昇してゆくとき、空気がかなりかき乱され、それを通して遠くの物体が浮動して見える現象である。
 現象自体がはっきりしないものだけに、また「かぎろひの」等と枕詞を意識すると、
 はかなさのようなところもあって、文字通り捉え難い季題ではある。
 ところが、掲句は現実に即して、明らかに陽炎を詠いあげている。
 町内で一斉に行われる川浚いであろうか。先に述べた陽炎の現象が、この一句に立証されているようである。
 作者は、自分が見たもの、あるいは見たものから感じたもの、体験したもの、身辺を正直に詠いあげるという姿勢を崩されることはない。
 そして誰よりも好奇心が旺盛のようである。

  金縷梅や征爾の逝きて一か月   石野すみれ
 金縷梅は日本固有の木だという。雪の残っている中でも春に先駆けて先づ咲く花である、
なまって「まんずさく」から、「まんさく」というのだという。豊年満作の満作にも見立てられるものである。
 3月頃、葉に先駆けて咲く黄色の花弁は、紐状にねじれて、なりふりかまわぬとでもいうような独得の咲きぶりである。
 ピアニストのすみれさんにとって、小澤征爾の死(2月6日)はいかばかり悲しいことであっただろうか。
 音楽を通してこの一か月、思わないときはなかったであろう。
 金縷梅を見上げたとき、はっと、改めて征爾の来し方がしのばれた。
 作者の気持ちは「金縷梅」に託して、何も言わない。
 門外漢にとっても、指揮棒を命とばかり振りあげる、その風貌は金縷梅においてほかにないような気がする。

  あたたかやバスステップの下がりくる   小宮からす
 我々市民が日々利用している神奈中バス。
 もちろんバスの種類にもよるだろうが、前の扉から降りる時に一段ステップが降りてきたというのだ。
 何度もその体験に、腰折れの私はほっと安堵しながら、一句にするなんて思いもよらなかった。
 写実の姿勢もここまでくるとはびっくり。
 聞けば作者は骨折のため松葉杖をついていたという、なるほど有難い気持ちが思わず一句に仕上がったようである。
 「あたたかや」には春の気候の「暖か」はもとより、人情的な温かみがこもっている。
 「青草」では、「俳句は頭で作りません」と主張している。では、俳句はどこで作るのか? 答は、「俳句は足で作ります」。
 つまり、「俳句は季語の現場に立つ」ということを徹底してほしいと願っている。
 掲句を引き合いにだすのは、「お笑い」のようで、怪我された作者に申し訳ないが、不自由ながらも足で作ってくださった、
 しみじみ頭では出来なかった句であることを認識させていただいた。

  馬跳びの靴とばしけりげんげん田    二村結季
 馬跳び、なんてなつかしい遊びだろう。
 一人が馬のようにと言うか、前かがみになっているところへ、他の子が次々と股を開いて飛び越えていくものではなかったか。
 こういう連帯感のある遊びほど紫雲英にふさわしいものはないだろう。
 靴をとばすのだから元気溌溂のイメージが一段と楽しい。

  湯婆を足で撫でつつ寝つきつつ   東小薗まさ一
 湯婆はもとより手足を暖めるためのものであるから「足」を詠った例句が多い。
 足ながら、作者独自の表現があれば、類想を気にすることもないだろう。
 「撫でつつ」と言い、「寝つきつつ」と言い、ゆったりと「つつ」を重ねて、やがて本当に寝落ちてゆくのだろう。
 そういう間合いのあたたかみが湯婆というもののよろしさである。
〈先づよしと足でおし出すたんぽかな  一茶〉、〈よき眠り欲りす湯婆に足そろへ 風生〉、
〈湯婆より足が離れて睡り落つ  耕二〉、という順番になる。そして最後には、
〈目ざむるや湯婆わづかに暖き  子規〉ということになる。
 ちなみに湯婆は冬の季題である。
 句会は当季雑詠が原則であるが、たまに少々時期がずれても、作者にとって本当であろうと感じられる句は採るというのが、選者の姿勢である。


 閏日の風に搖るるや花馬酔木    山森小径
 一番のゼッケン捲れ春の駒    佐藤昌緒
 かげろひて鉄塔にゐる鴉かな  昌緒
 春塵やアルミサッシの窓ガラス   松尾まつを
 開けてまた閉めて安らぐ春一日   泉 いづ
 攩網の駆け抜けてゆく土手や春   いづ
 啓蟄の菰は煙となりにけり    吉川 倫
 沈丁花鼻ふくらませ通りけり   倫
 啓蟄やくさめ止まらぬ朝の道   福本金魚
 三椏のそのひと叢の燈かな   河野きなこ
 満員の耳鼻科外来春の風   石井久美
 土筆摘む田おこし前のぬくもりに   町田亮々
 阿夫利嶺や雪の別れを一と刷きに   葉山 蛍
 松の木の菰を外して茶事や春    加藤かづ乃
 星の夜や白木蓮に語りかけ    中澤翔風
 藁の小屋猫の子五匹産まれけり   海内七海
 春風や開く扉にこんにちは   佐伯柚子
 肩掛けの袋から犬花の昼    川井さとみ
 ものの芽の一つ一つに雨の粒    松井あき子




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月刊「俳句界」2024年4月号

2024年04月08日 | 俳句
特集 春の料理帖~旬を味わう

素材を得て         草深昌子 「青草」主宰・「晨」 

 


 夫の東京転勤に伴い、大阪から神奈川県に引っ越して、早や五十一年が経った。
すぐに親しくなった方に誘われて句会に出るようになったので、俳句歴も半世紀ということになる。
 俳句の面白さに嵌まって、句会に吟行に、さらには旅行に、いそいそと出かける日々が続いた。
 夫は嫌な顔ひとつせず、むしろ押し出すように応援してくれた。

 一方で、戸塚刺繍というヨーロッパ風刺繍のお稽古にも熱をあげて、逗子の先生のお宅へ何十年間も通い続けた。
 免状まで受けたのは、毎々ご馳走してくださる料理のおいしさに惹き寄せられたからでもある。
 高じて、料理教室も開いていただくことになった。
 レシピはもとより鍋や食器の選択、テーブルの整え方など主婦である先生の工夫は、何度も目から鱗の体験だった。 
 旬のものはどれも美味しかったが、ことに春先の若竹煮は格別だった。
 筍は郷里京都からの到来物、生わかめは地元材木座海岸のもの、山の幸と海の幸がひと皿に盛られたボリュームも色彩も鮮やかだった。

 そう言えば、去年観た映画『土を喰らう十二ヶ月』が思い出される。
 作中の料理のすべては、かの一汁一菜で名高い土井善晴が手掛けたもので垂涎のシーンばかり。
 中でも主演の二人が大なべに炊きあげた筍を野性味たっぷりに食らうさまは、迫力満点であった。

 毎年、二月第四週の日曜日になると決まって江ノ電に乗って、腰越へ出掛けた。
 由比ガ浜まで海岸線は見通しがきき、波打際のすぐそばに、若布が一面に広々と干されるのである。
 早春の風のきらめきのままにひらひらと揺れてやまない若布のみどり。
 一家総出であろうか、十数人ほどの生き生きと立ち働くさまの素早さに、
 寄せては返す波のリズムはいかにもかなっている。
 まるでキレを裂くように威勢よく若布を裂いては洗濯バサミに次々と止めていく。
 また、小さな和布刈舟が引き揚げられてくる。大釜で灰汁をぬく手際もあっという間である。
 やがて浜風に若布がぶつかりあって、かすかなる音をあげる頃、採れ採れの若布を分けていただいて、句会場へ急ぐのだった。
 夫は、この若布の土産を待ち焦がれていた。

 俳句にかまけて、良き妻ではなかったが、唯一、料理好きであったことは救いだったかもしれない。
 酒好きの夫には来客が多く、その都度なんだか大張り切りしたものである。
 ちょっと手の込んだ料理を、丁寧にやり続けていると、あるとき恍惚となってくるのがたまらなかった。
 この恍惚としか言いようのない感覚をどう表現したらわかってもらえるだろうか。
 うっとりというか、手応えというか、生死の外というか。 
 吟行のときも俳句を書き留めながら、いつしか雑念が消えていって、ひたすら無心になって、
ふっと不思議なゾーンに入ると、どこからか言葉が下りてくることがある。稀なことだが、そんな感じに似ている。
「喰らうは生きる、食べるは愛する、いっしょのご飯がいちばんうまい」は、先の映画の主題であったが、その通りだと思う。
 今や、料理は素材がよければ、もうそれだけで充分においしい、
 シンプルかつスピーディーがすべてだと思う。
 俳句もまた素材で決まるものではなかったか。
 大自然から素材を得て、料理して、我が身にいただくということ、当たり前にして当たり前ならざる有難さをしみじみと噛みしめている。

 



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