草深昌子選

鳩の尾の薄紫に春立ちぬ 奥山きよ子
いつも見慣れた鳩ながら、その尾羽の色を「薄紫」だと見届けた。
薄紫は見た通りにして、心象的なものでもあろう。
紫にして濃くはあらぬというほのぼの感、ウスムラサキという語感のよろしさは、
寒中の厳しさをくぐりぬけた安堵感につながっている。
棕櫚の葉にしばらくありて春の雪 きよ子
春の雪は今、棕櫚の葉の上にあります、と言っているだけである。
春の雪はどこにでも降りかかり、どこにでも積もるだろうが、棕櫚の葉の上にある雪こそは春の雪らしいものだと眺め入っているのである。
棕櫚の木は南国風で、扇状の葉っぱも盛大である。
だが、私のイメージでは地味な印象しかない、それは生家の前栽にあって薄暗いものであったからかもしれない。
そんな木だからからこそ春雪をもって、束の間ながら存在感を見せてくれたところ共鳴してやまない。
巻き舌で呼び込む春の露店かな きよ子
露店は言わずと知れた、神社の境内など一時的に見かけるものだが、その呼び込みが巻き舌だというのである。
いささかクセモノのような気がしないでもないが、威勢のいい荒っぽさが人々の楽しみをひきだすのだろう。
「春」の一字がどこまでも効いている。
キオスクを通りすぎたる余寒かな 小宮からす
寒が明けたのにまだまだ寒いという余寒である。
高浜虚子の〈鎌倉を驚かしたる余寒あり〉を筆頭に、鬼城の〈世を恋うて人を恐るる余寒かな〉など、歳時記の余寒の句には唸らされるものが多い。
掲句はどうだろう。ただ、「キオスクを通りすぎた」、それだけのことである。
だが、私には、余寒の実感を共有してやまない。
それは直感なので、説明できるようなものではないが、大抵は無意識に通り過ぎてしまうキオスクに気付かされたというところが既に余寒の情のようである。
春寒や木組みの駅のコンコース からす
駅のコンコースというのは、およそ寒さを覚えるところである。
だが、そこが「木組み」となると、その感覚のしなやかさをもってして、冬の寒さにあらずして春の寒さであろうことが納得させられる。
しなやかと言うのは私の一人合点であって、より頑丈なるものをイメージされるかもしれない、それでも木造のもたらすものの感覚は春に心を寄せながらなお寒いというものに通うものではなかろうか。

春愁や時計の針は影を連れ 柴田博祥
春愁は春のちょっとしたもの思い。
いつも見慣れた鳩ながら、その尾羽の色を「薄紫」だと見届けた。
薄紫は見た通りにして、心象的なものでもあろう。
紫にして濃くはあらぬというほのぼの感、ウスムラサキという語感のよろしさは、
寒中の厳しさをくぐりぬけた安堵感につながっている。
棕櫚の葉にしばらくありて春の雪 きよ子
春の雪は今、棕櫚の葉の上にあります、と言っているだけである。
春の雪はどこにでも降りかかり、どこにでも積もるだろうが、棕櫚の葉の上にある雪こそは春の雪らしいものだと眺め入っているのである。
棕櫚の木は南国風で、扇状の葉っぱも盛大である。
だが、私のイメージでは地味な印象しかない、それは生家の前栽にあって薄暗いものであったからかもしれない。
そんな木だからからこそ春雪をもって、束の間ながら存在感を見せてくれたところ共鳴してやまない。
巻き舌で呼び込む春の露店かな きよ子
露店は言わずと知れた、神社の境内など一時的に見かけるものだが、その呼び込みが巻き舌だというのである。
いささかクセモノのような気がしないでもないが、威勢のいい荒っぽさが人々の楽しみをひきだすのだろう。
「春」の一字がどこまでも効いている。
キオスクを通りすぎたる余寒かな 小宮からす
寒が明けたのにまだまだ寒いという余寒である。
高浜虚子の〈鎌倉を驚かしたる余寒あり〉を筆頭に、鬼城の〈世を恋うて人を恐るる余寒かな〉など、歳時記の余寒の句には唸らされるものが多い。
掲句はどうだろう。ただ、「キオスクを通りすぎた」、それだけのことである。
だが、私には、余寒の実感を共有してやまない。
それは直感なので、説明できるようなものではないが、大抵は無意識に通り過ぎてしまうキオスクに気付かされたというところが既に余寒の情のようである。
春寒や木組みの駅のコンコース からす
駅のコンコースというのは、およそ寒さを覚えるところである。
だが、そこが「木組み」となると、その感覚のしなやかさをもってして、冬の寒さにあらずして春の寒さであろうことが納得させられる。
しなやかと言うのは私の一人合点であって、より頑丈なるものをイメージされるかもしれない、それでも木造のもたらすものの感覚は春に心を寄せながらなお寒いというものに通うものではなかろうか。

春愁や時計の針は影を連れ 柴田博祥
春愁は春のちょっとしたもの思い。
俳句を学ぶようになって意識させられたもので初学時代は愛用したというか、積極的に作っていたが、だんだん鼻につくようになってきた。
〈春愁や道を歩けば草青く 青木月斗〉みたいな句から遠くなるばかりでもう何十年も作っていない。
選句にも、厳しくなった。
そこへやってきた掲句には、作者の本当が感じられて素直に感じ入った。
一見キザっぽい「影を連れ」も春愁をよく引き出している。
同じ作者に、〈春雨や久しく鳴らぬ柱時計 博祥〉がある。
時計というか、時間というものに作者の心情は傾くのであろう。
春の日やざつくり括る文庫本 黒田珠水
春の日の明るさやのどかさが下12にそれこそざっくりと詠いあげられて美事である。
何より文庫本がいい。いわゆる岩波文庫のような小型の親しみやすさが、処分するにせよ、整理するだけにしろ、何となくすっきりとしてあたたかい。
漫画本では、この春の日のさりげなさを引き出せないであろう。
浜焼や頑固蛤口割らぬ 中原初雪
中七の頑固蛤、そう、ガンコハマグリとくっつけた語呂の感覚、そしてまた下五の口割らぬ、という慣用語の面白さをもって、なかなか口を開いてくれない焼蛤のさまが真に迫ってくる。
海辺で焼いておられるのだろう、「浜焼や」という打ち出しは爽やかにして、後ろはご機嫌斜め、その対比も楽しい。
焼栄螺くるくるしっぽ緑かな 川井さとみ
先の頑固蛤から一変、こちらの焼栄螺は、まこと垂涎の栄螺である。
壺焼、そう炭火で焼いた栄螺は自然に口を開いて、腸とともに取り出していただくのだが、ここまですっぽりという感じは何とも美味そう。
一句は作者の美しい手つきや、明るい表情まで見えて、読者までご馳走さまの気分をいただくものである。
寒雷や一村雨に鎮まれり 町田亮々
白梅の蕊を離れぬ羽音かな 二村結季
赤ん坊の睫にとまる春の雪 石堂光子
信楽の狸も風の雨水かな 日下しょう子
〈春愁や道を歩けば草青く 青木月斗〉みたいな句から遠くなるばかりでもう何十年も作っていない。
選句にも、厳しくなった。
そこへやってきた掲句には、作者の本当が感じられて素直に感じ入った。
一見キザっぽい「影を連れ」も春愁をよく引き出している。
同じ作者に、〈春雨や久しく鳴らぬ柱時計 博祥〉がある。
時計というか、時間というものに作者の心情は傾くのであろう。
春の日やざつくり括る文庫本 黒田珠水
春の日の明るさやのどかさが下12にそれこそざっくりと詠いあげられて美事である。
何より文庫本がいい。いわゆる岩波文庫のような小型の親しみやすさが、処分するにせよ、整理するだけにしろ、何となくすっきりとしてあたたかい。
漫画本では、この春の日のさりげなさを引き出せないであろう。
浜焼や頑固蛤口割らぬ 中原初雪
中七の頑固蛤、そう、ガンコハマグリとくっつけた語呂の感覚、そしてまた下五の口割らぬ、という慣用語の面白さをもって、なかなか口を開いてくれない焼蛤のさまが真に迫ってくる。
海辺で焼いておられるのだろう、「浜焼や」という打ち出しは爽やかにして、後ろはご機嫌斜め、その対比も楽しい。
焼栄螺くるくるしっぽ緑かな 川井さとみ
先の頑固蛤から一変、こちらの焼栄螺は、まこと垂涎の栄螺である。
壺焼、そう炭火で焼いた栄螺は自然に口を開いて、腸とともに取り出していただくのだが、ここまですっぽりという感じは何とも美味そう。
一句は作者の美しい手つきや、明るい表情まで見えて、読者までご馳走さまの気分をいただくものである。
寒雷や一村雨に鎮まれり 町田亮々
白梅の蕊を離れぬ羽音かな 二村結季
赤ん坊の睫にとまる春の雪 石堂光子
信楽の狸も風の雨水かな 日下しょう子

針山の中から針や春の雨 山森小径
震生湖いま百歳や山笑ふ 河野きなこ
完売と赤に手書きや菠薐草 石野すみれ
自転車をぐんと漕ぎ出し日脚伸ぶ 村岡穂高
公魚の簾干しなる北の浜 間 草蛙
流氷来空を画してゐたりけり 佐藤昌緒
吊橋の揺らぎをゆくや春の雨 古舘千世
公魚や湖上まぶしきものばかり 松井あき子








