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青草俳句会~命のよろこび

結社「青草」 主宰 草深昌子

青草9号

2021年02月21日 | 俳句

「青草」2021年春季(第9号)が令和3年2月に発刊されました。

長引くコロナ禍の中、リモートの編集会議に少し馴れもして、いっそう充実した内容になっております。その一部をご紹介いたします。

 

     

 

青草往来     草深昌子

 ブログ「草深昌子のページ」を機縁に、思いがけず新進気鋭の実力俳人からお誘いがあって、四人の若手俳人と初めてお会いしました。二十代、三十代の若さは眩しいばかりでしたが、ひと度句会を開きますとすっかり旧知のように親しくなりました。

 「えっ、こんな句あり?」、「何、これ?」、面白くて新しくて、ことごとく吸い込まれるように○がついていきます。既成概念や観念は次々と覆えされ、いつもの句会とは全く別趣の成り行きでした。驚いたことに、私のように古びたものの句にも点が入るではありませんか。

 俳壇には、俳句観の違いなどによって、さまざまの集団がありますが、集まった五人の結社や所属先などみな違い、無所属の方もおられました。しかしながら、句座に於いては老若男女、俳句歴など何の関係もなく平等そのものです。一句一句を真摯に理解しようとする清々しさに溢れていました。

 俳句の攻め方の違いは、喩えていえば富士登山のように考えていました。登り口はいくつもありますが、表から登るか、裏から登るか、そもそも表も裏もさだかではないのですが、どの登山コースより我が行く道こそが険しくも正しい道と信じて疑いません。どのコースを辿っても目指すは頂上です。やがて頂上で、一つとなって確と肩を組み合わせられるのが喜びではなかろうかと。

 ところが、先日、かの藤井聡太王位の一言には驚かされました。「今は山の何合目か」と聞かれ「将棋にはどこまで行っても頂点はないと思います。努力を続けたい」と、十八歳にして何という洞察。そう、俳句にも、ここぞ頂点というようなものは何処にもありません。登っても登っても高みは遥かに遠のくばかりです。

 新鋭の方々の熱情にこたえて、わが胸の内に大事にしている師の言葉を吐露し、共々論じ合いもしました。

 「句会は人さまの俳句に敬意を表する場である」ということを青草俳句会の皆様には常々お伝えしておりますが、この度の句会もまさにその通りとなりました。

 

青山抄      草深昌子

するすると流れながらに涸るる水

水涸れて日向のなんとあたたかな

忘年の畳に机持ち出して

山茶花に透き通りたる硝子かな

寒き日のシベリアてふはケーキなる

萩枯れて秘仏は大き庫にあり

大理石囲ひにメリークリスマス

聖餐のただあかあかと金眼鯛 

新海苔を焙り空母を眩しみぬ

枇杷が咲き桜が咲くや避寒宿  

路地行けば冬あたたかに君に会ふ

石立てて屏風岩とや冬ざるる

相撲部屋三つまでよぎる着ぶくれて

着ぶくれて道あれば行く楽しさよ

箱庭のありしところに日向ぼこ

一茶忌の千葉くんだりに来てみれば

蓮枯れてすぐそこをゆくモノレール

白鳥の来たる明日は漱石忌

立冬や杖に鳴らして石畳       

笹鳴の八幡さまは山の上

室咲に開ける気もなき西の窓

道替へてみても坂なり十三夜

末枯て地べたに影のをどりけり   

木犀や山手は坂のなつかしく

パイロット万年筆と赤い羽根

豊年の鴨居にあたる頭かな

たまに立つ坐り仕事や夜の長き

底紅や舟降りて聞く舟のこと

秋風に何かはじまる椅子の数   

かのアランドロンしたたる二十世紀

(「ウエップ俳句通信」掲載含)

 

芳草集      草深昌子選

奥つ城にオカリナの音や山笑ふ    二村結季

新客と父祖の語らふ楠若葉

玉葱を吊るに夕空見てをりぬ

暮れ方の風入れかはる落し水

秋天や茣蓙にひろげて莢のもの

わが畑へ誰か来てゐる野分あと

芋嵐雲の形の変はりけり

 

夜の更けてひとり小声の鬼やらひ     山森小径

手洗ひを一から習ふ万愚節

田の水にさざ波立つや時鳥

七月や雨の明るく大粒に

潮騒に夾竹桃の真白かな

豊の秋雲梯に子のぶらさがり

初鴉羽をたたむにゆつくりと

 

青草集       草深昌子選

   大虹の空は紫紺に暮れにけり      平野翠

七夕の飾り見てゐる雀かな

蜻蛉の子狂ふがごとし午前五時

模様替へして夏の風通しけり

夏草を分け入りて行く鴨の尻

空港の白粉花に送らるる

大蕗の穴は鳴く虫通しけり

 

桜しべ降るや岸辺の風甘し       奥山きよ子

夜の雷交響曲の如く過ぎ

薔薇守のゐる工場の昼休み

ファックスの音の止みたる走り梅雨

棋聖戦袴涼しき着座かな

秋風にしばし木鋏動かしぬ

新涼の十二駅過ぐ山手線

 

秀句集    草深昌子 

       

  わが畑へ誰か来てゐる野分あと      二村結季

  荒れ狂った台風の後、真っ先に駆け付けるのはわが畑である。だが何と、そこにはもう先に来ている人がいるではないか。遠く見ている「誰か」はやがて作者に安堵をもたらすものであろう。ここにはわが畑も人さまの畑もない、同じ地平に共有される自然のありようが厳しくも安らかに見渡されるばかりである。
〈芋嵐雲の形の変はりけり〉も自然観照が決まっている。作者の俳句姿勢は徹底して自身の耕しのなかに立ちあがっている。だからこそ人柄というものが俳句の味わいとしてかすかにも滲み出てくるのであろう。

 

  田の水にさざ波立つや時鳥        山森小径

 時鳥の一種独特の鳴き方は古来さまざまに言い伝えられるところではあるが、そんな悶着を抜きにして、この句の季節感はいかにも清々しい。それでいて「さざなみ立つや」には時鳥の存在をたしかに言いとどめている。
満々たる水はそよ吹く風にゆらいでいるのであるが、まるで時鳥が揺らしているかのようである。

 

    寝付けずに金魚起こしてしまひけり   佐藤健成                    

 金魚を飼って金魚と共に寝起きをしている、そんな普通の人々のよき暮しの日々があきらかに立ち上がってくる。金魚という小さな生き物をわが分身のごとく大事にしてあればこそ、ある夜苦しき思いに眠れぬときにふと金魚に救われもするのである。
子供の頃は縁日で掬い上げた金魚を大事に飼っていた。戦後の困難な時代を明るく育ててくれた母にもこんな夜があったのかもしれないと、ふと懐かしんだ。

 

  母の手やふと止まりたる団扇風    佐藤昌緒  

 母と共にあった、その昔がひとしおしのばれてならない団扇の風である。「母の手や」という打ち出しに、作者が心にとどめて久しいものがしみじみと思われるからである。母の日常がそのまま団扇風に乗りうつっていると言おうか、涼しさのなかの翳りのようなものが切ない。
もとより現実の母のくつろぎを感じてもいい。いずれにしても団扇風を通して、普段の一断面が明らかによみがえるものである。

     

  蚯蚓鳴く路傍に石の一つあり        松尾まつを  

 「蚯蚓鳴く」は秋の季語であるが、そもそも蚯蚓は鳴かない。ジージ―と鳴く螻蛄と混同されたというのが通説である。その空想的季題を逆手にとって、作者は「路傍に石の一つあり」と打ち出された。
おかげで読者は、石の一つをひっくり返せば蚯蚓の声が聞こえてきそうな浪漫たっぷりの誘惑をいただくものである。「路傍」という言葉のニュアンスが「蚯蚓鳴く」にふくらみをもたらしている。

 

  宝くじ売場に柳散りにけり      中澤翔風 

 柳は秋も中ごろから初冬にかけて日々風になびきつつ一枚また一枚と葉をこまごまと散らしてゆく。お濠端など水べりに散ることも多いが、この句は何と「宝くじ売場」である。一読一瞬にして情景に納得がゆく。宝くじ売場と柳が散ることに因果関係は一切ない、ただその自然のありようが、その風情のありようがもっともその場所に叶っているとしか言いようのないものである。
宝くじは庶民に親しいものであるが、少々うらさびれた光景をも垣間見せている。

 

  穭田のいまが春なる青さかな     栗田白雲 

 厚木市郊外のこのあたりでは穭田の勢いがとまらない。青田ではないかと見紛うほどに丈が伸び真っ青である。そんな穭田を作者は「今が春なる青さかな」と大いなる賛辞の声をあげたのである。春は四季の春ではなく、「わが世の春」つまり今を盛りの春だというのである。
豊穣の実りを果たしたあとのこの余力は、老境にある我々にもほしいもの。さしずめ、俳句に命をかける白雲さんその人の春のようではなかろうか。

 

  七夕の飾り見てゐる雀かな      平野 翠

 シンプルな描写ながら「雀」の発見には七夕という神秘にもうるわしい世界がこの世のありとあらゆるささやかな命に繋がっていることを感じさせてくれる。
作者は豊かな感受性の持ち主であるが、ときにその感性がゆえに、写生という道筋をたどることに傷ついてしまうことも多々あったのではなかろうか。そこを辛抱に辛抱を重ねて、ついにこのような句をものにされた。
作者の主情は雀に同化されて、表立った表出をしなくても十分にその心中は詠いあげられているのである。

 

  薔薇守のゐる工場の昼休み        奥山きよ子

 薔薇の育成に余念のない薔薇守が、工場の昼休みに社員とうち交じっている。花壇や垣根には薔薇の花の豊かなる工場であろうか、こんな工場で働く人々の笑顔はさぞかし明るいであろう。薔薇の美しさを言わずして薔薇守に視点を移されたことによって、いっそう薔薇の花と共にあるひとときのよろこびが写し出されている。

 

  ひよいと子を抱き上げてほら青葡萄   石堂光子

 一句の語順がそのまま作者の感動によりそっている。
いとけなき子を抱き上げて「ほらほらぶどうでちゅよ」と揺すって見せた。「ひよいと」また「ほら」が一呼吸置くかのように、間合い充分のひびき。青々とした葡萄の一粒一粒の清新さは読者の目にも明らかである。
「赤ん坊を抱き上げて」では、一句の中に「赤」と「青」が競合して青葡萄が台無しである、作者はそれらをよく心得ておられる。

 

  小風呂敷ほどけば赤き祭り帯        伊藤 波 

 「小風呂敷ほどけば」さあ何が出るかと思いきや、「赤い祭り帯」である。パッと目に映る鮮やかさが余韻を引いてやまない。ただの風呂敷でなく、ましてや大風呂敷でなく、小風呂敷であるところが一句のかなめである。風呂敷の小ささをいうのではなく、祭り帯の小ささを言うのである。愛らしい子供の帯を通して、家族みんなの祭へ寄せる喜びが醸し出されている。

 

    木犀の少し落つれば少し掃く       日下しょう子 

 木犀の芳香はどこからともなく漂って、秋の日々の明るさはこの上もない。ただこの木犀は群がるように咲きながら一方で散り急ぐかのように金色の花をこまごまと落としてゆく。そうした日の中にあって作者はこまめに花の下を掃かれる、それというのも木犀の花に心を寄せてやまないからである。「少し落つれば」、「少し掃く」という韻律のふまえ方が見事。

 

  夢二の絵抜けて河原の糸とんぼ   湯川桂香

 竹久夢二は美人画で一世を風靡した大正ロマンの画家である。河原にすーいすーいと飛んでいる糸とんぼに出会って、まるで夢二の世界から抜けてきたもののように感受されたのであろう。「糸とんぼ」がリアル。「鬼やんま」や「塩辛とんぼ」では一句は成り立たない。

 

  大振りの枝ごと傾ぐ夏日かな    市川わこ 

 「夏日」は、灼けるような夏の日差しである。やや大雑把な季題ではあるが、かえって中七の的確なる描写を際立てている。樹の命というものが、人間のそれにも通っているような感じである。
冬の句であるが、高浜虚子の〈大空に伸び傾ける冬木かな〉が思い出されもする。

 

  毎日の料理洗濯草の花       木下野風 

 「草の花」という季題の風趣が理屈なくすっと心に入ってきて、何とゆかしい心映えの一句であろうかと感じ入った。草の花は秋の野や道ばたに咲くもので、儚くも愛らしいさまは「秋草」と同様ではあるが、草がやや地味なところがあって、人の心によく沿うもののように思われる。人口に膾炙している小川軽舟氏の〈死ぬときは箸置くやうに草の花〉にも通うところがあって、野風さんの俳句開眼の一句に違いない。

 

 

 

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2021年2月 青草通信句会 

2021年02月11日 | 俳句

草深昌子選

兼題「立春」

            

 

 

  事もなき我家の庭や青木の実   菊竹典祥

 「事もなき」とは平穏無事の日々でしょう。取り立てて言うほどのものではないという庭ながら、ひっそりとかつ鮮やかに青木の実が照り輝いています。現実を肯定する思いが青木の実なのです。

 

  茅葺きの駅舎にひしと氷柱かな  石堂光子

 茅葺きの駅舎とはさてどこにあるのでしょう、ローカルな想いに誘われます。そこには氷柱がびっしりと垂れているのです。「ひしと」、緊密さが迫ってきます。

 

  寒明くる鏡の裏に日の充ちて  奥山きよ子

 鏡は普通、その表を見ます。鏡を前にして映すものですが、この句は寒明の日ざしを鏡の裏に見たという、あるいは鏡の裏に思いを馳せたということでしょう。立春というより「寒」に重心をかけた感性が納得させられます。

 

  枝垂梅見ゆる山門くぐりけり   中澤翔風

 ありのままの印象がすっと読者に伝わってきます。さぞかし美しい枝垂梅ではないでしょうか、一句は読者を枝垂梅に誘い出して見事です。

  春立つや南京錠のうす埃       翔風

 禽獣舎の檻の鍵でしょうか、お屋敷の物置の鍵でしょうか、あまり頻繁に開け閉めしない鍵でしょう。何も言っていませんが、「南京錠のうす埃」、その一点でもって、寒さの厳しい中にも辺りはどことなく春らしくなってきたことを如実に物語ります。何と言っても「南京錠」がいいのです。意味的な古めかしさもさることながら、韻律のよろしさも立春に通底しています。

 

  仮縫ひの針の色々春立ちぬ   松井あき子

 「仮縫ひ」、また「針」という語意語感から春はまだ暦の上の事と実感されます。さて上々の仕上がりの頃には、本格的春も到来していることでしょう。

 

  春泥に張り付く鴨の羽色かな   伊藤 波

 こういう情景に出会いたいものです。いや実は出会っているのに見る目がなかっただけかもしれません。こういう細部を見届けることこそが詩情を打ち出すもとになるのです。「張り付く」という措辞に揺るぎがありません、ただのぬかるみにあらずしてピカピカの春の泥です。

 

  早春や土嚢袋に草生えて     黒田珠水

 面白いところを見届けられました。佳き俳句にはすべてこの驚きと発見があるものです。「下萌」という季語がありますように、土のあるところには必ず命の芽吹きがあるものです。土嚢袋がそのまま早春の息吹をあげているかのようです。

 

  凍解や田圃の土のにほひ立つ   山森小径

 田圃の土の匂いは前途洋々を思わせるものでしょう、「にほひ立つ」という美しい表現に惹かれます。凍解けですから長い間閉じ込められてあったものの解放感がたまりません。

 

  病棟の朝の始まり蜆汁      川北廣子

 蜆汁という季節感たっぷりの、栄養分たっぷりのものに今日も一日頑張ろうという英気を養われるのでしょう。俳人は入院もただでは致しません。俳句を作る姿勢はこうでありたいものです。

 

  黙々と薄氷を踏む子供かな    佐藤昌緒

 「黙々と」が多くを語ります。興味しんしん、子供ながらに注意深く、全神経を薄氷に向けているのでしょう。静けさの薄氷。

  春立つやプールに水のやはらかき   昌緒

 プールの水は四季折々の気象状況に合わせて人工的に管理されていますので、年中さほどの違いはないでしょう。でも作者は立春のプールの水を肌感覚に柔かに感じられたのです。同時に、心理的なものも作用しているであろうことが窺われます。感受性の高い句です。

 

  立春や万年布団日に曝す      間草蛙

 いつも布団を敷いたままの寝床を万年床と言いますが、万年布団も同じ意味合いでしょう。今どきの布団はそう干す必要もないようですが、さあ立春とばかり、今日こそはと輝かしい日当りに干されたのです。「曝す」が素晴らしい。一句全体に勢いがあって立春の受け止めが鮮やかです。

 

           

 

  春立つと芝生を踏めば凹みけり  草深昌子

  立春の日の竹林をきらめかす   

  梅が枝におでこぶつけて春は来ぬ

 

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