草深昌子選

鳶職は金具じやらじやら冬はじめ 間 草蛙
「じゃらじゃら」というオノマトペに新味はないが、この何気なくありながら的確なる措辞があってこそ、
よき情景がはっきりと感知されるものとなった。
冷やかにも生き生きと働く金具というものの存在が「冬はじめ」を印象するのである。
冬紅葉散るや常磐木吹かれつつ 草蛙
紅葉をはじめさまざまの落葉樹が風に散りゆく冬の光景はまことに美しい。
一方で、常磐木という松や杉など一年中みどりの木々もまた風に吹かれていることに気付きがある。
この対比をもって、冬紅葉はいっそう鮮やかである。
初霜や罅の入りたる焼芋器 漆谷たから
焼芋器というものがあるのを知らなかったが、一句の「初霜」には、ビビッときて感心した。
「罅の入りたる」と具体的に詠われている以上、そういう優れものが間違いなくあるのだろう。
寒さの日々にあって、とても残念なこと、そこを一句にとどめたのは、折しも今年初めてこの地に霜が降りたという実際が自ずからもたらしたものである。
「初霜」を詠おうと構えてもなかなか詠えないが、ふとした身辺のただごとが、初霜を捉えたのである。
人の世は季節と共に生かされていることを喜びたい。
高みより贄を見張るや冬の鵙 湯川桂香
「鵙の贄」(秋の季題)は冬の保存食だという説があったが、実はオスがメスにもてるため、 早口に囀るための栄養食であったとか。そんな鵙の恋のバトルには凄まじいものがあるのをテレビで知ったばかり。
そこへ掲句が提出されて、なるほどと納得させられた。
桂香さんはテレビではなくご自身が観察された、証拠の写真も見せてくださった。
今突き刺したばかりのなまなましい贄を見張っている鵙はまるで冬の象徴のようではなかろうか。
林道を越せば半原冬の霧 泉 いづ
霧と言えば秋の季題であるが、この句は「冬の霧」、そこに味わいがある。
上十二をもって、いかにも勇壮なる冬の霧が思われる。
いや、勇壮というよりは重々しい、いや、重々しいというよりは美しいといった方がいいだろうか、大いに想像力の働くものである。
掲句は「半」という一字の読みこみで得られたもので、半原は作者の住んでいる地、つまり固有名詞である。
ちなみに、半原は我らが厚木市のさらなる北部にあって養蚕が盛んで、撚糸業の町であった、今も街道筋の家並には趣きが残っているという。
それはさておき、「林道を越せば半原」、とくると半原の字面からある種のイメージが浮かび 上がって、普通名詞としての働きが生じてくるものである。
俳句に有無を言わせぬ力があるのは、作者の本当にほかならないからである。
老人の腰の伸びたる秋の虹 平野 翠
虹といえば夏の季語だが、掲句は「秋の虹」である。
秋に立つ虹は夏のそれより概念的には、いっそうはかなく思われるかもしれない。
だが何と「老人の腰の伸びたる」というからには、いかばかり淡々しくも美しい七色であったことだろうか。
「老人」の措辞が見事に効いている。そこには作者の観念が打ち消されて、実景を描写しただけという真実が行き渡っている。
読者もまたは老人になりかわってしみじみと秋の虹を仰がせてもらうのである。

御三時に鳴く鶏や神の留守 奥山きよ子
諸国の神々が出雲に旅立たれる陰暦10月が、「神の留守」である。
この時期、神社にお参りしても何だかさびしいのは、〈この神の留守と聞くだにさびれたり 高浜虚子〉に実感がこもるだろう。
掲句も実際に神社で詠われたのかもしれない。
神鶏を持ち出すまでもなく「鶏鳴暁を催す」で、コケコッコーは早朝がふさわしい。
ところが御三時という、おやつの頃になって鳴いたというのである。
ハンパなるさまを、すかさず神の留守におさめているところが面白い。
蜘蛛の囲に一つの翅や水涸るる 日下しょう子
「蜘蛛の囲」は夏の季語だが、掲句の季題は「水涸る」である。
蜘蛛の囲はねばるので何かの虫が餌食となって無惨にも翅が残っているというのである。
冬は川などの水量が減って、時にはその底が見えていたるするものであるが、そういう季節の在りようが、蜘蛛の囲の一断面でたしかに映し出されている。
釣舟やのつたりのつたり小春凪 川井さとみ
「小春凪」は小春の傍題である。傍題に安易に走ることは勧めていないが、ここは「小春かな」と流すより、
「小春凪」と抑えた方がいい。風がやんで波もことのほか穏やかであるさまには、作者の実感がこもっている。
「のつたりのつたり」は、つまり「のたりのたり」であるからして、
一読、〈春の海ひねもすのたりのたりかな 蕪村〉が思われもするが、それも興趣である。
背広の子和服の父や七五三 松尾まつを
七五三の衣装の光景はさまざまに詠いつがれてきた。
女の子の愛らしさはもとより、男の子の袴着などは神様に詣でるのに最もふさわしいありようではなかろうか。
親もまた華美なる衣装に着飾った時代もあったが、今はそれぞれの考えがあって千差万別である。
そんな七五三にあって、父と子を、和服と背広という具合に、一見真逆のさまに詠いあげたところが何ともほほえましく、新しいではないか。
実景にほかならないのであるが、ここに眼を留めたのが作者の手柄である。
竹竿の端に日を待つ吊菜かな 末澤みわ
大根に押し上げらるる落し蓋 古舘千世
ぽかぽかの蒲団の中でママあのね 松原白士
小春日や団子頬張る印度人 田中朝子
髪切って靴を買ひけり夕時雨 二村結季
三角点を撫でて下山や秋高し 村岡穂高
短日や物あるところすぐ暗く 関野瑛子

虎造の声はこんなと風邪の爺 小宮からす
稜線のみるみる消ゆる冬至かな 冨沢詠司
村中の柿の枝を伐り冬構へ 海内七海
冬晴や中華街なら中華饅 市川わこ
花八ツ手隣の庭を向ひたまま 加藤かづ乃
牡蠣船の窓を開ければ疎林かな 佐藤昌緒
茶の花や絡んだ枝の奥に咲く 石野すみれ
椅子に来て足元に消ゆ冬の蝶 柴田博祥
冬紅葉鹿も出て来るこの社 芳賀秀弥
街灯の届かぬ路地や冬の虫 中澤翔風
トレランの標をちこち笹子鳴く 森田ちとせ
日の落ちて峰黒々と神の留守 葉山ほたる
ヴィーナスと言ふ名の土偶山粧ふ 河野きなこ
蜘蛛の囲に回転したる冬紅葉 木下野風
霜月や丘にぐさりと大錨 山森小径
石積みに影の揺れゐる冬紅葉 石堂光子









